聖書のみことば
2018年3月
  3月4日 3月11日 3月18日 3月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月25日主日礼拝音声

 憂いから喜びへ
2018年3月第4主日礼拝 3月25日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/ヨハネによる福音書 第16章16〜33節

16章<16節>「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 <17節>そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」<18節>また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」<19節>イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。<20節>はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 <21節>女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。<22節>ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。<23節>その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。<24節>今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」<25節>「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。<26節>その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。<27節>父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。<28節>わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」<29節>弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。<30節>あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」<31節>イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。<32節>だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。<33節>これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 ただ今、ヨハネによる福音書16章16節から33節までをご一緒にお聞きしました。中程にあります22節には「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」とあります。ここには「あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われています。
 普段私たちは、こういう言葉をあまり耳にしないような気がします。ですからこういう言葉を聞かされると、ふと耳をそばだてずにはいられません。「喜び」、しかも「本当の喜び」がいつの間にか私たちの間から遠退いてしまっています。私たちの生活には、たくさんの苦労や悩みがあり、悲しみや辛いことばかりがこの世を覆っていて、心が痛むようなことばかりが多いのです。自分を振り返ってみるときに、私たちは、毎日襲ってくる不安や悩みで心を忙しくしてしまっているのではないでしょうか。食べ物に事欠くということはなくても、だからと言って私たちは、この地上の生活が満たされているとはとても言えないようなところがあります。喜びたいと思って、いろいろなことに手を出しますが、しかしそれでいて、心からの喜びに飢えている人というのは、多いと思います。今日果たして、一体どれほどの人が、本当に喜んで自分の命を生きているでしょうか。まして、自分に与えられている喜びが溢れるほどなので、それを携えて行って、誰か他の人にその喜びを手渡したり、「あなたにも喜びがあるのだ」と約束できる人は、どこにいるでしょうか。ここには「あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われていますが、しかし、誰が一体こういう言葉を実際に口にすることができるでしょうか。

 しかし、ふとこのように思ってしまう時に、私たちは大切なことを忘れていないでしょうか。私たちが今読んでいる福音書の「福音」という言葉は、もともと「喜びの知らせ」という言葉だったはずです。愛宕町教会では先週から今週にかけて聖書の通読をしていますが、「聖書を開く」ということ、「福音書を開く」ということは、「これを開く度に、あなたがたには本当の喜びがある。あなたがたは心から喜んで良いのだ」と聖書から呼びかけられているということに他なりません。
 ですから、キリスト者である私たちが、もし自分たちの間で「ここに本当の喜びがある」と言うことが出来ないでうなだれているということであれば、問題は、この世の暮らしの方にあるのではなく私たち自身の側にあるということになるのではないでしょうか。つまり、福音書、聖書が私たちに告げようとしている本当の喜び、聖書が私たちに手渡そうとしている真に大きな喜びというものを私たちがまだ十分には理解できていない、そこに喜びが見出せない原因があるのではないでしょうか。聖書が語ってくれていること、それを本当に私たちが理解することができて、私たちが、今生きている世界を聖書が告げているように見ることができるならば、きっと私たちは、今置かれている生活の中にあっても心から喜ぶことができるようになります。聖書が私たちに聞かせようとしている大きな喜び、それがどういうことなのかということを、今朝はこの箇所から聞き取りたいと願います。

