ただいま、使徒言行録4章32節から5章11節までをご一緒にお聞きしました。二つの章にまたがっていますが、内容的には一繋がりと考えることができます。また、この箇所の最初から最後に向かって、一つの大きなアーチが架けられているような箇所でもあります。そのアーチとは「教会が一つである」というアーチです。最後の5章11節に「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とあります。この箇所は、この先、信徒言行録の中にたびたび登場することになる「教会」という言葉が、一番最初に出てくる箇所として知られています。これ以前にも教会と同じことは語られていましたが、それは「信じた人々の群れ」とか「120人ほどの人」「3,000人ほどの人」と、主イエスに信頼を寄せている大勢の人々であるという言い方で、「信仰を同じくする人たち」と、複数形で語られていました。それが5章11節で初めて、単数形で「教会全体」という言葉で表現されています。
今日は午後から「教会全体研修会」が計画されています。その中で「洗礼」についてのお話を伺う予定ですが、たとえ人数は多くいても、私たちは皆、「一つの洗礼に与ることで一つの教会、一つの信仰共同体の枝々」とされています。
「教会」というものの不思議さについて、後にパウロは、コリント教会に宛てた手紙の中で有名な言葉を書き記しています。コリントの信徒への手紙一12章12節、27節に「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあります。すなわち、洗礼を受けてお一人のキリストに結ばれたキリスト者たちは、「たとえ人数が多くいたとしても、皆一つのキリストの体である教会になる。そして同じ体に属する者として、皆で一緒に喜んだり、苦しんだり、悲しんだりしながら、共に成長していくのだ」とパウロは言い表しました。教会がキリストの体であり一つだということは、パウロの思いつきでもなく、文学的な表現ということでもありません。実際問題として、教会は最初から一つの共同体であり、一つの群れでした。今日聞いている使徒言行録の記事は、一つの教会に合わされていたキリスト者たちが、実際に自分たちは一つなのだということに気づかされていった、そういう記念すべき箇所です。
今日の記事の最後になって、「教会」という単数形の名称が現れますが、しかしこう呼ばれようと呼ばれまいと、教会は確かに一つの信仰に生きる一つの共同体でした。そのことが、4章32節に「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と言い表されていました。ここではまだ「教会」という言葉は出てきません。「信じた人々の群れ」という複数形の書き方ですが、内実は「心も思いも一つになっていた」のでした。
「教会」は誰かが「一つになりましょう」と言って一つにまとまったのではありません。キリスト者の群れが自分たちは一つだと気づく前から、キリスト者の群れは「思いも心も一つにされていた」のです。一つにされていた教会が地上に成り立った最初の頃、どのようであったかということを、今日の箇所は伝えています。
教会が「心も思いも一つ」になっていたのには、とても大切な原因がありました。ペンテコステの出来事が起こって、信じる人たちの上に聖霊が降り教会が誕生しました。教会が聖霊に励まされて新しい言葉を語るようになって以来、ずっと絶えることなく語り続けられてきたことがありました。それは今日の箇所にも述べられていますが、4章33節に「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」とあります。ペンテコステの記事のところでも聞きましたが、聖霊が降った時、使徒ペトロや他の弟子たちは皆立ち上がって、「あなたがたが十字架に架けたイエスを、神さまは救い主として甦らせた」と公に語りました。それ以来教会は、来る日も来る日も「十字架に架かられ甦られた主イエスこそが、私たちの主なのだ」と証しし続けているのです。そしてその知らせを信じて、甦られた主イエスに伴われ、励まされ慰められ勇気を与えられ生きていくことで、教会はいつの時代にも一つの交わりとして歩んでいくのです。
私たちもそうです。毎週毎週、ここで何が語られているでしょうか。「主イエスが十字架に架けられた、けれども甦られた」と語られない時は無いと思います。今日は別のことを話そうと言って、主イエスのことを語らないならば、教会はもはや教会ではなくなってしまいます。世の中の人から見れば驚きかもしれませんが、教会は「十字架に架けられ亡くなった主イエスが私たちの主であり救い主である。甦られた主イエスがいつも私たちと共にいてくださるのだ」と大真面目に語り、聴きながら歩んでいる、そういう群れなのです。
さて、そのように心も思いも一つにして歩んでいた教会が、今日のところでは、ただ信仰において一つだっただけではなく、教会員同士の交わりについても密接な結びつきがあったのだということが述べられています。34節35節に「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」とあります。キリスト者の中には一人も貧しい人がいなかったとありますが、初代教会は裕福な人たちの集まりだったのでしょうか。そうではありません。教会には様々な経済状態の人たちがいましたが、財産を持っていた人たちがその財産を処分してお金に換え、教会全体を支え、兄弟姉妹を支えようと献金したために、貧しい人たちが貧しさから引き上げられるということが起きていました。その結果として、信者の中には一人も貧しい人がいなかったと言われているのです。
