聖書のみことば
2017年6月
  6月4日 6月11日 6月18日 6月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月4日主日礼拝音声

 聖霊降臨
2017年ペンテコステ主日礼拝 2017年6月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第2章1節〜13節

2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 ただ今、使徒言行録2章1節から13節までをご一緒にお聞きしました。1節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」とあります。「五旬祭の日が来た」と言われています。「五旬祭」の元々の言葉が「ペンテコステ」です。ですから原文通りであれば「ペンテコステの日が来た」と言えばよいのですが、日本語で少しでも分かりやすいようにと「五旬祭」と訳しているのです。
 「五旬祭」の「旬」というのは10日の区切りを表しますから、月の上旬、中旬、下旬を5回繰り返した日、つまり意味から言えば「50日目の祭り」ということになります。どこから数えて50日目か、それは「過越の祭り」から数えて50日ということです。「過越の祭り」は、ユダヤ人の先祖であるイスラエルの人々がエジプトから脱出したこと、出エジプトを祝う祭りですが、同時にイスラエルの農事暦で言うと「大麦の収穫を感謝して献げ物をする」という祭りでもあったようです。私たち日本人の感覚では、麦の収穫の時期は年に一度と思っていますが、イスラエルでは、過越祭から50日経つと今度は「小麦を献げる」という祭り、ペンテコステの祭りがやってくるのです。そしてペンテコステは、小麦の初穂を献げるだけではなく、モーセが神から律法をいただいたことを記念する祭りでもありました。「過越の祭り」「仮庵の祭り」という大きな祭りは一週間祝われますが、ペンテコステは一日だけの祭りだったようです。

 その「五旬祭の日」がやって来た時に、主イエスの弟子たちは「一同が一つになって集まっていた」と言われています。この弟子たちの集会は、エルサレムで持たれていました。ここに集まっていた主イエスの弟子たちは皆、元々、ガリラヤから主イエスに付いてきたユダヤ人たちです。ですから、彼らはこの日がペンテコステの喜びの日であり、小麦の収穫を献げ、律法の授与を感謝する日であることを承知していたに違いありません。ところが、この日、そこに集まっていた弟子たちにとっては、単に例年守っているペンテコステの集いということではありませんでした。「一同が一つになって集まっていた」、それは何よりも「祈りを合わせている集会」だったのです。1章の14節に「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」と、彼らの様子が記されています。彼らの集まりが祈りの交わりであったことが分かります。
 この祈りの交わりは自然発生的に生まれたものではありません。弟子たちが自発的に自分の祈りたいことを持ち寄って祈り会を開いていたということではないのです。ここにこのような祈りの輪が生まれていたことの中心には、はっきりとした約束がありました。それは、主イエスが復活した後、弟子たちに言ってくださった約束です。父なる神が復活の主イエス・キリストを通して弟子たちに語られた約束、それは、1章4節5節に「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」と語られています。ここで弟子たちは、主イエスから一つの約束を聞かされていたのです。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」という約束です。弟子たちは、こういうことが起こるという約束を聞かされて、実際にこのことが我が身に起こることを待ち望んで、心を合わせて熱心に祈っていたのです。エルサレムを離れず留まり、皆で集まって祈っていました。
 恐らく今日でも、教会というのはそんなところがあるだろうと思います。私たちは、神が聖霊を送ってくださって教会に繋がれています。けれども私たちは、聖霊は送られたもので既にやってきたものだとは思わないでしょう。今日でも私たちは、神が私たちに聖霊を送ってくださるようにと、「どうか神さま、私たちの上に、また聖霊をお与えください」と祈りながら、聖霊の訪れを待っているようなところがあるのではないでしょうか。
 けれども「聖霊の訪れを待つ、そのために祈りを合わせる」というのは、私たちが祈りによって聖霊を自由に操れるようになるということではありません。聖霊がやって来るのは、あくまでも神からの贈り物として与えられるのです。ですから、風が吹くように、どこからどう吹いてくるかなど、私たちには予想できないのです。しかし、神は私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方です。私たちが自分の祈りで自由に聖霊を来らせることはできませんが、しかし、私たちが神に「どうか聖霊をお与えください。聖霊によって、さらに豊かに私たちを満たしてください」と祈る時には、耳を傾けてくださるのです。

