聖書のみことば
2020年12月
  12月6日 12月13日 12月20日 12月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月20日クリスマス礼拝音声

 降誕
2020年クリスマス礼拝 12月20日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第1章14〜18節

1章<14節>言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。<15節>ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 <16節>わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。<17節>律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。<18節>いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 ただいま、ヨハネによる福音書1章14節から18節までをご一緒にお聞きしました。14節に「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。
 「言は肉となった」と言われています。これは一体どういうことを言っているのでしょうか。今年のアドヴェントの期間にヨハネによる福音書の初めの御言葉を聞きながら、ここに述べられている「言(ことば)」というものに思いを向けてきました。普通に私たちが口に出す言葉は、私たちが頭や心の中で様々に思い巡らしていて、最後に口に出てきます。口から出る時が一番エネルギーを持っていて、口から出てしまえば急速に力を失ってしなうようなところがあります。社会的地位があったり立場のある人の発言は、語った後に、時に重んじられて聞かれることもありますが、それは永久に続くわけではありません。権力者が権力を振るっているときに語られた言葉は、まるでその社会の憲法であるかのように作用するということもありますが、しかしそれは決して永遠に続くのではありません。その権力者の死や失脚によって権力の座を追われれば、もはやそんな言葉はどこにもなかったかのように失せ去ってしまいます。私たち人間の語る言葉には、いつもそんな儚さがつきまとっています。
 しかし、神がおっしゃる御言葉はそうではありません。「光あれ」と神がおっしゃれば、光が形造られたと創世記の最初に語られています。「水の間に大空あれ。水と水とを分けよ」とおっしゃると、上の水と下の水が分けられて、私たちが生存できる空間が生まれます。そのようにして神は、ご自身の御言葉によって世界を一つ一つ造り上げてくださいました。天地創造の6日目になって私たち人間が造られましたが、それは、私たちが生きるために必要なものをすべて神が整えてくださって、その上で人間が造られたと創世記は語っています。神は御言葉によって一切のものを造り出してくださいます。神の言葉は、口に出してその先、虚しく消え去っていったりしないのです。神はご自身の御心に深く秘められたご計画に従って、一つ一つのものや事柄を持ち運んでいかれます。神のご計画の中で、神は時を定めてくださり、まさに「この時が良い」と思われたところで神が口に出されますと、その一つ一つの物事や出来事が実現されていくと聖書は語っています。
 この世界は、そういう神のまことに力強い御言葉に支えられて存在しているのだと、聖書は私たちに語りかけます。神の言葉、御言葉にはそういう不思議な力があって、すべてを生かし持ち運んでいく、そういう生命力が満ち満ちています。

 私たちは今日、「言は肉となった」と聞かされていますが、しかし、恐らくここに語られていることは、私たちに理解できる範囲を超えたようなことだと思います。これは本当に大いなることです。すべてのものに命を与え、すべてのものを存在させて持ち運んでいくようになる、そういう力に満ちた御言葉が「肉をとって私たちの間に宿ってくださった」と聖書は告げています。
 この出来事は「神の独り子である方が人間としてお生まれになった。人間の肉体を取られたので、これは受肉の出来事である」と簡単に説明されたりします。言葉で言うことは簡単ですが、しかし実際にその出来事を私たちが想像してイメージすることは、とても難しいのではないでしょうか。「生きた神の言葉であるお方」というのは、神と同様に、この世界が造られる前から神と共におられた方です。つまり、このお方は時間の中におられるのではなく、時間が造られる前に、既にそこに神と共におられました。そういう意味で、永遠におられる方です。そしてまた、御言葉によって上の水と下の水が分かれてその中に空間が造られたと言われていますから、この方は、空間が造られる前からそこにおられたということになります。空間の限界を超える無限の広がりのうちにおられるお方です。そのように「永遠であり無限であるお方が人間の肉体を取られた」と、ここには語られているのです。

 けれども、果たしてそのようなことがありえるでしょうか。「肉体という、みすぼらしく始終限界に至ってしまうような器の中に、永遠で無限な方が収まってくださった」、そのようなことがあるでしょうか。こんなことはないと思います。例えば、痩せていたときに着ていた服は、太ってしまえば着ることができません。一人の人間の体であっても、大きな体は小さな服には収まりません。それならばどうして、永遠で無限な神の言葉である方、神の独り子である方が、人間の小さな肉体を宿り場とできるのでしょうか。「言葉は肉となった」と、ここには当たり前のように書かれていますが、これは有り得ないことです。

