聖書のみことば
2019年12月
12月1日 12月8日 12月15日 12月22日 12月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月3日主日礼拝音声

 聖霊の導き
2019年12月第1主日礼拝 12月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第10章24〜48節

<24節>次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。<25節>ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。<26節>ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」<27節>そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、<28節>彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。<29節>それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」<30節>すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、<31節>言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。<32節>ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある皮なめし職人シモンの家に泊まっている。』<33節>それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」<34節>そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。<35節>どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。<36節>神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、<37節>あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。<38節>つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。<39節>わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、<40節>神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。<41節>しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。<42節>そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。<43節>また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」<44節>ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。<45節>割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。<46節>異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、<47節>「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。<48節>そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

 ただいま、使徒言行録10章24節から48節までをご一緒にお聞きしました。24節に「次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた」とあります。ペトロたち一行がコルネリウスの待つカイサリアに到着したと述べられています。
 しかし、思えばこのことは驚くような出来事です。なんと言いましても、三日前までは、ペトロは「清くない物、汚れた物は何一つ口にしない」と頑張っていたからです。14節に「しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません』」とあります。このことは食べ物の好みのことを言っているのではありません。ペトロは旧約聖書に書かれている律法に照らして、相応しくない行いは断固拒否するという意味で、こう言い張っていたのです。同じ理屈から言えば、ペトロは、律法で禁止されている「外国人との親しい交わりを持つこと」を断固拒否してもおかしくはないのです。少なくとも三日前のペトロであれば、そう考えてコルネリウス訪問をためらっていたはずです。
 ところがペトロは、一晩よく考えた上で、コルネリウスを訪ねる決心をしました。それは、ヤッファで幻を示された時に、ペトロが天からの声を聞かされていたからです。15節「すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』」という御言葉でした。ペトロは、自分に示された幻と、その時に耳にした御言葉について、一晩ゆっくりと考えた末に、カイサリアへ行こうと決心しました。ですから、ペトロを動かしたのは、疑いようもなく、幻を見たという出来事です。

 ペトロ自身、コルネリウスの家に着くと、まずその幻の話から語り始めました。28・29節「彼らに言った。『あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか』」。ペトロ自身の言葉で「ユダヤ人が外国人と交際したり訪問したりすることは、律法で禁じられているけれども、幻を通して、どんな人であっても、神様が清められた人を清くないなどと言ってはならないと示されたので、あなたから招きを受けたときに、わたしはすぐに来ました」と言っています。
 実際には、コルネリウスからの使者がペトロのもとに来た時、ペトロはすぐに招きに応じたわけではありません。一晩よく考えた、その末にカイサリアに行こうと決心したのですが、しかしたとえそこで一晩要したとしても、ペトロ自身からすればとても速やかな決心だったと思っていたようです。裏返していうならば、それほどに、ペトロがコルネリウスを訪問するということは、以前のペトロであれば有り得ないことだったということです。有り得ないようなことが、ここで起こっているのです。

 このように、ペトロは自分に幻が示されたので、天からの声に聞き従うようにカイサリアにやって来たのですが、それにしてもペトロにとって不思議なことは、どうしてカイサリアに暮らしているコルネリウスが自分のことを知ったのかということです。同じ町の中ならばいざ知らず、カイサリアとヤッファでは50キロも離れた町です。一体どうして、コルネリウスはペトロの名を知ったのでしょうか。ペトロは主イエスの弟子ですが、コルネリウスは、ここでペトロに話してもらうことで、初めて主イエスの名前を知るようになる、そういうイタリア人の百人隊長です。一体どこに接点があったのか、なぜ自分が招かれたのか、ペトロが不思議がるのも無理ないことです。

