2018年5月 |
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5月6日 | 5月13日 | 5月20日 | 5月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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ラバンおじさんの家につく | 2018年5月第2主日礼拝(CSと母の日合同礼拝) 5月13日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/創世記 第29章1〜14節a | |
29章<1節>ヤコブは旅を続けて、東方の人々の土地へ行った。<2節>ふと見ると、野原に井戸があり、そのそばに羊が三つの群れになって伏していた。その井戸から羊の群れに、水を飲ませることになっていたからである。ところが、井戸の口の上には大きな石が載せてあった。<3節>まず羊の群れを全部そこに集め、石を井戸の口から転がして羊の群れに水を飲ませ、また石を元の所に戻しておくことになっていた。<4節>ヤコブはそこにいた人たちに尋ねた。「皆さんはどちらの方ですか。」「わたしたちはハランの者です」と答えたので、<5節>ヤコブは尋ねた。「では、ナホルの息子のラバンを知っていますか。」「ええ、知っています」と彼らが答えたので、<6節>ヤコブは更に尋ねた。「元気でしょうか。」「元気です。もうすぐ、娘のラケルも羊の群れを連れてやって来ます」と彼らは答えた。<7節>ヤコブは言った。「まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。」<8節>すると、彼らは答えた。「そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。」<9節>ヤコブが彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女も羊を飼っていたからである。<10節>ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。<11節>ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。<12節>ヤコブはやがて、ラケルに、自分が彼女の父の甥に当たり、リベカの息子であることを打ち明けた。ラケルは走って行って、父に知らせた。<13節>ラバンは、妹の息子ヤコブの事を聞くと、走って迎えに行き、ヤコブを抱き締め口づけした。それから、ヤコブを自分の家に案内した。ヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、<14節>ラバンは彼に言った。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ。」 |
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今朝は、普段別々に礼拝している子供と大人が一緒の礼拝を守っています。どうして一緒なのでしょうか。 教会学校では、4月の終わり頃から、ずっと続けて旧約聖書に出てくるヤコブのお話を聞いています。今日は、そのヤコブが、お父さんのイサク、お母さんのリベカ、お兄さんのエサウと一緒に暮らしていた家を逃げ出して、お母さんの生まれ故郷だったハランのラバンおじさんのところへ逃げて行って、そこで暮らし始めたことが書かれている聖書の言葉を聞きました。 ところで、私たちはどうでしょうか。私たちもヤコブと似たところがあるのではないかなと思います。日曜日に礼拝に来て、聖書のお話、神さまのお話を聞いたばかりの時は、「神さまは一緒にいてくださるんだな」ということがよく分かるようになるのです。けれども、月曜日になって保育園や幼稚園や学校が始まると、いつの間にか忙しく暮らしている間に、神さまのことを忘れてしまうということがあるのではないでしょうか。大人の人もそうです。毎日の生活が忙しくて、「あれも、これも、やらなければならない」と思って暮らしているうちに、「神さまがいつも一緒にいてくださる」ということを分かってはいても、いつの間にか忘れてしまうということはよくあるのです。私たちは、改めて「あなたは神さまに守られていますか」と聞かれると、「ああ、そうだった」と思い出すことができますが、一人でいると、いつの間にかまた忘れてしまうのです。 ヤコブは長い旅を続けました。ヤコブは神さまを忘れていましたが、神さまの方では、そんなヤコブをいつも見守ってくださっていて、とうとう最後までヤコブは旅を続けることができました。長い旅の末にハランの地に着きました。 ヤコブはハランの町の井戸に着きました。実は、ずいぶん昔のことですが、ヤコブのおじいさんに当たるアブラハムが、自分の子供のイサク、つまりヤコブのお父さんですが、イサクのお嫁さんを探すために、アブラハムの僕をハランに遣わしたことがありました。その僕はエリエゼルという人ですが、この人も、今日の箇所でヤコブがたどり着いた井戸と同じ井戸に着いたのです。井戸にたどり着いた時、エリエゼルは、「神さま、ありがとうございます」と言って、お祈りをしました。創世記24章26節27節に「彼はひざまずいて主を伏し拝み、 『主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました』と祈った」とあります。このようにエリエゼルは、無事に旅ができたことを感謝してお祈りしています。では、ヤコブはどうでしょうか。今日のところを読んでも、お祈りをしている様子がありません。どうやらヤコブは、お祈りすることを忘れてしまっているようです。 ヤコブはこの後、ラバンおじさんの家で暮らすことになります。今日の箇所では、「ヤコブがハランに着いて、ラバンおじさんの家で暮らせるようになって良かった」という話ではあるのですが、気がかりなことは、神さまがここまでヤコブを守ってたどり着かせてくださったのに、「神さま、これまで守ってくださって、ありがとうございます。今からまた新しい生活が始まります。どうか神さま、わたしと一緒にいてください」、そういうお祈りをヤコブが忘れてしまっているということなのです。このままで良いのでしょうか。 そして、そういう時にヤコブは思い出しました。「ぼくは神さまが守って下さったから、ここまで来れたんだった。神さまが守ってくださるのだから、もう一度、この家を出て、元の場所である自分の家に帰ろうかな。そう言えば神さまは、『必ず、ここに連れ帰るよ』っておっしゃっていたな」と、それはハランに来てから20年くらい経ってからのことですが、思い出すのです。神さまは、こんなふうに長い時間をかけて、「神さまは守ってくださるのだ」ということを分からせてくださるのです。 私たちが毎週、教会で礼拝している礼拝は、神さまが「ここから一週間、歩いて行っていいんだよ。そしてまた、一週間経ったらここへ戻っていらっしゃい」と、言葉をかけて下さっているのです。ですから、私たちは教会に来る時に、「神さま、一週間守って下さって、ありがとうございました。ここから始まる新しい一週間も、どうかわたしと一緒にいて守ってください。どうか一緒に歩いてください」と、お祈りをしながら礼拝していくのです。 |
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