2020年9月 |
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9月6日 | 9月13日 | 9月20日 | 9月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神様のご計画 | 2020年9月第1主日礼拝 9月6日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第21章17〜36節 |
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<17節>わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。<18節>翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。<19節>パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。<20節>これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。<21節>この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。<22節>いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。<23節>だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。<24節>この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。<25節>また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」<26節>そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。<27節>七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、<28節>こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」<29節>彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。<30節>それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。<31節>彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。 <32節>千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。<33節>千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。<34節>しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。<35節>パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。<36節>大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。 |
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ただいま、使徒言行録21章17節から36節までをご一緒にお聞きしました。17節18節に「わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた」とあります。エルサレムに到着したパウロは、翌日、主イエスの兄弟ヤコブを訪ねました。ここに出てくるヤコブは、主イエスの弟子に招かれたヤコブではありません。主イエスの弟子でヨハネの兄だったヤコブはずっと早い時期に殉教の死を遂げています。ここに出てくるヤコブは、主イエスの弟の一人で、主イエスの十字架と復活の後に主イエスを信じてキリスト者になった人です。それで主の兄弟ヤコブと呼ばれています。 さて、この時期のエルサレム教会はどのような様子だったのでしょうか。どんな教会生活が営まれていたのでしょうか。恐らく、最初の頃からあまり変わらず行われていたと思われます。ユダヤから遠く離れたギリシアや小アジアの教会、つまりパウロたちが伝道して建てた教会は、その教会のメンバーの大部分が異邦人でした。そういう教会ではユダヤ教とはっきり一線を画すような礼拝が捧げられていました。 ペンテコステの出来事からまだ30年も経っていない頃ですが、その30年の間に、エルサレム教会と、異邦人たちを中心とする教会の間には、まるで違う宗教であるかのように、生活の仕方に大きな違いが生まれていました。見たところの信仰の表し方、生活が随分違っているということがあったために、パウロは、尚更、自分たちが福音を伝えて建てた異邦人の教会に「エルサレム教会を憶えるように」と強く意識してもらうようにしたようです。 ところで、そのようにパウロはエルサレム教会を憶えましたが、パウロたちとエルサレム教会で一致している点がありました。この一致は、初代教会にとってとても大事なものだったようです。 当時の教会一致の考え方は、今日の箇所でも確認されていきます。パウロは、今まで自分がどのように働き、用いられたかを語りました。異国の地に次々と主を信じる人々の群れ、教会が建設されて行った。そしてフィリピ、ベレア、テサロニケ、コリント、エフェソ、それぞれの教会がどんなに主に対する賛美と感謝に溢れているか、それはパウロに同行したそれぞれの地の代表者が自分たちの教会を紹介しながら説明したと思います。 