聖書のみことば
2021年7月
  7月4日 7月11日 7月18日 7月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月18日主日礼拝音声

 健康を賜る主
2021年7月第3主日礼拝 7月18日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章29〜34節

<29節>すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。<30節>シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。<31節>イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。<32節>夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。<33節>町中の人が、戸口に集まった。<34節>イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 ただいま、マルコによる福音書1章29節から34節までをご一緒にお聞きしました。29節に「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった」とあります。
 ここを読みますと、いかにも安息日の礼拝が終わった後、シモンとアンデレが主イエスを自分たちの家にお連れしたかのような印象を受けます。けれども、注意深く聖書を読みますと、そういう事情ではなかったことが見えてきます。この日、安息日の礼拝に参加していたのは、どうやら主イエスお一人だけだったようです。このことは既に、1章21節で伏線として語られていました。21節には「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とあります。カファルナウムに着いたのは一行ですが、安息日に会堂に入られたのはイエスだけだと記されています。ここには動詞が3つ出てきますが、「着いた」は複数形、「入った」と「教えた」は単数形ですので、そういう経緯を新共同訳聖書も注意深く書き分けていて、「一行は、着いた」「イエスは、入って教え始められた」と語られています。

 ですから、会堂にはシモンとアンデレはいなかったことになります。それで主イエスは、ふと気になり、安息日の礼拝が終わった後すぐに急いでシモンの家に行かれたというのが、今日の箇所の書き出し、29節になります。29節には「すぐに、一行は会堂を出て」とあるので、ここでも、いかにも21節の「一行」と同じではないかと錯覚してしまいますが、原文を見ますと、ここには「一行」という言葉はありません。「礼拝後すぐに、主イエスが会堂を出てシモンとアンデレの家に行かれた。そしてその時にはヨハネとヤコブも一緒だった」という書き方になっています。ですから、シモンとアンデレの家に行ったのは、一行である5人揃ってではなく、二人は欠けていて、主イエスと主イエスについて行ったヨハネとヤコブだったということです。
 こういう場面は、今日の私たちの教会でも見られることではないかと思います。毎週礼拝に来ている方が、どういう訳か礼拝に来ておられない。それでふと気になって、その方のお宅を訪問するということは、しばしばあるのではないでしょうか。そんな場合に、時には訪ねてみると「転んで腰をしたたか打ってしまい、今日は礼拝に行けませんでした。痛みが引けば来週には行けますから、また礼拝でお会いしましょう」と言って、祈って別れるということも有り得ることです。この日、主イエスがシモンとアンデレの家に行かれたのも、そういう情景でした。
 そして、もしかするとこの時が、主イエスがシモンとアンデレの家に行かれた最初の機会だったかもしれません。主イエスご自身は自分の家を持っておられませんでしたので、親切な人に泊めてもらったり、支援してくれる人がいない場合には普通に野宿をしておられました。この先、主イエスがカファルナウムに来られたときには、シモンの家が逗留先になって行くのですが、もしかすると今日聞いている出来事があって、主イエスが弟子として招かれたシモンとアンデレだけではなく、シモンの家の人が皆主イエスを慕うようになり、それでカファルナウムではこの家に逗留されることになって行ったのかもしれません。

 さて、いつも礼拝に来ておられる方が今日はおられないという時には、何らかの妨げが生じている場合が多いのですが、この日のシモンとアンデレがまさにそうでした。主イエスが家を訪ねたところ、そこにシモンの姑、つまりシモンの奥さんの母親が熱を出して臥せっていました。シモンは結婚していて家庭持ちですから、ある程度の年齢であり、その義理の母ともなればかなりの高齢だと考えられます。ですから、この姑が熱を出しているということは、ただ単に家族の誰かが風邪をひいて寝ているというようなことではなく、なかなか深刻な状況だったと思われます。従って、シモンの家全体が姑のことで深い憂いのうちに置かれていたと考えることができます。高齢の家族が熱を出している、それを家族が心配そうに見守っている、そんなところに主イエスがひょっこりと訪ねて来られたのでした。
 30節には「人々は早速、彼女のことをイエスに話した」とあります。シモンとアンデレ、そして家族が、この日カファルナウムの会堂で起こった出来事を既に知っていたかどうかは定かではありません。けれども、マルコによる福音書を読んでいますと、主イエスの公での働きは、まさにこの日に始まっています。つい先ほど、会堂で、主イエスが汚れた霊に取り憑かれた人からその霊を追い出すという出来事が起こりました。これは主イエスが一番最初になさった業でした。ですから、主イエスが病気を癒す力を持っておられるということは、まだ人々には知られていません。それどころか、主イエスご自身にとっても、病気を癒す力が有るか無いかは分かりきっていることではありません。そういう意味では、主イエスがシモンの家を訪ねたとき、最初から「高齢で熱を出している人を癒してあげよう」と思って訪れたということではありません。そうではなくて、シモンとアンデレが会堂にいなかったので、訝しく思われた主イエスが彼らの家を訪ねてみると、家の中がひどく沈んだ空気に支配されていたのでした。

