聖書のみことば
2019年12月
12月1日 12月8日 12月15日 12月22日 12月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月29日歳晩礼拝音声

 嘆きと救い
2019年歳晩礼拝 12月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第2章13〜23節

<13節>占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」<14節>ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、<15節>ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。<16節>さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。<17節>こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。<18節>「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」<19節>ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、<20節>言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」<21節>そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。<22節>しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、<23節>ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 ただいま、マタイによる福音書2章13節から23節をご一緒にお聞きしました。13節に「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」とあります。クリスマスの輝くような喜びの直後に語られるのは、ヘロデという王が幼子たちの虐殺を命じたという何とも痛ましい出来事です。こういう記事を通して、聖書は、主イエスがお生まれになったこの世界が牧歌の歌われるのどかな平穏な場所ではなく、悲しみや嘆き、痛みが多くあり、生きていくことに苦しみや悩みが付きまとい呻き声を絶えず上げなければならないような世界であり、まさに私たちが日々苦労し辛さを覚えることの多いこの世界の中に、主イエスがお生まれになったということを告げています。
 けれども聖書は、そのような主イエスのお生まれを語るのに一種独特な言い方をしています。今日の箇所には、お生まれになった嬰児について、旧約聖書の中で何度も予告されて来たことだという言い方で語ります。預言者ホセアの口を通し、また預言者エレミヤの口から特にヤコブの最愛の妻ラケルの嘆きを通して、そして最後には予言者イザヤとダビデ王を通して、嬰児の誕生について予告されていたと語っています。今日はその言葉を順に聞いてみたいと思います。

 14節15節に「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。「主が預言者を通して言われていたことが実現した」、それが、幼い主イエスがヨセフとマリアに連れられてエジプトに下ったことだと言われています。この預言者はホセアです。ホセア書11章1節に「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とあります。この言葉は、ホセアが預言しているというよりも、イスラエルの民がエジプトから導き出された出エジプトの出来事を振り返っている、回顧の言葉です。ユダヤ人の先祖に当たるイスラエルの人々は、エジプトで奴隷として生活していました。ところがモーセに率いられて奴隷生活から脱出して、約束の地カナンに導き入れられて一つの国民となります。モーセに導かれて奴隷生活を脱したことによって、神の民イスラエルの歴史が開かれ、その歴史がやがてユダヤ人に受け継がれ主イエスの時代にまで続いて来ているのです。イスラエルの民にとってエジプトという土地は、苦しく辛い奴隷暮らしを経験した地ではありますが、しかし同時に、指導者モーセが与えられ、新しい自由な生活が与えられたその出発が起こった土地でもあります。神はモーセを導き手としてお与えになり、エジプトからイスラエルを呼び出して「我が子として歩ませる」という生活を始めさせてくださいましたが、実は、今また新しい導き手をもう一度立てて、新しい救いの歴史をもう一度エジプトから始めようとしてくださったのだということが、今日のマタイによる福音書が語っていることです。
 主イエスを新しいモーセとしてお立てになる。そして主イエスに導かれるようにして、一人一人主イエスに従う者が神の民に加えられ、新しい人生を生き始めるようになる。ここにいる私たちも、そういう主イエスに導かれてそれぞれの命を生きるようにされています。

 嬰児を抱えた父ヨセフと母マリアがエジプトに逃れたということは、一面では、命の危険からの避難ということでした。マタイによる福音書は、その避難の出来事を伝えていますが、しかし、ただ逃げただけのことではないのだと語っています。エジプトに逃れさせられたそこには、新しい始まりがありました。エジプトに逃れ、そこからユダヤに帰ってくる。それは主イエスが新しいモーセとして、もう一度エジプトから導き手として現れてくださる、そういう道に繋がっているのです。

 さて、主イエスと両親は無事にエジプトに逃れましたが、その後、ヘロデ王はどうしたでしょうか。ヘロデ王は占星術の学者たちを欺いてユダヤ人の王として生まれた幼子のことを聞き出そうとしました。学者たちはまた自分のところに戻って来て、幼子のことを伝えてくれるはずだから、そうなれば自分も出かけて行ってその幼子を殺してしまおうと考えていました。ところが、その企みが御使いによって学者たちの知るところとなり、学者たちはヘロデ王の元へは戻りませんでした。ヘロデ王は自分が出し抜かれたことに気付いてどうしたかというと、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたという大変血生臭い出来事が生じました。16節に「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とあります。当事者になった子供や両親、家族親族にとっては、耐えがたい悲しみの出来事だったに違いありません。普通の神経では、こんな酷いことを命令することなどできないはずだと考えて、聖書の伝えるこの歴史をまゆ唾ものだと言う歴史家もいるようです。

