ただいま、マタイによる福音書第26章の14節から16節までをご一緒にお聞きしました。主イエスがお招きになって12弟子に加えられた一人、ユダが銀貨30枚で主イエスを裏切り敵の手に渡したという、何ともやり切れない出来事がここに述べられています。14節15節に「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした」とあります。
イスカリオテのユダが裏切りを働いたことは広く知られています。しかしこの裏切りは、敵方からの誘いによってつい転んだということではありません。まことに思いがけない成り行きではありますが、ユダの方から祭司長のところに出向いて話を持ちかけています。他の福音書にも同じことが記されています。「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と非常に生々しい言葉が記されていますが、このユダの誘いに応じる形で、祭司長たちは「銀貨30枚」という具体的な金額を言ったと記されています。
銀貨30枚という価格が主イエスの命に付けられた値段でした。銀貨30枚とは、いくらくらいなのでしょうか。当時一日働いて得られる金額はデナリオン銀貨1枚だったと言われています。あるいは、当時大人が贅沢をせず慎ましく生活するのに、一日平均1デナリオンかかったと言われています。そうすると、銀貨30枚というのは、一ヶ月分の生活費、あるいは日雇い労働者の生活費ですから、私たちの感覚からすると一日働いて1万円として30万円、あるいはもう少し安くて20万円くらいということになると思います。ユダは、自分の先生であり主であった方を、高々その程度の金額で敵の手に売り渡してしまったのだと記されているのです。
もとより、人の命はお金で換算できるようなものではありません。けれども、それにしてもこの金額はあまりに安いと言わざるを得ません。銀貨30枚という値段は、旧約聖書の中では奴隷一人の命の値段として出てくる金額です。主イエスはユダによって、奴隷同然の値段で売り渡されました。
奴隷の命の値段について記されているのは、旧約聖書の出エジプト記21章32節です。「もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない」とあります。野良仕事に使われていた牛が暴れ出して一緒に働いていた奴隷を突き殺してしまうということが起こったようです。その時には、牛の持ち主が奴隷の主人に対して損害賠償としてシェケル銀貨を30枚支払わなければならないと定められていました。つまり、銀貨30枚が殺された一人の奴隷の命の値だったのです。
ユダから話を持ちかけられて、主イエスの命について祭司長たちが値踏みしたのは、奴隷と同じ値段だったということです。祭司長たちからすると、主イエスは口うるさい批判者であって「こんな人は殺してしまおう」と決めていたのですから、彼らにとって主イエスは特別な意味のある相手ではありません。ですから、その命に高い値をつけるはずはなく、主イエスの敵である祭司長たちが主イエスの値段を奴隷と同じと換算したことは、一応頷けることだと思います。ただここで、分からないこともあります。祭司長たちはそうだったとしても、これを聞いたイスカリオテのユダが、彼らの値踏みをそのまま受け入れているという点です。たとえ裏切ったにせよ、ユダにとって主イエスは一度は人生の師と仰いだお方です。主イエスに従ってガリラヤからエルサレムまではるばる旅をして来ているのです。自分が一生をかけるのだと思って従って来た人物の値段が奴隷と同等だと言われた、その時ユダは何を思ったでしょうか。どうしてそんなはした金で自分の先生を売り渡してしまおうと思ったのでしょうか。もちろん、この銀貨30枚が、あるいは300枚、3000枚だったら納得できるということではありませんが、あまりにも安い金額であることを改めて考えますと、驚き不思議に思います。
しかし実は、銀貨30枚という値段には、もう一つの意味が隠されています。今日の箇所が礼拝などで説教される場合に、大抵、このマタイによる福音書と合わせて読まれる旧約聖書の箇所があります。それはゼカリヤ書という預言の書物です。ゼカリヤ書11章12節に「わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた」とあります。ゼカリヤ書は私たちにはあまり馴染みがないかも知れませが、初代教会の頃には繰り返し読まれ広く知られていた書物です。どうして繰り返し読まれたかというと、主イエスがエルサレムに入城するという出来事が、ゼカリヤ書に預言されていると考えられたからです。