 クリスマスの季節とは、どういう季節でしょうか。今年は感染症の蔓延でクリスマスも何もないと言われたりもしますが、そう言われるところにもクリスマスがどういう時なのかということが現れていると思います。普通ならば、クリスマスはとても嬉しい時だと思われています。人々がその喜びを分かち合うために互いにプレゼントを贈りあい、特別な食事やケーキを食べたりします。けれども、クリスマスはただ嬉しいだけの時なのではありません。本来なら決して起こらないようなことが起こってしまった、そういう時です。「神の永遠の御言葉が肉となった」、そういう時なのです。
 「肉」とは一体何でしょうか。私たちには良く分かっていると思います。私たちは一人一人、日々、その肉を纏って生活をしているからです。私たちは誰であっても、自分の肉から自由に生きている人はいません。人間の人生は、どなたの人生であっても例外なく、皮膚を纏っている自分自身というものから飛び出して生きることはできないのです。私たちの人生は、それぞれ自分の肉のうちで体験していく一生です。背の高さや低さ、太り具合、髪の色や薄さなど、そういう自分の体の中で一生を過ごしていかなければなりません。
 「肉」には、物理的な制約があるだけではありません。肉の中で、私たちは様々な経験をします。肉の中で、自分の心が高ぶり抑えられない時があれば、すっかり落ち込んでしまうこともあります。心が千地に乱れることも、葛藤を覚えることもあります。前向きに努力することもあれば、失敗することもあります。思慮深い時も軽率な時もあり、また時に熱情に駆られる時もあれば冷ややかな時もあります。そういうことが「肉」の現実ではないでしょうか。周囲を気遣って温かであることもありますが、軽はずみでもある。厚かましいくせに、すぐに気落ちして投げやりになる。私たちの肉は、日々、自分に起こる問題も解決できずに右往左往しながら過ごしています。
 私たちは、自分の肉の弱さや限界を引きずりながら、この地上でようやく日々を過ごしているようなところがあるのです。

 私たちの肉、人生が、そのようにままならない問題を抱えながら日々を生きているということは、これを聖書の言葉で言うならば、「私たちが全く罪のうちに生きている」ということです。使徒パウロはこのことを、ローマの信徒への手紙7章で「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と言い表しています。私たちの肉には、情けないほど頑なに自分中心になってしまうようなところがあります。それが当たり前であるために、なぜ周りの人たちは自分と同じように考えてくれないのだろうかと思ってしまうこともあります。あるいは、神が聖書を通して「わたしはあなたと共にいるのだから、そういう者として歩みなさい」と招いてくださっても、私たちは、その時には嬉しいと思っても、ふと気づくと、当たり前のように神を忘れ、自分中心に生活しているのです。神が私たちを助け支えようとして御手を延べてくださり、「あなたと共に歩んであげよう」と招いてくださるのに、私たちの方からそれを拒絶し、神などいないというように生きてしまって、その上で、自分は神から何も顧みられていないと言ってしまったりするのです。そういうあり方は、限りなく滑稽で、それでいて悲劇的です。

 けれども、ヨハネによる福音書は、クリスマスの出来事として「言が肉となった」、「今、言は肉となっている」と語ります。これはどういうことでしょうか。永遠の言葉である方、神の御心のままに何でも命を与え造りだすことができる、そういう言葉である方が、ひととき気まぐれに人間の姿をとってこの地上に現れ、肉に過ぎない者たちと触れ合ってくださったということでしょうか。この方は、気が済んだらどこかへ去ってしまわれるのでしょうか。そうではありません。
「言が肉となった」というのは、言葉が肉たちと単に触れ合ったということではなく、ここでは、はっきりと「言」は「肉になった」と言われています。これは触れ合う以上のことです。私たちの肉の現実の中に、この世の生活の中に、私たちが日々生きているこの肉のただ中に、神の言葉が食い込んできてくださっている、私たちの中に入り込もうとしてくださっている、というのです。
 クリスマスの出来事は、「神の独り子がこの地上を訪れてくださった」ということでしょうか。「クリスマスは主イエスがお生まれになって、神の独り子がこの世に来てくださった」と、私たちはクリスマスを言い表すと思います。けれどもこれは、今日聞いている聖書の言葉に照らして言い換えるならば、言い方としてはとても弱い言い方です。「言が肉となった」ということで言われていることは、ただ出会ったとか触れ合ったとかではなく、「私たちの肉のうちにこの言葉が食い込んできている、あるいは押しかけて来て一つになろうとしている」、そういうことです。造り主である方が造られた者たちに出会い、永遠に一つになろうとして、自ら造られた者の姿を取って私たちのもとにやって来てくださっているのです。

