聖書のみことば
2018年3月
  3月4日 3月11日 3月18日 3月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月18日主日礼拝音声

 憐れみのもとで
2018年3月第3主日礼拝 3月18日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第18章21〜35節

8章<21節>そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」<22節>イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。<23節>そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。<24節>決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。<25節>しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。<26節>家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。<27節>その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。<28節>ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。<29節>仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。<30節>しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。<31節>仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。<32節>そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。<33節>わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』<34節>そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。<35節>あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 ただ今、マタイによる福音書18章21節から35節までをご一緒にお聞きしました。21節22節に「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」とあります。
 ペトロが主イエスに「赦し」のことについて尋ねた時に、ペトロは7回という数字をあげました。恐らく、ペトロ自身はこの数字を寛大な数字だと思って言ったに違いありません。私たちの生活している社会では「仏の顔も三度まで」と、「3回までは良いけれど4回目はだめだ」と言い慣わして暮らしています。そう考えますと、7回という数字は寛大だと言えそうにも思います。ところが、このとき主イエスは、「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」と言われました。これは意味からすると、490回などと数えてはいられないのですから、「あなたが誰かを赦すことに限度など設けるな。何度でも限りなく赦しなさい」とおっしゃったのです。
 けれども、私たちはこういう主イエスの言葉を聞かされると、ふと不安になるのではないでしょうか。「何度でも限りなく赦す」ということは、言葉の上では美しく聞こえは良いかもしれません。しかし実際にそんなことをしたらどうなるのでしょうか。「いつでも誰でも赦される」と決まってしまったら、怠け者やずるい人が巷に溢れてしまうのではないか。果たすべき責任を果たさない、自分の権利ばかりを主張する、不当なことを平気で言う人ばかりが増えてしまう。そうすると社会がすっかり混乱してしまうということが起こらないでしょうか。そういうことが大変心配になってくるのです。

 しかし、そのように私たちの生活の秩序が混乱し覆ってしまう、そういう恐れについては、主イエスはこの直前の箇所ではっきりと教えておられます。先週聞いた18章15節から17節のところです。「もし、罪の業、悪が行われているのに気づいたら、あなたは恐れずに出かけて行って、まずは相手と二人のところで注意しなさい。それで相手が反省したなら、あなたは兄弟を得たことになる」、「しかし、もし相手が二人きりの忠告では聞き入れなかったら、1人2人の兄弟姉妹を伴って、助言者や証人になってもらうこと。それでも聞き入れない場合には、教会に申し出、それでも聞き入れなければ、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と、主イエスは教えられました。特に最後の「異邦人か徴税人と同様に見なす」というのは、「神の民ではない者として扱う」ということですから、教会の群れが信仰者の集まりに相応しく歩んでいく、その秩序を守っていくためには、罪を犯して一向に悔い改めようとしない人を裁き、処分するということを、主イエスは認めていたということになります。
 そうしますと、そのように教えられていた直後に、今度は「限りなく赦しなさい」と主イエスが教えておられることは、一体どういうことなのでしょうか。これは一言で言うならば、「なかなか他者を赦すことのできない私たちの心」を問題にしておられたと言って良いのではないかと思います。

 罪や悪に対して敏感であるということは、一方では大変大事なことです。神を信じて生きる人、神がこの世界を支配しておられると信じる人は、もはや人間の不法や悪がまかり通っても当たり前だとは考えられなくなります。私たちは確かに、過ち、間違いを犯してしまうことがあります。しかしキリスト者は、それは当たり前なのだとは考えないと思います。私たちは間違いを犯してしまうことがあるけれど、しかし神は、最後にはこの世界を支え、正しいことへと導こうとしておられるのだと考えるに違いありません。キリスト者は自分の生活の中で、あるいは社会の中に潜んでいる悪を敏感に感じ取り、そして何とかしてそれに抵抗しなければならないと考えると思います。この世の悪、人間の罪が横行していくときには、私たちはいつの間にかそれに慣れっこになってしまって罪の毒が全身に回って手の施しようがないということにならないうちに、早めに罪に気づき、そこから清められ、新しい生活を始められるように「赦しを祈ること」が求められるのです。様々な形で、罪が私たちの生活の中に働くときには、私たちはそれに立ち向かわなければならないのです。