主イエスはエルサレムに来られた時、ろばの子にお乗りになって入城されました。人々は歓呼の声をあげて主イエスをお迎えしたことが、4つの福音書すべてに記されています。そしてその出来事は、旧約聖書の預言が成就したのだと記されています。その預言がゼカリヤ書なのです。マタイ福音書では21章4節5節には「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『シオンの娘に告げよ。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」』」と書いてあります。二重鉤括弧の中の言葉が、ゼカリヤ書9章9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」です。
「神がまことの王を送ってくださる」と書いてあるのです。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。「柔和な方」とありますが、旧約聖書だと「高ぶることのない方」という訳になっています。「決して高ぶることのない方を、まことの救い主、メシア、王として神が送ってくださる。その王はろばに乗ってくる」と、ゼカリヤ書に書いてあるのです。ですから、主イエスが子ろばに乗ってエルサレム入城なさった時に、ゼカリヤ書の預言の言葉が成就したと言われているのです。
そして、ゼカリヤ書を最後まで読んでいくと、銀貨30枚の話に繋がっていきます。9章から12章までの長い話ですので大筋を言いますと、まず、おいでになった柔和な救い主は、本当の平和を実現するために自らが羊の群れの世話をしたのだと書かれています。譬え話ですので、羊は人間を表しています。羊の群れはこれまで何人もの羊飼いに飼われていたのですが、その羊飼いたちは曲者で、羊を養うことより自分の利益のことばかりを考えていました。そのような羊飼いに飼われて苦しんでいる羊たちの様子を神がご覧になって、その羊飼いたちを一掃し、今度こそと、本物の王である方を羊の群れの救い主として送ってくださって、王直々に羊の群れを飼うようにしたのです。ところが、ゼカリヤ書によると、せっかく本物の牧者が与えられたのに、羊の群れは、新しい牧者も以前の無責任な牧者と同類だと考えてしまうのです。そして神から遣わされたまことの牧者を嫌いました。その結果とうとう、そのまことの牧者も群れを導けなくなり、務めから退けられていくのです。そういう折に牧者が語った言葉がゼカリヤ書11章12節です。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい」。この牧者は、羊飼いの仕事から退けられるに当たって、自分がそれまでやって来た仕事の評価を羊の群れに求めるのです。牧者自身は羊たちを懸命に養い立て直そうとしたのですが、羊たちはなつかず反発しましたから、最後に自分の働きについて羊たちに尋ねたのです。「わたしの働きが、もし神の憐れみと慈しみによる真実な業だと認めてくれるなら、相応の賃金を支払いなさい。そうでないなら、何も支払わなくて良い」と、白黒どちらかだと牧者は言いました。ところが、養ってもらった側の羊たち、人間たちは、どちらも選びませんでした。そういう意味で、羊たちは最後の最後まで、羊飼いの言葉を聞きません。どうしたかと言うと、わずか30シェケルの銀を計って、まるでそれが相応しい報酬であるかのように羊飼いに渡したのだと書かれています。
牧者が求めた相応の報酬というのは、人間の心からなる感謝と献身のことを言っています。本当に神の慈しみのもとに抱かれて、神の真実な配慮によって生かされたことを認めるなら相応の報酬を支払うはずであり、そこでは、すべてを捧げて献身するということが生まれてくるはずなのです。ここで牧者が求めた報酬は、一つの例を挙げるならば、先週の説教で聞いた一人の女性の行為です。大変高価な香油を主イエスに捧げて主イエスへの愛を表しました。ゼカリヤ書の牧者が求めたのも、そういう類の献身です。心から感謝して敬愛の思いを表すような、そういう報酬を与えるか、あるいはそう思わないのなら何も与えなくても良いと羊飼いは言ったのですが、羊の群れが表したのは、そういう値高い感謝ではなく、銀30シェケルを量って報酬としました。この銀30シェケルは、出エジプト記で見たように奴隷一人の額です。
