2020年5月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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使徒会議 | 2020年5月第2主日礼拝 5月10日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第15章1〜35節 |
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<1節>ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。<2節>それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。<3節>さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。<4節>エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。<5節>ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。<6節>そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。<7節>議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。<8節>人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。<9節>また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。<10節>それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。<11節>わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」<12節>すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。<13節>二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。<14節>神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。<15節>預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。<16節>『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。<17-18節>それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』<19節>それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。<20節>ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。<21節>モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」<22節>そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。<23節>使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。<24節>聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。<25節>それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。<26節>このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。<27節>それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。<28節>聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。<29節>すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」<30節>さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。<31節>彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。<32節>ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、<33節>しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。<34節><底本に節が欠けている個所の異本による訳文>しかし、シラスはそこにとどまることにした。†<35節>しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた |
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ただいま、使徒言行録15章1節から35節までをご一緒にお聞きしました。説教題ともしましたが、ここで述べられている出来事はエルサレムで開かれた「使徒会議」と言われています。この15章は、使徒言行録全体から見ますと後半の始まり、入り口のようなところです。前半には、甦った主イエスが40日間弟子たちと共にいてくださり、確かに復活はあったということを弟子たちに伝えた後、天に昇られ、ペンテコステの聖霊降臨の出来事によって教会の歴史が地上に始まったこと、それが語られていました。 発端となった出来事は何だったのでしょうか。1節に「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」とあります。発端となったのは、エルサレム教会とアンティオキア教会の、礼拝の形の違い、あるいは信仰生活の習慣の違いから生じたことでした。 さて、このように毎週パン裂きをしていたアンティオキア教会に、エルサレムからユダヤ人たちがやってきました。そして、アンティオキア教会の信仰生活の形を批判しました。1節にある通り「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と言いました。割礼を受けさえすれば救われるということではなく、割礼を入り口として律法をすべて守るのでなければならない、神に対して、聖書に言われていることをすべて実行するのでなければ救われないのだと言いました。それで、アンティオキア教会の中に少なからず動揺が走りました。この教会には割礼を受けていない異邦人が大勢いたからです。律法を守ることについても、ユダヤ人は子供の頃から教えられているので頭に焼き付いていますが、大人になってから教えられた人には覚えられるものではありません。ですから、そうできない自分たちは救われないのだろうかと大勢の人が動揺しました。 けれども、エルサレムから来た人たちが言ったことは、アンティオキア教会でパウロやバルナバやその他の教師が伝えていたこととは違うことでした。エルサレムから来た人たちが大事にしていたことは「律法を守って福音を信じなさい。主イエスはそのように招いておられる」ということです。それに対してアンティオキア教会を指導しているパウロやバルナバたちは「本当の福音は、ただ主イエスの十字架のみである。律法を行うことよりも、主の十字架によって救われていることを信じることが大事なのだ」と教えました。 アンティオキア教会の人たちは困ってしまったことでしょう。結局どちらを信じたら良いのか分からなくなり、アンティオキア教会からエルサレム教会に使節団を派遣して、この点を確かめてみることとなりました。その際に、アンティオキア教会の信仰理解をはっきり伝えるためには、使節団の中心はパウロ、バルナバですが、その他の兄弟たちも加わりました。2節に「それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」とあります。このようにして協議することになった、それが使徒会議です。 エルサレム教会にアンティオキア教会の使節団が到着した時に、エルサレム教会では彼らを兄弟姉妹として歓迎したと言われています。ところが、この歓迎会の席上で、パウロとバルナバは早速、自分たちの信仰理解について伝え始めました。すると、エルサレム教会の中でパウロたちの信仰の立場に反論する人が現れてきました。4節5節に「エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った」とあります。5節で「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と強く言った人たちは、1節でアンティオキアに乗り込んできて「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えた人たちと同じ考えをしている人たちです。この人たちにとっては「モーセの慣習」に人々を従わせること、つまりユダヤ人でなくてもユダヤ人のように割礼を受けてもらい、旧約聖書に書かれているような生活をすることが救われた人間のすることだと思い、それを守らせようとしました。 エルサレム教会ではこのことを重く受け止めて、このままだとエルサレム教会とアンティオキア教会の一致が崩れてしまうだけではなく、何よりもエルサレム教会の中で主イエスの十字架と復活の意味が見失われてしまう方向に向かって行ってしまうことが心配されました。それで使徒たちと長老たちの会議が招集され、この問題について話し合われました。議論は活発に交わされていったようですが、途中でペトロが発言しています。 ペトロの言葉を受けて、さらにパウロとバルナバが語ったのち、最後に、主イエスの弟であるヤコブが口を開きました。そしてこのヤコブの言葉に、この場で反対する人がいなかったというところで、エルサレム教会の最終的な判断が定まっていったようです。19節で「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」とヤコブは言っています。「神に立ち帰る異邦人を悩ませない」ということは、「割礼や律法の行いを実行しないと救われない」などと要求しないということです。救いとは、自分が何かを行う、正しいあり方をしようとするところにあるのではなく、ただ主イエスの十字架によって赦しが与えられているということを信じて生きるかどうか、主イエスを信じ、主イエスに従った生活しようとするかどうかという点にあるということを、この日、エルサレム教会とアンティオキア教会は、共通した信仰であると確認しました。 今日ここに語られていることは、言葉だけを聞けば、私たちにとっては毎週聞いている当たり前のことが決まったということに過ぎないと思われるかもしれません。けれども、ここでなぜこのようなことが起こったのかと考えてみますと、これは私たちすべての人間にとって、主イエスの十字架の御業によって救われていると信じるということが、いかに難しいことかということを表しているのかもしれません。 けれども、自分のあり方に目を落として自分を責めたり有頂天になったり、聖書の物差し、社会の物差しで測って自分は正しいと思うのではなく、主イエスの十字架の御業にこそ目を上げる、そういう者とされたいと願います。そうするようにと私たちは招かれています。 私たちは、自分自身の罪に目を落とし、罪の破れに目を落として気落ちするのではなく、神がわたしをなお慈しんでくださっている、「あなたはわたしのものだ。わたしが命を与えているのだから、生きていくように」と呼びかけてくださっていることが本当に確かになるために、主イエスの十字架と復活の御業が行われているということを、自分のこととして確認し、またこの世界の中に宣べ伝えていくような働きに導かれたいと願います。 |
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