 主イエスは、この家庭全体が深い憂いの中にあるということをお知りになりますと、決してそれをそのままにはしておかれません。31節に「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」とあります。今までこの家を覆っていた深い憂いは、その原因が取り除かれ、いつものような健康な喜びの状態が訪れました。
 言うまでもなく、この姑の癒しはシモンやアンデレや家族の信仰によってもたらされたものではありません。主イエスが、病んでいる状態をご覧になって、「病人の手を取り、病の事情を主イエスご自身に結びつけてくださった」、その時に、本当に不思議な変化がそこに生じたということが起こっています。これはまさに神のご計画でした。
 これが神の計画、神の御業であるということは、この出来事一つだけを取り出したのでは、はっきりとは分かりません。けれども、この前後に起きていることと繋いで考えてみる時には、よく分かります。聖書では、単なる不思議なことを奇跡とは呼びません。新約聖書の中には奇跡という言葉が24回出てくると言われますが、「奇跡」はただ単に不思議なことというような意味ではなく、「神のご計画のうちに生じていること」です。
 前回お話ししたことですが、主イエスがカファルナウムの会堂で、安息日の礼拝で聖書の説き明かしをなさったその時に、聖書のどの箇所が読まれ、どういう説き明かしをなさったのかについては、マルコによる福音書には記されていませんでした。けれども、並行記事を記したルカによる福音書によりますと、主イエスがカファルナウムに行かれる直前に、ご自身がお育ちになったナザレの会堂で安息日の礼拝に参加されたと記されています。ルカによる福音書4章を読みますと、主イエスがナザレでの礼拝に参加された時に主イエスが朗読し説き明かしをなさった聖書の言葉は、イザヤ書61章でした。そしてイザヤ書61章を朗読した後、主イエスは「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。
 主イエスが「今ここで実現した」とおっしゃっているイザヤ書の言葉を聴いてみたいと思います。イザヤ書61章1節から3節に「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」とあります。「この言葉は実現している」と、主イエスはおっしゃいました。
 シモンの家で実現したことは、まさに「暗い心に代えて賛美の衣がまとわされる」、そういう出来事だったのではないでしょうか。主イエスはカファルナウムに来られる前、ナザレの会堂で聖書を説き明かして、「暗い事情にならざるを得ない人たちが賛美の衣をまとう者になるだろう。そのことのために、一人の僕が神さまから遣わされたとイザヤ書に語られている。そのことは今、実現しているのだ」と、会堂に集まった人たちに語られました。ルカによる福音書によりますと、残念なことに、この説き明かしを受けた人たちは、主イエスのこの言葉を受け取り損ねています。
 けれども、主イエスは神のご計画通りに働かれます。シモンとアンデレの家の、暗く重苦しい空気に覆われている中に入って行かれ、その憂いの原因を取り去り、賛美の思いを造り出してくださいました。

