聖書のみことば
2020年4月
  4月5日 4月12日 4月19日 4月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月12日主日礼拝音声

 復活
2020年イースター礼拝 4月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第16章1〜20節

<1節>安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った<2節>そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。<3節>彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。<4節>ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。<5節>墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。<6節>若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。<7節>さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」<8節>婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。<9節>〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。<10節>マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。<11節>しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。<12節>その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。<13節>この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 <14節>その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。<15節>それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。<16節>信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。<17節>信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。<18節>手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」<19節>主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。<20節>一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
結び 二〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕

 イースターの朝になりました。毎年イースターの朝が来るたびに確認しなくてはならないことがあると思います。それは、主イエス・キリストは果たして本当に復活しておられるのだろうかということです。もしも、本当には主イエスは復活しておられないのに、私たちがここでイースターを祝っているのだとすれば、この礼拝はただの茶番と言うことになります。それだけではなく、神が本当には復活させておられない方を復活したと言うことは、神がなさらなかったことを、あったことだと言って、事実を欺いていることになるとも言えると思います。
 私たちがイースター礼拝を祝い、主の御復活を喜ぶ時には、主イエス・キリストが復活なさったのかどうかということは、極めて重大な問いとなるのだということを、まず弁えてもらいたいと思います。主イエスは本当に復活なさったのでしょうか。今朝は、新約聖書に4つある福音書の中で一番古い福音書、マルコによる福音書の復活の記事を読みましたが、しかし、聖書の中では、この箇所が最も古い主イエスの甦りの証言ではありません。マルコ福音書より前に主イエスの復活を証している言葉があります。それは、コリントの信徒への手紙一15章3節から8節の言葉だと言われています。今朝は、その言葉も合わせて聴いていきたいと思います。

 コリントの信徒への手紙一15章3節から8節に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」とあります。これが最古の復活証言です。ここで気づかされることがあります。それは、ここには「お墓が空だった」ということは一切記されていないということです。「お墓は空である。だから復活は確かなのだ」と言っているのではなく、ここに言われていることは、「死から三日目に復活された主イエスが、まずケファ、つまりペトロに出会ってくださったことを皮切りに、次々と弟子たちに出会ってくださった、そして最後にはパウロにも出会ってくださった」ということです。
 すなわち、復活が本当に起きたのだということは、聖書においては、お墓が空だという証拠を示しながら語られるのではなく、「復活の主イエスに出会わされた証人がここにいるという言葉を、信じるか信じないか」という事柄として語られています。そしてそのことは、今日の聖書箇所であるマルコによる福音書の記事においても同じです。

 マルコによる福音書において、主イエスの復活について知らされたのは、3人の婦人たちでした。1節に名が出てきます。「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」です。
 「マグダラのマリア」は、主イエスに7つの悪霊を追い出していただいた女性だと言われていますが、それ以来ずっと主イエスに従い、ガリラヤからエルサレムまで付いて行きました。「ヤコブの母マリア」は、15章47節で「ヨセの母マリア」と紹介されていて、ヨセとヤコブの母とは誰かというと、主イエスの母マリアです。そして「サロメ」は、主イエスの母マリアの妹であり、主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの母だと言われています。そういう3人が主イエスのお墓に赴き、そこで主イエスの甦りの知らせを天使から聞かされました。
 このように、主イエスの甦りの出来事が婦人たちに最初に知らされたということ自体が、証明することのできないことです。なぜかというと、1世紀のユダヤでは、あることの真実の証明は、二人または三人の口で確かめられなければ認められないのですが、証言をすることができるのは男性に限られていました。1世紀には女性は証言者として認められていませんでした。主イエスの復活を信じようとしない人たちの中には、主イエスの復活の記事は捏造だと考える人がいます。けれども、捏造ではないことは、この記事から明らかです。もし、マルコ福音書が「お墓が空だった」と主張し、それをもって主イエスの復活は確かだと言っているのであれば、お墓に向かった3人の人は、3人の男性でなければなりません。3人の男性が「間違いなくお墓は空だった」と証言するのであれば、当時の考え方からすれば、間違いないこととして主張できるのです。ところが、最初にお墓に行ったのは女性だと書いてあるのですから、これは証拠として取り上げてもらうことはできません。
 このことから分かることは、この記事が、お墓が空だったことをもって復活したと主張するために捏造したのではないということです。3人の女性は、確かにお墓に行きました。そしてそこで経験したことが、ここに記されています。

