ただ今、マタイによる福音書10章32節から11章1節までをご一緒にお聞きしました。32節に「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」とあります。誰かの前で主イエスが、神の御前で「この人はわたしの仲間である」とおっしゃってくださる、その言葉は決定的な言葉です。主イエスがそうおっしゃってくださるなら、誰であれ、その言葉を取り消すことはできません。主イエスが誰かのことを「この人はわたしの仲間だ」とおっしゃってくださるからには、どんなことがあってもその人は間違いなく、主イエスの仲間となります。
使徒パウロは、この同じことをローマの信徒への手紙の中で語っています。ローマの信徒への手紙8章34〜35節に「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」とあります。この手紙を書いたパウロは、主イエスが天上にあって神の右の座に座っておられる、そしてキリスト者一人一人を執り成しておられるというのです。「この人はわたしに属する人です。わたしがこの人のために十字架にかかったのです。そして、この人が受けるべき罪の刑罰をわたしが代わりに受けています」と、主イエスが言ってくださっているのです。「この人の罪は、わたしが既に十字架にかかって、その罰は受けました。だからこの人はもはや、神から捨てられる者ではありません」と、神が裁きをなさる時に、主イエスが傍でそうおっしゃってくださる。 パウロはこういう確信をもって、さらにこのすぐ後の38節39節で「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言っています。「主キリスト・イエスによって示された神の愛」は、十字架によって私たちに示されています。主イエスご自身がお架かりになった十字架を指差しながら、もう一方で、私たち一人一人も指差してくださって、「この人は、わたしのものです。わたしがこの人の身代わりになって十字架にかかったからです」と、父なる神に告げてくださっています。主イエスがそのように、神に告げてくださるがゆえに、私たちは神から見捨てられた者にはならないのです。
主イエスから離れて、私たち一人一人を見れば怪しいところが多くあるに違いありません。私たちがどんなに深く神を愛していると言っても、年がら年中、覚えているわけではないのです。神を忘れ主イエスを抜きに生活してしまうことは、私たちには始終あるのです。自分を見ている限り、私たちは、自分が神のものだとはっきり言うことはできません。けれども、そんな私たち一人一人を指差しながら、主イエスが天で神に執り成しをしておられるのです。「この人はわたしに属する者だ」と主イエスがおっしゃるからには、私たちが神の民の一員であるということは確かなことなのです。
私たちが「神の民の一員である」ということは、個人の心の状態とか、心の持ちようで変わってくることではありません。そういうことで言えば、私たちは全く当てにならない。私たちが神の民の一員であるのは「十字架に架かってくださった主イエスが私たちのために執り成しをしてくださっているから」なのです。ところが私たちは、そのようにして神の前に確かなキリスト者とされているにも拘らず、しばしば信仰の事柄を自分の心の持ちようのように思ってしまいます。信仰は自分の心の中に宿っているものだと考えてしまいがちです。もし、信仰が人間の心の中の事柄、私たちの思いの持ちようだとするならば、信仰は常にあやふやなものだと言わざるを得ません。私たちの心は常に移ろうものだからです。キリスト教信仰の土台には、主イエス・キリストの十字架による真実な執り成しの事実があります。主イエスの御業が私たちの上に行われている、だから私たちは確かな者とされているのです。信仰の土台は、私たちの強い思い、情熱ではありません。
そのことを表すかのように、今日の箇所、32節で「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」と言われているのです。「だれでも」ですから、どんな人も、です。どんな人であっても、主イエスから「この人は、わたしのものだ」と言っていただけるのです。ただし、その人は「人々の前で、主イエスを自分の仲間であると言い表す人」です。「わたしは、主イエスに属する者です」と、人々の前で言い表した人です。