 けれども、その際に大切なことは、罪に対して戦うからと言って、そこで私たちが罪人を攻撃することに終始してはならないということです。この点で、ペトロの戦い方には欠点があり限界があったと言うべきでしょう。罪に対するペトロの感受性、ペトロ自身の行動は、「悪を嫌うことは悪人を嫌うこと。罪を憎むことは罪人を憎むこと」でした。そういうペトロの姿が聖書の中に出てきます。主イエスがゲッセマネの園で祈られた後、ユダヤ人たちから遣わされた人たちによって逮捕されるという場面で、ペトロのしたことは、自分の腰から剣を抜いて、大祭司の僕に切り掛かり、その右耳を切り落とすということでした。ペトロは明らかに、この時、主イエスを捕らえに来た人を嫌いました。罰を加えようとしたのです。けれども、この行いによってペトロが主イエスから感謝されたかというと、そうではありませんでした。「剣を鞘に収めなさい」と、却って叱られています。ペトロは激しく罪を憎むあまり、罪人を攻撃するという激しさがあって、そこにペトロの限界があったとも言えます。そのように敵意をむき出しにするのでなければ、ペトロ自身はそこに起こった罪に抵抗できなかったのです。
 主イエスが捕らえられた後のことを、私たちはよく知っています。ペトロは主イエスの後を追って大祭司の家の中庭にまで乗り込んでいくのですが、しかし、それで最後まで主イエスに従い切れたかというと、従い切れませんでした。ペトロは剣を抜くことはできるのですが、主イエスを捕らえようとする悪と粘り強く戦うことはできませんでした。そこにはペトロ自身の考え方もありました。罪に対しては、ある程度譲歩したとしても、限りなく赦すことなどできない筈だと思っているのです。ですから、主イエスから「剣を鞘に収めなさい」と言われてしまえば、その後、どう戦ったら良いのか、戦いようがないのです。死ぬまで戦うと言うことはできても、それはダメだということになったら、その悪と粘り強く戦って主イエスに従い続けることができるかというと、もはやできなくなってしまう、そういうペトロの姿があります。そこにペトロの弱さ、脆さがあるのです。
 それでもペトロは、やはり、罪が横行することは我慢ならないと思って剣を抜きました。この世の悪や過ちの背後に人の罪が存在していることに気づいて、ペトロが戦おうとする姿勢を持っていたことを、主イエスは喜んでおられたに違いありません。しかし一点だけ、ペトロに欠けていた点は、罪に支配されて行動する人々に向かって敵意をむき出しにして戦うのでなければ抵抗できないということでした。そして、この点については、主イエスは喜ばれませんでした。
 ペトロは、「この世の悪や不正は決して赦してはならないのだから、悪人も赦してはならない」と考えていましたが、主イエスは違います。主イエスによれば、「悪に対して熱心に立ち向かうこと」と、「その悪に捕らわれている人を赦すこと」は矛盾しないのです。むしろそれは、決して切り離せないほど深く結びついていることでした。ですからペトロは、主イエスの罪に対する戦い方、主イエスが教えられる罪の赦しについて、もう一度学び直さなければなりませんでした。
 そしてこれは、ペトロだけに限った話ではないだろうと思います。私たちも、この世の悪や罪に対してどう立ち向かうのか。そしてまた、主イエスによってもたらされている赦しをどう生きていくのか、このことを聖書から丁寧に教えられなければならないのだと思います。

 主イエスは、悪を憎むことがイコール悪人を憎むことだとはお考えになりません。悪を憎んでも悪人を憎まない。憎しみの気持ちを持たないということが、主イエスの姿勢でした。ですから主イエスは、悪とそれを生み出す罪については、大変厳しく、聖書の至る所で批判しておられます。主イエスが悪に迎合しているということはありません。しかし、だからと言って、主イエスが悪人を嫌ったかというと、そういう記事は聖書に出てきません。主イエスが人について好き嫌いをお持ちだったとは、私たちは思っていません。私たち自身は往往にして、悪やこの世の罪を目撃するときに、すぐにどうすることもできなければ仕方ないと思って受け入れてしまうということがあると思います。抵抗して正せるのならするけれど、すぐには解決できないとすると、認めて譲歩するようなところがあると思います。しかしそうでありながら、実際に自分に対して少しでも嫌なことをする相手とか、罪を働く相手がいる場合には、決して赦さないで、いつまでも執念深く覚えているということが、私たちにはあるのではないでしょうか。しかし、主イエスは違っています。主イエスは、悪は悪である、罪は罪であるとはっきり言われます。しかしだからと言って、相手のことを執念深く覚えていて「あいつは赦さない」などとは言われません。主イエスは、罪に支配されてしまっている人を憎まない。しかしだからと言って、正しさがぼやけたり、神の正義が揺るがせになるとは思われません。そういう主イエスの在りようを理解するために、いくつかの事を考えてみたいと思うのです。