 この3人の女性たちは、何のためにお墓に行ったのでしょうか。1節に目的が記されています。「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」、つまり3人は主イエスに香料を混ぜた油、香油を塗って差し上げたいという思いでお墓に行ったと言われています。主イエスが息を引き取られたのは金曜日の午後3時でした。ユダヤの暦では、夕べから一日が始まりますから、日が暮れると次の日です。夕方、日が暮れると土曜日であり、土曜日は安息日なので一切の仕事はできなくなります。ですから、午後3時に亡くなられた主イエスは、大急ぎで十字架から降ろされ、アリマタヤのヨセフが自分のために作っておいた真新しいお墓に横たえられました。15章には「主イエスの亡骸は買ったばかりの新しい亜麻布に包まれて葬られた」と記されていますから、布に包まれた以上の処置はなかったでしょう。
 3人の婦人の弟子たちは、安息日が明けたので、もう一度、主イエスの亡骸に丁重な処置をして葬って差し上げたいという思いでお墓に向かったのでした。ということは、この3人は、お墓に主イエスの亡骸があるという前提で行ったということになります。3人は主イエスに対する真心と敬虔な愛情を持っていましたけれど、主イエスが復活なさったなどとは、この時、露ほども思っていませんでした。
 また、3人は主イエスの亡骸に香油を塗るためには、大きな障害があることも分かっていました。お墓の入り口に大きな石が置かれていて容易に中に入れないことを、金曜日に見て知っていたからです。ですから、行き道での3人の話題は、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」ということであり、どうしたものかと思案しながらお墓に向かっていました。

 ところが、お墓に着いてみると、事態は3人の予想していなかったようなことになっていました。誰が取り除けてくれるだろうかと思っていた大きな石は、既に横に転がしてありました。誰が取り除けてくれたのか分かりませんでしたが、ここで3人が経験したことは、自分たちの真心、純真な愛があるけれど、それだけでは事はうまく運ばないだろうと思っていたところ、その心配は取り除けられているという経験でした。けれども、石は取り除けられていましたが、墓穴の入り口に立った時点で、中で起こっていること、主イエスの復活の事実を知らずにいます。3人は、お墓の中に横たわっているはずの主イエスの亡骸を目指して進んでいきます。主イエスへの真っ直ぐな愛、純真な親しみを抱いて、何とかして主イエスに香油を塗り葬りたいと願っています。3節4節に「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである」とありますが、これは案ずるより産むが易しというような言葉で表現することは控えたいと思います。いつでもこうなると決まっているわけではないからです。万事、自分の思い通り都合よく物事が運ぶと思うことは、御利益信仰ではあっても、キリスト教信仰とは違います。
 けれども、「神は私たちの心からの祈りにはいつも耳を傾けてくださる」、それは本当のことです。そして時に、人が祈っていることに関して、神は人がまったく予想しないような仕方で答えて下さいます。私たちが予想しないようなことに道を開き、神の御業の中に人間を招き入れてくださることがあり得るのです。実は、3人の婦人たちは、お墓の石が取り除けられていることは大変嬉しいことですが、しかし、お墓の石が取り除けられていることの意味については分かっていません。
 3人の婦人の純真な思いは、もとを辿れば、主イエスというお方がおられ、3人の婦人たちと交わりを持ってくださったからこそ、その心の内に芽生えているものです。主イエスへの真っ直ぐな思いは、それを抱いている人にとっては自分の思いですが、しかしそれは同時に、主イエスが種を撒いてくださって、その人の中に生まれてきた思い出もあります。3人は、主イエスがまず3人を愛して受け入れてくださったこと、自分たちを癒し、支え、慰めてくださったという、その慕っている思いによって、お墓に向かって行きました。そして、お墓の中に入りさえすれば、主イエスとの交わりがもう一度味わえると思っているのです。