 どうしてそういうことが起こるのか、理屈では有り得ないことですが、そういうことが起きているのは、造り主であるお方が真剣に造られた者一人一人に御心を留め、深く愛してくださっているからです。神は、造られ地上に生きている私たち一人一人を真剣に思いやる、その愛の故に、決して起こるはずのないようなことを引き起こして、決して出会うことのできないはずの者に出会ってくださっているのです。
 そして、なかなか神の方に向き直ることのできない私たち、それは私たちが悔い改めを知らないということですが、決して悔い改められないはずの人間に神が何とか出会って一つになろうとしてくださり、悔い改めることができるようにしてくださっているのです。その出来事として、「一人の嬰児の誕生」ということが起こっています。造り主である神が自ら望んでくださって、私たち造られた者を、神と共に生きるようにするために招いてくださる。決して自分からは神を見上げることも振り返ることもできずに自分中心に生きてしまいがちな、本当に頑なな私たちを、神はご自分と共にあるようにしてくださるために、神の御言葉を肉のただ中に生まれさせ、肉を纏う者としてくださった、それが、今日私たちが耳にしている事柄なのです。

 ですから、クリスマスの出来事は、「神の御言葉であり独り子であるお方が私たち人間の現実をその身に負ってくださる。私たちと一緒にいて私たちが経験する悩ましいこと、痛ましいこと苦しいこと、破れてしまっていることを、私たちと一緒に経験しようとしてくださっている」ということなのです。
 これは、人間が求めたので神が仕方なく腰を上げてくださったということではありません。神の側から起こっています。神がご自身の決断によって、私たちのことを御心に留めてくださり、人がままならない現実を生きなければならないことを憐まれ、心を痛めて、ご自身が御心のうちに定めた計画に従って、この時、人間たちにご自身を現そうとして、クリスマスの出来事を行ってくださいました。
 ですから、これは、人間の側から「もう結構です」と取り消すことはできません。神に背中を向けて「神さまなんか要りません」と言うことはできるかもしれませんが、たとえそうであったとしても、クリスマスは取り消しにはなりません。神の方から私たちと共にいてくださろうとしておられるからです。
 これは神の側でお考えになって、私たちと出会おうとしてくださる、私たち人間と一つとなろうとしてくださっている、そういう求めに従って起こっている出来事なのです。

 神は、今年コロナウイルスが蔓延する中にあって、ここに生きている一人一人を求めて、命の源であるご自身と私たちを固く結ぼうとしてくださっています。
 クリスマスが「インマヌエル」の出来事だと言われることがあります。それは「神さまが私たちと共にいてくださる」という意味ですが、まさに神はご自身と私たちを一つに結び合わせて一緒に生きていくように、クリスマスの出来事を起こしてくださいました。そして今まさに、そのように私たちは顧みられているのですが、なかなか神を仰ぐことができない、肉である私たちがひしめき合って、日々人間臭い出来事が繰り広げられているこの地上に、キリストの教会が建てられています。「神が人と一緒になろうとして、私たちのただ中においでくださった」ことを信じて、クリスマスの出来事が本当に起こったのだということを証しする群れとして、教会がここに建てられているのです。
 地上の教会の群れは、毎週礼拝に集まって来る一人一人を見れば、まさしく肉である人間の集まりです。それは否定しようがありません。天使ばかりが集まってくるのであれば良いでしょうが、私たちは皆、肉を引きずっている人間が集まって来ます。教会は肉の限界の中に、私たち肉の中に抱えている不条理の中に、混乱の中に、脆さの中にあります。ですから教会では始終、本当に人間臭い肉の堕落や腐敗や、悲しむべき人間の頑なさや衝突や破れ、そういうものを纏いながら歩んで行かざるを得ないようなところがあります。
 しかし教会は、たとえそういう側面があったとしても、それをもはや恥じる必要はありません。教会は肉の集まり、人の集まりではないかと言われても絶望しません。また教会は、様々な問題を抱え、すっかり歪み、上手く行かなくなってしまっているように見えるこの世界を見下げることもしません。