特に「人々の前で」と言われている点について、注意深く聞きたいと思います。ここではっきり言われていることは、心の中だけでイエスを主と強く思うということではなく、人々の前で「主イエスがわたしを迎えてくださいました。わたしは主イエスに属しています」と言い表すということです。信仰の事柄というのは、自分の心の中だけのことではなく、生活の中に表れてくる事柄です。もちろん、そうは言っても、「いや、わたしは、心でしっかりと主イエスに結びついている」と言いたいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。「わたしは主イエスのことを思っている。だからわたしは信仰を持っている」と感じているかもしれませんし、その感覚は本当なのだろうと思います。自分が主イエスを強く思っているから主イエスは身近な存在なのだと感じているとしても、それはそれで構いません。けれども、残念ながら、私たちの心は決して不動のものではありません。今日はイエスを自分の主だと思っているとしても、明日には、私たちの心はすっかり変わっているかもしれないのです。自分の思い、気持ち、心を拠り所とし、それが確かだと言う限り、私たちは決して信仰に堅く留まっているということはできないのです。
私たちは自分を振り返ってみて、一週間の生活の中で、どうしてもどこかで神も主イエスも忘れてしまいます。日曜日の礼拝に来て、一週間の間一時も神を忘れることはなかったと感謝する気持ちでいるという方は、恐らくいないでしょう。私たちは礼拝に招かれた時に、「神が一週間守ってくださり、生活を歩んで来たけれど、そういう恵みを当たり前のこととしてしまって、神に感謝することを忘れて過ごしてしまった」という思いを持って集う、それが私たちの真実な姿だろうと思います。ですから、私たちが自分の心、思い、気持ちを拠り所にしては、「わたしは神に結ばれている」と言うことはできません。そうではなく、「わたしは本当に不束で、心の面では定まりがないけれど、しかし主イエスが確かに、わたしのために十字架にかかってくださったのです。わたしは主イエスによって神から覚えられ、神と一つに結ばれています」と、そのことを率直に認めて人々の前で言い表すというあり方によって、漸く、私たちは、私たちのために為された十字架の主イエスの御業のうちに固定されていくようなところがあるのです。私たちが十字架を覚えて取りすがるというのではありません。主イエスの方が、十字架を示しながら「あなたはわたしのものだ」とおっしゃってくださっている、そこで私たちは「本当にそうです」と、教会の礼拝に集うたびに、主イエスの十字架のできことを示されながら、「十字架の元に置かれて与えられた今日の命を生きていく」ということを、繰り返し確認していくのだろうと思います。
ところで、「主イエス・キリストの十字架はわたしのためだった」と公に言い表すところでは、そのことを信じない人たちとの間に、ある明確な区切りが生まれてしまうのだと教えられています。「主イエスは救い主である」と信じて私たちは洗礼を受けます。洗礼を受けてクリスチャンになった人には、その印が付けられています。洗礼を受けた人は、どなたであっても人生のどこかの時点で、間違いなく、「主イエスがわたしのために十字架に架ってくださったのです」と言い表した、そのことを洗礼という印で身に帯びているのです。自分の心の中は、一時そう思っても、その後で思いが変わってしまうことがあるかもしれません。ですから、私たちは自分の心は当てにならないのですが、しかし、洗礼を受けたということは少なくとも「公に言い表した」ということになるのです。人生のどこかの時点で、確かに洗礼という印が付けられます。そして、そういう印をつけられている人は、世の中の、そのことを信じない人たちから取り分けられて、「この人は主イエスの十字架の元にある人」と、区別されていくのです。主イエスは、そういうキリスト者の現実を34節から36節で語っておられます。
まず34節に「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」とあります。ちょっとショッキングな言い方です。私たちは普段、「主イエスは平和の主である」と思っているに違いないからです。マタイによる福音書の10章12節では、主イエスが弟子たちを派遣するにあたって、行く先々の村や町で誰かの家でお世話になるときは「平和があるように」と挨拶しなさいと教えておられます。ところが、弟子たちにそう教えておられる主イエスが「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われるのは、一体どうしてでしょうか。
