聖書のみことば
2021年8月
  8月1日 8月8日 8月15日 8月22日 8月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月1日主日礼拝音声

 清くなれ
2021年8月第1主日礼拝 8月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章40〜45節

<40節>さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。<41節>イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、<42節>たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。<43節>イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、<44節>言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」<45節>しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 ただいまマルコによる福音書1章40節から45節までをご一緒にお聞きしました。40節に「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」とあります。重い皮膚病を患っている人が主イエスの前に進み出ています。この人はこの後、主イエスによって癒していただくことになるのですが、今日のこの記事は、「主イエスが私たち人間の健康を回復し癒してくださる方である」ということをこの上なくはっきりと告げる、そういう印象を与える記事です。
 これに先立つ1章21節から28節のところでは、主イエスがカファルナウムの会堂で汚れた霊にお命じになって、具合の悪かった人の心の病を癒しておられました。その後29節から34節のところでは、シモン・ペトロの姑が家で伏せっているのをご覧になり、高熱で大変重篤な状況にありましたが、主イエスが姑の手を取ると熱が下がり働き出すという奇跡が語られていました。また、その噂を聞きつけた人たちが夜半にペトロの家に病気の人や悪霊によって具合が悪くされている人を大勢連れてきて、そこで主イエスがその人たちを癒されたということも語られていました。
 今振り返ったように、主イエスはたくさんの癒しの業を既になさっておられます。そして今日の記事は、いわばそういう数々の癒しの出来事の一つの締めくくりの出来事としてここに記されているようなところがあります。

 けれども、どうして今日の記事が病気の癒しの締めくくりになるのでしょうか。
 それは、ここで癒されていく人が陥っていた病気の種類によります。この人は重い皮膚病だったと言われています。「重い皮膚病」と言われても、おそらく日本に住む私たちには事の重大さやこの病気の深刻さは、あまり伝わらないだろうと思います。皮膚病というと「患っている本人にとっては辛いことだろうけれど、決して死に至るような病ではない。深刻さの程度から言えば皮膚病は軽い方で、もっと深刻な病気は他にもたくさんある」と感じる方もおられるだろうと思います。
 けれども、当時この病気というのは最も深刻な病気でした。この病気は「神から呪われ、裁かれている人が罹る病気」と考えられていたためです。重い皮膚病と呼ばれる病気に罹りますと、これは単に体の表面の皮膚が冒されるというだけではなく、神から捨てられていることの印だと受け取られてしまいました。その結果、この病気の人たちは社会的な共同体の生活から除外されていき、もはや町や村の中で自分の家に住むことを許されず、人里離れた寂しい場所で一人で生活しなければなりませんでした。そして、遠いところに人が来て姿が見えた時には、病人が自ら「汚れた者、汚れた者がここにいます」と叫んで、間違って人が近づかないようにしなくてはなりませんでした。重い皮膚病の人たちは、もちろん息をしていますが、病気に罹った時点で社会的には葬り去られてしまい、そういう意味で、生ける屍としての生活を送らなければなりませんでした。
 ですから、この病気はあらゆる病気の中でも最も深刻な病気でした。他の病気なら、たとえ瀕死の状態に陥るとしてもまだその人は生きていますし、どんなに深刻な危篤の状態にあろうとも、その人は生死の「生」の側にいます。ところが重い皮膚病に罹ってしまいますと、その人はたとえ息をして心臓が動いていても、神から捨てられ、もうすでに滅びの勢力のもとに捕らえられ、死に繋がれてしまっていると考えられていますから、仮にそういう病人が生きている人間の領域に現れ元気な人と交わったりしますと、これは一大事で、今まで汚れに触れずに清らかに生きてきた人にも病人の汚れが移されてしまうことを恐れて、重い皮膚病の人たちは、健康な人たちと交わることが固く禁止されていたのでした。