つまり、ゼカリヤ書で言われていることは、神が送ってくださったまことの牧者に養われ育まれた羊の群れは、養ってもらったことに感謝するどころか、それは奴隷の仕事だったと嘲ったということを言っています。まさしく羊飼いに対する羊たちの振る舞いは慇懃無礼です。上辺では丁重に報酬を支払っているように見せていながら中身は奴隷の代金であり、結局感謝していないということが表れているのです。銀貨30枚というのは、そのように、神の民である人たちが、せっかく神から遣わされた牧者を侮り嘲り侮辱した、そういう値段であるのです。そういう金額であることを頭に置いた上で、イスカリオテのユダに話を戻して考えてみたいと思います。
祭司長たちは、主イエスに奴隷同然の銀貨30枚という命の値段をつけました。ユダがそれに同意したのは、単に安いという以上の、非常に深刻な意味があります。なぜかというと、イスカリオテのユダは主イエスの弟子の一人だからです。主イエスを師として付いて行ったのです。弟子の群れを主イエスが牧してくださったと言ってよいのです。イスカリオテのユダは、他の11人の弟子と一緒に主イエスの御言葉に育み養われて生活をしました。けれども、結局のところユダにとって主イエスは牧者でも先生でもなく、自分の自由気ままに扱える奴隷程度の者でしかないとユダが考えたということを表しています。ですからユダは、銀貨30枚で主イエスを売り渡してしまったのです。
ですから、今日の聖書箇所はわずか3節ですが、そういうユダの姿を正面から捕らえて光を当てている、そういう箇所です。そして、この光に照らされているユダの姿は、私たちにとっては非常にショッキングな姿だと言えると思います。なぜなら、この出来事は、主イエスがいくら心を込めて弟子たちを教え導こうとなさり、その業のために全身全霊を捧げてくださっても、なお、そのようにして主イエスに伴っていただいた弟子たちの中には、主イエスに少しも心を動かされないで、奴隷の仕業に過ぎないと受け取った人がいたということを表しているからです。一体どうしてユダは、主イエスの懸命の働きを曲げて受け取ることしかできなかったのでしょうか。どうしてユダは銀貨30枚でやすやすと主イエスを敵の手に売り渡したのでしょうか。
ユダがどうして裏切ったのかということについては、これまで大変多くの人たちが関心をもって考えてきたことです。主イエスを裏切ったユダの心の動きについては多くの推測がされ、想像たくましく仮説も多く立てられています。元々ユダは、表裏の激しい偽り者でお金を誤魔化していたので帳尻を合わせるためにお金が必要だったという説、ユダは「イスカリオテ」と付けられていますが、それは「カリオテの人」という意味で、他の弟子は皆ガリラヤ人ですが、ユダだけが出身地が違い、12弟子の中で浮いていたという説、あるいは主イエスの弟子の中にいた熱心党のシモンと同じ熱心党のメンバーで、エルサレムに主イエスが入られた暁には、今の腐敗したエルサレムの上層部を覆し、ローマ帝国に反旗を翻すような役割を担うに違いないと期待して主イエスについて行ったけれど、主イエスはそのようには立ってくださらないので自分の期待が裏切られたと思い、自分も裏切ったという説などあります。他にも色々な説明があり尤もらしく聞こえますが、それは実は、この箇所に対して皆、自由な解釈を施している結果であって、結局は推測の域を出ない話なのです。
けれども、聖書が唯一はっきりと、ユダがどうして裏切ったかについて説明している言葉があります。それによると、ユダの裏切りの理由は、ユダの中にサタンが入ったという説明です。これはルカによる福音書の中に出てくる説明です。サタンがユダの中に入って魔が差した、だから裏切ったというのが、聖書自身がしている説明なのです。
けれども、そのような説明をされると、私たちは不安になるのではないでしょうか。ユダの裏切りがサタンの仕業だとすれば、同じことは誰の心にでも起こり得るということなるからです。長年教会に通っているから自分は主イエスを裏切ることはないとか、情熱的な愛を持って主イエスを愛しているから、わたしは決して主イエスを裏切らないとか、そのようなことは言えないのだということになるからです。自分の主イエスに対する忠実なあり方によって主イエスを裏切らないという保証にはならないのです。
サタンにそそのかされたユダが主イエスを裏切った動機や理由は分からないにしても、聖書を読んでいますと、ユダの裏切りがどのように生じているかは分かるのです。確かなことは、ユダが主イエスに何かを期待していたということです。そして、その期待がいつまでも実現されないことにがっかりして、主イエスに背を向けて離反したのです。つまり、ユダという弟子は、彼自身の願望が実現されていくことを夢見て主イエスに従い、それが果たされないのを見て裏切っているのです。このユダの姿は、自分の期待や願望が実現できるに違いないと考えて自分の思いが実現する限りにおいて主イエスに従おうとする、そういう人間の問題を鮮やかに表しています。