 ペトロから乞われるままにコルネリウスが返事をしています。彼もまた、輝く白い衣をまとった人物に幻を示されたと言います。30節から33節でコルネリウスが語っています。「すると、コルネリウスが言った。『四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある皮なめし職人シモンの家に泊まっている。」それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです』」。ここにははっきりと書かれていませんが、恐らく、ペトロはコルネリウスの返事を聞いて、大変驚いたのではないでしょうか。
 ペトロからすれば、カイサリアに来たのは、幻を見たからでした。幻で示された御言葉によって「ユダヤ人だけが清いのではない。異邦人であっても、神さまが清めたのであれば清いのだ」と気づかされたので、カイサリアまで来たのです。けれども、そういうペトロの状態は、天から聞こえて来た言葉によって「異邦人と親しくしてはならない」という頑なな心からは解き放たれているものの、それでもペトロの方から乗り気になってカイサリアへ来たわけではなかったに違いありません。「よく分からず、不思議だけれど、とにかく行ってみよう」と思っているペトロは、「これから出会う異邦人に、どうやって主イエスを伝えたらよいのか」と思案していたでしょう。すぐに分かってもらえるとは思っていなかったと思います。
 ところが、実際にコルネリウスの家に通されてみると、その家の中ではコルネリウスだけではなく、大勢の親戚や友人まで呼び集められて、ペトロが来ることを一日千秋の思いで待ちわびていました。しかも、コルネリウスは最後に「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と言っています。こんな言葉を聞かされるとは、ペトロは果たして予想していたでしょうか。例えて言うならば、ペトロは路傍伝道でもしようかとカイサリアまでやってきて、外国人ばかり、神のことなど知らない人たちばかりのところで、どうすれば主イエスが神から遣わされた方だと分かってもらえるだろうかと思っていたのに、カイサリアに着くと、そこには既に教会の主日礼拝の準備が整っていて、大勢の人たちがペトロの説教を楽しみに待っていた、そういうことでしょう。「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」というコルネリウスの熱意に励まされるように、ペトロは語り出します。その言葉は、そのように励まされているペトロの感謝と喜びの響きが聞こえるようです。34節35節「そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです』」。

 ペトロがヤッファで示された幻は、まさに「神は人を分け隔てなさらない」ということでした。しかしペトロはその言葉を聞いただけでは、重い腰をあげただけだったでしょう。ところが実際にカイサリアに来たペトロが経験させられたことは、「本当にその通りだ。神は人を分け隔てなさらない」ということでした。
 この日ペトロがコルネリウスたちに語ったことは、もはや、異邦人や外国人にどう話したら分かるだろうかと小細工を効かせたような話ではありませんでした。まるで、ユダヤ人の同胞の前に立ち聞かせるような、率直な話をします。まず洗礼者ヨハネの名を出した後に、ヨハネの後からおいでになった主イエスが聖霊の御力によって目覚ましい働きをなさったこと、しかしそういう主イエスをエルサレムの人たちが十字架に架けて殺してしまったこと、ところが神は、主イエスを三日目に復活させられたのだと語ります。更には、自分たちは復活の主イエスの証人であること、主イエスは過去の偉大な人物として記憶されるだけではなく、今も復活しておられ、将来にもおいでになる、その一切のこことは、ペトロだけが言っているのではなく全ての預言者たちも証しして来たことだと語ります。
 ここでのペトロの説教は、まるで使徒信条を聞いているような率直さで語りかけられています。淀みなく簡潔に、しかしそれでいて、主イエス・キリストの御業の要点は全て網羅された形で語られています。ペトロがそのように決定的なことを淡々と語った時に、聖霊がまさに、そのような証しの言葉を待ちかねていたように激しくその場に臨み、居合わせた人たちが聖霊によって動かされることになります。
 ヤッファからペトロに同行して来たキリスト者たちも確かにそういうことが起こったと、驚きをもって認めます。そしてペトロは即座に決心して、コルネリウスたち一同に洗礼を施したと述べられています。これは、異邦人の土地で、完全に外国人だけに向けて語られた、記念すべき最初の説教です。そしてまた、最初の洗礼式です。
 今日の箇所には、そのように聖霊が働いたことが語られています。ペトロ自身の思いを超えて、大きな結果が生じています。

 しかし、私たちは今日、この記事を聴きながら、考えさせられるのではないでしょうか。この時の聖霊の働き方について、教えられると思います。今日の記事では、聖霊はどう働いているでしょうか。明らかに、コルネリウスとペトロの両方に働いています。両方に聖霊が働いた結果、普通なら考えられないような出会いが実現しました。ペトロがカイサリアに来る。そしてカイサリアで思いもよらない収穫が得られるのです。
 今日の記事は、例えて言えば、蝋燭の火を両側から燃やしているようなことです。あるいは、山のあっち側とこっち側で同時にトンネルが掘り始められて、山の中にトンネルが両側から進み、山の真ん中でトンネルが繋がって開通する、そんな話です。聖霊はイタリア人であるコルネリウスに働いて、主イエスの福音を聞く耳を与えたというだけではなく、福音の使者であるペトロの方にも働きかけて、それまでペトロが持っていた頑ななユダヤ教的な考え方から解放してくださっています。

