ただ今、マタイによる福音書25章31節から46節までをご一緒にお聞きしました。マタイによる福音書には、折々に主イエスが弟子たちや群衆に向かってお語りになった説教がまとまった形で収められています。一番最初の説教は5章に出てくる「山上の説教」ですが、そのような説教が5つあります。そして、今日聞いた箇所は、5番目の説教の一番最後のところに当たります。26章からは主イエスの十字架への道行きが始まって、そして捕らえられ十字架に磔にされ亡くなっていく話へと続きます。
弟子たちは、今日の主イエスの話を聞いた時には、もちろん、この日の夜に主イエスが捕らえられ次の日の朝には十字架に架けられるなどとは、まったく予想していません。けれども、主イエスは分かっておられますから、「これが弟子たちに語ってあげられる最後の説教だ」というつもりで、心を込めて語っておられる箇所だと思います。私たちも心を傾けてこの御言葉を味わいたいと思います。
まず31節から33節に「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」と言われました。ここで主イエスは、「人の子が、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時が来る」とおっしゃっています。つまり、終わりの日に主イエスがもう一度この地上を訪れてくださる、再臨の日のことについて教えておられます。
この時点では、十字架の前ですから、主イエスは弟子たちと地上で一緒に暮らしておられます。ですから、弟子たちからすると、なぜ主イエスが「再び来る」とおっしゃるのか、おそらく何のことか見当がつかなかったでしょう。けれども、主イエスご自身は「十字架に架かり三日目に甦える」ことをご存知です。そして天に昇り、天の右の座にお着きになり、そこから、「もう一度、あなたがたのところを訪れるのだよ」というつもりで語っておられるのです。そしてその時には、「完成されるものは完成されていく。神の永遠の前に通用しないものは通用しないものとして捨てられていく」、そういう「最後の審判」の時が訪れることを考えておられるのです。
主イエスは、再び来られる時には「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」とおっしゃっています。主イエスの再臨の時を私たちもまだ見ていませんが、この時というのは、クリスマスの晩と並ぶような光景だと言われる場合があります。クリスマスの晩、ベツレヘムの野原で羊飼いたちが野宿しながら羊の番をしていた、その時に、羊飼いたちのもとを天使たちが訪れて、「救い主がお生まれになった」ことを知らせる、そういう場面があります。天使たちは天の万軍を伴って現れたと語られていますが、今日の箇所では「天使たちを皆従えて」と、あの時以来の天使たちが現れると言われています。
クリスマスの晩のことを思い出したいのですが、羊飼いたちは天使が現れて主の栄光が彼らを廻り照らしたので、「大いに恐れた」と語られています。私たちが普段あまり考えないことですが、終わりの日に主イエスが再びおいでになるという時には、主イエスは無数の天使を従えて来られるとすれば、私たちもその栄光に照らされて「恐れる」ということが起こるのかもしれません。
そう言われても、私たちは実際にその場面に立ち会えるかどうか分からないと思う方がおられるかもしれません。けれども、そうではありません。主イエスが天使たちを従えて再び来られる時、そこに私たちは必ず立ち会うことになります。どうしてかと言うと、主イエスがそうおっしゃっているからです。32節に「そして、すべての国の民がその前に集められる」、そして「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分けられる」とおっしゃっています。「すべての国の民」というのは、主イエスが訪れられたときに、たまたまこの地上に幸運にも生きていた人たちすべて、という意味ではありません。そうではなく、すべての時代を生きたすべての人たちのことがここでは考えられています。
もちろん私たちは、主イエスが再び来られる前にこの地上の生を終えて死んでしまうかもしれません。自分が生きているこの一生の時間の中で主イエスが再臨なさるかどうかは分からないのです。けれども、先に死んでしまったら再臨の主イエスと私たちが無関係になるのかといえば、そうではありません。もし私たちが先に死んでしまったならば、どうなるのかというと、きっと甦らされるのです。そして、一人一人、「その生きた人生が神の御前にどうであったか」ということが栄光に照らされ明るみに出されて、「裁かれる」という時が訪れます。「すべての国の民」というのは、たまたまその時に生きていた人ということではないのです。ですから、私たちはクリスマスの晩の天使たちを見ることはできませんでしたけれど、終わりの日に現れる天使たちを必ず見ることになるのです。そしてそれだけではなく、私たちは、その無数の天使たちが照らし出す栄光のもとに置かれて、神の光に照らされて、私たちが生きてきた人生がどういうものであったのかが明るみに出されてしまう、そういうことになるのです。