 まず考えたいことは、主イエスが悪や不正に対する厳しさをはっきりと持っておられながら、どうしてペトロに対する返事の中で、「7を70倍するまで赦しなさい」と、赦しの愛を優先させるようにおっしゃったのかということです。恐らく最大の理由は、悪い行いをしている人に対する憎しみの感情に突き動かされるということ自体が、人間の弱さの現れだからです。誰かから不当に扱われた、傷つけられたとして、その相手を敵だと決めて、いつか仕返ししてやろうと執念深く待つ、これは強い人の姿か弱い人の姿かと考えますと、決して強い人の姿ではないだろうと思います。そういう目に遭って不愉快な気持ちになることは、人として当然のことでしょう。けれども、不愉快な思いをいつまでも持ち続けることが本当に正しいことなのかということを、私たちは考えなければなりません。
 聖書は何と教えているでしょうか。「この世の悪に対しては、善を持って打ち勝つように」と教えています。ローマの信徒への手紙12章21節に、非常にはっきりと書かれています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」とあります。そう言われても、私たちにはすぐにはぴんと来ないかもしれません。これはとても難しいことだなと思ったりもします。
 けれども、私たちが誰かの悪い仕業によって傷つけられた場合、そこで考えるべきことは何なのか。それは復讐することではありません。そうではなく、「どうしたら、ここに行われている悪が善に取って変わることができるかを考えるべきだ」と聖書は語ります。「相手を支配している悪に変わって善がその場を支配するように、そのためにわたしには何ができるのか」、それを冷静に思い巡らすことこそ、私たちに求められていることではないかと思います。いたずらに興奮して「わたしはひどい目に遭った」と言い立てて怒っているばかりでは、悪の支配を打ち破ることはできません。むしろ、私たち自身が同じ悪の虜になってしまい、互いに悪に悪を重ねていってしまうことにしかなりません。どうすれば、ここに起こっている悪を正しいあるべき間柄にすることができるか、そのことを真剣に考え抜いていくことこそが、悪に対する有効な戦い方ではないでしょうか。
 どうすれば、その悪を、あるべき姿に戻せるのか。そのことを考えないで、ただ相手を敵だと思い、不愉快だと思って攻撃したり、退けたり、避けるという時には、私たちは「善を持って悪を退ける戦いから逃げている」ということになるのだろうと思います。そしてそれは、悪に染まってしまっている相手の処世術に対して、私たちの信仰が無力であるということを表しているということでもあるのです。そうであればこそ、主イエスは、「憎しみの感情を抑えて、相手を赦すことをまず考えなさい」とおっしゃるのです。「相手の悪のペースに乗せられて、こちらまで同じ土俵に引きずりこまれないように。憎しみではなく赦しの愛を先立たせるようにしなさい」と主イエスはおっしゃいました。それが、「7を70倍まで赦しなさい」とおっしゃる理由だろうと思います。

 けれども、「赦しを先立たせるように」とおっしゃる理由は他にもあります。それは、私たちが抱く憎しみの思いが、神の正義を成り立たせるためには全く何の役にも立たないものだからです。私たちが悪人を非難する場合にどうなっていくか、結果は明らかです。相手が悔い改めるかというと、そんなことは起こりません。逆の立場になったとして考えてみると分りやすいでしょう。もし、私たちが間違いを犯し誰かを傷つけてしまって、そのために相手から非難され軽蔑されるようなことになった場合に、その相手から冷たい仕打ちをされてしまえば、私たちは恐らくほとんど変わる余地がありません。相手との間柄がまずくなったり、またそれが自分に理由のあることだと分かっていたとしても、私たちにはプライドがあって、まず、冷たくされる等の仕打ちに対して反発するのです。「確かに自分にも落ち度はあったかもしれないが、しかしここまで酷い目に遭わせられる筋合いはない」と開き直るかもしれません。あるいは、言い逃れできないような状況であっても、「確かに自分のしたことは良くないが、あの時はそうするよりなかったのだ」と言い訳をする。さらには、「そんなことをしているのは自分だけではない。世の中にはそんな失敗をする人は大勢いる。自分もそういう人間の一人なのだ」と自分に言い聞かせ、「自分は誤解されているのだ」と居直る場合もあるでしょう。私たち人間は、周りから非難されたり忠告されたりすると、素直に反省するよりも逆に頑なになってしまうことの方がはるかに多いと思います。そうすると、どんどん頑なになり「自分はこの悪い状態で良いのだ」と言い募り、ますます深く誤った状態へと迷い込んでいくのです。そういう状況を産まないために、主イエスは、「まず赦すことを先に考えなさい」とおっしゃるのです。