 ですから、今日の始まりの40節で、「重い皮膚病を患っていた人が自ら主イエスの前に進み出てきた」と言われていることは、もうこの時点で大変衝撃的な、驚くような事態でした。普段は人と交わることができないこの人が主イエスのもとに来たということは、「何を言われても何をされても仕方がない。でもわたしは行こう」と、本当に心を決めて、やって来たのです。
 ところが、さらに人々が驚くことがその後に続きます。それは主イエスがこの人に対してなさったことです。普通の人なら、重い皮膚病の人が近づこうものなら悲鳴をあげて逃げ出すとか、あるいは近くに寄って来ないように威嚇するのが当時の当たり前でした。けれども主イエスは、この重い皮膚病の患者を受け入れているのです。しかもご自身から手を伸ばして、この人に直に触れるということをなさっています。41節42節に「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」とあります。主イエスが直にこの人に触れてくださり、主イエスとこの人を結んでくださったその時に、この人は「清くされた」と言われています。「清くなった」というのは、長年この人を悩ませてきた皮膚病が良くなったということを言っているわけですが、これは単に病気が治ったということだけではありません。この病気のせいで、長年にわたってこの人は「死の中にいる人」と見られ、共同体から爪弾きにされ、生きているのに死んだ者とみなされてきました。けれども、この病気が癒されることで、この人はもう一度、人々の間で生きることができるようにされました。この人にとっては、晴れてもう一度、地上の人間の暮らしの中に取り返してもらったと言えるような出来事が起こったのでした。

 普段私たちは、「重い皮膚病が癒される」というこの出来事をそのようには考えないだろうと思いますが、ここに起こっている癒しの出来事は、例えて言えば、ヨハネによる福音書11章に記されている「死んだラザロが、主イエスによって死から生へと取り戻された奇跡」と並び立つような出来事でした。ラザロの出来事は非常に強く人々の印象に残る出来事として記憶されましたが、今日聴いている出来事も、当時の人たちの感覚から言えばそれに近いものがあります。ですからマルコは、1章21節から主イエスによって様々な癒しや悪霊を追い出すということが次々に行われたという一連の記事の最後のところに、この重い皮膚病の人の癒しの出来事を記したと思われます。「主イエスという方は確かに癒しをなさる方である。しかもその癒しは、ただ具合の悪い人に健康をもたらすというだけのことではなく、死の中に両足を踏み入れてしまって、もはや生ける屍でしかないと思われているような人にさえ新しい命を与え、生きることができるようにしてくださる。それほど力ある大いなる御業をなさる方が主イエスだ」と、この福音書は伝えているのです。

 今日の箇所に述べられている事柄は、「たとえ死の中に捕らえられて、にっちもさっちもいかなくなっている人でも、主イエスが臨んでくださるならば、命のもとに取り戻される」ということです。ですから、これは本当に大きな喜びの知らせになるのです。
 そしてこの福音書は、この聖書を聞く私たちにも、「どんな時にも、どんな状況のもとに置かれていても、主イエスに対して期待をし、希望を持ってよいのだ」ということを伝えています。「たとえ今日私たちが自分の体の中に死に至る病を宿しているとしても、あるいは社会から捨てられ周りから誰にも相手にしてもらえないという悲しみを抱えて生きなければならないとしても、あるいはいろいろな失敗をして、その失敗を償うために自分の人生はもう何もできない手一杯になっている人であっても、主イエスであれば、きっとそこに将来を与えてくださるに違いない。神さまが私たちに与えてくださる永遠の命の力を及ぼしてくださり、そしてもう一度ここから希望と感謝と喜びのうちに生活できることができるようにしてくださる。それが主イエスなのだ」ということを、この福音書は宣べ伝えています。

 さて主イエスは、この重い皮膚病の人に癒しを与えくださった時に、あることをお命じになりました。43節44節に「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』」とあります。
 主イエスがこの人にお命じになったことは、「病気が良くなったという事実を誰にも知らせるな」という、そういうことではありません。「祭司に体を見せなさい」とおっしゃっているように、「重い皮膚病が癒された。ずっと悩んできたその病気が良くなった」ということを祭司に見せ、その事実を伝えても良いのです。むしろそうしなさいと主イエスは命じておられます。これは、まず祭司に「体が良くなっている」ということを示して証明してもらわなければ、この人は普通の社会生活に戻ることができないためです。この人が普通の生活に戻ることができるようにと、主イエスは癒しをなさったのですから、「体が良くなっている」ということは知られてもよいことです。
 では、それならば「だれにも、何も話すな」と主イエスが釘を刺しておられるのはどういうことでしょうか。それは、「この人の病気がどうして治ったのか、あるいは誰によって癒されたのかということについては、誰にも何も話してはいけない」と言っておられるのです。癒していただいた人が、誰に癒していただいたのかを黙っているならば、周りの人たちは「どうして治ったのか」と不思議に思うかもしれませんが、しかしそれ以上詮索することは出来なかっただろうと思います。誰も、主イエスが癒したとは思わないでしょう。主イエスは、ご自身が病を癒されたという事実が人々に広まることを願われませんでした。むしろ広まらないようにと願われました。