 今日のマルコによる福音書の記事では、余分な言葉が一切省かれ、非常に簡潔に、起きたことだけが語られています。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」と、起こったことだけが淡々と語られているのですが、しかし、こういうことはやはり不思議なことですので、こう聞かされても、にわかには信じ難いと思われる方もおられると思います。高齢のシモンの姑がついさっきまで高熱を出して寝込んでいて、シモンはじめ家族は、これからどうなるのだろうかと固唾を飲んで不安な気持ちでいたのです。ところが、主イエスがその家を訪ね、「そばに行き、手を取って起こされると、熱は去った」とは、こういう聖書の書き方に戸惑いを感じる方もおられることでしょう。
 けれども、これはマルコによる福音書の書き方の癖だと思います。筆者のマルコには、一つ一つの単語に意味を込めるという癖があります。ここでは、「手を取って起こす」という動詞が大変重要な言葉です。シモンの姑は「起こされ」ました。この同じ言葉が主イエスについて使われるとどうなるかと言いますと、「主イエスが復活させられた」という場面で使われる動詞になるのです。マルコによる福音書の終わりのところ、16章14節には、復活した主イエスが11人の弟子たちのもとに現れてくださったという出来事が語られています。16章14節に「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とあります。ここで「復活された」と訳されている言葉が、今日の箇所でシモンの姑が「起こされた」と言われている言葉と同じです。
 ですから逆に言いますと、今日の記事で、「主イエスが病んでいる人のところを訪ね、手を取って起こされた」ということは、「主イエスが手を取って、復活させてくださった」と訳してもよい言葉遣いです。この日、シモンとアンデレの家で起こったことは、「主イエスが死者の中から復活させられたこととの深い繋がりの中に、この姑を置いてくださった」、そういう出来事として語られています。こういうところに、マルコの書き方の癖があります。

 けれども、「主イエスの十字架と三日目の復活の出来事が、シモンの姑の身に起こったことと関わりがある」とは、一体どういうことなのでしょうか。
 主イエスが死者の中から復活させられた甦りの出来事は、神に敵対する勢力の一番最後のものである死が主イエスによって滅ぼされ、そして永遠の命がそこに現れるという出来事です。神に敵対する死の力は、十字架の際には、一時主イエスに対して勝利を収めたかのように見えました。けれどもそれから三日経って、確かに死なれたことが明らかになるための時間である三日目に、主イエスは甦らされました。「死は自分たちの支配のうちに主イエスを留めておけなかった」ということを表しています。主イエスの復活は、死が最後の勝利者なのではなく、神こそが全ての上におられることを表す決定的な出来事でした。
 そして、今日の箇所では、そういう主イエスがシモンの家を訪れ、臥せっている姑の身に「神によって病が追い出され、命が与えられる」という出来事をもたらしてくださっているのです。主イエス・キリストというお方を通して、神が命の力を姑にもたらしてくださって、ほとんど死に瀕していたシモンの姑が神の力をいただいて起き上がり、そして本当に感謝し喜んで働く者とされました。主イエスが共にいてくださる生活では、たとえ神に逆らう病気や死の勢力が人間に力を振るうということがあっても、それは神の力に出会って退いていきます。シモンの姑の出来事は、「主イエスが共にいてくださるところでは、命の力が栄える」、そういう出来事として起こっています。

 このように、「神の力によって元気にされる。喜び感謝して生きるようになる」ことを表すかのように、31節の最後には「彼女は一同をもてなした」とあり、姑がただ病が癒されたというだけではなく、かいがいしく働いて来客をもてなしている様子が語られています。
 主イエスが訪れ、親しく接してくださる時には、私たちは、「出会ってくださる主イエスから命の力、生きる力を与えられて、そして主に感謝し、主にお仕えして生きる者となる」ことを、今日の箇所は告げていると思います。
 私たちもまた、主イエス・キリストが親しく交わってくださり、御言葉をかけてくださり、勇気と力を与えてくださる、その主の力に満たされ励まされて、新しい一巡りの時へと送り出されていきたいと願うのです。

 ここから始まる新しい一巡りの時、私たちはこの一週間をどのように生活するのか、今の私たちには分かりません。けれども、私たちがどこでどんな生活を送る時にも、主イエス・キリストは私たちに心を留めてくださり、私たちのもとを訪れてくださいます。それは、シモンとアンデレがカファルナウムの会堂で姿が見えないときに、主イエスが気にしてくださり、二人のもとを訪れてくださったように、です。私たちは、自分の方からいつも主イエスを覚え続けて神のものとして生きていけるかというと、それは難しいことだと思います。けれども、姿が見えなくなっている私たちを、主イエスの方が訪ね求めってくださるのです。そして、主イエスを通して神の力が働くときに、私たちを押さえつけている病や死の力は、後ろに退いていくのです。

 私たちの手を取ってくださる主イエスが、この週も私たちと共にいてくださることを感謝して、主に仕え生きる者として、私たちはここから歩んでいきたいと思います。そして、私たちに与えられている命の力を、これから日々に出会う一人一人の隣人に向かっても、できるならばお伝えする者とされたいと願います。
 命を慈しんで育てる、そういう営みを、私たちの賛美の献げものとしたいと願います。

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