聖書のみことば
2020年2月
  2月2日 2月9日 2月16日 2月23日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

2月9日主日礼拝音声

 主の栄光を現わす
2020年2月第2主日礼拝 2月9日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者)

聖書/コリントの信徒への手紙二 第8章16〜24節

8章<16節>あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。<17節>彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。<18節>わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。<19節>そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。<20節>わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。<21節>わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。<22節>彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。<23節>テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。<24節>だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。

 ただいま、コリントの信徒への手紙二8章16節から24節までをご一緒にお聞きしました。16節17節に「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです」とあります。コリント教会に向かってテトスが出発しようとしています。テトスは自ら進んで行こうとしていますが、それはテトス一人の意思ではありません。パウロたちの勧告を十分に受け止め、願いを汲む形で、コリント教会を訪ねようとしています。
 パウロたちとテトスの心に同じように宿っている熱心さ、それは「エルサレム教会に献金しよう。エルサレム教会の貧しい兄弟姉妹をお支えしよう」という熱心さでした。パウロはコリント教会に向けて、テトスともう二人の三人を遣わして、コリント教会が心から献金をお献げすることができるように導こうとしています。さらに、その献金をエルサレム教会に届けさせようとまで考えていたようです。
 そしてパウロは、テトスをコリント教会に遣わすことができるということ、またテトスがパウロたちと同じくエルサレム教会を支えようと考えてくれていることを、神に感謝しています。16節の最初は「神に感謝」という言葉で始まっています。テトスを立ててくださったのは神のご配慮による、他の教会への献金を集めるために一人の伝道者を遣わすという、最初の教会の細々とした出来事について、まず、神に感謝しているパウロの姿があります。

 そもそもエルサレム教会に献金することは、なぜ必要だったのでしょうか。地上に最初に誕生した教会であるエルサレム教会は、ステファノの殉教をきっかけに大迫害の嵐に見舞われて、キリスト者たちは各地へ散らされることとなりました。使徒言行録8章に語られていますけれども、その人たちはただ逃げて行ったのではなく、「福音を告げ知らせながら巡り歩き」とありますように、ついにユダヤ人教会と異邦人教会の両方が共に伝道するという出来事を生むようになりました。パウロは、「わたしには、割礼を受けていない人々、つまり異邦人に対する伝道が任されている」と言い、パウロ自身はユダヤ人でしたが、異邦人教会の伝道へと進んでいきます。
 使徒言行録15章にありますように、エルサレム使徒会議が開かれ、教会がそれぞれ福音に立ち伝道していくことが決議され、その際、「エルサレム教会の貧しい人たちのことを忘れないように」という指示が出ました。これは、パウロも「心がけてきたことだ」と言って、自分たちのルーツであるエルサレム教会を覚えての献金の呼びかけがなされるようになっていきました。
 よく聞きますように、エルサレム教会の人たちは、他の地域のキリスト者に比べて貧しい状況に置かれていたのではないかと言われています。エルサレムの町が交易に役立つ港を持たず産業もなく、巡礼者や観光客はいたものの、基本的には貧しさを強いられており、中でもキリスト者は貧しかったのです。ガラテヤの信徒への手紙2章10節には、「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」という、パウロの言葉が記されています。
 教会は、その最初の時代から、互いを福音伝道のために立てられた交わりと信じて重んじ、互いに助け合っていた群れであったということを教えられます。私たちが他の教会をお支えするのは、最初の頃の教会をお手本にしているようなところがあります。エルサレム教会のような教会をお支えするという志を与えられて歩みたいと願います。自分たちが有り余るほど豊かに与えられているからということではなく、たとえ貧しくても、もっと必要とする教会を思いやり、献げるものとされる、そのことに感謝を覚える教会となることができますようにと願います。

 さて、エルサレム教会に献金をお捧げするということを、パウロは、今日の箇所で「この慈善の業」という言い方で表しています。19節に「そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」とあります。また20節には「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています」と、「惜しまず提供された募金」という言葉もあります。慈善の業に加わるために、各教会から惜しまず提供された募金の取り扱いをするために、ある一人の人物が教会から選ばれたという事情がここに述べられています。その人は大変評判の高い人であり、福音のことで大きく評価される人でした。18節19節に「わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです」と記されています。この人物はテトスに同伴する人でパウロが推薦する人ですが、福音において称賛される人、すべての教会でそう認められる人だとパウロは説明しています。そればかりではなく、エルサレム教会への献金という業のために、テトスの同伴者として選ばれた人でした。