 もちろん、主イエスがこの人の病を癒やされたのは、主イエスの憐れみの大きさのゆえです。41節に「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われ」とありますから、主イエスがこの人の病気を癒してくださったのは憐れみのゆえだったことは間違いないことです。ただ、この「主イエスの憐み」とはどういうことなのか。ただ単にこの人が病気で長い間辛い思いをしていることに同情した、あるいは社会生活から弾き出され苦労しながら生活していることを気の毒に思った、そういうことだけではないのです。そうではなくて主イエスは、この人がせっかく神から命を与えられて地上に生かされているのに、生ける屍としての生活しか送ることができていない、その点をご覧になって、そういうあり方を終わらせるために癒しをなさったのです。41節に「深く憐れんで、手を差し伸べられた」と言われていますが、非常に古い時代の聖書の手書きの写本の中には、ここを「主イエスが激しく憤られた」と書いてあるものが多々あります。実は、新約聖書の学者によっては「激しく憤って手を差し伸べた」と書いてある写本の方が元々の聖書の言葉に近いのではないかと想像する人たちもいるほどです。
 もしそうであるなら、主イエスが重い皮膚病の人を癒された、その時の様子は、穏やかに労わるようにして癒したということではなかったでしょう。むしろ非常に興奮して、まるで腹を立てているような様子で、この人に手を触れて癒しをなさったということになるだろうと思います。何故そんなに興奮して憤っておられるのかというと、「神さまから命を与えられてこの地上に生かされている、その人間が滅びの勢力にすっかり捕らえられているような様子で生きてしまっている」、その点に憤りを感じておられるのです。ですから、主イエスは「憤りながらこの人を癒された」と言われているのです。
 主イエスは人間を虜にして滅びに至らせる、そういう死の勢力また罪の勢力に対して、はっきりと戦いを挑んで、死んだようになっている人間を神の側に取り返して、もう一度生き生きとした命に満たしていくようにするためにおいでになりました。そういうお方として、死の一歩手前にある病とも戦ってくださり、癒しを与えてくださるのです。

 主イエスの、この重い皮膚病への憤りの背後には、「一人一人の命をまことに真剣に考え、そしてその一人一人の命を本当に深く慈しんでくださる神さまの憐み」があります。ここで起こっている癒しは、単に病気が良くなるとか差別が乗り越えられる、そんなことで十分だということではないのです。「病に苦しみ、生きていながらまるで生きていないような生活を送ってきた人が、神の命の力に満たされてすっかり変えられ支えられ、本当に心の底から、神から与えられた命を感謝し喜んで、神に属する者となって、神との交わりの中でその人の命を生きるようになる」ということを、主イエスは願われました。主イエスは「よろしい、清くなれ」と言われましたが、これは原文通りに直訳しますと「わたしは強く願う。あなたは清くなれ」という言葉です。主イエスは、私たち人間が、痛みや嘆きや悲しみや苦しみにすっかりおしひしがれて、せっかく生きている命を本当には生きることができなくなっている、そういう様子をご覧になって深く憐れんで癒し、生きる者となるようにと願ってくださるのです。