エルサレムに誕生した教会が、貧しさと無縁だったということではありません。教会員同士の交わりが、そこにあった貧しさを覆っていったのです。こういうあり方、裕福な人が貧しい人を思いやって共にあって豊かになるというあり方を、大変理想的な人間の制度だと持ち上げる人がいないではありません。原始共産制と言われることもあります。しかし、はっきりここに言われていることですが、これは制度ではありません。ここに起こっていたことは、あくまでも兄弟姉妹を思いやる真心から生じていたことでした。
このようなことが起こったのには、初代教会を覆っていた一つのムードも関係していたと言われています。財産を持っている人たちが気前よく財産を処分できたのは、「間もなく甦りの主イエスが再び来られる。そしてこの世界が終わる」という、この世の終わり、終末が近いという感覚が身近にありました。ですから、財産を持っている人は財産を処分しようとする気持ちになれたのだと思います。終末が来てこの世界が完成され、別の世界に変わってしまうのであれば、地上で今持っている財産は意味をなしません。神との交わりを生きる永遠の世界の生活には、地上の財産は関わりなくなってしまいますから、財産を持っていた初代教会のキリスト者の中には、地上だけで使える財産を地上で分け合って使おうという思いが生まれていました。
こういうことは、今日でも見受けられることがあると思います。例えば、その人の代で財産を築いたキリスト者が身寄りなく亡くなっていくような場合に、遺言状によって、自分の財産を次の世代の人たちの教育のための奨学金として用いて欲しいとか、医学のために役立てて欲しいとかの意思が示され、そのように用いられるという場合があります。これも、地上で生活するために必要だった財産だけれど、地上の生活が終われば必要なくなるので、この世界の中で有益に用いて欲しいという願いであり、行動です。今持っているものを持ち越せないのだとすれば、どのようにして有益に用いようと考えるかということは、今日でも有り得るのですし、初代教会でも起こっていたのです。
これは、教会の中での制度となったということでもありません。けれども、自分たちが献げることで教会生活を成り立たせていこうとするあり方自体は、初代教会から今日に至るまで、ずっと続いてきていることです。財産のある人が財産を処分して献げるということではなく、教会共同体に連なっている兄弟姉妹の全てが、各々自分の献げることのできる分に応じて献金を献げ、教会の営みを成り立たせていく、そういうあり方は今日に至るまで途切れることなく続いています。
そして、献げるということにおいて、今日の箇所には、幸いな実例と不幸になってしまった実例とが記されているのです。ここには3人の人が出てきます。バルナバと呼ばれたヨセフ、それからアナニヤとサフィラという夫婦です。この二つは対照的な例として語られています。
バルナバの場合も、アナニヤとサフィラの場合も土地を持っていました。バルナバの場合には、地目が畑であると記されています。この畑がエルサレム近郊にあったのか、バルナバの故郷であるキプロス島にあったのかまでは分かりませんが、畑というからには、二束三文の荒地というのではなく、農産物を収穫できるような生産性の高い土地だったことを表しています。ですから、バルナバの土地はかなりの額で売れたに違いありません。4章37節に、バルナバは「持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」とあります。バルナバは、自分を神に結びつけてくださった主イエスの御業に心から感謝して、キリストのために自分を用いたいと考え、自分の持っていた畑を売り、兄弟姉妹のために惜しげもなく全額を献げました。これは喜ばれたに違いありません。
一方、アナニヤとサフィラも土地を売り、かなりの代金を手にしたようでしたが、土地の代金を誤魔化して使徒たちの足元に置いたのだと、5章2節に言われています。「妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた」。「代金をごまかし、その一部を持って来た」と言われていますから、この夫婦は、売れた土地の代金全額ではなく、一部を懐に入れ、残りのお金を持ってきて「全額です」と言ったのだと思います。その際に、自分たちの懐に入れたお金と献げたお金のどちらが多かったかについては語られていません。それがどうであろうとも、結局、この献げ物は受け入れられませんでした。それどころか、この二人が神に打たれて死んだと書かれています。何とも不思議、過酷な出来事であるように思います。
アナニヤとサフィラは、何も献げようとしなかったというわけではありません。むしろ、金額とすれば、かなりの額を使徒たちに足元に置いたに違いありません。ところが、この二人の行いは神に受け入れられず打たれてしまいました。なぜでしょうか。献げた額が少なかったからではありません。金額が問題なのではなく、4節でペトロが言っているように、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」。売らないことも自由、また売ってもその代金を自分のものにすることもできました。問題だったことは、献げたお金が土地を売った代金の一部であったのに、まるで土地の代金の全てであるかのように見せかけたことにありました。
