2020年12月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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世の光 | 2020年12月第1主日礼拝 12月6日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ヨハネによる福音書 第1章6〜13節 |
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1章<6節>神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。<7節>彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。<8節>彼は光ではなく、光について証しをするために来た。<9節>その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。<10節>言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。<11節>言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。<12節>しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。<13節>この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 |
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ただいま、ヨハネによる福音書1章6節から13節までをご一緒にお聞きしました。6節に「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」とあります。 ヨハネの一生を考えるならば、途中でガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスに捕らえられて首を斬られて亡くなり、その後はほとんど触れられなくなります。けれども、そうであるだけに、どうして4つの福音書の始まりにヨハネが取り上げられるのか、ヨハネが重んじられて登場することが不思議な感じです。 ヨハネが証しをした主イエスの光について、先週聞いた1章4節には「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とありますから、主イエスの輝きの秘密、その根底には、「主イエスは言(ことば)である」ということがあるのです。この「言」は神の言葉です。私たち人間の言葉とは違います。神は言葉によってすべてのものをお造りになった、と先週聞きました。人間の言葉は口先から出てしまえば、もうすぐに虚しくなっていくようなところがあります。人の言葉は、聞く人に拒絶されたり、あるいは相手によって打ち消される場合もあります。聞きたくない人の言葉には耳を塞ぎます。ですから人間が普段、言葉によって取り決めをする、それが重要なものの場合には、ただ言葉によってではなく書面を取り交わすということがあります。間違いなくその言葉が書き留められ、各々署名をして契約書を作ります。この世に契約書があるのは、裏返しに言うならば、人間の語る言葉がどんなに虚しいものでしかないかということを語っているようなところがあります。 ところが、神の言葉は違います。神が「光あれ」とおっしゃれば光が生まれます。そして、神の御言葉は確かにずっとそこにあり、神がおっしゃった通りにこの世界を支え続けていくのです。例えば、神が「光あれ」とおっしゃって、創造の一日目にはその光がこの世界を明るく照らしていたけれど、時間の経過と共にその光が弱まり闇に戻るなどということはないのです。「光が造られ、夕があり朝があった」、というように時間が生まれて一日一日が刻まれるようになり、今日に至るまで、光はずっと私たちを照らし続けています。神の御言葉は私たちの世界の上にずっと留まっていて、私たちを廻り照らすように働き、光を支えているのです。 私たちはいつの間にか、神がそのようにお造りになった世界に住むことが当たり前になり、朝明るくなり夜暗くなることが、「自然界の法則である」と言ってしまいがちです。けれども、聖書はそれに対して「神の言葉が一切のものを造り保ってくださっているのだ」と語りかけています。神の言葉はこの世界に留まり続け、真実に神の御心を現し続けています。神の御言葉は万物を造ります。ですから、神の御言葉には命があるのです。 神は、毎日必要なものを与え、今日まで私たちを生かしてくださっていますが、そういう中でも特に、神が愛をはっきり示そうとして、決定的な御言葉をこの世界に送ってくださり、人の姿を取らせてくださった、それが主イエス・キリストです。ヨハネによる福音書は、その「生きている御言葉」のことを、この最初のところで語っています。主イエス・キリストというお方が完全に神の愛の御心を現すお方として、私たちへの慈しみ、神の愛の深さや配慮の大きさを現すお方として、この世にお生まれくださいました。 「この方こそ、神の子である。救い主であり、命を与え新しい人をお造りになる方、聖霊によってバプテスマをお与えになる方である」と、ヨハネは証ししました。ヨハネに与えられた務めは大変光栄な務めですが、どうしてヨハネはこのように証しできたのでしょうか。ヨハネ自身が賢かったとか学者だったとかいう理由ではありません。ヨハネ自身もまた、「あなたは光の証し人としての務めを果たすのだよ」と、御言葉によって宣言されていました。7節に「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。 さて、7節には二つのことが語られています。ヨハネは、「光について証しをする」、「すべての人が彼によって信じるようになる」、そういう証し人だと言われています。まず「光について」とは、先ほど申しました。次の「すべての人が彼によって信じるようになる」という言葉は、少し言い過ぎではないでしょうか。確かにヨハネは、一番最初の証し人です。ヨハネが主イエスを「神の子である」と言ったのは、主イエスが公の伝道活動に入られる前のことですから、主イエスの弟子たちはまだ主のもとに集まっていません。ペトロもヨハネもヤコブも、主イエスの直弟子はまだ主イエスに出会っていませんから、洗礼者ヨハネが最初に主イエスのことを気づいたということは確かです。 先ほど申しましたように、洗礼者ヨハネがなぜ重く用いられているのかというと、ヨハネの人格や業績ということではなく、ヨハネは「光について証しをする者である」という務めを与えられていたからに他なりません。そうであれば、ヨハネの語った証し、「主イエスは光、救い主、神さまの独り子である」という証し自体は、ヨハネが亡くなった後も、この世界に留まり続けているのです。ヨハネ自身は世界中の人に出会ったわけではありませんが、ヨハネが語った証しというのは、ヨハネの死後もこの世に留まり続け、すべての人に出会うように、今も働いているのです。その最初の言葉がヨハネの口から出ているので、「すべての人が彼によって信じるようになる」と言われているのだと思います。 けれども、そうだとすれば、また問題になることが出て来ます。ヨハネが指し示したお方、その方は一体どんな意味で「命の力に溢れ、光である」のでしょうか。まさにそのことが問題でしょう。主イエスのことは「世の光である」と、よく言われます。そう言われて、私たちは何となく聞いていますが、実は腑に落ちないのではないでしょうか。 ですから、今日の12節に「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と語られています。主イエスご自身が言葉であられ、私たちを招き、私たちの中に住んでくださろうとして御言葉をかけてくださるのです。私たちは毎週礼拝を捧げる中で、この御言葉であるお方の前に集まり、肉眼で姿を見ることは出来ませんが、確かにこの方の御言葉を聞かされ、慰められたり勇気づけられたり、あるいは襟を正されたりしながら自分自身の姿を教えられ、そして自分が歩んで行くべき人生へと送り出されていきます。このお方はそのようにして、私たちの歩む道を照らし、私たち自身の姿も、私たち自身の内側に留まって照らしてくださるのです。 ここから始まる一巡りの時も、このお方はどこかに消えてしまうようなお方ではありません。私たちが主イエスを忘れるとしても、主イエスは私たちの中に留まり、私たちを照らしてくださいます。私たちはこの方の言葉に照らされ、大いに慰められ勇気づけられ、それぞれに与えられる道を歩む者とされる、新しい生活へと、ここから送り出されていきたいと願います。 |
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