 まず、しばしば誤解されることではあるのですが、聖書の中に語られている喜びは、いわゆる楽観主義のようなものではありません。キリスト教の信仰は、決して楽天的な楽観主義ではありません。楽観主義、あるいは積極思考と呼ばれる場合もありますが、こういうあり方を好む人はどのように生きるでしょうか。自分の人生の中で、いつでも、またどこにいても、自分の人生の愉快で希望たっぷりな側面ばかりを強調して、それだけを取り出して考えようとするのです。願ったこと、望むことはきっと実現すると固く思い込んで、そうならない場合がある時には横を向いて取り合わないようにする、それが楽観主義の人です。楽観主義の人は、この世の現実の、ある一方側だけを受け止めようとし、もう一方の側は無視しようとします。
 実はこのことは、これと全く逆のことに見える悲観主義の人たちにも同じようなところがあります。悲観主義の場合には、私たちが生きている現実の良い面を受け止めようとしないのです。何か好ましいことを経験させられる場合にも、そのことに感謝しようとなどしません。たまたま今は良いことが巡って来ているけれども、どうせこれに続けてまた何か悪いことが起こるに違いないと考えてしまいます。悲観主義の人はそう考えて、自分では現実を見通している気になっています。ですから、悲観主義と言われたくない人は現実主義だと言うかもしれません。けれども、そう言うあり方は、周りの人たちが自分によくしてくれているということを受け取ろうとしないのですから、言葉が強すぎるかもしれませんが、恩知らずなあり方をしていると言って良いだろうと思います。悲観主義は悪いことばかりを受け取ろうとし、楽観主義はこの世の人生の明るく楽しい昼の部分だけ受け止めて、この地上の生活に暗い闇の部分があるということを認めようとしません。ですから楽観主義の人は、自分では大変良い生き方をしているつもりでいても、周りの人たちからは非難されても仕方のないところがあります。あなたは半分自分を偽っていると言われても仕方のないところがあるのです。
 私たちは、誰であっても自分の人生の中に良い事も悪い事も抱えています。ですから、「自分の人生は良い事ばかりだ、悪い事ばかりだ」と決めることは出来ないはずです。事によると、キリスト教の信仰生活に疲れてしまうという場合には、信仰について思い違いをしているということがあるのではないかと思います。すなわち、「教会では皆が幸せそうにしているし、世間によくある陰口や悪口を言う人もあまりいないように思う。それは、何か悪い事があっても、なるべくそれを考えないようにして、お互いに良い事だけを言い合っている上辺の付き合いに過ぎない。だから自分も合わせなくてはならない」と思ってしまうならば、確かに疲れていくに違いありません。自分は辛いことや悲しいことをたくさん抱えているけれど、努めて明るくつき合わなければならない。そう見せることが教会生活であると思うならば、私たちは疲れてしまいます。ただでさえいろいろな困難を抱えているのに、さらに教会に来てまで自分を偽り、自分は明るいだけの人間だと振る舞わなければならないとすれば、それは確かに疲れるでしょう。しかしそれは、そのように振舞うことがそもそも誤りであると言わなければなりません。自分を偽りごまかして、実際以上に良く見せようとすることに疲れてしまう、そういう疲れです。
 けれども、教会はそういう場所ではありません。むしろ私たちは、自分自身が様々に上手くいかないことに悩んだり嘆いていることを抱えながら、教会にやって来ます。そして、そこで本当に、「今ここにいる自分を神さまが受け止めてくださっている」と御言葉から気づかされて、そしてもう一度、「神さまが導いてくださる人生を歩んでいけるのだ」と知らされて生きていくことが教会生活です。