主イエス・キリストご自身は、確かに平和の主でいらっしゃるのです。ただし、ここで主イエスが言っておられる平和は、ただ上辺だけ闘いや争いが無いということではないのです。主イエスがもたらしてくださる平和は、単に人間同士で争いが起こらないというだけではなく、もっと根源的な平和です。それは何よりも大元では、神と人間との間に平和が築かれているということが基本になることなのです。「主イエスがもたらしてくださる平和」、それは何より「神と人間の間の平和」です。
少し説明しますと、私たち人間同士の中でなぜ諍いや争いが起こるのでしょうか。私たちが誰かと対立して争ってしまう、それは隣人との場合、あるいは家族同士でも起こり得ると思いますが、そこで対立が始まるきっかけは様々でしょう。けれども、どんなきっかけで、どんな形で争いが起こるにしても、その大元のところには、私たちが一人一人、不安や恐れを抱えて生きているということがそこにあるのだろうと思います。私たちの争いはどこから生まれてくるのか。大抵は、自分自身が抱えている不安や恐れという思いの中から始まります。もし私たちに不安や恐れがないのであれば、たとえ想定外の行動を隣人がとったとしても、落ち着いて対処できるはずです。自分の考えと違う行動を隣人がとったとしても、それについて何も心配や不安がなければ、私たちは穏やかに話し合えるはずです。どこまでも話し合い、互いに最も良い解決を見つけ出すことができるはずなのです。
ところが実際に、私たちは、穏やかに話し合おうとしても上手くいかないということを日々の生活の中でしばしば経験するのです。それはどうしてかというと、自分か相手か、あるいは双方かもしれませんが、それぞれのうちに不安の種が芽生えていて、話し合っていくうちに、だんだん相手のことを信用できなくなっていくのです。このまま辛抱強く話していたら相手に騙されてしまうのではないか、結局は自分が損をしてしまうのではないか、そういう恐れの気持ちが頭をもたげてくるのです。もし私たちが、例えどんなにその話し合いが困難な状況にあると思っても、「神様がきっとこのわたしを守っていてくださる」、その点が確かであれば、辛抱強く落ち着いていて話し合いができるはずなのです。しかしそれができないということは、私たちの心の深いところに巣食っている不安、恐れが邪魔をして、もはや冷静な話し合いを続けられなくしてしまうのです。
そして、私たちがそのようになってしまうのは、元はと言えば、私たちの中の神への信頼が貧しいためなのです。神への信頼が確かであれば、例えどのような状況になったとしても、私たちは落ち着いていられるはずです。話し合いの中で自分の旗色は大変悪けれど、しかし神が、そういうわたしを、それなりにここで生かしてくださるはず、わたしのあるべき姿を取らせてくださるはずだと落ち着いていられるはずなのです。ところがそうならないのはなぜかと言えば、本当の神に信頼を置くのではなく、自分が神の立場に身を置いているからです。話し合いは、自分の思いが実現するための話し合いなので、その通りにならなければ気に入らないのです。あるいは、話し合いの途中で自分がどうなってしまうか不安で、そうなると落ち着いて話ができなくなるのです。
日本人はとことんまで話し合うことが下手な民族だと言われます。議論を戦わせる前に根回しをして、皆の賛成を得ることを予め示し合わせておいてから議論する。議論が始まった時には議論の中身によって決定されるのではなく、最初から多数派が決まっていて、多数派に賛成することで物事が決まっていくのです。事柄が十分に突き詰められないままに決まってしまう、そういう不安や苛立ちを、私たちは時に覚えることがあります。しかしそれは、私たちが本当に神に信頼することを知らないからだろうと思います。もし自分がある考えを与えられている、もちろん人間ですから間違いもあったり不完全かもしれませんが、それは話し合いを突き詰めていく中で何が良いのかということが明らかになっていく、そこに信頼があるならば、私たちは話し合いに応じることができるはずなのです。そうならないのは、私たちが本当の神の前に膝をかがめるということが少ないからだろうと思います。日本社会は、大方は、本当の神の前に膝をかがめるのではなく、自分の思い通りに事が運ぶようにと多数派を形成し、そうなれば良いと、そこまでしか考えない人が大勢いる社会なのです。
けれども、辛抱強く話し合いを続けることができないとどうなるか、そこで互いの対立が表面化して争いになります。私たちの争い、諍いは、大なり小なりそういう道筋を通って生じているのではないでしょうか。ですから、この社会の中で、私たちが日頃、平和だと思っている争いのない状態というのは、一皮剥けばまもなく争いになりかねない、沸点の近くまで達している不安や不満や憤りや恐れというものを、たくさん抱えている場合があるのです。