 ところが、実際にここで起こっていることは、彼女たちの思い描いていることとは全然違うことでした。3人が思い描いていたことよりも、遥かに勝った大いなることが起こっています。お墓の前の大きな石を動かしたのは誰か。実は人間が動かしているのではありません。人間の熱心さとか、人間の思いの強さとかが石を動かしているのではなく、神ご自身がこの石を動かされました。神がこの石を動かし、今、お墓に入ろうとすることを通して、3人の婦人たちが思っていたことを遥かに超えた、別の現実の中へと招き入れようとなさっているのです。神が、ご自身の現実にこの3人を出会わせようとしておられます。
 実は、主イエスは、そういう新しい現実があるのだということを弟子たちに伝えようとして、この地上においでになり、ガリラヤからエルサレムまで弟子たちと共に歩んで来られました。弟子たちは、その時にはそのことを理解しませんでしたけれど、主イエスの側では、地上の命を超える永遠の命があるのだということを、いつもおっしゃっておられました。例えば、弟子たちに受難予告をされましたが、その時には「人の子は敵の手に渡され、苦しみを受け、十字架につけられ殺されるけれど、三日目に復活する」と、必ずおっしゃっています。主イエスは、死で終わるとは仰いません。死の出来事は間違いなく起こるけれども、その先があることを弟子たちに教え続けられましたが、弟子たちはその言葉を悟ろうとしませんでした。けれども、主イエスは弟子たちに何とかして、「死がすべての終わりではなく、その先に永遠の命があるのだ」ということを伝えようとして、弟子たちと共に歩んでおられました。今、3人の婦人の弟子たちは、その神の現実に、ここで出会わされようとしているのです。神がそのために、入り口の石を脇へどけてくださっているのです。

 ですから、3人の婦人たちはお墓に入りますが、そこで出会ったのは主イエスの亡骸ではなく、彼女たちからすると途方に暮れるような現実が待っていました。彼女たちが探している主イエスの亡骸はどこを探しても無い、ということが一つです。もう一つは、主イエスは甦られて弟子たちの一人一人と出会うために今も生きて働いておられるという知らせを受けたということです。5節から7節に「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と』」。「白い長い衣を着た若者」は、マタイによる福音書では、天から遣わされた御使いであることが分かるように記されています。
 御使いはまず、3人の婦人を落ち着かせようとしながら言葉を続けます。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜している」。天使は、彼女たちが探し求めているものが何かを分かっています。それは「十字架につけられ、無残に傷つけられた主イエスのお体」です。「ナザレのイエス」と言われています。「主でも救い主でもない、ただのナザレ出身の、今は死体となってしまった人」、その人の体を探すためにお墓に来ていることを知っています。まさにその通りで、その体を葬るために香料と油を持って、お墓に来ています。主イエスが亡くなったからには、今自分たちが出来ることは、香油を塗ることと、過ぎた日のことをもう一度思い返すことだと思っています。それは本当に立派な純真な愛であることに間違いありません。

 ところが、御使いは、人が予想しないようなこと、到底合点できないようなこと、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言いました。「今起こっていることは、あなたがたの思っているようなことではない。人間の思いを超えたようなことが起こっている。あなたたちのために十字架にお架かりになった主イエス・キリストは、今、復活して、あなたたちと出会うため、一人ひとりのもとを訪れようとして既にガリラヤに向かっておられる。だからガリラヤに行けば会えるはずだ」と天使は告げました。
 3人の婦人の弟子たちは、お墓に入ることはできましたが、自分たちの目的を果たすことはできませんでした。持ってきた香油は使い道なく持ち帰ることになります。彼女たちは自分たちの真心と献身を香油と一緒に携えてきました。けれども、自分たちが思ったような仕方では、主イエスと出会うことはできませんでした。
 思いを超えること、主イエスの復活の知らせを聞かされて、彼女たちは喜んでそれを受け入れたでしょうか。8節に「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。これが最初のイースターに起こった出来事でした。そしてそれは、戸惑いと恐れを引き起こすものでした。主イエスの復活を予想せずにお墓にやって来た3人の婦人の弟子たちには、主イエスの復活をすぐに合点して受け止めるような準備はどこにもありませんでした。どんなに主イエスを愛し、敬虔な人であっても、そんな準備はどこにもありません。
 ですから、今日でも私たちの間で、主イエスの復活ということについて疑いや迷いが起こることは当然のことです。復活は、理性で誰もが理解できるようなことではないからです。