一体どうして、アナニヤとサフィラはそんなことをしてしまったのでしょうか。この二人の考えが手に取るように分かるわけではありませんが、何となく分かる気もします。二人には、バルナバの潔さが羨ましかったのではないでしょうか。バルナバは、自分の所有していた畑を売った代金全額を持ってきて、兄弟姉妹たちのために献げました。バルナバは土地を売った時に、全てを神に献げると決めていました。けれども、アナニヤとサフィラは違いました。彼らは、同じように土地を売りましたが、しかしその土地の全てを神に献げようとしたのではなく、バルナバのしたように、そういう振りをして、使徒たちが驚くような高価な献金をしてみたいと思っただけです。自分たちに与えられているものを感謝して「これはあなたのものです」と神に献げるのではなく、周りの人たちが驚くような額を献げたいと思ったのです。
もちろん、アナニヤとサフィラも、神に献げたいという良い志を持っていたのかもしれません。しかし、二人の過ちは、神だけを見て神に感謝して献げようとしたのではなく、神に献げる思いを持ちながらも、同時に横目で周りの人たちの顔色も眺めてしまったところあります。そこに隙が生まれ、その隙からサタンが入り込んで、二人の心を神に真心から向かわせるところから逸らしてしまいました。周囲を驚かせ、また褒めてもらいたいという気持ちへと、二人を導いてしまったのです。
ペトロは、5章3節で「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか」と尋ねています。「サタンに心を奪われ」とありますが、この言葉は原文では「サタンによって心が乱されてしまう」という書き方がされています。本来、神に向かっていたアナニヤの心に、横合いからサタンが入り込んできて、別の方に捻じ曲げ心を一杯にしてしまったのです。サタンが、神の方に向かっていたはずの人間を周囲の人たちへの心遣いで一杯にしてしまった、その結果、献げ物は受け入れられず、二人は打たれてしまいました。
アナニヤとサフィラのこの悲しい実例は過酷だと思われるでしょうか。一面、確かにそう見えなくありません。しかしそれは、この出来事をアナニヤとサフィラという人間の側からだけ見ているからかもしれません。「二人は神に献金しようとしたではないか。土地代金の全額ではなかったにせよ、小さな嘘があったにしても、献げていることには違いないではないか。打たれて死ぬことはなかったのではないか」と、この出来事を過酷に思うかもしれません。けれども、ここに示されていることは何かと言うと、それは「教会が真実に一つの教会である」ということが問題なのです。教会は、一面では人間の群れです。ですから、人が教会を盛り立てていくと考える人は多いことでしょう。しかし教会は、本質的には「神の御業」です。神が私たちのために主イエスを十字架に架け、甦らせてくださいました。「甦りの主イエスが、あなたがたの救い主である」と、ペンテコステの日にペトロが聖霊に励まされて語って以来、教会はずっとその福音の上に立ち続けているのです。私たちは、主イエスを通して神が共に歩んでくださることを信じ、感謝して、教会の群れが立ち続けていくように、神のなさりように応答して、献げ物をしながら教会を支え続けているのです。
ですから、教会は、この世の会社のようにとにかくお金が集まって回っていれば良いという所ではありません。教会にとって何より大切なことは、「主イエスが十字架に架かり甦り、私たちに『生きて良いのだよ』といつも呼びかけてくださり、神のなさりようを指し示しながら導いてくださっている」ことに対して、「私たちが感謝し、信頼して従っていく」、そのあり方です。「心も思いも一つにして歩んでいた教会の中心で、主イエスの復活が力を持って宣べ伝えられていた」、そういう群れが地上に誕生していたということこそが、本当に大切なことなのです。アナニヤとサフィラの献げ物は、そういう点で、教会の献げ物として相応しくないと神に判断されてしまいました。
ところで、4章33節を見ますと、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」とあります。ですから、ここだけを読みますと、「主イエスの復活が証しされる」、そうすると「世の中から温かく迎えられる」、それが当たり前だと言っているようにも聞こえます。しかし、実はそうではありません。33節の時点ではそうですが、しかしこの後の使徒言行録の記事を読んでいきますと、だんだんそうではなくなっていく言葉に出会います。
「教会の中で主イエスの復活が語られていく」、これはずっと変わることはありません。けれども、周囲の人たちの好意的な眼差しの方は徐々に変化していきます。来週聴く箇所では、「周囲の人々は、教会について賞賛するものの、あえて仲間に加わろうとはしなかった」と言われています。それからだんだんと教会は不思議な場所と受け止められるようになり、それは更にはエルサレム教会への大迫害へと繋がっていきます。