 ただ、その癒しは、私たち人間の側の都合にそのまま応えてくださるということではありません。この癒しには、主イエスがご自身の十字架と甦りの命に私たちを結んでくださるということがあります。あの十字架の上で主イエスがなさったことは何だったでしょうか。私たちの罪の惨めさや死を全てご自身の側に引き取ってくださった、本当は私たちが滅ぶべき死を主イエスが身代わりとなって引き受けてくださった、それが主の十字架の死の出来事です。主イエスは私たちの側から、命に陰をさすような死や苦しみや嘆きや痛み、あるいは不正や不実や破れというものを全部、ご自身の側に引き受けてくださって、私たちが死ななければならない死をお一人で十字架上に死んでくださいました。主イエスは、人間にとって都合のよい、人間から愛される万能な医師に留まろうとはなさいませんでした。主イエスはご自身が十字架にお架かりになり復活することで、神と私たち人間との中立ちとなって橋渡しをしてくださろうとしたのでした。主イエス・キリストというお方によって、いわば神の側から私たちの方に一本の橋がかけられたようなことになっています。
 そして、この主イエスという橋を通って、神の命の力がいつでも私たち人間のもとに届けられて、「神を後ろ盾として生きる、新しい生活を生きることができるようされる」ことを、主イエスはそ望んでおられるのです。
 主イエスがどういう救い主なのか、またどんな仕方で救いや命をもたらしてくださるのかということは、実際に主イエスが十字架に向かって歩んでくださる道行からこそ、知られるようになることです。それ以外の仕方で、私たちが主イエスのなさったことの一部分だけを切り取って、自分に都合よく神の救いの業、主イエスの御業を考えることを、主イエスは望まれません。「主イエスが病気を癒してくださった」その一部分だけを切り取って、私たちに都合よくいつでも癒してくださる方という、そういう理解だけが伝わってしまうならば、それは主イエスが神のもとからこの地上に遣わされた本当の救いとは違うことを伝えることになってしまいます。
 主イエスは、たとえこの地上の生活の中でいろいろなことが起こるとしても、私たちが「本当にわたしは神によって生かされ、今日を生きている」と言って喜んで生きることができるようになることを望んでくださるのです。ただ病気が良くなるとか、周りの人たちの自分への風当たりが少し和らいで楽になるとか、そういうことが救いなのではありません。そうではなくて、神が愛してくださり、どのように生きていても「あなたはわたしのものだ」と言ってくださる、それに支えられて生きる、そのことを救いとしてもたらそうとなさるのです。

 ですから主イエスは、主イエスの救い主としての誤ったイメージが伝わらないように、この人に「だれにも、何も話してはならない」と厳しく口止めをなさいました。 ところが、癒していただいた人は黙っていませんでした。「わたしはあのイエスという人に癒してもらった。重い皮膚病だってあの人は癒すことができる」と方々で言い広めました。その結果、主イエスに興味を抱く野次馬が次々に主を追い回すようになり、もはや 主イエスは公然と町や村に入ることが出来なくなったと、45節に記されています。

 今日の記事から、考えさせられるのではないかと思います。主イエスは神の独り子であって、神と私たちの間を結ぶお方としておいでになりました。神の御心のままに私たちの間で行動をして、そして私たちに神の命を満たそうとしてくださいます。主イエスの癒しは、神が私たち一人一人を神の命の力をもって支え歩ませようとしてくださっている、そのことの直接のしるしです。
 ところが私たち人間の側が、そういう神のなさりようの自分にとって都合の良い側面だけを受け止めて、主イエスの御業全体には無関心である、そうであればどうなるでしょうか。主イエスによって行われようとした御業は、人間に受け止められないことになります。そして、実際にそういうことがあり得るのであり、ここではそういうことが起こったのだということを今日のマルコによる福音書は語っています。
 主イエスが御言葉を通して私たちに出会ってくださり、私たちに伝えようとしてくださっている福音を、なるべく広く、聖書全体から聞き取るものとされたいと願います。主イエスが私たちのために行なってくださった出来事を、ただ一つのことだけを聞いてそれが全てだというのではなく、主イエスが私たちのために十字架に向かって歩んでくださり、甦って、私たちを招いて共に歩んでくださる、そしてまた私たちが主イエスによって神の命の力に支えられて終わりまで生きていく、そういう全体が差し出されていることを受け取るようにされたいと願います。

 主イエスが深く憐れんで、私たちの命が諦めや死に捕らえられそうになっている様子を見て強く憤られる、その主イエスの熱情に動かされて、私たちも与えられているそれぞれの生活の中で、命に仕える者としてのあり方を確かにされたいと願います。

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