このユダの裏切りの記事を聴きながら、私たちは、私たち自身が問われるということがあるのではないでしょうか。「他ならないあなたはどうですか」ということです。ユダは、一度は主イエスを自分の人生の師として従って行こうと決めました。ところが、そう決めたはずなのに、自分の期待が果たされないと思うと、あっさりと主イエスを見限って裏切ってしまいました。「ユダはそうだったけれど、あなたはどうか」と、実は聖書は尋ねているのです。自分の思いが実現されない、そういう思いで、主イエスにつまずいて教会から離れてしまうということは、私たちにはないでしょうか。
私たちにとって、主イエスとの交わり、主イエスへの信頼、信仰の中心に何があるのか。これは極めて大切なことだろうと思います。主イエスとの交わりの中心にあるのは、主イエスとの交わりを持っているということです。主イエスが私たちを愛して、聖書を通して御言葉を語りかけてくださる、そのこと自体が嬉しいことです。主イエスが何かの気づきを与えてくださるとか、主イエスの言葉によって強められ変えられる、そういう良いことがあるから、私たちは主イエスを信じるということではありません。どんな時にも、「あなたを決して見捨てることはないよ」と主イエスが言ってくださり、「わたしはあなたと一緒にいる。だからわたしに従って来なさい」と言ってくださる、その主イエスとの交わりが私たちの信仰の中心にあるかどうか、これは、極めて大切なことです。もし私たちが、主イエスと交わることで何か他の良いことを期待することの方に心を寄せてしまうならば、私たちは主イエスから離れて主イエスに背を向けてしまうということがあり得るのだろうと思います。
ユダは密かに裏切ったつもりでしたが、しかし主イエスはすべてをご存知でした。そして、そういうユダの姿を見て深く心を痛め悲しんでおられ、このユダのためにも十字架に向かって行かれるのです。主イエスは、ユダのような弟子であっても、見限ったりはなさいません。どんな人でも弟子に招いて、「共に生きよう」と呼びかけてくださる。弟子に招かれること、そこには何の隔てもありません。ですから、マタイによる福音書の一番最後は、大伝道命令と言われていますが「すべて人をわたしの弟子にしなさい」という主イエスの言葉で結ばれていきます。主イエスを決して裏切らない立派な人だけを弟子にしなさいと言ってはいません。どんな人も、どんなに欠け多い人も、地上の人間の姿としては失敗だったと言われてしまうような人にも「わたしはその人と一緒に生きるから、その人をわたしのもとに来させなさい」と、主イエスはおっしゃるのです。主イエスはどんな人にも「あなたと一緒に生きるのだから、わたしに従って来なさい」と声をかけてくださいます。
主イエスがわたしと共に生きると言ってくださる。ですから、私たちは主イエスの招きの前で、「わたしの望みや願いが実現するならば、あなたに従います」というような条件をつけてはいけないだろうと思います。こういう姿は、主イエスの招きに応える者としての姿ではありません。
私たちは、主イエスの招きにどのようにお応えして生きるのが良いのでしょうか。「わたしはサタンの誘惑によって主イエスを裏切るかもしれない」、このことは誰一人違わずそうなのですから、「わたし自身が確かではないので従うとは言えない、だからいつまでもつかず離れずの関係でいます」と言った方が良いのでしょうか。そういうあり方を選ぶ方もいらっしゃるかもしれませんが、しかし主イエスは、そういうあり方を喜ばれないと思います。なぜなら主イエスは「わたしはあなたと生きるのだよ」と言ってくださる、だからこそ「あなたもわたしと生きるように」と招いてくださるのです。
そういう主イエスが、わたしに呼びかけてくださっていると聞き取るならば、私たちは自分自身について「わたしは覚束ない者です。もしかするとあなたを裏切るかもしれません。それは分かっていますが、それでもあなたはわたしを助けてくださいます」と答えることはできるのではないでしょうか。「イエスさまから離れないようにしてください。どんな時にもイエスさまがわたしの人生に伴ってくださって、困り果てる時にもわたしを捕らえて一緒に歩んでくださいと祈るならば、イエスさま、あなたはきっと来てくださいますよね」と、主イエスにお尋ねをして祈ることが許されています。そして、主イエスはそういう人のもとをきっと訪れてくださるのです。
「主イエスがわたしのもとに来てくださり、わたしと一緒に生きてくださる」、その主イエスに信頼をして、今日この日、主イエスに仕えて歩む幸いな者としてくださるように、保護と導きを神に祈りたいと思います。 |