ところで、このような喜びの後、エルサレム教会の人たちはパウロに語りかけました。20節以下に「これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。『兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、モーセから離れるように教えているとのことです』」とあります。「兄弟よ」と呼びかけた後、「あなたが今いる場所はエルサレムだ。ここにはまだ熱心に律法を守っている人たちが大勢いる。ところが、そういう人たちがあなた(パウロ)について、良くない噂を耳にしている。それはあなたがモーセの十戒を捨てて割礼を施さないようにと勧めているという噂である。どうか、そういう間違った噂を立てられないように、あなた自身が行動であなた自身の信仰を表すようであってほしい。そうすれば、偏見を持っていた人たちも、あなたについて誤解していたことが分かるだろう」と、エルサレム教会の人たちは、パウロに対して好意をもって語りました。「ちょうどここに4人の貧しい兄弟たちがいて、彼らは神さまに誓願を立て、それが満期を迎えているけれど、貧しいために伸ばした髪を切るお金がない。そこでどうだろう。彼らの髪の毛を切る費用を引き受けてもらえないか。彼らの願いが満たされたことにあなたが関わってくれれば、パウロという人はユダヤ教の慣習を踏みにじるような人ではないことが、皆にわかるだろう」と語りました。23節以下です。 パウロは、この申し出を聞き入れました。けれども、パウロにとってこの申し出を引き受けることは、問題あることです。パウロは人間の誓願よりも、主イエスが自分たちのために十字架に架かってくださったことが大きいことなのだと伝えていた人ですから、そういう意味で、パウロはこの誓願に重きを置いていたかどうかは疑問です。また異邦人の教会で「主イエスを信じることが大切だ」と教えてきたパウロが、エルサレムではユダヤ人の誓願のためにパウロが協力したということが知れわたることがパウロにとってどうかということは疑問です。 エルサレム神殿には、一番外側に異邦人も立ち入ることのできる異邦人の庭があり、その先には、ユダヤ人しか入ることのできない聖域がありました。最初が婦人の庭で、ユダヤ人なら男女を問わず入れました。その奥には男性だけが入れる庭がありました。異邦人の庭と婦人の庭の間には、高さ1.5メートルくらいの垣根が設けられていて、所々に入り口があり、そこから入れるようになっていました。ところが、その入り口には、異邦人が誤って立ち入らないように警告の立て札がかかっていました。「もし異邦人がこの境を越えて中に入る時には、命をもって償わなければならない」と書かれていました。パウロも、また誓願をかけている4人もユダヤ人ですから、何も問題なく境を越えて中に入りました。 パウロはユダヤ人キリスト者たちから、「パウロはユダヤ人とは違う」と疑われていました。その疑いを晴らすために、4人の貧しい兄弟たちを伴って神殿に出かけました。疑いを晴らすために出かけたのですが、結局、行った先で、ユダヤ人たちから思いがけない手傷を負わされることになりました。パウロは、ユダヤ人を得るためにはユダヤ人のようであろうとしました。しかしその結果、大怪我をすることになりました。ですから、エルサレムの住民の中でも血の気の多い人は手をあげましたが、比較的落ち着きを持っている人たちは、パウロの身に起こったことを痛ましく気の毒に思ったことだろうと思います。パウロは何も悪いことをしていない、異邦人を連れ込んだわけでもない。パウロは自分がユダヤ人の信仰を大事にしているのだということを表そうとして神殿に行ったのに、かえってそのために大怪我を負ったのです。おそらくエルサレム教会の人たちも、主の兄弟ヤコブをはじめとした人たちも、自分たちの提案によってパウロが傷ついてしまったということに責任を感じ、申し訳ないという思いになったと思います。 けれども、このように痛ましく思えることを通じても、神はパウロを持ち運んで目的を果たしていかれるということが、ここには語られています。パウロは、かつてはサウロと名乗り、教会の迫害者でした。その時に甦りの主イエスに出会い、主に捕らえられてキリストの僕に変えられていったのですが、実はその一番最初の時に、主イエスはパウロについて語っておられます。使徒言行録9章15節16節に「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう』」とあります。パウロは、異邦人や王たち、そしてイスラエルの子らのために選び出された伝道者で、パウロ自身の苦難を通してキリストの名が確かに伝えられていく、そういう器なのだと、一番最初に言われていました。 私たちが今日の箇所を聞いて、人間的にはパウロが被った手酷い傷のことに思いが向き、パウロが気の毒だと思うかもしれません。 この出来事を聞きながら思わされます。私たちは、自分自身の人生、自分の生活について、日頃どう考えているでしょうか。しばしば目先のことばかり思って一喜一憂するということがあるような気がします。自分にとって良いことがあれば、「これは嬉しい、祝福されたことだ」と思い、自分にとって辛いと思うことが起こる時には「なぜこんなこと起こるのか。もう懲り懲りだ」と、そんな思いを抱くことでしょう。けれども神は、様々な出来事をキリスト者一人一人の上に起こしながら、その生涯を通して、まさにキリストの名が伝えられていくようにと私たちを持ち運んでくださる、そういうお方なのです。 |
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