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2021年8月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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清くなれ | 2021年8月第1主日礼拝 8月1日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第1章40〜45節 |
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<40節>さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。<41節>イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、<42節>たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。<43節>イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、<44節>言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」<45節>しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 |
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ただいまマルコによる福音書1章40節から45節までをご一緒にお聞きしました。40節に「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」とあります。重い皮膚病を患っている人が主イエスの前に進み出ています。この人はこの後、主イエスによって癒していただくことになるのですが、今日のこの記事は、「主イエスが私たち人間の健康を回復し癒してくださる方である」ということをこの上なくはっきりと告げる、そういう印象を与える記事です。 けれども、どうして今日の記事が病気の癒しの締めくくりになるのでしょうか。 ですから、今日の始まりの40節で、「重い皮膚病を患っていた人が自ら主イエスの前に進み出てきた」と言われていることは、もうこの時点で大変衝撃的な、驚くような事態でした。普段は人と交わることができないこの人が主イエスのもとに来たということは、「何を言われても何をされても仕方がない。でもわたしは行こう」と、本当に心を決めて、やって来たのです。 普段私たちは、「重い皮膚病が癒される」というこの出来事をそのようには考えないだろうと思いますが、ここに起こっている癒しの出来事は、例えて言えば、ヨハネによる福音書11章に記されている「死んだラザロが、主イエスによって死から生へと取り戻された奇跡」と並び立つような出来事でした。ラザロの出来事は非常に強く人々の印象に残る出来事として記憶されましたが、今日聴いている出来事も、当時の人たちの感覚から言えばそれに近いものがあります。ですからマルコは、1章21節から主イエスによって様々な癒しや悪霊を追い出すということが次々に行われたという一連の記事の最後のところに、この重い皮膚病の人の癒しの出来事を記したと思われます。「主イエスという方は確かに癒しをなさる方である。しかもその癒しは、ただ具合の悪い人に健康をもたらすというだけのことではなく、死の中に両足を踏み入れてしまって、もはや生ける屍でしかないと思われているような人にさえ新しい命を与え、生きることができるようにしてくださる。それほど力ある大いなる御業をなさる方が主イエスだ」と、この福音書は伝えているのです。 今日の箇所に述べられている事柄は、「たとえ死の中に捕らえられて、にっちもさっちもいかなくなっている人でも、主イエスが臨んでくださるならば、命のもとに取り戻される」ということです。ですから、これは本当に大きな喜びの知らせになるのです。 さて主イエスは、この重い皮膚病の人に癒しを与えくださった時に、あることをお命じになりました。43節44節に「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』」とあります。 もちろん、主イエスがこの人の病を癒やされたのは、主イエスの憐れみの大きさのゆえです。41節に「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われ」とありますから、主イエスがこの人の病気を癒してくださったのは憐れみのゆえだったことは間違いないことです。ただ、この「主イエスの憐み」とはどういうことなのか。ただ単にこの人が病気で長い間辛い思いをしていることに同情した、あるいは社会生活から弾き出され苦労しながら生活していることを気の毒に思った、そういうことだけではないのです。そうではなくて主イエスは、この人がせっかく神から命を与えられて地上に生かされているのに、生ける屍としての生活しか送ることができていない、その点をご覧になって、そういうあり方を終わらせるために癒しをなさったのです。41節に「深く憐れんで、手を差し伸べられた」と言われていますが、非常に古い時代の聖書の手書きの写本の中には、ここを「主イエスが激しく憤られた」と書いてあるものが多々あります。実は、新約聖書の学者によっては「激しく憤って手を差し伸べた」と書いてある写本の方が元々の聖書の言葉に近いのではないかと想像する人たちもいるほどです。 主イエスの、この重い皮膚病への憤りの背後には、「一人一人の命をまことに真剣に考え、そしてその一人一人の命を本当に深く慈しんでくださる神さまの憐み」があります。ここで起こっている癒しは、単に病気が良くなるとか差別が乗り越えられる、そんなことで十分だということではないのです。「病に苦しみ、生きていながらまるで生きていないような生活を送ってきた人が、神の命の力に満たされてすっかり変えられ支えられ、本当に心の底から、神から与えられた命を感謝し喜んで、神に属する者となって、神との交わりの中でその人の命を生きるようになる」ということを、主イエスは願われました。主イエスは「よろしい、清くなれ」と言われましたが、これは原文通りに直訳しますと「わたしは強く願う。あなたは清くなれ」という言葉です。主イエスは、私たち人間が、痛みや嘆きや悲しみや苦しみにすっかりおしひしがれて、せっかく生きている命を本当には生きることができなくなっている、そういう様子をご覧になって深く憐れんで癒し、生きる者となるようにと願ってくださるのです。 ただ、その癒しは、私たち人間の側の都合にそのまま応えてくださるということではありません。この癒しには、主イエスがご自身の十字架と甦りの命に私たちを結んでくださるということがあります。あの十字架の上で主イエスがなさったことは何だったでしょうか。私たちの罪の惨めさや死を全てご自身の側に引き取ってくださった、本当は私たちが滅ぶべき死を主イエスが身代わりとなって引き受けてくださった、それが主の十字架の死の出来事です。主イエスは私たちの側から、命に陰をさすような死や苦しみや嘆きや痛み、あるいは不正や不実や破れというものを全部、ご自身の側に引き受けてくださって、私たちが死ななければならない死をお一人で十字架上に死んでくださいました。主イエスは、人間にとって都合のよい、人間から愛される万能な医師に留まろうとはなさいませんでした。主イエスはご自身が十字架にお架かりになり復活することで、神と私たち人間との中立ちとなって橋渡しをしてくださろうとしたのでした。主イエス・キリストというお方によって、いわば神の側から私たちの方に一本の橋がかけられたようなことになっています。 ですから主イエスは、主イエスの救い主としての誤ったイメージが伝わらないように、この人に「だれにも、何も話してはならない」と厳しく口止めをなさいました。 ところが、癒していただいた人は黙っていませんでした。「わたしはあのイエスという人に癒してもらった。重い皮膚病だってあの人は癒すことができる」と方々で言い広めました。その結果、主イエスに興味を抱く野次馬が次々に主を追い回すようになり、もはや 主イエスは公然と町や村に入ることが出来なくなったと、45節に記されています。 今日の記事から、考えさせられるのではないかと思います。主イエスは神の独り子であって、神と私たちの間を結ぶお方としておいでになりました。神の御心のままに私たちの間で行動をして、そして私たちに神の命を満たそうとしてくださいます。主イエスの癒しは、神が私たち一人一人を神の命の力をもって支え歩ませようとしてくださっている、そのことの直接のしるしです。 主イエスが深く憐れんで、私たちの命が諦めや死に捕らえられそうになっている様子を見て強く憤られる、その主イエスの熱情に動かされて、私たちも与えられているそれぞれの生活の中で、命に仕える者としてのあり方を確かにされたいと願います。 |
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