今日与えられているみ言葉は、ガラテヤの信徒への手紙3章23節から29節です。「聖書に親しむお母さんの集い」で読んでおりますので、今日ここをご一緒に聞き、分かち合いたいと考えました。
まず、23節、25節をご覧ください。「信仰が現れる前には,わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました」となっています。また25節には「信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」、と言われています。
「信仰が現れる」は「来る」とも読める言葉です。キリスト教信仰は「来る」ものです。佐竹明先生の個人訳では「信仰が来る以前は…」となっています。「信仰が来る」とはどういうことでしょうか? パウロは何を書こうとしているのでしょうか? 詩篇121篇1節には「私の助けは来る。天地を造られた主のもとから」となっています。
ここは、「信仰」の代わりに「キリスト」と置き換えてもよいと思われます。信仰が来るという表現は驚きですが、キリストと読み替えてみるとわかりやすいと思います。「キリストが現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、このキリストが啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストの下へ導く養育係となったのです。私たちがキリストによって義とされるためです。しかし、キリストが現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」となります。
さて、キリストによる信仰は、来るものです。(Advent, the Second Advent受肉、再臨)
人間が修行によって、悟りを開くことによって得るものではありません。「来る」ということは、あることが、ある時起こるといことです。考えてもいないようなことが、起こるのです。胸に手を置いて考えると、神様が働いて、共に歩んでくださることがわかってくるような仕方で、聖霊の導きを知らされるのではないでしょうか。パウロが回心した出来事も。パウロはまさに突然ダマスコへの途上復活のキリストに出会いました。パウロにキリストが来たのです。
パウロが言おうとする信仰は、律法と対比して書かれています。
パウロは、ファリサイ派の人であったばかりではなく、当時律法については第一人者であったガマリエルに師事していました。ですから律法のプロでありました。したがって律法について語らせれば、非のうちどころない人物でありました。これまでガラテヤの信徒への手紙で律法主義の問題点についてかなり厳しいことを書いてきましたが、ここに来て律法そのものについて雄弁に語り始めます。
まず、パウロは、律法はわたしたちを監視するものだといいます。何のためかというと、「違反を明らかにするために付け加えられたもの」であると言うのです。ここでの「違反」は罪との意味もあります。つまり、罪を明らかにするというように訳すこともできるわけです。ローマの信徒への手紙7章7〜8節に、「律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』といわなかったら、わたしたちはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」。
パウロは、ここで約束の信仰によって生きる道に導き、律法は、逸脱することを監視するものだというのです。だから、律法はわたしたちを暗い世界に誘うことになると考えていたのです。あたかも牢獄にわたしたちを閉じ込め、監視しているようなものだということです。つまり、律法はわたしたちを閉じ込める牢獄であり、同時にわたしたちを監視しているようなものだということです。牢獄に入れられるというのは、律法を冒したからです。律法を守れないからです。違反したからです。律法は常にわたしたちが勝手気ままにならないように見張りしているわけです。したがって、わたしたちは、律法の前では暗い気持ちにしかなれないのです。閉じ込められ怯えて生きていく以外になかったのです。その牢獄からの解放は、キリストの出現によって現実的なものになったというのです。
信仰・キリストは、わたしたちを自由にしてくれたというのです。信仰によって、暗さの中から明るいところへと導くものがキリストだというのです。キリストによって、新しい世界へと生きることができるというのです。
さらに、パウロは、24節で、「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係(パイダゴーゴス)-教師、守役-となったのです」と言います。それは「わたしたちが、義とされるため」だと言います。したがって、キリストが出現したので、養育係(律法)は不用になったというのです。つまり、「わたしたちがキリストによって生きるものとなるため」だと言います。びくびく生きること、恐怖におびえることから、まったく自由に生きていくことへの導きです。キリストが現れたので、信仰が現れたので、罪人でありながら義人とされているからです。神に愛され、生きる神の子とされたのです。
要するに律法を守れるとか守れないという基準、できるかできないかという基準から解放されて、自由になったのです。
キリストによって「神が生かしてくださる」という世界へと導かれたことになります。
そのことは、即「神の子とされる」ということであるとパウロは言います。そのことを、キリストを着る(義をまとう)ことでもあると付け加えています。これは、洗礼(バプテスマ)を意味していることだといわれます。つまり、古い自分を覆う外套のようなものと考えていただいていいかもしれません。キリストにあって一つとされるということです。それによって新しい人間にされ、階級(奴隷と自由人)、民族(ギリシャ人とユダヤ人)、性別(男女)の垣根(民族的、宗教的、文化的差別と対立、社会的、階級的、生活的差別、生来的、身体的、能力的差別と対立)を越えて一つとなることを意味したのです。パウロは、最も古い言葉28節で洗礼式文を残したということもいえます。 「キリストを信じることによって救われる。決して律法の実行によるものではない」と言い続けてきました。キリストが十字架において死ぬことによって、それまでの牢獄から脱出できたのです。
あの宗教改革者のマルチン・ルターの有名なエピソードで、試練に遭遇した時に、机に白墨で「わたしは洗礼を受けている」と書いて、それにしがみついて、不信仰に打ち勝ったということです。自分に対しても洗礼が与えられていることを思うことを確信すべきだと思います。
律法を、ただ悪の根源だと見ることはできません。それなりの役割を持っていたことをパウロは今日のところで説明しています。 律法は、罪を認識させる役目を持っていました。また、間違ったり、正しい道に引き戻す役目を持っていたということが明らかにされます。
パウロは、キリストの出現によって、深い意味を知り、信仰を生き抜いたことは確かです。 天と地が逆転するような経験をしたのです。 |