教会がいつも主イエスの十字架と復活を語り続けることは変わりませんが、教会が社会からどのように見られるかということは、その時代時代の空気によって随分変わり得ることなのです。そしてそれは、教会だけではなく、主イエスご自身についても既にそうでした。福音書を初めから読んでいきますと、最初は大勢の人が主イエスに喜んで従って来ました。それは、主イエスが癒しをなさり空腹を満たしてくださる、自分にとって都合の良いお方だったからです。ところが、主イエスがご自身の十字架について語られると、人々は付いて行けなくなりなり、主イエスから離れて行きました。そして、エルサレムに入られた主イエスを「十字架につけろ。殺してしまえ」というように変わっていきました。教会はいつも変わらず立っていますが、しかし周囲はこれを良く見る場合も悪く見る場合も有り得るのです。
ですから、教会は、周囲の人たちにどう見られるか、驚かれるか、賞賛されるかというようなことが大事なことになってはならないのです。私たちはどんな時代にも、どんな状況になっても、ただ主イエスの御業を仰ぎ見て、「主イエスが今日もわたしに語りかけてくださっている。甦った主イエスが、わたしを『生きなさい』と招いてくださっている」ことを信じて、「主イエスに従っていく」ところに教会があり、キリスト者一人一人の生活もあるのです。アナニヤとサフィラは、神のなさりように感謝しようとして献げたのではなく、いつの間にか、周囲の人からよく見られたいと思う誘惑に捕らえられてしまいました。そのために打たれたのでした。
ここには、神の御前にある教会の清潔さというものが問題になっています。
さて、このような記事を聞いて、私たちはどう思うでしょうか。「とても、そんなに神にまっすぐに向いて生きることはできそうにない」と思って不安になり、悲しくなるのでしょうか。そういう恐れが実際に教会の中にあったのだと、5章11節に語られています。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」。少し、というのではなく、非常に恐れたとあります。
私たちは礼拝に集い、神を賛美し、心を込めて祈り、御言葉を聞き、自分自身を精一杯お献げして生きて行きたいと願います。しかし、そういう思いをいつも持っていながら、私たちは気づくと、主イエスを忘れ神抜きで生活してしまっています。ですから、私たちは、恐れざるを得ません。「もしかすると、心では神に従いたいと思っているけれど、実際には、アナニヤとサフィラのようになってしまうかもしれない」、教会全体がその恐れに捕らわれたと言われているのですから、私たち一人一人がそう思っても不思議ではないでしょう。私たちは、サタンの誘惑に弱い者であることを認めなくてはなりません。自分の思いや精神力だけで、ずっと神を思い続けていられるかというと、そうはなりません。
では、私たちはどうしたらよいのでしょうか。懸命に祈るのか。繰り返し聖書を読むのか。いつも賛美を歌って心を引き上げ、心を神へと向かわせようとする、そういうことをやれば十分なのでしょうか。そういうことでは、私たちはとても心許ないと思うことでしょう。
私たちが本当に頼るべきものは何か。「こんなに弱く覚束ない歩みしかできない私たちを、神がそれでも愛してくださっていて、わたしを救うために独り子をこの世に送ってくださっている」という事実こそが、私たちにとって何より確かな救いなのです。放っておけば、神抜きで彷徨い出し、滅んでいくしかない私たちです。けれども神は、それで良いとはおっしゃらない。「あなたはわたしを知らずに生き、知らずに死んでいってよい訳がない。わたしはあなたを本当に知り、真剣に愛している。わたしがあなたの命を愛して、『あなたは生きてよい』と語りかけていることを知らなければならない」。そのために神は、独り子である主イエスを地上に送ってくださり、私たちと何ら変わらない不運で惨めな生活を送らせ、最後には周囲に裏切られ見捨てられるようにして、十字架につけられるという仕方で亡くなるという生涯を辿らせました。しかし主イエスは、それでもなお、最後まで、神への信頼を失わずに、地上の生涯を終わりまで歩んでくださいました。「十字架の主イエスが、本当に神に愛され、本当に惨めであったのに甦らされている」、そのことを聞かされるからこそ、私たちは、自分の生活の中に様々な破れや弱さや惨めさが宿っていても、「主イエスを与えてくださった神は、わたしを愛してくださっているに違いない」と信じることができるようにされているのです。
私たちは、キリストの体として、頭である主イエスと固く結ばれて、この地上に立っていきます。教会は、どんな場合にも、どんな時代にも「主イエスが私たちのために確かに甦ってくださった」と語り続ける場所です。そして、教会の中でしか聴くことができないことを、週ごとの礼拝で聞かされるのです。「どんなことがあっても、神さまがあなたを愛している。神さまが『生きなさい』と招いてくださっている」、その言葉を私たちは、聖書から、主イエスの御業を通して聞かされているのです。
サタンの誘惑に対して、まことに無力でしかない者が、主イエスの十字架と復活の福音を聞かされ、慰められて、「本当に神さまのものとなって生きよう」と思って生きるときに、そこに本当に大きな神の御業が力を持って起こっているという事実が明らかになっていくでしょう。
私たちは、そういう神の保護と導きのもとに、ここからの一巡りの生活を歩みたいと願います。 |