2018年12月 |
||||||
12月2日 | 12月9日 | 12月16日 | 12月23日 | 12月30日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | ■音声でお聞きになる方は |
油を切らさぬように | 2018年12月第3主日礼拝 12月16日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
|
聖書/マタイによる福音書 第25章1〜13節 | |
25章<1節>「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。<2節>そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。<3節>愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。<4節>賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。<5節>ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。<6節>真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。<7節>そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。<8節>愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』<9節>賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』<10節>愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。<11節>その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。<12節>しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。<13節>だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 |
|
ただ今、マタイによる福音書25章4節から13節までをご一緒にお聞きしました。「賢いおとめと愚かなおとめ」の話として知られている主イエスの譬え話です。1節2節に「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」とあります。10人のおとめが出てきます。5人は賢く、5人は愚かだったと言われています。この先を読みますと、賢いおとめは、待ち続けていた花婿が到着した時、明かりを掲げて花婿を迎え、花嫁の待つ家の中に案内し、自分たちも一緒に喜びの輪に加わっています。一方、愚かだと言われているおとめたちも賢いおとめたち同様に花婿を待っていましたが、ある点で不用意だったために喜びの輪に加わることができなくなってしまいます。それどころか、固く閉じられた戸の外からしきりに呼びかけても取り合ってもらえず、締め出されたままとなってしまいます。 ところで、こういう話を聞かされて、果たして私たちはこれを納得できるでしょうか。10人のおとめたちの違いは本当に僅かです。たかが油を持っていたかいなかったかの違いです。こんなほんのわずかな違いで結末が違ってしまうことは、考えてみれば乱暴な話です。もともと、10人のおとめは10人共に、花婿の訪れを待ち望んでいました。ところが、なんの連絡もないまま、花婿がやって来るのが遅れました。その結果、10人のおとめたちは眠くなって居眠りをしてしまったのです。かなり夜更けてから花婿が来ました。遅くなるなら最初からそう言ってくれればよかったのですが、何も知らされていなかったために、手持ちのランプの中の油しかなかったおとめたちと、予備の油を用意していたおとめたちの間に差が生まれてしまったのです。もともと違いはなかったはずなのに、違いが生まれてしまったのです。ずっと一日待っていたけれど、たまたま手持ちの予備の油がなかったので、油を買いに走って戻ってきたおとめに、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言ってのける婚礼の主人は、横暴ではないでしょうか。また、ここで賢いと言われている5人の対応も、これで良いのでしょうか? この人たちは、皆で一緒に待っていたのですから、自分たちの予備の油から幾分かでも分けてあげるべきではなかったでしょうか。そうすれば当座を賄うことができたのではないでしょうか。ところが賢いと言われる5人には、そんなそぶりは少しもありません。「分けてあげるほどはありません」と言って、油を必要としている他の5人をはねつけています。それならば、5人が婚礼の席から締め出されてしまった理由は、賢いと言われている5人が自分のことしか考えないエゴイストだったということも理由になるのではないでしょうか。主イエスが最も重要だと教えられた「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい」という戒めを守っていないように見えます。ところが、それにもかかわらず、ここで主イエスは賢い5人のおとめを咎め立てもおられないようです。主イエスは、この10人のおとめの譬えを通して一体何を教えようとなさったのでしょうか。 まず確認しておきたいことがあります。この譬えの場面が結婚式の話だということです。そして、結婚式が舞台になっているのは決して偶然のことではありません。結婚式は嬉しい場面ではありますけれども、同時に、ある事柄が成就されて確かに成り立ったのだということを確認する時でもあります。