先週の水曜日から、人の苦しみと死について思い起こし、また、イースターに向かって悔い改めと、己を抑制するという意味で克己する、受難節(レント)に入りました。気候は、一番寒さの厳しい2月ですが、時折暖かい日があって、春がもうすぐ来るのだという、心の踊るような、そんな季節でもあります。しかし、教会は受難節、毎日喜んでいられるわけではなく、この季節には自分を抑制することが求められております。何となく後ろ向きな感じがしないでしょうか。
「克己」という言葉は、「己に勝つ、苦しみを打ち負かす、克服する」というような意味があります。具体的には、日常生活で様々な困難や課題を乗り越えていくということも十分想定していますが、具体的にそういう事がなかったとしても、特にこの受難節は、たとえば「大好きなコーヒーを飲むことを少し止めてみる、お茶を絶ってみる」など、普段の自分の気ままな生活から立ち返って己を抑制するという経験をする時でもあります。「克己献金」というものがありますが、我慢して節約して、貯まったお金を神様に捧げるというような趣旨があるかもしれません。あるいは献金それ自体が、自分への挑戦かもしれません。いつもはしないような多額の献金を捧げて、自分自身に苦痛を強いる、困窮の中に飛び込むということも一つの方法かもしれません。私も若い頃にはそういうことをしていました。
しかし、それらの我慢、節制、克己は、自分の力で成し遂げるものなのでしょうか。
ドイツの教会では、毎年受難節に、何かを我慢するキャンペーンを張っているそうです。今年は「自分を示せ、逃げない7週間」という標語が掲げられているそうです。 避けて通りたいこと、逃げたいことはいろいろあります。責任を負う仕事はなるべく引き受けないようにしたい、それが教会の奉仕であってもそうです。日常の私たちの生活の中でも、面倒なことや時間や労力を費やすことは出来れば避けたいと思います。けれども、それが重要で必要なことならば、誰かがそれをしなければならないのであれば、やらなければなりません。そういうことから逃げない、真っ正面から挑戦する自分でいよう、「自分を示せ、逃げない7週間」というのは、そういう趣旨の標語だと思います。
この標語は、日本語に訳すと分からないのですが、一点、面白いことがあります。「逃げない」というドイツ語 は「ohne Kneifen オーネ・クナイフェン」と言うそうですが、これによく似た言葉で「ohne Kneipenオーネ・クナイぺン」という言葉があるそうです。クナイぺンというのは「酒盛り、コンパ」という楽しい事柄だそうです。この語呂合せから、多分、「お酒を飲まずに7週間過ごしましょう」というユーモアが込められた標語だと言われています。
さて、今日はエレミヤ書とマルコによる福音書からそれぞれ、神の言葉を聞きました。この2つは大変共通する、いえ、もっと言えば重なり合う聖書箇所だと思いました。
かつてエジプトで奴隷の苦しみを味わっていたイスラエルの人々が、神様の選びと救いによって脱出し、出エジプトを果たして、新しい土地、カナンの地に導かれていきました。しかしそこで、イスラエルの人々は、神の恵みを忘れ、神から離れて、それぞれに勝手なことをし始めて、自分たちを汚しました。そういうイスラエルの姿を、詩編の詩人は歌っています。
詩編91編「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ。 主に申し上げよ『わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない。あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く」。
神様は困難に際して、私たちをこのように守ってくださる方であるはずです。ところが、他の魅力的なものに心奪われて、人々は神から離れ、滅びの道へと向かって行きました。イスラエルの国は滅びてしまいました。そのような状況を見て、心痛め、嘆いたエレミヤは、「新しい契約=かつて出エジプトを果たして、恵みとして与えられた律法を超えて、もっと確実でもっと救いに満ちたもの」を神様が用意してくださっているのだという希望の預言をしています。
「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」という御言葉も、よく耳に馴染んだ言葉ではないでしょうか。詩編124編の言葉です。私たちは、神様の愛と恵みの約束に基づく救いの御業によって守られ、支えられています。
そうであるならば、己の力で乗り切ろうという企ては傲慢なのではないかと思うのです。もちろん、克己に当たっては神様に助けを祈り求めることが必要ですし、キリストが共にいてくださらなければ、私たちには克服できないということが沢山あります。
苦難には様々あって、謂れのない追求を受けてしまうこと、自分の家族の病や介護、自分の家庭の困難、自分の職場や学校での困難なこと、嫌なこと、そういった様々な困難の中で、私たちは「神様が共にいてくださる。いつも翼の中に守っていてくださる」と信じて安心していられるでしょうか。時として「神様はわたしのことを忘れたのではないだろうか。神様は、わたしのことなどどうでも良いと考えているのではないか」と、恨みの言葉、呪いの言葉を思ってしまうことはないでしょうか。「なぜ神様は、このような試練にわたしを遭わせるのだろうか」という疑問、悲しみ、怒りが心を占めている時、私たちは、注意が必要です。
1つの有名なストーリーをお話しします。多くの方がご存知ですから言うまでもないないことですが、「あしあと、Footprints」という詩があります。ご紹介します。
「ある夜、私は夢を見た。私は、主イエスさまとともに、砂浜を歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの場面の光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主イエスさまのあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのでしょうか、私にはわかりません』。主は静かな声で答えられた。『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた』」。
「足あと」というこの詩には、多くの人が共感を覚えています。私も本当にその通りだと思いました。人は自分の力で歩くことを教えられ、自分で歩くために勉強し、準備をし、努力します。自分の歩く人生の道が広くて平らな道であるならば、その歩みは、鼻歌混じりで足取りも軽いでしょう。しかし、困難な時、悲しみのどん底に落とされたような時、その苦しみを自分一人で背負っていると感じてしまうものです。堪え難い苦しみです。誰かに話を聴いてもらいたいけれど、話せない。聞いてくれる人もいない。私たちには、そんな経験があります。
キリストは洗礼を受けられて、天からの声が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と宣言された後、霊に促されて荒れ野で誘惑を受けられました。主イエスは神様ですから、誘惑を受ける必要もなく、また苦難を受ける必要もないはずです。しかし、霊に促されて、荒れ野に向かいました。そこが、今日聞きました聖書の言葉です。
イエスさまが洗礼を受けられて、神の国を宣べ伝える公の生涯を歩み始められたのは、30歳になってからといわれています。30歳といえば立派な「大人」です。自分で判断し、自分で責任をとる成人です。それなのに、父親から「わたしの子である」と言われてしまう。これは少々、斜めな見方かもしれません。
自立した大人として、自分の力で生きていくことが当然のことですが、イエスさまは、聖霊に促されて、あるいはもしかすると強引に、荒れ野に行きました。
その荒れ野で主イエスは、「サタンから誘惑を受けられた」とあります。40日間、荒れ野に留まりました。40日とは、イスラエルが出エジプトの後、荒れ野でさまよった40年になぞらえた数字です。十分な日数、十分な期間、主イエスは荒れ野で誘惑を受けられました。
もちろん、神の子イエス・キリストですから、サタンの誘惑に負けるはずがありません。しかし、「野獣」と一緒におられました。「野獣」とは、どういう存在かお分かりでしょうか。危険な存在だということではありません。野獣は、食べたい物を自分で探し出し、捕獲し、食べます。食べたいだけ食べます。理性などありません。「生きる」という本能に基づいて行動します。良くも悪くも「やりたいことをやる」のです。そんな野獣と共におられたのです。私たちがもし、「お腹が空いたら食べます。遊びたい時には遊びます。眠りたい時には寝ます」と、本能に基づいて生活したら一体どうなるでしょうか。欲しいものを手に入れ、やりたくないことはやらない。そのように理性のない生活というものは、私たちには相応しくないかもしれません。
けれども主イエスは、その野獣と一緒に、つまり「本能の赴くままに行動する存在」と共におられました。たとえご自身が誘惑に負けるようなお方ではなくても、そのような野獣たちと共にいて、その苦しみを一緒に味わったに違いありません。けれども、主イエスには天使が仕えていました。「神の守りが共にあった」と記されておりますので、私たちは安堵いたします。
この荒れ野の誘惑に打ち勝ち、主イエスは「宣教」を始められました。14節15節「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。主イエスにとって、野獣と一緒に過ごした40日間は十分な期間でした。苦しみ、悲しみ、痛さを知るに十分な期間であったということができます。私たちの苦しみのすべてを、ここでお知りになったと言っても過言ではないでしょう。
そんな主イエスが「時は満ちた」と言われました。「私たちには、もう苦しみは十分である」ということでしょうか。「神の国は、もうあなた方のすぐ近くに来ている。神の国が到来している」。だから、「悔い改めて」とは「これまでの、本能の赴くままに生きる生き方を捨てて、神に従う生き方に立ち返りなさい」ということです。神は共におられる。いつも私たちを守ってくださる。その御翼の下に私たちを匿ってくださるのです。「主イエス・キリストが、私たちのすべてを知っていてくださるために、この世に派遣され、そして苦しみを受けて死んでくださった。そして3日目に甦ってくださった。この福音を信じて、神様にすべてを委ねなさい」と示されています。
自分の努力や自分の力に依り頼むのではなく、私たちに足りないところを神様に「助けてください」と祈り求めながら、その上で、私たちは、「神に向かう生き方のために自分を抑制していく」、そういう期間が受難節ではないかと私は考えます。
何か小さいことの我慢から始めるのも良いでしょう。肉を食べないという習慣から断食をする国もあります。一部の国では、断食に入る前に沢山の肉を食べようとカーニバルをしてどんちゃん騒ぎをするということもありますが、受難週に入ったならば、抑制する、節制すると決めたことを行い、自分を省みて整えていただき、心と体を神様に向けるのです。
受難節とは、克己を通し、私たちが心と体とをもって「主イエスが共に苦しみを担ってくださった」ということを覚えて、主イエスに感謝し、神様に心を向ける、そういう季節なのです。
始まったばかりの受難節ですが、その終わりには主イエスの復活をお祝いするイースターがあります。私たちは、受難節の苦しみで終わるのではありません。その後、死の苦しみを克服して甦られた主イエスがおられ、その主イエスが私たちと繋がってくださるのです。この希望を、私たちは「新しい契約」として与えられておりますから、絶望することなく、己に耐えて、神様に心を向ける季節を歩んでいきたいと思います。 |