 さて、聖書の言葉に戻りますが、「あなたがたは心から喜ぶことになる」という本当に喜ばしい呼びかけを聞かされている人たち、主イエスの弟子たちがどのようであったかを考えてみたいと思います。「あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われていますから、きっと、とても楽しい生活をしていたのだろうと思いますが、そうではありません。主イエスからこういう言葉をかけられている弟子たちは、深く傷つき、憂いや不安をたくさん抱えている人たちです。22節の初めに「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる」とあります。20節にも「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」とあります。「あなたがたは心から喜ぶことになる」と主イエスから呼びかけられた弟子たちは、いつも楽しく愉快な気分でいる楽観主義者ではありません。努めて自分の気持ちを明るく引き立たせようとして、自分で自分に鞭打ちながら過ごしていくという人たちではありません。むしろ弟子たちは、その身にも魂にも不安や憂いの種を十分すぎるほどに抱えている人たちです。弟子たちは言いようのない不安や恐れの中にいます。まさに「泣いて悲嘆に暮れる他ない」という事情のもとを歩んでいる一人一人です。
 そして弟子たちは、そういう自分の心の内を、日々の暮らしの賑やかさや忙しさで紛らわそうとはしません。弟子たちは実際に、「不安や恐れや憂いに捕らわれ、悲しみや嘆きを抱え、途方に暮れている」、そういう姿のまま、主イエスの前に佇んでいます。ところがまさに、そういう弟子たちの悲しみが「喜びに変えられる」ということが、今日ここで言われていることです。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われています。ですから、ここに言われている喜びは、ただ人生を無邪気に楽しむという喜びではありません。ここに言われている喜びは、敢えて言うならば、「喜びへと変えられていく悲しみ」と言っても良いだろうと思います。
 「喜びに変えられる悲しみ」というのは、喜んだり悲しんだりすることが次々と巡り来るということとは違います。今までひもじい思いをしてきた人が美味しい食事にありつけて喜ばされるということでもありません。そういう類いの喜びや満足であれば、それはまた、悲しみや飢えに逆戻りするということもあり得るでしょう。けれども、今日ここに言われている喜び、すなわち「喜びへと変えられていく悲しみ」というものは、私たちが日毎に経験する悲しみや辛さ、嘆きが取り去られることによって嬉しくなって喜ぶというのではありません。そうではなく、私たちが抱えている日々の悩み、辛さ、苦しみ、憂いは、確かに自分の生活の中に宿っているけれど、しかしそういうもの一切が、深いところで質的に変えられていくようなところがあるのです。悲しみや痛みを抱えているけれど、しかしそれがまさに喜びに繋がっていく、そういう類いの喜びです。例えて言うならば、穏やかで暖かな春の日は厳しい冬の日々の後に続いてくるけれど、そういう冬がなければ春は訪れない、それに似ているようなところがあります。同じ「喜び」という言葉であっても、深い嘆きや深刻な苦しみを経験した人でないと分からない、そういう類いの喜びがあります。ですから、自分が苦しんだり悲しんだりすることを絶対に嫌だと言ってそれを避ける人、嘆いたり憂いを持つことを拒絶する人、そういう人にはどうしても分かりようのない喜びというものがあるのです。辛い嘆きや悲しみ、苦しみを経験して、そしてしみじみと自分の限界を思い知らされる。もう本当にこりごりするけれど、自分はそういう自分でしかない。それを知っていながら、更にそれを覆ってくるような喜び、あるいはその悲しみや痛みや嘆きが喜びに変えられる、そういう喜びがここでは語られているのです。
 主イエスはそれを、出産に喩えて語っておられます。21節に「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」とあります。どんなに小さな命でも、その命が生まれて来るにあたっては、命がけの出産の業があるのだと言われています。子供を世に送り出すためには、産みの苦しみや痛みを抜きにするわけにはいきません。仮に、陣痛の苦しみや痛みを完全に避けることができたとして、そのようにして新しく母親になった女性は、産まれてきた命について、どれだけ「これは、わたしがお腹を痛めて産まれてきた命だ」という喜びを持つことができるでしょうか。
 ここには「あなたがたは、心から喜ぶようになる」と言われます。しかし、この喜びは、産み出されてこそ、与えられることです。痛みを伴って産み出されてこそ、この喜びは生まれてきます。その喜びはあまりにも大きいので、つい今しがた経験したばかりの痛みも辛さも、肉体には余韻が残っているとしても、喜びの方がはるかに大きく自分を包んでくれる、そういう喜びなのです。子供を産んで辛かった、苦しかったと言って涙を流し、産まれた後もまだ泣いている母親はいないはずです。産み出すことができた、そこには本当に大きな喜びがあり、輝くような眼差しが生まれるに違いありません。20節に「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、…その悲しみは喜びに変わる」と言われています。悲しみ、不安、憂い、痛み、そのようなものがあってこそ、まことの喜びがそこには生まれてくるのです。