主イエスが弟子たちに向かって一番最後に何としても教えようとされたのは、このことでした。「あなたたちは一人の例外もなく、あなたたちの人生がどういうものだったかを、神の光の中に照らし出されて吟味される、そういう時が来る。このことを是非知っておいてほしい」と、主イエスはおっしゃっています。「どの人にも神の裁きは臨む」ということ、それがすべての説教の最後に主イエスが語っておられることです。
私たちはもっと違うことを聞きたかったかもしれません。けれども、主イエスが最も大事だと思っておられることは、「あなたは今、どう生きているのか。一生をどう生きるのかが問われるよ」ということです。それは生きている間に訪れるか、死んでからか、分かりません。けれども、きっと私たちは、自分が生きてきた人生全体を持って、主イエスの前に立たなければならない日が来るのです。それは言うなれば、「主イエスが私たちのために、主イエスを知らない人も含めてすべての人のために、ご自身の全生涯をかけて、飼い葉桶から十字架まで向かって行ってくださった」ように、私たちも、自分の人生をすべて背負って、主イエスの前に立たなければならないのです。つまり主イエスと私たちが一番最後に出会うというのは、そういう出会い方なのです。
私たちはこういうことを聞かされて恐れずにいられるでしょうか。ベツレヘムの羊飼いは、天使たちの栄光に包まれた時に大変恐れましたが、それは何故でしょうか。本当に清らかな天使たちの光に照らされて、「自分では普段はましな者だと思っていたけれど、実際には欠けや落ち度、汚れやシミや傷を自分の中に抱えている」と知ったからだろうと思います。自分は人並みだと思っていたけれど、真の明るい光に照らされたら、自分には随分な落ち度があったということが分かって、それで恐れたに違いないのです。けれども天使たちはそこで羊飼いたちに、「恐れることはない。あなたたちは欠け多い者だけれど、そういうあなたがたのために救い主が生まれてくださったのだから、恐れなくてよい」と呼びかけました。
私たちは、自分の人生のすべてが明るみに出され、裁かれるということを恐れなければなりません。ヘブライ人への手紙10章30節31節に「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と言い、また、『主はその民を裁かれる』と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」とあります。主イエスが最後に弟子たちに教えられたことは、神のこういう裁きが臨むのだということです。
けれども、主イエスはただ弟子たちを恐れさせ怯えさせるためにこうおっしゃったのかというと、そうではないのです。今日私たちが聞いているこの話は、しばしば「羊と山羊のたとえ」と言われますが、聞いていると、羊と山羊の話が中心なのではありません。「羊と山羊を分けるように、人を左右に分ける」と書いてあるのです。イスラエルでは、羊と山羊は昼間は一緒にいて同じ牧場で過ごしています。ところが夜になると、一匹ずつで寝る羊と身を寄せ合って寝る山羊を一緒にはしておけないので、分けて別の囲いに入れるのです。左右はどちらでも良いのですが、これは「神の前に通用する人と、神の前に通用しないからと捨てられてしまう人は、今は一緒に暮らしているけれど、一番最後のところでは綺麗に分けられてしまうのだよ」という意味です。このことは、主イエスはここで初めておっしゃったのではなく、弟子たちに繰り返し繰り返し教えておられたことです。例えば、13章の「麦と毒麦の譬え」では、麦と毒麦は一緒に育つけれど、やがてそれは分けられる時が来ること。あるいは、同じ13章に「漁網の譬え」があって、漁師が魚を獲って一つの網の中にいる魚を皆岸まで引き上げるけれど、最後には良い魚と悪い魚は選り分けられることなど、主イエスは繰り返し、「今は皆一緒だけれど、一番最後の時には、あなたがたは一人一人『あなたはどう生きたのか』と問われる時が来る」と教えておられたのです。そして、今日の譬えでおっしゃっていることは、その時にはどのように選り分けられるのか、どういう人が正しい人として受け入れられ、どういう人が神の前に通用しない人として捨てられるのか、その裁きの根拠を教えようとしておられるのです。
まず初めに、ここに言われている裁きは、普段私たちが思っているような人間的な尺度で行われるようなものではないようです。神に救われる人は「神を知り真面目に信じている人」で、神に裁かれる人は「信じ方が不真面目な人」だろうと、私たちは思っていると思います。また隣人への情け深さや愛の大きさという尺度で測られるのだから、隣人への善行を行なった人ほど神に褒められるだろうし、隣人のことを考えなかった人は駄目で裁かれると、漠然と思っていると思います。しかし、今日ここで主イエスが教えておられることからすると、右左に分けられた人たち、つまり正しい人で神の御国を受け継ぐと言われている人たちも、あなたの人生は神の前に通用しないので永遠の火の中に入れと言われている人も、どちらも驚いています。
