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2021年3月 |
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3月7日 | 3月14日 | 3月21日 | 3月28日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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生ける水 | 2021年3月第3主日礼拝 3月21日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ヨハネによる福音書 第4章1〜42節 |
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4章<1節>さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、<2節>―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである― <3節>ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。<4節>しかし、サマリアを通らねばならなかった。<5節>それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。<6節>そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。<7節>サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。<8節>弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。<9節>すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。<10節>イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 <11節>女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。<12節>あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 <13節>イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。<14節>しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」<15節>女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 <16節>イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 <17節>女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。<18節>あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。<19節>女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。<20節>わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」<21節>イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<22節>あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。<23節>しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。<24節>神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」<25節>女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」<26節>イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」<27節>ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。<28節>女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。<29節>「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」<30節>人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。<31節>その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、<32節>イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。<33節>弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。<34節>イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。<35節>あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、<36節>刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。<37節>そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。<38節>あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」<39節>さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。<40節>そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。<41節>そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。<42節>彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」 |
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本日の説教題を「生ける水」としました。それは今日聞いた箇所の10節11節に「生きた水」という言葉が出てくることを念頭に置いてのことです。主イエスに出会ったサマリア人の女性が「生きた水をいただきたい」と主イエスに願ったことから、サマリアの町に住んでいる多くの人々が主イエスの言葉を聞いて信じるようになりました。そういう主イエスのサマリア伝道の顛末が今日の箇所には述べられています。 今日の箇所で、主イエスに「水を飲ませてください」と声をかけられたサマリア人の女性は、最初、非常に驚いています。声をかけられただけで驚くほどに、当時、ユダヤ人とサマリア人の間柄は疎遠でした。ユダヤ人である主イエスがサマリア人の心を開かせることができたということは、一つの奇跡だったと言って良いと思います。しかしそれは同時に、少なくとも主イエスの側からご覧になれば、疎遠な人、救われる資格のない人など、どこにもいないということを表しているということにもなるのではないでしょうか。どんな民族に属していても、あるいはどんな境遇を生きていても、主イエスからご覧になれば等しく救いを必要としている人間です。主イエスはご自身の身をもって、ユダヤ人とサマリア人が交際しないという隔ての中垣を超えてくださいました。日本人である私たちにも主イエスは手を差し伸べてくださり、ご自身との出会いを通して生ける水を与え、ともすれば心が渇きがちである私たちを潤して、神の前に生きる者としてくださるのです。 ところで、主イエスがサマリアの人たちに出会ってくださった、その糸口はどのようなものだったでしょうか。7節に「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた」とあります。主イエスが一人のサマリア人女性に「水を飲ませてください」と頼んだというところから出来事が始まっていきます。主イエスは女性に対していきなり「わたしは救い主だ。救い主として、あなたの魂の渇きを癒してあげよう」と名乗って出られたのではありませんでした。むしろ、その逆です。井戸の傍にくたびれて座り込んでいて、「どうか水を一杯恵んでもらえないだろうか」と、女性に頼み事をしています。これではまるで主イエスが救い主なのではなく、主イエスの方が救いを求めている人であるかのようです。果たしてそれが、世の救い主なのでしょうか。 主イエスが出会ってくださるのは、このシカルの井戸で出会った女性だけではありません。今ここに集まっている私たちにも、主イエスは出会ってくださいます。どうやって、どんな形で、何時、主イエスは私たちに出会ってくださるのでしょうか。まさに今、この教会の交わりの中に主イエスが共に立っていてくださるのです。そして、教会の交わりを通して、世の救い主がここにいる私たち一人一人に出会っていてくださいます。 思えば、私たちの教会生活にもそのようなところがあるのではないかと思います。私たちが教会に来て、そこで経験することは何かというと、差し当たっては兄弟姉妹との交わり、人間同士の交わりだろうと思います。そして、教会がこの地で成り立っていけるようにと頼まれて奉仕をしたり献げ物をしたりしながら、皆で協力しあって、教会が立っていけるようにする、人間が集まり互いに支えているように見える生活、それが教会生活だろうと思います。主イエスがここにおられると信じない人たちにとっては、理解し難い団体かもしれません。「なぜこの人たちは、日曜日にここに集まって、支え合っているのだろう。もっと自分のために時間もお金も使えばいいのに」と思うかもしれません。 今日の記事では、「主イエスが近づいてくださる」ことがどのように起こっているのでしょうか。まずは、主イエスが一人のサマリア人女性に「水を飲ませてください」と声をかけるということから始まります。女性は大変驚いています。そもそもこの女性が井戸に来たのは、「救い主がおられるから礼拝しよう」というような高尚な目的のためではありませんでした。もっと身近で卑近な目的のためです。つまり、自分の喉を潤すための水を得たいのです。 主イエスはこの女性に語りかけました。10節「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう』」。本当に突然、主イエスはこの女性の魂の渇きを問題になさいました。女性は、飲む水の話をしていたのに全く別の話になり、戸惑います。それで、女性は最初、主イエスの言われたことを理解できず、井戸の水のことだと思って返事をしました。11節「女は言った。『主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか』」。「生きた水」と聞かされて、すぐにそれが「魂の渇きを癒す水」だと分かる人は殆どいないでしょう。この女性も主イエスの言葉の意味を測りかねて、こう答えました。 すると、主イエスは改めて、「今話しているのは物質の水のことではない」ことがはっきり分かるように言われました。13節、14節に「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る』」とあります。主イエスは、この女性の心の内をご覧になりながら、少しずつ距離を縮めていかれます。そして、この女性が抱えている魂の渇きと孤独を解決する「生きた水」を与えようとなさいます。 女性は突然、弱点を突かれて、顔を歪めながら返事をしました。17節「わたしには夫はいません」。ある意味これは本当のことですが、偽りの言葉でもあります。確かに夫はいませんが、今交際している男性のことを隠しているからです。もちろん主イエスは、女性の言葉については全てをご存知ですが、主イエスは女性が誤魔化しているところを突いて窮地に陥れるようなことはなさいません。ただこの女性が、今の自分の有り様を自ら告白することをお待ちになります。17節18節「女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。主イエスは、女性の魂の渇きの原因を明らかにして、そして、彼女が自分なりにこれまで生きてきた歩み、今の生活を振り返って、彼女なりに結果を出すように導こうとなさいます。この女性がしてきたことを責めたりするのではなく、大きな愛で包み、彼女がすっかり人と一緒にいることに失望して結婚生活を始める決心がつかずにいるという点を明らかになさいました。彼女の魂の渇きの原点に、人生への期待や信頼が失われてしまっている。隣人も、また自分自身についても疑わしく思っている。その点を明らかにして、どういう形でこの先歩むにしても、彼女がもう一度、魂を癒され潤されて生きることができるように導こうとなさるのです。 こういうやり取りの末に、この女性は、目の前のみすぼらしい人間がどうも只者ではないことに気づきました。そして、預言者だと考え、今まで自分が素朴に考えていたことを質問しました。「自分たちサマリア人は先祖以来、ゲリジム山で礼拝すると教えられてきたけれど、あなたたちユダヤ人が属するエルサレム神殿こそが、神が人に語ってくださる場所なのだろうか」と尋ねました。 主イエスがこの女性と出会うことを通して、女性は魂の渇きを癒され、そしてここから歩んでいく術を見出すことができるようになりました。このようにして主イエスは、サマリア伝道の初穂となる女性を見出されたのでした。 こういうことは、私たちが教会の中でまさに経験させられることだろうと思います。私たちは教会生活の中で、全く予想しないようなことを、聖書の言葉を説き明かされながら耳にするのです。「わたしのことがここに語られている」と感じることがあるのではないでしょうか。とても不思議なことですが、私たちは、教会生活の中に共にいてくださる主イエスに、私たちの間に立っておられる主イエスに出会わされ、主イエスの言葉によって、私たちも心の糸を解きほぐされながら、力を与えられ、慰めと勇気を与えられて、「ここからわたしは生きていける」という思いを与えられて、新しく歩み出す生活が始まっていくのです。 |
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