 けれども、本当の喜びとはそういうものだと聞かされて、私たちは、それを鵜呑みにしてしまって良いのでしょうか。聖書には確かにそう書いてありますが、これはただ言葉だけの、字面だけのことではないでしょうか。そうではありません。この喜びについて主イエスが弟子たちにお語りになった時、実は主イエスご自身が最も人生の辛いところに立っておいでなのです。主イエスは、この言葉を語ってから24時間以内にお亡くなりになります。これは主イエスが捕らえられる直前、最後に弟子たちに語っている言葉なのです。
 弟子たちはもちろん、将来どうなるか分かっていません。自分たちの先生が捕らえられるなどとは夢にも思っていません。けれども、主イエスは既にこの時に、ご自分が数時間後に捕らえられ、夜の間に不当な裁判を受けて朝には形だけの裁判が開かれ、ピラトの前に引き出されて、そして、ピラトも責任を回避して十字架につけるという判決を出し、日が昇った時にはもう十字架につけられるであろう、そしてその日のうちにご自身の命が終わるであろうということを承知しておられるのです。そういう意味では、「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、…その悲しみは喜びに変わる」と言われる、その悲しみ、辛さや苦しさ、痛み、憂いを最も深く感じざるを得ないのは、主イエスご自身なのです。にも拘らず、「その悲しみは喜びに変わる」とおっしゃるのです。
 今から起こることを主イエスはよく承知しておられます。嫌なこと、辛いこと、苦しいことが起こらないで回避されるから喜べるということではありません。死ぬほど辛いこと、苦しいこと、深い嘆きや辱めを受けて本当に死んでしまうということ、それがこの先に待ち受けていても、その苦難をくぐって、なお歩んで行くことに意味があって、そして「そこに命が新しく生まれる」という喜びがあることを承知して、主イエスはこの言葉を語っておられるのです。
 私たちも、そのように主イエスが語ってくださるからこそ、毎週教会に通い続けることができるのだろうと思います。もし教会にやって来て、「あなたの苦しみや悲しみは、考え方一つで苦しくなくなります」と言われたり、「祈れば、そういう苦しみは立ちどころになくなります」などと言われたら、私たちは、とても続けて教会に通うという気持ちにはなれなくなるだろうと思います。
 私たちが聖書から聞かされている福音とは何か。それは、嫌なことや辛いことが取り去られ、楽しい一方のバラ色の人生が開けるという、そういうことが福音なのではないはずです。そうではなく、「たとえどんな場合であっても、十字架の主があなたと共にいる。そしてこの方が本当に、あなたの苦しみや嘆きや悲しみをご存知で、受け止めて、そしてそこに新しい希望、新しい喜びをもたらしてくださるから、あなたはここで生きていけるのだ」と、聖書から聞かされるからこそ、私たちは、教会に続けて通い、毎週同じ福音を聞き続けていられるのだと思います。「十字架の主があなたと共にいる」と聞かされる。「主イエスが私たち共にいてくださる」という約束、そこに私たちの喜びの源があり、平安があるのです。

 けれども、ここでは、なお注意して耳を傾けなければならないことが語られています。16節で主イエスは「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われました。ここで主イエスがおっしゃっていることは、単純に主イエスが視界の中から消えてなくなるということだけではありません。主イエスがいらっしゃらなくなるということは、弟子たちにとっては、同時に、神との結びつきも失ってしまうということに他なりません。主イエスが十字架にかけられて殺される、そして弟子たちの間から取り去られてしまう、そのことを経験するときに、弟子たちは、神のことが皆目分からなくなってしまうのです。「神さまがわたしを愛してくださっている。だからイエスさまを送ってくださったのだ。わたしは神さまに愛されている。だからイエスさまに招かれてこうして一緒に生きている」と思っている弟子たちから主イエスが取り除かれてしまいます。弟子たちは、一体どうしたら良いのか分からなくなってしまうに違いないのです。
 今日の私たちの言い方に直すならば、「自分の生きている意味が全く分からなくなる」ということです。それが、主イエスの姿が見えなくなるということです。「自分は主イエスによって救われた。イエスさまがいてくださるから、わたしは、安心して生きてくることができたのだ」と思っていた弟子たちから、主イエスが取り去られてしまうのです。それはただ単に、身近な人が居なくなって寂しいとか、悲しいというだけではありません。それどころか、「これから自分はどうしたら良いのか」という、本当に深い不安や憂いや恐れが、これ以上ないほどに高まってくる。悩みが深くなっていく。主イエスというお方に信頼を寄せていればいるほど、その主イエスが十字架にかけられるときには、弟子たちの絶望の度合いは深まらざるを得ません。「どうして神さまは、わたしから、本当にかけがえのない方、主イエスを取り去ってしまわれたのか。神さまは本当にわたしを愛してくださっているのだろうか。顧みてくださっているのだろうか。いや、そもそも神なんているのだろうか。もしいたとしても、愛してくれる神などと言うのは嘘っぱちではないか」と、弟子たちは思うに違いありません。