 私たちは信仰生活の中で、その信仰の旅路には仲間が必要です。一人旅のようにして信仰の旅をすることはできません。主ご自身が、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と約束してくださって、「兄弟姉妹と共にいるように」と招いてくださったからです。「同伴者」という言葉ありますが、「旅の道連れ、旅の仲間、共に歩く信仰の仲間」という意味です。教会から選ばれて、信仰の旅の仲間とされている人をコリント教会に遣わすと、パウロは言っています。エルサレム教会を支える業に加わるため、エルサレム教会とコリント教会と共に歩むためでした。
ここで、同伴者とされる人は、名前が語られていません。テトスやパウロたちの同伴者であるというだけです。この人は名前が知られていませんが、私たちも特に名前を知られることもなく、この人と同じように、信仰の同伴者、旅の道連れとされている、そういうところがあるのではないでしょうか。ただ一緒に行くというだけではなく、神の恵みを携えて信仰の旅を共に行く仲間とされます。恵みを語り、恵みを分かち合いながら、天への歩みを続ける同伴者とされます。今、生きておられる方たちはもちろんですが、世界中のあらゆる時代の、聖書に登場するような多くの人たちでもあり、おびただしい証人の群れに囲まれて、私たちは歩んでいます。ただ一緒にいれば良いということとは違います。神の恵みを持ち運ぶ同伴者です。それは、9節に「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とありますが、「主の恵みを持ち運ぶ者だ」ということです。欠け多き私たちが、なお赦されて、主の恵みを持ち運ぶ同伴者として互いに認め合い、共に天への道を行く者とされていることを、御言葉から聞くことができます。「時が良くても悪くても、主の栄光を現わすために、主の救いの御業を現わすために、共に信仰の道を行く」ときに、「すべての罪を背負って十字架にお架かりになり赦しをお与えくださった主の恵み深さを味わう者とされる」、そのような約束が私たちには与えられています。

 こうして選ばれた人たちとパウロたちは、募金について誰からも非難されないようにしている、主の前だけではなく人の前でも公明正大に振る舞うように心がけていると、20節21節に述べられています。「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」とあります。
 お金の問題というのは、大変難しいところがあると思います。そして、非難を受けたり不正を指摘されたりする場合があることを、パウロはよく知っていました。もしかすると、コリント教会の中にはお金の問題でパウロのことを悪く言う人、パウロが私的にお金を利用していると言う人たちがいたのかもしれないと想像されています。パウロはそのことを知った上で、コリント教会に向けて送り出す人たちも含めて、募金のことで非難されたり不正を疑われたりすることがないように心がけて過ごすということを勧め、願っています。
 21節の「公明正大にふるまう」という言葉は、「非の打ちどころのないように」という内容の言葉が使われています。神の前ではもとより、人の前でも非の打ちどころなく過ごすというのは、大変難しいことです。神の前で非の打ちどころなくふるまうというのは、罪ある私たちにはもとよりなのですが、もしそのように心がけることができるのだとしたら、それはキリストの贖いの御業に与ってのことです。
 そしてまた、人の前で非の打ちどころなくふるまうことを心がけることも、主の赦しによってそのようにさせていただくということになるかと思います。