「愛による真実で深く揺るぎない交わりがここに成り立った。もはやこの交わりを否定できない」、このことを表す時が結婚式の時です。私たちの人生は、どなたの人生であっても悩み多く試練が絶えません。けれども、そういう人生を歩いている一人一人が変わることなく一緒に歩いてくれる相手に出会えたこと、そのことを表すしるしが結婚式です。 10人のおとめたちは皆それぞれに、花婿を迎えようと用意しています。当時の結婚の風習では、花嫁が花婿を迎えに行くのです。今日の私たちとは逆のように思います。キリスト教式の結婚式の多くでは、大抵、新郎が礼拝堂の一番前で待っていて、そこに新婦の父親が新婦の手を引いて入場してきます。つまり私たちが普段見ている結婚式は、新郎が待っているところに新婦が入っていくのです。ですから、主イエスの時代の結婚式の習わしとは逆です。主イエスの時代には、新婦が待っているところに新郎が入ってくるのですが、その時に、新郎は一人で入ってくるのではなく、新婦の友達であるおとめたちが、新郎が来ることを待ち構えていて、新婦の家はこちらですよと招いて、皆で連れ立って新婦の家に入って、そこで結婚の宴が始まり、宴が終わったら新郎新婦は二人で新居に帰っていくのです。 けれども、ここまで2000年も待たされているのですから、これから先もどれだけ待たされるか分かりません。このまま待ち続けたら、この先どうなるのでしょうか。ひょっとすると、主イエスが訪れてくださるより前に、もっと悲惨な出来事が地上に起こって、人類が滅亡してしまうということが起こるかもしれません。そういう心配は要らないのでしょうか。もしそういうことが起こるのであれば、私たちは、最後は滅んで無くなってしまう地上で、ただ虚しく救い主が来てくださることを待っているのに、待ちぼうけで滅んでしまう、そういう群だということにならないでしょうか。改めて考えますと、「そんなことは決してない」とは言えないだろうと思います。そしてそうなると、私たちは不安を持たざるを得ません。どうして主イエスは、こんなにも長い間、私たちを不安の中に放り出しておられるのでしょうか。主イエスはどうして花婿が遅れるという譬えなど話されるのでしょうか。花婿が遅れることを、おとめたちがどんなに不安な思いで待たなければならないかをご存知無いのでしょうか。地上の教会がどんな思いで主イエスを待つのか、御構い無しなのでしょうか。いえ、そうではありません。 主イエスがこうおっしゃっているのは、私たちが同じようになったとしても、事情が事情だから仕方ないことだと受け止めてくださっているからです。 私たちキリスト者が、今日、この世界のこの時代の中で、来たりたもう主を待ちわびていること、主イエスが来られると知っているがゆえに、自分の生きているこの世界や兄弟姉妹、親しい者たち、また自分自身についても、これを捨て置くことはできないと思う、そういう希望を持っているということは、考えてみれば、私たちが自分でやっていることではないのです。 そして実は、主イエスが今日の譬えで教えておられる予備の油とは何かというと、「祈り」だろうと思います。賢いおとめたちは、他の5 人の心に自分の持っている希望や愛をすぐに手渡すことはできませんから、「分けてあげるほどはありません」と言いました。けれども、どれだけ待つのか分からない、その生活の中で、主イエスを楽しみに待つことができる、主イエスに信頼を寄せて安らかに眠ることはできました。そういう希望を自分で誰かに手渡すことはできませんけれども、しかしきっと神が与えてくださると信じて祈るのです。そして、「この恵みを隣の人に与えてくださいますように」と祈る、そういう生活が蓄えられていくと、私たちは、どんなに闇が続く中にあっても、神に信頼して生きて良いのだという思いを深くしていくことができるのです。 祈るということは、神の前に自分の願いや自分の見識を披瀝することではありません。神に向かって祈るとき、私たちは自分自身を神に明け渡すのです。「神さま、あなたの前にわたしはおります。わたしは貧しい者に過ぎませんけれども、それでも神さまがわたしを愛して持ち運ぼうとしてくださっていることを知らされています。わたしはこのことを信じます。どうか、神さまの働き人として、神さまの御業に私たちを用いてください」と祈るのではないでしょうか。私たち自身を神の前に明け渡すことが祈りの始まりです。そしてそれに続いて、神に明け渡している自分が、この世について、自分の周りの人たちについて様々不安を皆抱えていますから、その人たちのために祈り、神さまにお委ねをするのです。「わたしの力では、あの隣人を変えることはできません。どうか神さま、わたしが覚えているあの方を、わたしは神さまの御手にお委ねしますので、どうか神さまが働いてください。どうか神さまが、あの方が信仰を持ち、希望を持って生きることができるように変えてください」と、執り成しの祈りを祈るのです。自分自身を明け渡した人が、次に隣人の執り成しを祈ることができるようになるのです。 主イエスの今日の譬えは、そういう祈りの生活における賢さを私たちが身につけるようにと勧めてくださっている、そういう譬えです。神に祈って自分自身をお委ねする、そして、その生活を通して「神さまへの深い信頼と希望をあなたの身に蓄えるように」と教えておられるのです。ですから、主イエスは最後に「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われました。私たちは確かに、いつどのようなことが起こるのかを知りません。いつ終わりが来るのか、また、明日がどういう日になるのかも分かりません。しかしそうであるからこそ、私たちは祈りをもって、いよいよ熱心に自分自身とこの世界を神に委ねる者とされたいと思います。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |