2018年5月 |
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5月6日 | 5月13日 | 5月20日 | 5月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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一デナリオンずつ | 2018年5月第1主日礼拝 5月6日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第20章1〜16節 | |
<1節>「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。<2節>主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。<3節>また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、<4節>『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。<5節>それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。<6節>五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、<7節>彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。<8節>夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。<9節>そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。<10節>最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。<11節>それで、受け取ると、主人に不平を言った。<12節>『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』<13節>主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。<14節>自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。<15節>自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』<16節>このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 |
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ただ今、マタイによる福音書20章1節から16節までをご一緒にお聞きしました。1節に「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」とあります。 譬え話はどう進んでいくでしょうか。先を読んでみましょう。13節から15節に「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』」とあります。「一デナリオンの約束」と言っていますが、「一デナリオン」とはどのくらいの金額でしょうか。聖書の後ろに度量衡の表があります。そこを見ますと、「一デナリオンは、一日の賃金に当たる」とあります。ですから、「一デナリオンの約束」は、一日分に相応の賃金を支払う約束だったということです。主人は夜明けに労働者を雇って「一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」とあります。約束通りに支払っているのですから、賃金を減らしているわけではありません。ですから「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか」と主人は答えました。 しかし、この説明で労働者は納得したでしょうか。この労働者が問題にしているのは、自分の賃金が減らされたということではありません。そうではなく、夕方から働いた人への扱いが良すぎると言って怒っているのです。自分の賃金はともかく、あの人たちへの対応はおかしいではないか。そうすると、この対話は噛み合っていないと思います。苦情を言った労働者は主人の答えに納得しないまま、平行線で終わるのではないでしょうか。譬え話はここで終わっているのです。 19章16節で、一人の裕福な青年が主イエスのもとにやって来て、主イエスに質問をぶつけるというところから話が始まっています。青年は主イエスに質問し、答えを聞いて、悲しみながら立ち去りました。青年の質問は「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」というものでした。この質問は、主イエスを試そうとするような悪い思いからの質問ではなく、本心からの問いです。「永遠の命」、それは私たちの感覚から言えば「これで本当に良いと思えるような命」です。青年は、本当に良い人生だと思えるような命を生きたいという願いを持って、主イエスのもとにやって来ました。「本当に良い人生を生きたいので、自分は聖書に書かれている掟を全て守っている。それ以上に良いと思えることは何でもやっている。けれどもまだ自分は満たされている気がしない。どうしたらよいのか」。一生懸命なのに満たされないのは気の毒なことですが、主イエスはこの時、この青年に欠けているものをいち早く見抜かれました。「なせこの青年は、良いことをやっているのか。なぜ自分で正しくあろうとしているのか」。それは、自分の人生はこれで良いと満足したいためなのですが、自分の満足を求めるというところに落とし穴があるのです。 そういう青年の姿を弟子たちが見ていて、ペトロが横合いから口を出します。27節「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか』」。実はこの時、ペトロは、青年と主イエスのやりとりを見ていながら何も理解していませんでした。青年は悲しみながら立ち去りましたから、幾分かは主イエスのおっしゃったことを分かったのですが、決心できませんでした。けれども、ペトロはもっと無邪気で、「あの人は財産をたくさん持っているから手放せないだけだ。でも、わたしは全部手放してイエス様に従った。