 けれども、晩年のヘロデ王は特に猜疑心が強くなり、目に付く相手片っ端から処刑していったという記録が残っていますから、この幼児虐殺という出来事もあったかもしれないと思います。ヘロデ王は、自分にとって不安を感じさせる相手を次々と殺すという仕方で、自分が本当はユダヤ人の王として相応しくないのだということを露呈してしまうことになりました。ヘロデはエルサレムの王宮で王座に座っていましたが、しかし、本当には自分は王ではないことを行動によって露呈してしまいました。
 そしてこのことについて、マタイによる福音書は、預言者エレミヤの言葉を引用しながら説明しています。17節18節に「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから』」とあります。ラケルというのは、イスラエルの先祖であるヤコブという人の最愛の妻だった人です。ラケルはベツレヘムの近郊でベニヤミンという男の子を産んだ際に死にました。それで、ラケルはベツレヘムに葬られ、そこにラケルを偲ぶ記念碑が建てられました。今日ではそこにユダヤ教の礼拝所が建てられていて、安息日には多くのユダヤ人たちがそこで礼拝を捧げているようです。今日までラケルの死は覚えられているくらいですので、主イエスの時代にも当然そこにお墓があったことでしょう。ベツレヘムの子供たちは皆、ラケルのお墓に見守られながら育っていたでしょう。ところが、そのラケルの墓の面前で大勢の子供たちが殺されるという出来事が起こったので、ラケルが嘆き悲しんでいると言われているのです。これは預言者エレミヤが語った言葉で、エレミヤが生きた時代に起こった南ユダ王国滅亡とそれに続くバビロン捕囚という出来事の中で、母親たちが自分の若い息子たちを捕虜として連れて行かれてしまい、もう二度と会えない、その悲しみを言い表して語った言葉です。エレミヤ書31章15節に「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから」とあります。エレミヤが語っているのは、バビロンに捕虜として連行されてしまった子供たちを思う母親の悲しみです。
 そして実は、このように母親から子供を奪う大元の命令を下したのは、バビロン王ネブカドネツァルですが、主イエスを殺そうとして大勢の子供たちを母親から奪ったヘロデ王は、エレミヤ書の預言の実現だと言われることで、バビロン王ネブカドネツァルと重なると言われています。ヘロデ自身はユダヤの王だと思っていましたが、もはやヘロデはユダヤ人の王ではない、ユダヤ人に対して辛く酷い仕打ちをする敵方の王、かつてのバビロン王ネブカドネツァルが今のヘロデだということを、マタイによる福音書は語っているのです。

 二番目の子供たちが殺されていく場面では、今のユダヤには本当の王はいないということが語られています。残酷で小心で、自分の保身のためであればどんなことでもする、そういうヘロデに虐げられている、ヘロデのために苦しめられ悲しまされている、そういう人々が多くいる。そのような人たちのために新しいモーセをエジプトに備えてくださっている。主イエスをエジプトに逃れさせ、そこから呼び出すことで、新しい王が本当に神の民の王として人々を導いていく、そういう王が現れるのだということを語っているのです。