 私たちは時々、「お先真っ暗だ」と言って、自分が絶望的な状況だということを言い表します。けれども「お先真っ暗」というのは、自分の人生の全てが、今までも含めて何もかも暗澹とした暗い日々の連続だったと言っているかというと、そうではありません。「振り返ったところには、平穏な日々もあった。戻れるものならば戻りたい。けれども戻れない」という思いが、「お先真っ暗」という言葉になるのだろうと思います。今までは自分は何でもちゃんとできていたのに、ここからは手探りで歩んで行く他ないという緊張を強いられ疲れる、苦労の多い状態、将来がはっきりせず希望を見出せないときに、「お先真っ暗」と言ってしまうのです。弟子たちが主イエスの十字架に出会うということは、まさにそういうことだろうと思います。
 今日は受難週で、「主イエスの十字架を覚える」と思って、この礼拝に来ていらっしゃる方が多いと思いますが、しかし、私たちが十字架によって示されていることは、弟子たちの姿を通して、まさに「このわたしはお先真っ暗だ」と思う、そういうことがあり得るということを思い起こさせられているのです。弟子たちにとって十字架の出来事は、主イエスに敵対し、神に逆らう勢力が最終的に勝利を収めたということに他なりません。それは、主イエスだけではなく、神もまた、神に敵対する勢力に敗れ去ったということに繋がるような出来事なのです。「神からわたしに送られていた主イエスが、敵の前に敗れ去った。そして、わたしの主だと思っていたあの方は、もう亡くなってしまった」、それを見せつけられるところでは、どうしても、神への信頼の気持ちは揺らいでいきます。今まで自分が主イエスに結んで来た信仰は破壊され、傷ついて失われ、これまで自分の心を温めてくれた温かな思い、聖なる事柄への情熱というものが消えてしまえば、あとは寒々とした悲しみに満ちた人生しか残らないということになります。弟子たちにとって、これほど深刻な悩み、悲しみ、憂いはありません。
 けれども主イエスは、「あなたのそういう悲しみが喜びに変えられるのだ」と言われます。無残に殺され破壊された事柄が、主イエスの復活によって深い喜びに変えられて、もう一度、弟子たちにもたらされるのです。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。あなたがたは心から喜ぶことになる」、主イエスの甦りの事実こそ、喜びに変えられた悲しみの最大のものなのです。そこでは、すべての絶望と死が、命に飲み込まれています。「喜びに変えられた悲しみ、喜びにすっかり飲み込まれた憂い」として、これ以上のものはないのです。

 主イエスは甦らされて、栄光の主へと変えられます。そして弟子たちは、そういう主イエスとお目にかかります。けれども、その時、そこでお目にかかる主イエスは、弟子たちと歩んでいた頃の主イエスと同じというのではありません。栄光のキリストに出会うのです。以前は、肉体の弱さ苦しみの中に隠されていたけれど、主イエスが本来持っておられた栄光の姿が実際に現される形で、弟子たちの前に、主イエスは現れてくださいます。
 その日には、弟子たちは、主イエスの御栄光をまばゆいばかりに知らされ、感じさせられ、その光で温められ、そこで初めて、「主イエスとはこういうお方だったのだ」と知らされるようになるのです。心が喜びで満たされ、「さまざまな問題や悩みを抱えているけれど、しかしそれはもはや何ほどのものでもない。確かに問題がないわけではない。けれども、甦った主イエスが、今このわたしと共にいてくださる。わたしを温めて、もう一度歩んで良いと言ってくださる。わたしはそういうお方に出会ったので、ここから歩んでいける」、そういう喜びを、私たちは聖書から聞かされているのです。
 悲しみ、嘆き、憂い、苦しみ、痛み、それらをしっかりと内側に飲み込んで、押さえ込んでいる真の喜びというものがあります。そしてそれを弟子たちは、十字架の末に復活した主イエスのうちに認めるのです。「自分の前に現れてくださった甦りの主イエスの中に、本当の喜びがある」ということを知らされるのです。
 そして、それは弟子たちが味わっただけではなく、代々の教会も知らされ、受け継がされているものです。2000年にわたって地上の教会が「こういう喜びがあるのだ」と伝え続け、私たちも同じ喜びを聞かされています。「それぞれの生活の悩みや問題を抱えながらでも、なおここで生きて良いと確信させられて歩んでいける」、そういう喜びがあるのです。

 私たちは、このようにして伝えられた喜びを持って、それを更に周りの人たちに手渡して行くようにと、ここに招かれています。「あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と、主イエスは言われます。今週は、受難週です。「喜びの知らせがわたしにも与えられている。さまざまに、命を蝕むような悲しみや嘆きや憂いは多くあるけれど、それは全て、主イエスの甦りに飲み込まれていくものなのだ」ということを覚えながら、イースターの朝を目指して、ここから新しく歩んで行きたいと願うのです。
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