 そして、この2つ目の理由を考えていますと、さらに3つ目の理由が思い浮かびます。ただ相手を非難するだけでは、相手はどんどん意固地になって深く誤った状態へ迷い込んでしまうわけですが、それはつまり、最初に願うべき、あるべき正しい間柄が生まれて来ないだけではなく、もっと別のものが生まれてくる場合もあるのです。何も反省しないだけではなく、互いに嫌な思いを繰り返し、反発とか反感の応酬になっていくのです。そうなると、もはや何が争いの始まりだったかが分からなくなります。人間関係のもつれには、よくそういうことがあると思います。互いに被害者感情ばかりに支配されてしまい、全く新しいものが生まれなくなってしまうのです。ですから主イエスは、「裁きよりも赦しを先立たせなければならない」とおっしゃるのです。
 主イエスがそのようにおっしゃるのは、しかし、悪に目をつむって無関心になれということとは違います。本当の赦しは、悪が無かったことによって生まれるのではありません。あくまでも、そこに起こっている悪を見据えて、私たちの側が「どうやったらそこに善をもたらすことができるだろうか」と置き換えてゆく、そういう作業が「赦す」ということだろうと思います。ですから、悪については目覚めている必要はあるのです。悪があるか無いか分からなければ、赦しようがありません。「ここにある悪を何とかしなければならない」、そこが出発点ですから、無かったことにしたり見て見ぬ振りをするのでは、赦しを持ち運ぶことにならないのです。

 主イエスはこの世の悪が至る所に行われていることをご存知で、そしてそこに本当の赦しを持ち運ぼうと、ご自身が身をもって歩んでおられました。私たちはその主イエスの歩みというものを、毎週毎週、教会の礼拝において聞かされ示されています。すなわち、主イエスは十字架に向かって行かれます。主イエスは、至る所にこの世の悪が満ち、人間がそういうものに捕らわれてしまい、自分の力では立ち返ることができないということをご存知でした。ですから、立ち返るべき新しい始まりをもたらすために、主イエスは十字架に向かわれたのです。「父なる神に信頼して十字架に架かる」、それは大変酷い扱いです。けれども、「神への信頼によって敢えてそこを歩んでいく」、そういう仕方で、「神様に信頼して歩んでも良いのだ」という生活を、この地上に始めてくださったのです。そういう主イエスがペトロに向かって、「あなたは、7の70倍までも赦しなさい」とおっしゃっているのです。つまりここで主イエスがおっしゃっている「赦し」というのは、「赦した方が良い」というような処世術ではなく、「主イエスご自身が全ての罪人の執りなし手であり、赦し手であるお方として語っておられる」ことなのです。

 キリスト者が主イエスから「あなたは、7の70倍までも赦しなさい」と教えられ、実際に誰かを赦そうとする場合に、私たちはどこから「赦す」というエネルギーを見つけてくるのでしょうか。自分の中にある優しい気持ちによっては赦すことはできません。けれどもキリスト者は、主イエスが十字架に架かってくださったあの姿を見ながら、「主イエスがわたしのために十字架に架かってくださったのだから、わたしも今ここで、この悪を何とかして食い止めるために、受け止め、新しいものを始めよう」と決心して、赦すという思いへと向けられていくのではないでしょうか。主イエスはここではまだ十字架に架かる前ですが、ご自身の十字架を指差しながら、赦すことのできない、力ない私たちに向かって、「あなたは、わたしから赦しのエネルギーを得て、そして赦す者になるのだ」と教えておられるのです。
 主イエスは罪を憎みました。けれども罪人を憎みませんでした。むしろ罪人を憐れんで、罪人を虜にしている罪と主イエスご自身が戦って行かれる、それが十字架上での戦いです。主イエスは、あの十字架上で、赦しを武器として戦われたのです。十字架上から私たちに聞こえてくることは何でしょうか。主イエスの恨みつらみの言葉でしょうか。違います。主イエスが十字架上でおっしゃった言葉の一つは「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか分からずにいるのです」というものです。酷い目に遭わされている最中にそう言われました。そして神への信頼によって、ご自身を「御手に委ねます」と言われました。十字架の上で主イエスは、私たちのために、何とかして赦しをもたらそうとして神に祈ってくださっている、それが私たちが十字架上から聞かされる言葉だろうと思います。