 私たちが今日耳にしているこの記事は、昔の話として語られているのではありません。今日もなお生きて働いている、そういう記事です。聖霊は、教会に働きかけて、教会の門を外に向かって開かれるのです。すでに集められている人たちのサロンのような雰囲気を変えて、教会の門をこの世に向かって、聖霊が開きます。私たちは、会員制クラブに集う者としてここに集まっているのではなく、もっと外に開かれている場所に集められています。聖霊は私たちに働きかけ、教会をこの世に向かって開かせます。
 しかし同時に、その同じ聖霊が、この世を教会へと向かわせるのです。聖霊が働いて御業が行われる、その時に、教会とこの世とを隔てている壁が取り去られていきます。たとえどんなに分厚く難攻不落に見える城壁のようであっても、その壁はきっと打ち破られていくのです。
 旧約聖書のヨシュア記に、エリコの城壁が崩れ落ちるという記事が出て来ます。とても破れそうにない堅固な城壁が、神の力によって崩され、城壁の中に神の民イスラエルが踏み入ることができるようになりました。そういう気配というのは、今日、私たちの教会に全く無いかというと、そんなことはありません。私たちの教会にも、そういう印はいくつも与えられています。
 聖霊は、ペトロの時代に働いてコルネリウスに出会わせただけではなく、今日も、私たちの教会において、私たちの身の回りにおいて、両面作戦を展開していると言って良いと思います。

 ただし、注意して見なければならないことは、それはあくまでも聖霊の導きであるということを忘れてはいけないということです。教会が様々な手立てを尽くしてこの世との妥協を図ったり、聖霊の働きを教会自らが作り出そうとすることは本筋ではありません。教会やキリスト者がこの世に対して何かを企て行う、何かをしてやろうというのでは無いのです。そうではなく、教会もこの世も、共に聖霊の導きを受けて、今与えられているものを感謝して受け取りながら、一歩一歩道を辿っていくのです。
 ペトロとコルネリウスの双方が等しく聖霊に導かれて出会いを与えられたように、教会もまた、私たちに与えられているものを感謝しながら、私たちの今の歩みを一つ一つ続けていく。その先に、私たちがここで喜んでいるというだけではなく、神が新しいこの世との出会いを与えてくださっていることを覚え続けることがとても大事だと思います。

 私たちはキリスト者として、教会として、今の時になすべきそれぞれの務めをおろそかにしてはならないと思います。ひたすら、キリスト者として誠実に努めるということでなければなりません。そこで怠りがあってはなりません。しかし、ただ、そこで努め、仕えていく中で、最後のお祝いの席には、今は遠巻きに眺めているだけの人、あるいは、ただ居るだけに思える人、さらには、境目の外側に立ってなかなか中に入って来ようとしない人たちとも一緒に、神の食卓に連なるように招かれているのだということを待ち望むことを忘れてはならないと思います。

 今日これから行われる聖餐式に与ることができるのは、洗礼を受けている人、あるいは幼児洗礼を受けて信仰告白式を終えている人たちだけですが、しかし私たちが信仰の目を開いて周りを見渡すならば、今はまだ遠くにいる兄弟姉妹たちが、やがて一緒に、最後の復活の主イエスの聖餐の食卓に交わるようになることを、私たちは覚えるようでありたいと願います。
 私たちの間にいて、今日は聖餐に与らない方も、聖霊の働きのうちに置かれています。そして、私たちは皆で最後の食卓を祝うようにと招かれています。神から与えられている命を感謝し喜びながら「素敵な命を与えられて感謝いたします」と、神に感謝を捧げながら、共に祝いを祝うようにと招かれていることを覚えたいと思います。
 私たちは、そのような希望を持ちながら、今日これからの聖餐に与りたいと願います。

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