主イエスは、そういう上辺だけの平和、あるいは、上手く言いくるめて数の力で通っていくような平和を平和だとおっしゃらないのです。形だけの平和を取り繕うために、主イエスはおいでになったのではありません。かろうじて保たれている見かけの平和を、それで良いとおっしゃるために来たのではない。そうではなく、むしろ、私たちがこの社会で生きる中でたくさんの不安や恐れや憤りを抱えている、その状況を照らし出して、そういう私たちを、神への信頼へと導いて、真実に互い同士が生きていけるような、真実な平和に生きる者にしようとしてくださるのです。
主イエスが弟子たちを派遣した時に「平和があるように」と挨拶しなさいと教えられた、その平和とは、あなたの家が抱えている様々な火種が発火しませんようにというような弱々しい挨拶ではなく、むしろ「この家庭の上に、本当の神への信頼が芽生えて、心の底から互いを分かり合い、一緒に生きることを通して、神が与えてくださる平和を喜び、また平和を作り出す家庭になりますように」という挨拶をするようにと教えておられるのです。
主イエスは、本当の平和の担い手を作り出すために、弟子たちをご自分の御側近くに招いて、御言葉を詳しく語って聞かせ、一人一人を平和の方へと変えていこうとなさいます。元々は争いの種をたくさん持っていた、そういう人間を主イエスは招いてくださり、本当の平和を作り出す一人一人に変えようとなさいます。
けれども、そのように変えられる人が生まれようとする時、その人と、そのことを信用しない人たちとの間には、区別や対立が生まれることがあるのです。ですから主イエスは、本当の平和を持ち込もうとするご自身のことを、「わたしは平和をもたらすために来たのではないのだ。見せかけの平和をもたらすために来たのではなく、そこに剣をもたらすために来たのだ」と言われました。ここで言われている「剣」とはなにか。これは戦いで相手に傷を与え死に至らせるような武器ではなく、敢えて言うならば、私たちに抜きがたく宿っている不安や恐れをはっきりと照らし出して、それを取り除くため外科手術を施すために用いる手術用のメスのような刃物だと考えられています。新約聖書のヘブライ人への手紙の中では、主イエスの御言葉が「鋭い剣である」と教えられるか箇所があります。4章12節に「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」とあります。主イエスによって語られる神の御言葉が、私たちの中に潜んでいる病の病巣を探り当てるように、私たちの内側を切り開いていく、そういう剣のようなものだと言われています。
今日の箇所で主イエスの言われた「剣」も、まさしく「神の御言葉の剣」のことを言っています。私たちは、しばしば教会の礼拝の中で経験させられるのですが、聖書の御言葉が読み上げられ、御言葉が説き明かされる、その時に、まるで自分がその聖書の言葉に照らされているようだと感じることがあります。御言葉の光に照らされることで、自分が気づいていなかった自分の姿、思いもしなかった自分の姿というものを照らし出されていく、その中で、自分は一体どういう者だったのかということが明らかになっていくのです。主イエスが御言葉の剣で私たちを切り開いてくださって、主イエスが示してくださって、自分自身をはっきりと知るのです。聖書の言葉に照らされてみたら、なるほど、自分では気づいていなかったけれども様々な恐れや怒りを抱えている、苛立ちを抱えている。けれども、気づかないでいたために、平和に過ごして来たと思っているのです。私たちは、示されなければ、自分が問題を抱えているとは思わず、当たり前の人間だと思っているのです。
けれども、聖書の言葉に照らされる時に、私たちは、どんなに周りの人たちと和らげないか、また自分の思いもどれほどに一定しないかということを、まざまざと示されるのです。
同じ主イエスの御言葉を聞いて、一方の人はそう感じるけれども、別の人は全然気づかないということがあるかもしれません。そういうことはあり得ます。私たちが同じ礼拝を捧げ、同じ説教を聞いても、ある方はよく分かったと思い、ある方はさっぱり分からなかったと言ってお帰りになる場合があります。大変不思議なことですが、私たちは、御言葉の光に照らされて、上手く自分が見える時と見えない時があります。それは、家族の中でも起こり得ることです。ですから、そういうことが起こる時には、一つの家庭の中でも断絶が生まれるのだということを主イエスは、今日の箇所でおっしゃっています。35節36節に「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」とあります。