 主イエスは、赦しによって人間の悪や罪に抵抗しておられるのです。自分は酷い目に遭わされたのだから仕返しをする権利があるというような思いに支配されて、捕らわれて、それが当たり前だと思って生きていくようになったとすると、私たちの人生は、どなたの人生であっても例外なく悲惨なものになっていきます。周りの人たちに当たり散らしながら、しかし自分自身は何の安らぎも得られません。この世は敵ばかりだと思って、孤独な寂しい人生を送るほかないと思って生きるしかなくなります。人間がそのように惨めにならないように、神は「わたしに信頼して、もう一度、あなたはそこから生き直して良いのだ」とおっしゃってくださる。そしてそのために、「独り子を十字架に架ける」
ということをなさったのです。「あなたは確かに、罪に捕らわれている罪人だよ。しかし、あなたが行う悪も不法も、わたしは全て認めて、わたし自身が受け止めて、あなたを赦す。だからあなたは「赦された者」として、罪を離れてここから生きていきなさい」と、主イエスはおっしゃったのです。
 姦淫の現場で捕らえられた女性が、主イエスの前に連れてこられるということがありました。その時に、主イエスは何と言われたでしょうか。ヨハネによる福音書8章10節11節に「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」とあります。主イエスは、この女性の罪を見て見ぬ振りをしたのではありません。そうではなく、「わたしはあなたを罪に定めない」とおっしゃっています。つまり、「あなたが罪の中にいる者だとは固定しないよ」、「あなたは罪を犯したけれども、そこから自由になる」とおっしゃる。それは「わたしが十字架上であなたの犯した罪を清算してあげるから、あなたはもはや、その罪に捕らわれて生きるのではなく、これからは罪を犯さないで新しい人として生きていきなさい」とおっしゃるのです。「罪を憎んで罪人を憎まない」、そういう主イエスの姿がここにあります。

 自分の人生を振り返りますと、私たちは、様々に、自分に対して行われた罪の出来事を思い出すかもしれませんし、同時にまた、自分自身が犯してしまった罪の出来事を思い出すかもしれません。主イエスは言われます。「あなたが犯した罪、あるいはあなたが犯された罪は、全てわたしが引き受けて、その報いを既に十字架の上で受けている。だからあなたは、ここからもう一度歩んで良いのだ」。
 主イエスを信じ、「あの十字架の出来事はわたしのための出来事だった」と信じる人は、十字架の主イエスによって罪を赦されて、赦しのもとに立たされるのです。そして、赦された者として新しく生きるのです。その時には、私たちは自分の人生の中で、主イエスによる罪の赦しを少しずつ持ち運んでいくようになります。

 繰り返しますが、私たち自身はなかなか人を赦せません。自分自身を見つめて赦しのエネルギーを探してみても見つからないのです。腹を立て、執念深く覚えているような者に過ぎません。けれども、そういう私たちを十字架のもとに立たせてくださって、罪の赦しを与えて、「新しい命を生きていくように」と、主イエスが呼びかけてくださっていることを覚えたいのです。キリスト者の生涯は、「主イエスによって自分自身が赦しの中に立たされていることを信じて、それにふさわしく歩もうと心がけていく」、そういう歩みになっていくだろうと思います。
 私たちがまず、自分が十字架によって赦され新しくされていることを信じ、それを生活の中で周りの人たちに手渡していく時に、聞いた人たちがその福音を信じたならば、聞いた人たちも赦しの中にすっぽりと包まれるようになります。不思議なことですが、主イエスによる赦しの福音は、私たちが持ち運んでいく時にはとても小さなもののように思いますが、しかしそれが届けられた時には、とても大きなものとして届けられ、私たちを包み込んでくれるものへと変えられていきます。そういう大きなものを、私たちは主イエスから預けられているのです。そのようにして赦された人は、また家族や友人のために執り成しを祈り、主イエスの赦しを持ち運ぶ者へと変えられていくのです。
 そして、私たちがそのようにして主イエスの赦しを持ち運んでいく時に、「どれだけ大きな犠牲を主イエスが払ってくださったのか」ということを、私たち自身も身をもって覚えるようになります。誰かに赦しを持ち運ぶこと、これは決して簡単なことではありません。十字架に架かることはないとしても、「誰かを赦す」という時には大変な思いをするでしょう。けれども、そういう思いをしながら、「主イエスがわたしにこの赦しを持ち運んでくださるために、どれほど大変なことをなさったのか」を思うことにもなるのです。

 「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。あなたはもともと、わたしの赦しのもとに立たされているのだから」と、主イエスが私たちに語りかけてくださっていることを覚えたいと願います。

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