 そして三番目には、残忍な王ヘロデが亡くなってからのことです。主イエスとその家族はイスラエルの地に呼び戻されます。呼び戻されて帰って来たところ、ヘロデ王はいなくなっていましたが、その三男であるアルケラオがユダヤを治めていました。
 アルケラオという支配者も、父親のヘロデによく似たところがあって、乱暴で残忍な性質を持った支配者でした。そのためにアルケラオは、10年ほどの王位で暴動が起こり、ローマ帝国から統治能力が無いとみなされて失脚していくような人物です。けれども、ヨセフ一家がイスラエルに呼び戻された時には、まだアルケラオがいましたので、ヨセフはベツレヘムに戻ることを躊躇いました。すると天使のお告げがあり、ヨセフとマリアはガリラヤのナザレで暮らすようになりました。 22節23節に「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあります。主イエスが両親と共にナザレで暮らすことになり、そこで育ったのだと言われています。そしてこれも旧約聖書の預言だったと言われています。
 けれども、この言葉については、旧約聖書のどこを探しても重なる言葉は出て来ません。預言者の言葉の実現と言われていながらその言葉が見つからないということで、ここは大変有名な箇所です。
 どうして見つからないのかというと、旧約聖書のどこかの箇所を引用しているのではなく、マタイが言葉遊びをしているのだと言われます。主イエスがナザレの人と呼ばれたということは間違いないことですが、「ナザレの人」という言葉は、当時の言葉では「ノースリ」という言葉で、地名で言えば「ナザレの人」ですが、名詞として聞くと「若枝の人」という意味になるのです。例えば、「山梨の人」と言った場合、地名としての「山梨」を私たちは思い浮かべますが、人によっては「梨の実が実った豊かな人」というイメージを持つ場合もあるでしょう。「ナザレ」というのは、そういう意味合いがあるのです。「ナザレの人」と言うと「若枝の人」と聞こえる、そういう言葉です。
 そして「若枝の人」と言うと、当時の人が思い当たる預言の言葉があり、イザヤ書の言葉です。イザヤ書11章1節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」とあります。エッサイの株というのはダビデ王家のことです。ダビデの父がエッサイです。もう一つ、「若枝」で印象的な言葉があるのは、イザヤ書53章2節「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」です。
 主イエスが「ナザレの人、若枝の人」と呼ばれるようになりました。イザヤ書の語る「若枝」は、主イエスのことを指し示しています。ダビデ王家は「エッサイの株」と言われるように切り株です。ダビデ王家はずっと続いて大木になると思われていたのですが、今は切り倒され、もはや根っこの切り株しか残っていないのです。ですからダビデが率いていたイスラエルの国は堂々と続いていたのではなく、途中で捕囚さたり、主イエスの時代にはローマ帝国の属国になりながら細々と命脈を繋いでいます。しかしそのダビデの血筋から一本の若枝が生え出てくる。ひこばえとなって育ち若枝と成長する。それが、やがてもう一度ダビデ家から出てくる救い主なのだというイザヤの預言なのです。その若枝こそナザレの人、主イエスなのだと言っています。
 けれども、この若枝というのはダビデ家の末裔なので、周りから大いに期待を受け、歓呼の声に包まれて歩むということではありませんでした。もう一つのイザヤの預言では、「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と、救い主である若枝であるのに、まるでそんなこととは無縁な様子で、乾いた地に埋もれるようにようやく生きている木のように見えていたと言われています。地上の主イエスの御生涯は「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」、まさにこのようなものでした。水の乏しい乾いた大地の奥深くまで根を伸ばすことで、何とか命を繋いでいる、そういう若枝です。そして、根がそのように地面の奥深くまで張っているということは、私たちの目には見えないことです。私たちが目にするのは、地面から出ている若枝がようやく生きているということだけです。そんな枝は、すぐに枯れてしまうかもしれない見られるものです。けれども、この若枝は、地面のずっと深いところまで根を伸ばし、そこから命の水を得、命を繋いでいます。
 地上の主イエスは救い主であり、世界の王でしたが、まるでそんなふうには見えませんでした。そして、それは今でもそうです。私たちは教会に集まり、ここで毎週主イエスを礼拝しますが、教会の主が世界の主であるというと、いかにも大言壮語しているキリスト者の身勝手な我田引水のような言葉と見られてしまうかもしれません。それはどうしてかというと、主イエスは常に乾いた土から生え出た若枝でいらっしゃるからです。私たちは、主イエスがどんなに力強い命の水に潤された生命力を持っているかということを知らされていますが、しかし、それはこの地上では隠されているのです。

 今日の箇所から、どんなことが聞こえてくるでしょうか。嬰児である主イエスは、とてもヘロデ王に太刀打ちできそうにありません。ヘロデから命を狙われれば逃げ回らざるを得ないので、エジプトへと逃れます。強いものに圧迫され、いつも右往左往しているように見えるかもしれません。私たちの人生もそうかもしれません。いろいろな思いがけないことや思いを超えること、辛いことに出会って、その度に私たちはあちこち定まりなく過ごしているように思うことがあるかもしれません。けれども、神は、そのように見える生活の中から、新しい始まりを備えてくださいました。モーセがエジプトの奴隷暮らしから神の民を引き連れ新しい土地へと出て行ったように、私たちの定まりなく、落ち着きなく、寄る辺のない生活の中で、そこに神が新しい導き手を与え、新しい始まりを与え、新しい神の民をお造りになろうとしているのです。
 ヘロデは王だと名乗っていましたが、本当の王でないことは明らかでした。そういう者が支配しているこの世にあって、神は新しい始まりを備えてくださり、私たちを導いてくださる救い主、私たちの主、王である方を備えてくださっています。その方はどのように私たちを導いていくでしょうか。地面の深いところから命の水を汲んできて、私たちに与えてくださるのです。地上では弱く小さい者に思われるかもしれないけれど、その方が本当に、決して滅びることのないお方として私たちを導いてくださる、そういう主としてお生まれになっておられるのだということを、マタイによる福音書は語りかけています。