 3人の婦人の弟子たちも、受け止められず震え上がって逃げてしまう、そこで終わっています。けれども、そこで終わっているにもかかわらず、この地上に2000年の間、「主イエス・キリストは復活した」という出来事が伝えられています。これは一体どうしてでしょうか。それはまさしく、天使が3人の婦人たちに告げたことが起こっているためです。天使は言っています。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。 2000年経った今、どうして私たちが主イエスの復活の出来事を聞くことができるのでしょうか。それは、教会が2000年の間、主イエスの復活を信じて来たからですが、どこでその復活ということを信じたかというと、主イエスがかねてから言ってくださった通り、復活の主イエスに弟子たちが出会うということが起こったからでした。
 マルコによる福音書14章27節28節に、「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』」とあります。主イエスはここで復活の話をなさっています。復活、つまり、地上の命を超える永遠の命の話をなさったのです。
 主イエスは「復活するよ」と言われましたが、それを聞いた弟子たちは喜んだでしょうか。ペトロは、「たとえ皆がつまずいても、わたしはつまずきません」と返事をしました。弟子たちは、主イエスと共に歩んでいた間、ずっと、主イエスが永遠の命の話をなさるたびに、それを聞こうとはせず、今のことの方が大事だと話を切り替えていました。ペトロは自分の信仰によって「決してつまずかない」と言いましたが、主イエスは「あなたがたは皆わたしにつまずくのだよ」とおっしゃり、そしてその後、ペトロに「あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう」という有名な話になっていきます。
 弟子たちは主イエスに言われた時には理解しませんでしたが、しかし主イエスは確かに、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。あなたがたの生まれ故郷であり、またわたしから神さまのことを教えてもらった、あの懐かしいガリラヤに行く。あなたたちは、そこに行けばもう一度わたしに会うことができる」とおっしゃってくださいましたし、天使も同じことを言っています。
 そして、弟子たちは実際に、復活の主イエスに出会っていただいて、「復活は本当のことだった」と分かるようになりました。

 ガリラヤは弟子たちにとっては、主イエスに招かれた場所であり、また主イエスや自分たちの故郷であり、主から御言葉を親しく聞かせていただいた場所です。
 では、私たちは一体どこに行ったら、主イエスに出会えるのでしょうか。主イエスから招かれた場所、そして主イエスと最初にお目にかかり、親しく御言葉を聞くことが許された場所、それは、私たちにとっては、今の時代の教会こそが、ガリラヤであると思います。教会で私たちが礼拝を捧げる時、目には見えませんが、甦られた主イエスがここに臨んでいてくださる中で、私たちに出会ってくださるのです。
 教会の一番古い伝承であった、コリントの信徒への手紙を思い起こしていただきたいと思います。一番最初に主イエスはケファに現れてくださり、それから十二弟子に現れてくださり、それから500人以上もの人たちに同時に現れてくださったと言われています。今日、その同じことが教会の中で起こっているのではないでしょうか。甦られた主イエスは、私たちのもとにも訪れてくださり、親しく礼拝の中で私たちに臨んでくださり、御言葉を聞かせてくださっています。私たちは礼拝の中で、主イエスの御言葉によって慰められ、勇気づけられ力を与えられて、そしてそれぞれの生活へと送り出されていきます。そういう生活を歩むことを、私たちがこれまで許されてきたからこそ、何年も何年も毎週この場所に戻ってきて、ここで喜んで礼拝を捧げるのです。

 主イエスが今日も私たちに親しく臨んでくださり、私たちに伴って御言葉を語りかけてくださる、その生活の中で、この目で主イエスを見るわけではありませんが、しかし確かに「主イエス・キリストが復活しておられる。生きておられ、わたしに伴っていてくださり、御言葉を聞かせてくださって、わたしを神のものとして歩ませてくださる」という出来事が、私たちの上にも実際に起こっているのです。 礼拝の中で、主イエスが御言葉を与え、慰め、励まし、共に歩んでくださいます。
 私たちにとって、自分の人生は、見通しがきかず困難な道に見えるかもしれません。けれども、そういう中でも主イエスが私たちと共に歩んでくださって、慰め、癒し、力付けてくださる、このことが確かに起こっているのだということを、このイースターにもう一度確かなこととして覚えたいと思います。
 主イエスは確かに復活しておられます。昔の話、どこかの御伽噺として、死んだ人が生き返っているというのではなく、今、私たちと共に歩んでくださる主イエスが確かにおられ、私たちはその主イエスに支えられて歩んで来たのであり、そういう中で一人一人が命を生きるようにされていることを感謝して、ここから新しい一巡りへと歩み出して行きたいと願います。

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