「神の御国を受け継ぐことができない」と言われた人が、怒ったり残念がるのなら話は分かります。「神の御国なんてどうせ、いつ来るか分からないのだから、どっちでもいい。今の生活を楽しんでいればよい」と、神の事柄を軽んじていた人たちが、最後の裁きの時が訪れた時に、「なぜこんなことがあることに気づかなかったのだろうか」と残念がるとか、あくまでも神に反発して怒っているというのなら分かるのです。けれども、主イエスに「正しい」と言われている人たちも大変不思議がっています。どんな根拠で人は裁かれるのでしょうか。
34節から36節に「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』」とあります。これは裁かれる人たちにも同じことが言われています。42節43節「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」と、同じことの裏返しを言っておられます。それで、裁かれる人は当然反発しています。「わたしはそんなに主イエスに辛く当たった覚えはない。いつ私たちが、飢えている時に食べさせないとか、そんな心ないことをしたというのか」と反発していますが、主イエスは「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われました。そして、御国を受け継ぐ側の人は、そういうことをやってくれたと言っています。それで、両方の人が不思議がっています。
恐らくこれは、実際に終わりの日にこう言われる人たちばかりではなく、ここにいる私たちにも腑に落ちないことではないでしょうか。主イエスがここでおっしゃっている尺度は、「飢えている人たち、のどが渇いている人たち、旅をしているけれど宿の当てのない人たち、着るものがない人たち、病んでいる人たち、牢に囚われている人たち、そういう人たちに、あなたはどうしたのか」ということです。私たちが自分のこととして考えたら、どうでしょうか。私たちは飢えている人たちに食べ物を、のどが渇いている人に水を与えているのでしょうか、与えていないのでしょうか。宿の当てのない旅人に宿を提供するかしないか。私たちは、何を言われているのか、なぜこのようなことを主イエスがおっしゃるのか、よく分かりません。
よく考えると、飢えている人やのどの乾いている人は、この世の中に大勢います。今晩の宿に困っている人もいます。駅や公園で寝泊まりせざるを得ない人たちは実際にいます。牢屋に入っている人もいる。そういう世の中で、私たちはそういう人たち全員に必要なものを提供することが果たしてできるのでしょうか。「あなたはそれをしたか、しなかったか」と問われても、正直言って私たちは困ってしまいます。あるいは、私たちの身近なところで知人や友人にお金を貸して欲しいと頼まれて、言われるままに貸すということはないでしょう。見舞って欲しいと言われていながら、どうしても行けなかったということもあるでしょう。あるいは行ける場合もあります。ですから、ここに言われていることは、「すべての人に対してできているか、できていないか」という話ではありません。主イエスは、私たちにしてみればどうしても白黒で言えない、グレーにならざるを得ないことをおっしゃっています。「困窮しているすべての人のお世話をします」とは、誰も言えないからです。
では、どこで御国を受け継ぐ人と受け継げない人を分けることができるのでしょうか。正しいと言われた人も不思議に思い、そうでない人が反発をしているのは、主イエスのおっしゃっていることの尺度がはっきりしないからです。御国を受け継ぐと言われた人は「どうして、わたしが入れるのかな。特別なことをしたわけでもないのになあ」と不思議がります。反発する人たちは「わたしはそんな血も涙もない人間ではない。ある程度のことはしているのに、あの人は入れて、わたしが入れないのはどうしてか」と言っています。
そこで主イエスがおっしゃったことは、また不思議なことでした。40節、45節です。ここは主イエスがとても大事だと思っておられるので「はっきり言っておく」と前置きがされています。40節「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」。45節「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである』」。どちらでも問題になっているのは「小さい者」です。この「小さい者」を主イエスは「わたしの兄弟である」と言ってくださっていますが、兄弟どころか、「この人にしてくれたのは、わたしにしてくれたこと。この人にしなかったことは、わたしにしなかったこと」と、「最も小さい者は、わたしと同じなのだ」というくらいご自分に近づけておっしゃっています。主イエスはどういうわけか、小さいと言われている人たちのことを気にかけておられます。困っている小さい人たち、あるいは居ても居なくても他者から気にかけてもらえない人、軽く見られている人が、ご自分の兄弟であり、ご自身と同じだと言うほどに特別に、どうしてそれほどに気になさるのか、そのことがとても大きなことです。それは実は、主イエスが「十字架にかかるためにこの世においでになった」ということと、切っても切り離すことができない、結びつきのあることなのです。