 ところで、テトスに加えて一人の兄弟と、また更に三人目となる人をパウロは派遣しようとしています。22節に「彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます」とあります。この人は、「熱心で、いろいろな機会に認められ、ますます熱心にエルサレム教会への献金の志を抱く人だ」と説明されています。パウロはテトスと二人の同伴者について更に詳しく、23節で「テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています」と説明しています。
 まず、テトスについては、「わたしの同志、あなたがたのために協力する者」と紹介しています。パウロがテトスへの手紙で、テトスのことを「信仰を共にする真の子テトス」と呼びかけているところがありますので、年齢はパウロの方がかなり上だったと想像されます。そのような若いテトスについて、「同じ志を与えられた者、仲間、信仰の仲間だ」と紹介しています。主にある交わりにおいて信仰の仲間とされ、主と結びついた者として繋がる交わりが「教会の交わり」です。年齢に関係なく、同じ志を与えられ仲間とされる交わり、罪の赦しをいただいた者として、救いを宣べ伝える志を与えられた私たちは、この世の交わりと違う「主と共に、主を中心とし、主に結びつけられて歩む」そういう交わりの中に入れられています。人間同士の関係がどうであるにせよ、礼拝を共にする交わりが与えられていて、この礼拝において私たちも主にある交わりに入れられて、同志、同労者とされています。
 更に二人の人物については、「諸教会の使者であり、キリストの栄光となっている」と紹介されています。「使者」と書かれている言葉は、「使徒」という言葉でもあります。諸教会からコリント教会へ遣わされた使者であるという意味と同時に、「神から遣わされた使徒である」ということも表している言葉です。まずパウロはコリント教会の人たちに、「彼らは諸教会から遣わされた人たちである。理解してほしい」と願って語っています。コリント教会の人たちに向かって、「自分たちの教会だけではなく、エルサレム教会への奉仕というのは、他の教会の人たちも加わって共に取り組む、主にある交わりの奉仕である」ということが伝わるようにとの願いがあります。コリント教会は、与えられた奉仕の志をますます励まされて、各地に立てられた教会がバラバラなのではなく、互いに一つの群れとして、共にエルサレム教会をお支えするという志を与えられていることを理解する助けを与えられたことと思います。
 またこの人たちが「神から遣わされた使徒でもある」という紹介は、献金の奉仕が、「人の願いや思いつきによるものではなく、神のご計画によるものである」というメッセージを伝えています。同じキリスト者を助けるということは、人間の目で見れば、お互いの教会同士が助け合う、人間同士の関係ということがまずは見えます。けれどもそのことは「御業のために用いられる奉仕なのだ」ということを忘れずにエルサレム教会をお助けすることが、神の御心にかない、御業にお仕えすることであることを理解して、そこに向かっていくようにと願っているパウロの言葉です。
 私たちの目に見えているのは、信仰の同志であり信仰の仲間ですが、「私たちは人間的につながっているのではなく、主にある交わりに入れられている」ということを、コリント教会の人たちと共に、またパウロやテトスや選ばれて遣わされる二人の人や、また各地に立てられた教会と共に、心に留めるようでありたいと願います。

 「エルサレム教会の貧しい兄弟を支える献金の奉仕」ということが今日の箇所の話題ですが、もし私たちがパウロから同じようにこの要請を受けたならば、どのように考えるでしょうか。貧しい状況に置かれた信仰の仲間を助けようとする志を与えられるということになるかもしれません。その際に、その交わりが主によって結び合わされている交わりであること、神の御業にお仕えする交わりであることを覚えたいと思います。
 
 23節の後半に彼らが「キリストの栄光となっている」と述べられています。テトスも含め遣わされた三人は「キリストの栄光、キリストの救いを現す器とされる」ということです。エルサレム教会への献金のためにコリント教会へと遣わされる三人が、キリストの栄光、キリストの救いの御業を現わす者とされるようにと、パウロは願い送り出そうとしています。「主が私たちのために貧しくなってくださった。御子としての身分をお捨てになり、私たちの元へとおいでくださり、貧しくなってくださった」、その恵み深い御業を現わすべく、三人がコリント教会でよき働きをするようにと、パウロは送り出そうとしています。
 私たちの日常生活も、信仰生活であり礼拝生活です。そして日常の細々した歩みが、主の御栄光を現わす、主の救いを現わすものとして整えられるということを教えられます。日常の小さな事柄が一つ一つあって、それとは別に教会生活や信仰生活があるのではなく、私たちの歩みはすべて、小さな一つ一つも含めて、主の御栄光を現わすものとされていきます。神の恵みと無関係な日常生活はありません。私たちは、何をするにも、「神がお喜びくださるように行い、歩む」ということだろうと思います。
 自分のため、自分の幸せのために、自分の安全のために過ごすことが少しも不思議ではないと思い違いをしている私たちです。しかし私たちは、「もはや自分のため、自分の幸せのために生きることをしない。主のために、主のために生きる」と決意して、教会の群れに加えていただいたのではなかったでしょうか。そしてそれが、「真の命に生きる、主にある幸いである」ことも教えられてきました。

 今日の箇所の終わり、24節は、パウロがコリント教会の人たちに「愛と誇り」を、遣わされてくる三人とまた各地の教会とに見せてほしいと願う言葉です。「だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください」。エルサレム教会を思って献金をお献げしていく愛の証し、そしてそのことでパウロたちが覚えるコリント教会を誇りに思う姿を、各地の教会に、三人に示してほしいと言っています。
 ここに「だから」という言葉があります。「キリストの栄光を現わすあなたがた、なのだから、愛を示すことができる」と約束されています。

 私たちも、主の恵みに生かされる生活において、互いに愛を行い、主の赦しに与りつつ、心和らげられて歩みたいと願います。

 

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