だから、あの青年よりわたしの方が正しく生きている」という思いです。「わたしは全てを手放して従うことができています。つきましては、イエスさま、私たちは何かいただけるのでしょうか」と聞いているのです。ペトロがここで、「全てを捨てて従っています」と言っていることは、富める青年が「聖書に書いてある掟を全て守ってきました」と言っているのと、ほとんど変わりがありません。 ペトロは、大祭司の官邸で主イエスを3度知らないと言ってしまい、そういう自分でしかないと知って激しく泣き、すっかり落ち込んで、復活の主イエスが現れ、お会いした時には、主イエスを裏切ったという後ろめたい思いだけを持って暗い気持ちでいました。けれども主イエスは、そういうペトロに向かって、「そうは言っても、お前はわたしを愛しているだろう?」と3度聞いてくださるのです。3度知らないと言って裏切ったペトロに、「確かにあなたは、そういう弱さを持っているけれども、では本当に、あなたはわたしを知らないのか?関わりがないのか? わたしのことを愛するか?」と聞いてくださるのです。ペトロはそう聞かれると、主イエスを愛していますから「愛します」と答えるのですが、3度聞かれて最後には、自分が主イエスを裏切ったことを思い出し悲しくなって、「イエスさま、それはすべてあなたがご存知です。わたしがあなたを愛していることは、わたしがそうだと請け合うことではなくて、あなたのほうが知っていてくださることです」と答えるのです。そしてペトロは、その後、主イエス・キリストの教会であればペトロという名を知らない人はいないくらいの使徒となりました。それは、ペトロが主イエスを信じ従い切る力を持っていたからではありません。誰がそのような真実を創り出してくださっているかというと、主イエスがペトロの中にある「主イエスを愛する心」を「あなたはわたしを愛するか?」という問いによって繰り返し確かめてくださり、ペトロが主イエスに従っていくのに相応しいあり方をすることができるように、ペトロの中に「主イエスに従う者」を創っていってくださったのです。 16節に「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と言われています。ペトロは、富める青年の話を聞いていた時には、自分自身の決心によって主イエスに従っていると思っていました。自分に思いがあるから、主イエスに従えていると思っているのです。けれども実際には、自分の決心では従い切ることはできないのですが、このことにペトロは気づきませんでした。それは「このわたしが従っているのだ」という自負心があるからです。自負心が邪魔をして、「主イエスが自分の中に従う者を創ってくださっている」ということを見つけ出すことができませんでした。そのために、ペトロは「後の者」にされて行くのです。 今日の譬え話で、どうして主人が労働者に苦情を言われることになったのか。その理由は、主人が支払いの順番を、後から来た人からにしたところにあります。もし支払いの順序が、この日働き始めた順、朝早く来た人からであったならば、最初に1デナリオン貰った人は、「ちゃんと一日分の賃金をもらえた」と喜んで帰ったはずで、夕方から来た人にも1デナリオンが支払われたことは知りませんから、何も問題は起こらなかったはずです。むしろ、問題にならないように、先に来た人から順に支払っていればよいという話です。ところが、この話の中心は、主人がわざとこの順番を逆にしたというところにあります。わざと逆にしたために、朝早くから来た人たちには、「自分たちはこんなに苦労したのに」という思いが頭をもたげてきたのです。どうして主人はこのようなことをしたのでしょうか。朝早くから来た人たちに、全ての人が「1デナリオン」、つまり、「人が一日生活するのに必要な賃金」が支払われることを知って欲しいからです。 私たちは教会にやって来て、「主イエスが共にいてくださるのだ」と聞かされながら喜んで生活していますけれど、しかし、自分自身に目を向けるときには、つい弱気になってしまいます。自分は本当に惨めな貧しい者にすぎないと思わざるを得ません。そして、それは幾分か正しいことです。私たちは本当に、自分の力で主イエスに従えないところをたくさん持っています。けれども、そういう私たちの中に、主イエスが「本当に主イエスに従っていく真実な者を創り出してくださる」のです。礼拝を捧げ、御言葉を聞かされる中で、私たちは嬉しいと思う。ですから、「また礼拝に集いたい。聖書の話を聞きたい」と思うのです。私たちが教会に来るのは、主イエスが「あなたは、惨めな貧しいところがあるけれども、それでもあなたは、わたしのものだよ。だからあなたは、そこで、わたしのものとして生きていってよいのだよ」と言葉をかけてくださり、実際に私たちの中に信じるあり方を創ってくださる。ですから私たちは、教会を離れず、礼拝を守り続けることができ、また今日もこの礼拝に集わされているのではないでしょうか。 そしてそうであれば、「わたしの中に主イエスが信仰を創ってくださっている」ということを素直に認めることがよいのだと思います。まだわたしは十分に分かっていないから、洗礼を受ける資格がないと思っていらっしゃる方もいるかもしれません。けれども私たちは、自分の力や自分の努力で「信仰がある」という域に達することができるのかということについては、考えた方がよいだろうと思います。そうではなくて、実は、主イエスの方が私たちの側に信じるあり方を創り出してくださっている。「あなたは全てに先立って、わたしの愛する、わたしの子なのだ」と呼びかけてくださっている。そういう主イエスが、今日も私たちの前に来ていてくださって、「あなたはわたしのものだよ」と呼びかけてくださっている。そのことを分からせるために、先にいる者は後に回らなければならないし、後にいる者は一番最初に主イエスに出会わされるようにしてくださる。そして、「全ての者が一人の例外もなく、今日生きるのに必要な信仰を与えられて生かされている」ということを覚えたいと思います。 私たちは、自分自身についてそのことを思うだけではなく、主イエスがそのように一人ひとりを覚えてくださることを思い、私たちが覚える近しい家族や友人たちについても同じような期待を持ってよいのではないかと思います。私たちの覚える一人ひとりが、今私たちが願うような形で教会の礼拝に集うことができていないとしても、それでも主イエスがその人を、「わたしの民の一人だ」と呼んでくださるのであれば、私たちはそのことを信じたいと思います。 |
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