2019年12月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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聖霊の導き | 2019年12月第1主日礼拝 12月1日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第10章24〜48節 |
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<24節>次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。<25節>ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。<26節>ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」<27節>そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、<28節>彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。<29節>それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」<30節>すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、<31節>言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。<32節>ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある皮なめし職人シモンの家に泊まっている。』<33節>それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」<34節>そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。<35節>どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。<36節>神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、<37節>あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。<38節>つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。<39節>わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、<40節>神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。<41節>しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。<42節>そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。<43節>また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」<44節>ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。<45節>割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。<46節>異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、<47節>「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。<48節>そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。 |
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ただいま、使徒言行録10章24節から48節までをご一緒にお聞きしました。24節に「次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた」とあります。ペトロたち一行がコルネリウスの待つカイサリアに到着したと述べられています。 ペトロ自身、コルネリウスの家に着くと、まずその幻の話から語り始めました。28・29節「彼らに言った。『あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか』」。ペトロ自身の言葉で「ユダヤ人が外国人と交際したり訪問したりすることは、律法で禁じられているけれども、幻を通して、どんな人であっても、神様が清められた人を清くないなどと言ってはならないと示されたので、あなたから招きを受けたときに、わたしはすぐに来ました」と言っています。 このように、ペトロは自分に幻が示されたので、天からの声に聞き従うようにカイサリアにやって来たのですが、それにしてもペトロにとって不思議なことは、どうしてカイサリアに暮らしているコルネリウスが自分のことを知ったのかということです。同じ町の中ならばいざ知らず、カイサリアとヤッファでは50キロも離れた町です。一体どうして、コルネリウスはペトロの名を知ったのでしょうか。ペトロは主イエスの弟子ですが、コルネリウスは、ここでペトロに話してもらうことで、初めて主イエスの名前を知るようになる、そういうイタリア人の百人隊長です。一体どこに接点があったのか、なぜ自分が招かれたのか、ペトロが不思議がるのも無理ないことです。 ペトロから乞われるままにコルネリウスが返事をしています。彼もまた、輝く白い衣をまとった人物に幻を示されたと言います。30節から33節でコルネリウスが語っています。「すると、コルネリウスが言った。『四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある皮なめし職人シモンの家に泊まっている。」それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです』」。ここにははっきりと書かれていませんが、恐らく、ペトロはコルネリウスの返事を聞いて、大変驚いたのではないでしょうか。 ペトロがヤッファで示された幻は、まさに「神は人を分け隔てなさらない」ということでした。しかしペトロはその言葉を聞いただけでは、重い腰をあげただけだったでしょう。ところが実際にカイサリアに来たペトロが経験させられたことは、「本当にその通りだ。神は人を分け隔てなさらない」ということでした。 しかし、私たちは今日、この記事を聴きながら、考えさせられるのではないでしょうか。この時の聖霊の働き方について、教えられると思います。今日の記事では、聖霊はどう働いているでしょうか。明らかに、コルネリウスとペトロの両方に働いています。両方に聖霊が働いた結果、普通なら考えられないような出会いが実現しました。ペトロがカイサリアに来る。そしてカイサリアで思いもよらない収穫が得られるのです。 私たちが今日耳にしているこの記事は、昔の話として語られているのではありません。今日もなお生きて働いている、そういう記事です。聖霊は、教会に働きかけて、教会の門を外に向かって開かれるのです。すでに集められている人たちのサロンのような雰囲気を変えて、教会の門をこの世に向かって、聖霊が開きます。私たちは、会員制クラブに集う者としてここに集まっているのではなく、もっと外に開かれている場所に集められています。聖霊は私たちに働きかけ、教会をこの世に向かって開かせます。 ただし、注意して見なければならないことは、それはあくまでも聖霊の導きであるということを忘れてはいけないということです。教会が様々な手立てを尽くしてこの世との妥協を図ったり、聖霊の働きを教会自らが作り出そうとすることは本筋ではありません。教会やキリスト者がこの世に対して何かを企て行う、何かをしてやろうというのでは無いのです。そうではなく、教会もこの世も、共に聖霊の導きを受けて、今与えられているものを感謝して受け取りながら、一歩一歩道を辿っていくのです。 私たちはキリスト者として、教会として、今の時になすべきそれぞれの務めをおろそかにしてはならないと思います。ひたすら、キリスト者として誠実に努めるということでなければなりません。そこで怠りがあってはなりません。しかし、ただ、そこで努め、仕えていく中で、最後のお祝いの席には、今は遠巻きに眺めているだけの人、あるいは、ただ居るだけに思える人、さらには、境目の外側に立ってなかなか中に入って来ようとしない人たちとも一緒に、神の食卓に連なるように招かれているのだということを待ち望むことを忘れてはならないと思います。 今日これから行われる聖餐式に与ることができるのは、洗礼を受けている人、あるいは幼児洗礼を受けて信仰告白式を終えている人たちだけですが、しかし私たちが信仰の目を開いて周りを見渡すならば、今はまだ遠くにいる兄弟姉妹たちが、やがて一緒に、最後の復活の主イエスの聖餐の食卓に交わるようになることを、私たちは覚えるようでありたいと願います。 |
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