主イエスがこのようなことをおっしゃると、聞いている私たちはつい、この世の中には小さい者も大きい者もいるのだと思ってしまいます。小さい者にするということは、大きい者にはしないということなのか。確かに私たちは、人間同士の間では、大きいとか小さいとか、気にしていないようでいて気にしています。私たちの世界では、とても質素な身なりで慎ましく生活しなければならない人と、大きなお屋敷に住んでいる大富豪は、滅多に同列には扱われません。皆、普通は、大変な厳しい暮らしをするよりも楽な良い暮らしをしたいと思っていますし、そうできる人は成功者、そうでなければ負け組とさえ言われます。私たちは、人間の目に豊かだと思えるほうに心を惹かれてしまいます。けれども、神は人間をそうはご覧になりません。この世で富を築いた人を神が重んじてくださるのかというと、そうではないのです。
人間は、神の前ではどう見られるのでしょうか。誰一人の例外もなく、神が一人一人に命をくださったのですから、「この命を神に心から感謝して、そして御心に添って生きているかどうか」と、神はご覧になるのです。
そして、そういう点から言うと、私たちは例外なく「小さい者」です。どうしてかと言うと、理由は聖書に書いてあります。創世記第1章の天地創造のすぐ後に、最初の人間アダムとエバが神から禁じられた「善悪を知る木の実」を食べてしまったことが語られています。そしてその時以来、人間は、「神がどうお考えになるかではなく、自分がどう考えるか」というところで生きるようになっているのです。私たちは特別に「エゴイスト」だと言われなくても、皆が皆、自分中心に生きています。それがあまりに当たり前すぎるので、自分がどれほど自分中心かに気づかないでいるのです。気づかないので、自分の人生は自分が主人公で、自分中心に生きるのが当たり前だと思って、誰もが暮らしています。そしてそれは、神の目から見れば、決して正しいとは言えない在り方なのです。
クリスマスの夜、無数の天使に照らされた羊飼いたちは恐れました。それは、真に清らかな光の中で、自分が神の前に正しくないことに気づかされたからでした。私たちは、本当に神に従うことができているのかどうかと考えれば、誰一人従えている人はいません。ですから、終わりの日、主イエスが再びおいでになって栄光の座にお座りになり、私たちを右と左に分け、私たちが裁かれていくときに、裁かれるべき落ち度のない人は一人もいない、ですから、誰一人の例外もなく「御国を受け継ぐことはできない」と言われても仕方ないのです。神を信じ洗礼を受けている人でも、牧師を始め、気がつくと神を忘れ、神抜きで暮らしているのです。けれども、日曜日に礼拝に来ると、神を忘れていたことを思い出し新しい思いをいただいて生き直すのですが、また失敗せずにはいられないのです。私たちは結局、神の御心から遠く離れた人生を生きてしまっています。ですから、その点を取り上げられて、「あなたは神さまの御国を継ぐことはできない」と言われれば仕方ない、それが神の目から見た私たちの姿、小さい者の姿です。
ところが大事なことは、神の目から見て小さい者たち、神の前で価値の無くなっている者たちが、「そういう者だから裁かれて滅んでしまってもよい」とは神はおっしゃらないで、そういう人を生かそうとして、主イエスを送ってくださったということです。なぜ主イエスが十字架に架かられたのか。それは、私たちが「裁かれて、火の中に投げ入れられてしまうような人間」だからです。放っておけば滅びるしかない私たちの罪を、神が主イエスに負わせてくださった、だから主イエスは十字架に架かられたのです。主イエスは私たちの身代わりに刑罰を受けようとして十字架に架かってくださったのです。
そして、主イエスが十字架に架かられたのは「小さい者を救うため」ですから、神は「小さい者がどのように生きているか」が気にかかるのです。「お前は小さいのだから辛い人生を生きていなさい。それがあなたの人生だ」と神から言われて、自分の人生は失敗だったと思って嘆くのではなく、「わたしは小さい者に過ぎないけれど、生きることができるとは、何と嬉しいことか」と言って生きて欲しいと、神は願っておられるのです。
私たちは、「誰に親切にしたら、小さい者にしたことになるのだろうか」と考えたら、きっとノイローゼになるでしょう。もし最後の時に、神に「良くやった」と言ってもらうためにそうしようとするならば、「この人は小さいかどうか」と思いながら過ごしていると疑心暗鬼になるでしょう。すべての人に親切にしてあげようとすれば、私たちはパンクしてしまいます。私たちは、どうしても出来ることと出来ないことがありますし、残念に思うこともたくさんある、そういう人生を生きているのです。