 神が本当にいらっしゃるのなら、なぜ私たちの世界にいろいろな悲惨なことがあるのか。そのようなことは、東日本大震災を経験した福島県の人が皆持った疑問だと聞いています。地震がなくても、あるいは津波が来なくても、私たちであっても、自分の生活の中で自分が揺さぶられたり、健康が奪われそうになったり、愛する者が取り去られたり、なぜこういうことが起こるのかと思わざるを得ないことはたくさんあります。私たちは神に対して深刻な疑問を持ったり、つまずくことが有り得るだろうと思います。ヘロデがこの世を治め、王者だと言い張っているように、私たちも一人一人翻弄され、動かされて行きます。しかし、そういう中で神が私たちのための救いの御業を始めてくださっているのです。
 「主イエスをエジプトに送り、そこから呼び出す」、そういう仕方で、神は新しい始まりを備えたのだとおっしゃってくださいます。

 本当に深いところから命の水を汲み上げ私たちに飲ませてくださる主に伴われ導かれている頼もしさを、聖書の中でキリスト者は語っています。
 使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた二通目の手紙で、キリスト者の強さを言い表しています。コリントの信徒への手紙二4章8節から10節に「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」とあります。主イエスは幼く無力に見え、常に命を狙われ逃げ回っているようでありながら、しかしそのような中で一つ一つ神のご計画を実現しておられたのだと、今日の箇所はそう語っています。エジプトに逃げたこと、またベツレヘムでの幼児虐殺の出来事も、主イエスがナザレの人と呼ばれるようになったのも、神の言葉の実現でした。主イエスは、振り回され追い回されているようでありながら、その生活の中で確かに神の御言葉を実現していかれました。そして、その主イエスが私たちの導き手なのです。
 私たちが辛い時、苦しい時、なぜこんなことが起こるのか分からない時、私たちはその理由を尋ね求めて、聖書の中に言葉を見つけようとしても見つからない、そういうことも多いかもしれません。けれどもそのような時に、主イエスは私たちのために、若木であるお方として私たちの前に立っていてくださるのです。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この方は私たちの前に立っておられるのです。
 そして、イザヤの預言の中で、このお方は散々に打ち叩かれ、傷つけられ、命を取られ、地上から取り去られました。私たちはこの方が勝手に神に打たれて苦しんでいるのだと思っていましたが、実は、それは私たちのためだったとイザヤは語っています。イザヤ書53章は非常に印象深い箇所です。

 私たちは本当に、このお方によって、倒されても倒れず滅ぼされない。決して行き詰まらない。そのように立てられていくのだと、聖書は語ってくれています。主イエスは人間の間に歩んでくださり、私たちが途方に暮れ困り果ててしまうような現実の中に共におられ、その中で一つ一つ神の言葉を実現して救いの御業を行なっていかれるのです。
 そして、その主イエスが今日、教会の主としてここに居てくださり、私たち一人一人の命も人生も、主イエスの命のうちに匿われ持ち運ばれていることを知る者とされたいと願います。

 最後に覚えておきたいことがあります。今日の箇所に現れている、主イエスの父親であるヨセフの行動です。今日の記事の中でヨセフは、夢で御告を受けると、黙って直ちに従って行動しています。ヨセフのこのような率直なあり方が、この家庭に臨む災を逃れて生き延びることに結びついています。例えば13節で「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」、そう聞かされると、ヨセフは朝まで待たず、幼子とマリアを連れてエジプトを去ったと語られています。あるいは19節「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった』」。そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れてイスラエルの地へ帰って来ました。しかしそこにはアルケラオがいるので躊躇しましたが、その後、22節「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と、ヨセフは自分に聞かされたことを全部、即座に応答する、そういう生き方によって幼子イエスの命を守っていく、父親として相応しい働きをしています。

私たちは、ヨセフのような率直さを果たして持てるかどうかはわかりませんが、しかし願わくは、このように、私たちが聞かされた御言葉に即座に応答できる、そのようなあり方を与えられたいと願います。御言葉を聞いたときに、それに従って行動していく、そういう単純さがこの家庭を災から救っていたと聖書が語っていたことを聞きながら、私たちも御言葉を慕い求め、御言葉に従って歩んでいく、そういう真っ直ぐさを与えられたいと祈りつつ、この年の境を越えて行きたいと願います。

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