ここで主イエスが念頭に置いておられるのは、5人の家庭です。父と母、息子と嫁、そして未婚の妹がいる、そういう家庭です。そういう家庭の中で、息子と父親が衝突する、娘と母親も論争する、そして嫁は姑に対して立ち向かう、家庭の中にも敵が生まれるようなことが起こり得る。それは何によって起こるのかと言えば、主イエスが語りかける御言葉の光に照らされて、それを受け入れるか受け入れないかというところで、こういう対立が起こるのです。こういう経験は、ご家庭の中で誰もキリスト者がいない方が、たまたま教会に招かれてキリスト者になるというような時に起こるのではないでしょうか。息子や娘が突然洗礼を受けたいと家族に申し出る。それを聞いた父母が教会に怒鳴り込んでくるということは、今日でも時折見られることです。両親にしてみれば、愛する子供がキリスト教などという怪しげな宗教に捕らわれてなるものかと、子供に対する愛として正しいことだと思っていますから、大変食い下がって来ます。牧師はそれに対して、そうではないことを説明していく、その中で家族全員がキリスト者に変えられるという場合もありますが、そうではなくて、そういう場合に、怒っている家族の怒りをなだめようとして、せっかく主に従おうとしているのに、それを曖昧にしてしまうことは決して望ましいことではありません。せっかく御言葉を聞いて、御光に照らされて自分自身の不安や恐れに気づき、神への信頼によってもう一度ここから生きようとするならば、その神に従う道を選ぶべきなのです。
主イエスはここで、それを「十字架を負ってわたしに従うことなのだ」とおっしゃっておられます。38節で「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」とあります。「十字架を背負う」ということは、私たちが主イエスのために死ねと言われているということではありません。そうではなくて、その逆なのです。例え、周りの親しい人たちや家族が受け入れてくれないとしても、「十字架の主がこのわたしのために、十字架にかかってくださっている。そしてわたしは、十字架の光に照らされた者として生きる。主イエスがあの十字架の上で、わたしの罪を清算して、わたしを清めてくださって、新しい命を与えてくださる中におかれている。自分は、それを知らされて変えられている。今、周りの人たちはそれを受け入れようとしていないけれど、しかし自分が変えられたのだから、周りの人たちもきっと変えられるに違いない」と信じて生きる、それが「主イエスの十字架を背負って、私たちがこの地上で生きていく」ということだろうと思います。
キリスト者は主イエスと関わりのないところで、自分が自分の十字架を立てて生きていくのではありません。そうではなく、私たちのこの人生の上に、主イエスの十字架を背負っていくのです。「主イエスがこのわたしのために十字架にかかってくださっている。その十字架はわたしが赦されるためだけのことではなく、周りの人たちのためにも十字架にかかってくださったのだ」ということを、私たちがしっかりと受け止めて生きていく、そのことが十字架を担って主イエスについて行くということです。自分の十字架を担わないということは、主イエスの十字架が自分と関わりないと言って手放してしまうことです。それは主イエスに従う人としては相応しくないと言われているのです。
弟子たち、そして私たちが従うことになる十字架について、ガラテヤの信徒への手紙6章14節に「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」とあります。主イエスの十字架こそが、私たち自身の姿を照らし出す光の素です。源、光源です。主イエスの御言の光に照らされて、私たちは、自分がどんなに自分中心に生きたいと思っているか、また、そのために恐れや不安を抱えながら生きざるを得ないかということを、まざまざと示されます。しかし、その主イエスによって私たちは、自分の思い通りに生きることを望むのではなく、神に信頼して、今日与えられているこの生活を歩んで良いのだということを知らされるのです。