けれども大事なことは、主イエスが「小さい者に目を向けてくださっている」という事実です。ここで主イエスが「正しい人」とおっしゃるのは、「自分自身が小さい者なので、目の前に現れた小さい人に同情せざるを得ない、支えなければならなかった人たち」であり、その人を「あなたは正しかったよ」とおっしゃるのです。自分で正しいことをしたと思っている人は、主イエスはあまり評価されません。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と主イエスに問うた人たちは、自分ではやっているつもりですから、こういう不満が出てくるのです。そして、やってあげたことをよく覚えているわけですから、自分は良いことをやっていると思っているのです。「良いことをやっている」と思っているということは、そこで既にその人は大きな者になってしまっているのです。「自分こそ困っている人を助けたのだ」と思いながら、そういう行いを積み重ねながら、その行いによって、神に自分は価値のある者だと思ってもらえるようにと考えているのです。
私たちが、良いことだと思って行ったことを積み上げていくことを、神は「良い人生だ」とは見てくださいません。どんなに私たちが良いことを積み上げても、基本的に、私たちが神を離れ神抜きで生きていることに変わりはないのですから、その点で私たちは、自分では良いことをやっているつもりでも、小さい者でしかないのです。
神がそういう小さい者に目を注いでくださって、「あなたはそれでも生きてよいのだ」と言ってくださって、そのために主イエスの十字架があって、神からすれば「独り子を十字架に架けてでも、あなたが生きるようになって欲しい」とおっしゃっている、そのことを聞いていることが大事なことです。
そして、私たちはそういう裁きを最後に受けるのです。最後に裁きを受けるときに、小さい者に思わずしてしまった、そのことを神は重く見てくださるのだということをおっしゃっています。「正しい」と言われている人たちは、そのことに驚きます。自分がそんなことをしたとは思っていないからです。なぜ思っていないかというと、その人たちにしてみれば、些細なことだと思っているからです。良いことをしてあげたんだと思っていない。自分は本当に小さな者なのに命を与えられて感謝しているので、目の前にいた人を支えなければと思ってしたことだけれど、それは「やってあげたことだ」と思っていないのです。けれども、神はそれを「正しい。そのあり方は良い人生だ」と言ってくださるのです。
私たちが主イエスの十字架を理解できないとすると、それはもしかすると、自分が最後の裁きを受けるのだということを分かっていないせいかもしれません。けれども主イエスは、どんな人も、すべての国民が最後に主イエスの前に立たされて、真に明るい光の中に置かれて、「この人の一生はどうだったのか」と問われるのだと言われます。その時には、私たちは誰一人、「立派な人生を生きてきました」とは言えない人生を、今、過ごしているのです。けれども私たちは、「わたしの人生は立派ではないけれど、神さまが生きよと言ってくださり、そのために主イエスを十字架に架けてくださって、そういう光の中に立たされた人生だった」ということは、言えるのです。「主イエスが十字架に架かってくださったのだから、どんな人の人生の上にも、希望があるのだ」と、私たちには言えるのです。私たちは、そういう希望があることを聖書から聞かされて、そのことを伝えるために、この地上を生きるようにされているのです。
私たちの人生には、神に裁かれても仕方ないところがたくさんあります。自分自身はそうですし、他の人たちもそうです。けれども、「神さまどうか、裁かれて滅びないように、私たちの世界を守ってください」と祈りながら、そして「私たちは、それでもここで生きて良いのだ」ということを伝えるために、今日の命を与えられていることを覚えたいと思います。
主イエスがすべての教えの最後に教えられたこと、それは、「私たちは必ず神の裁きの前に立たされる、それは主イエスの十字架の光の中に照らされた裁きなのだ」ということです。いと小さき者のために主イエスが十字架に向かって行ってくださり、その人は小さいがゆえに相手にされなくても仕方ないような存在だけど、それでもその人が「生きることができているか」ということを主イエスは問題にしてくださっているのです。私たちは、そういう主イエスが共にいてくださるので、もはや決して絶望しなくても良い。「あなたは一人ぼっちではない」と言われています。
私たちは、人生に様々な問題を抱えますが、「今のこの生活は、主イエスの光の中に照らされている今日なのだ。そして、主イエスが『ここで生きて良い』とおっしゃってくださっている」、そういう生活を与えられていることを覚えたいのです。その生活は、自分で満足して喜んで生きることではありません。「皆で、生かされていることを心から喜び合いながら生きる」、そしてそのことを「周りの人たちに伝える」、そのために、私たちは今日を生きるものとされていることを覚えたいと思います。
そのように、私たちに与えられている人生を感謝しながら、新しい年を歩みたいと願います。 |