 このクリスマスの時、教会は、あの飼い葉桶の傍に立つのです。神が人となってくださっている、言が肉となってくださっている、その出来事が確かにこの世界に起こったのだという、その傍に立ちます。布切れに包まれて横たわっている生まれたばかりの嬰児に、教会の人たちは心の目を向けます。私たちがいつもクリスマスのこととして覚えることは、「嬰児がお生まれになった。飼い葉桶の中に寝かされている」というイメージでしょう。そしてまた、その嬰児に対して賛美の歌を歌っている、その声にも耳を傾けます。
 そしてそういうクリスマスの場面を思い浮かべながら、まさしく天がここに開かれている、まさしく神が私たちと一つになろうとして、私たちが日々悩んだり苦しんだりしている現実と共にあろうとしてくださる、そのことを知りながら、このクリスマスの時を過ごすのです。
 そして「神が共にいてくださる」ということに慰めを受け、勇気づけられている教会の群れが、その一方で、まことにこの世らしいところを持ち、人間臭いところがあることに驚かされるのです。教会こそがまさしく、「言が肉となって、ここに現れている」ことを経験する場なのです。人間は肉ですから、いろいろな破れや欠けがあるのは仕方がないことです。けれども、そうでありながら、神が人間を憐れみ顧みようとしてくださって、言が肉となるという出来事を起こしてくださっています。
 私たちは教会に集められながら、毎週毎週そのことを経験させられ、新たに知らされていきます。「わたしは肉だけれど絶望しなくて良い。神さまが、この弱く欠けに満ちたわたしを持ち運んでくださっている。神さまの御言葉が、肉に過ぎないわたしに食い込んでくださって、押しかけてくださって、肉の中にあって永遠の命の輝きを輝かせてくださっている」ことに、驚きと共に平安な落ち着きがもたらされるのです。

 キリスト者はもはや、この世の破れを見てもがっかりしません。やけになることもありません。どうしてかと言えば、元々この世は肉なるものだからです。破れがあろうが、上手く行かないことがあろうが、それは人間が肉である以上、聖書に照らして言えば、人間に罪がある以上、起こるべくして起こっていることなのです。
 けれども、そのように罪にまみれた肉に過ぎない、この世に生きている一人一人を、神が決定的な仕方で愛し、それを現してくださったのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ということを通してです。
 ですからキリスト者は、もともと肉に過ぎないものを呪うことも賛美することもしません。いかにこの世の肉の現実がみすぼらしくても、破れを抱えていても、それを呪うということをしないのです。それは、神がまさにそのみすぼらしい肉を宿り場としてくださっているからです。神の御言が、本当にみすぼらしい、破れに満ち行き場がないように思える現実の中に宿ってくださっている、そのことを信じるから、呪うことも見下げることもしません。
 しかしまた、多少の輝きを見ても賛美しないのは、この世の現実は神そのものではないからです。肉というのは、神がそこに宿ってくださり、そして神に用いられていく道具なのです。私たち自身の肉、私たち自身の言葉、私たち自身の心は全て、神が私たちを用いてくださる道具に過ぎません。ですからキリスト者は、人間の少し輝かしく見えることを賛美したりはしないのです。キリスト者は人間を天にまで押し上げることもしませんし、陰府にまで突き落とすこともしません。どんなに欠けや破れを持っていても、あるいは周囲の人との付き合い方が下手であろうと、そこに置かれたままの人間を、そのまま静かに認めます。教会に逆らおうが、キリストに反対しようが、そういう人のことも教会は忍耐して受け止めます。
 そして、教会、キリスト者は、自分自身が本当に神に愛され支えられていることを信じて、両足を踏ん張ってこの大地に立ち、ここで神から与えられているこの命を生きていこうと努めるのです。それは、神が子らのために憐れみをもって行われたことを知らされ信じているからです。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、神が愛の故に人間となって私たちと交わりを持つようになってくださり、私たちの間に住んでくださっているのです。そしてそれは他所で起こっていることではなく、私たちの中にも食い込んで来られて、私たちの中に神が住むようになってくださっているのです。それほどまでに深く、神に愛されているこの世界を、この大地を、そして人間の一人一人を、私たちもまた、愛する者とされたいと願います。
 神に愛されている者として、神が愛して止まない私たちの隣の人を深く愛し、また尊敬し、尊重して生きる生活をここから始めたいと願います。

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