私たちは、様々な悩みや苦しみを持ちますが、その時に、主イエスの御言葉に照らされないならば、私たちはどうなるでしょうか。自分の思った通りに生きたいと思うのです。けれどもそこで、主イエスの、十字架に向かって歩まれたご生涯が私たちの前に示されるのです。主イエスだったら、この苦しみ悲しみ辛さをどのように過ごされるだろうか。主イエスは、全て与えられているものを神からのものとし、神に信頼して祈りながら歩んでいかれました。その主イエスの姿と自分自身の姿を比べてみた時に、自分は一体どういう生き方をしているのだろうかと考えさせられるのです。
十字架に向かって行かれる主イエスの歩みは、私たちを照らし出す光であり、また私たちの心の中の思いや考えを切り裂いて、どんな問題を私たちが抱えているかということを示すメスにもなるのです。そういう主イエスの十字架が私たちに与えられています。「わたしには、この十字架以外、誇るものがあってはならないのだ」とここに言われています。面白いのは、この後で「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と言われていますが、これは何を言っているのでしょうか。わたしが今、生きるようにと置かれているこの世は、普通であれば、私たちは気に入らなければそっぽを向きたくなるでしょう。自分が置かれている状況など構わず自分のやりたいように生きていきたいと思います。けれども、「主イエスは、こういう世の中と付き合って、十字架まで歩んで行かれたのだ。そうであれば、主イエスに執りなされているわたしは、今、どう生きるのか。この世で生きていく。まさに今置かれているこの場面の中で、この状況の中で、この人たちと一緒にここでいきていく他ない」と知るのです。言ってみれば、私たちはこの世界に釘付けされるのです。綺麗な言葉で言えば、「置かれたところで咲きなさい」という言葉です。私たちは、与えられた生活が神からのものとしてあり、「そこをあなたは生きるのだよ」と言われている。そして、そこで生きることができるように、絶えず主イエスが私たちの傍にいて、十字架にかかっている姿をお示しになりながら、「あなたは不安を覚えるかもしれない。苦しみや悲しみを覚えるかもしれないけれど、しかしあなたにはさらに、今から将来があるのだ。たとえどんなに行き詰まっているように見えても、どんなに困難な中に置かれているように見えても、あなたは、この先へと持ち運ばれている。わたしを見なさい」と主イエスがおっしゃってくださるのです。私たちは、そういう主イエスの十字架によって、私たちの世界の、私たちの生活に釘付けされているのです。
今日ここにいる私たちの周りを見渡したいと思います。この場所には、信仰による兄弟姉妹が大勢与えられています。そして私たちは、皆、同じ主イエスを礼拝しようと集まっています。しかし、ここに集められている私たちだけではなく、ここに集められていない、まだ主イエスの福音を知らずにいる大勢の人たちがいます。そういう一人一人のためにも、主イエスは十字架にかかってくださって、そして、恐れや不安を抱えているその生活から、「あなたがたは解き放たれなさい」とおっしゃってくださっているのです。
私たちは、主イエスの呼びかけを聞かされて、今日この礼拝に招かれています。同じ主イエスの招きのうちにある大勢の兄弟姉妹とともに、私たちはここに集められて、そして、私たちのために十字架に架かり、甦えり、私たちを照らそうとしてくださっている主イエスを宣べ伝える、そういう生活へと招かれているのです。「宣べ伝える」というのは、宣伝するということではありません。私たちが本当に十字架の主に照らされている者として生活していく時に、周りにいる人たちからすると、それは、他の人たちと違う生き方がそこに生まれて来ることになるのです。そういう仕方で、私たちは「主イエスがこのわたしのために十字架に架かって死んでくださり、甦ってくださり、そして今日、私たちと共にいて、私たちを支え励まし、歩ませてくださっているのだ」ということを証しする器とされていくのです。
私たちは、そういう生活に招かれていることを感謝したいと思います。そしてまた、私たちの周りにいる、主イエスのことを知らない人たちのために執り成しを祈る務めを与えられているということも覚えたいのです。私たちの身近な、まだ主イエスを知らない人たちのために、また、私たちの間におられる求道者のために祈り執り成して、「本当の平和と神への信頼に裏打ちされた生活が
この地上に始まりますように」と祈って歩み続ける者となりたいのです。それが「十字架を背負って主イエスに従う」弟子たちの姿です。
私たちは、十字架を背負い、主に励まされ、従う、そういう者として相応しいあり方をするように招かれている、そのことを覚えたいと願うのです。 |