 弟子たちは、主イエスから聞かされるまで、「聖霊」つまり「神の霊」が自分たちに与えられるなどという途方もないことを祈り求めたりはしなかったことでしょう。神が自分たちの上におられるということは知っていました。神の御言葉が律法として自分たちに与えられていることも知っていました。しかしそれは、「神が自分たちに命じておられること、求めておられることはこうだ」ということを知っていたというだけであって、「神の霊、神の力が自分の上に働いて自分が変えられる」ということをどこまで知っていたか、よく分かりません。主イエスに「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と聞かされて、弟子たちは初めて、「自分は聖霊を受ける者とされているのだ」と気づかされて、「聖霊を与えてください」という祈りを始めたに違いありません。弟子たちは熱心に祈り求めました。そのように、私たちの祈りとは、主イエスの言葉に励まされて、祈るべきことを教えられながら新たにされていくようなところがあるのです。
 弟子たちは聖霊が与えられることを聞いていて、「聖霊を与えてください」と祈っていましたが、しかしそれが何時与えられるかは知りません。今日か明日か、ずっと先のことか、弟子たちが聞かされたのは「間もなく」という約束ですが、その日が何時かは分からないでいたのです。ところが、遂にその日がやって来ました。それが、この年のペンテコステでした。
 もちろん、神の側では、この日この時に弟子たちに聖霊を送ろうと御心深く決めておられたに違いありませんが、弟子たちには分かりませんから、聖霊を受けたこの日の出来事は「突然」のことと思われたと語られています。

 聖霊を受けた出来事が弟子たちにどのように受け止められたのか、2節3節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と語られています。ここに述べられていることを理性的に、物理的に再現してみようとしたとしても、到底納得できる答えにたどり着くことはできません。聖霊降臨の出来事は、確かにこの地上のエルサレムで起こったことなのですが、しかしそれは、この地上の何かの働きや作用に由来して起こったのではなく、神に由来して起こった出来事だからです。
 ここで弟子たちが語ろうとしていること、それは「普通の日常生活では決して経験できないような不思議な出来事が自分たちの身に起こった。そのことを何とかして伝えたい」との思いであり、旧約聖書の言葉を使いながら言い表そうとしているのが、この箇所です。
 この日弟子たちが経験したことは、一口に言うならば「教会の誕生」ということです。私たちからすると、なぜそんなことが特別な不思議なことと思うかもしれません。私たちは毎週毎週、教会に集まって来て、教会の交わりを経験しています。兄弟姉妹と共に礼拝を捧げて御言葉に聞き、祈りを捧げ交わりをなして、教会生活を共にしていきます。私たちにとっては、教会生活は特に不思議なこととはあまり思わないで過ごしているのです。けれども、まさに教会が地上に存在するようになったということが、最初の教会の誕生に立ち会った人たちにとっては大変驚くべきことであり、不思議なことだったのです。

 弟子たちは、教会が始まったということを、ここで二通りに言い表そうとしています。一つは2節の言葉ですが「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」、そしてもう一つは3節「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」ということです。弟子たちが経験した教会の始まりは、「激しい風が吹いて来るような音がして、炎のような舌が現れた」ということですが、これはもちろん、この日の出来事が暴風雨によってもたらされたとか、炎でできた舌が実在したというようなことを言っているのではありません。そうではなく、弟子たちは皆ユダヤ人ですから、旧約聖書の言葉を使いながら、何とか自分たちの経験を言い表そうとしている言い方なのです。
 一つずつ考えてみたいのですが、弟子たちはこの日、「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてくるのを聞いた」のですが、自分たちが初めて「教会」というものを経験した、それは「天からの激しい風が自分の上に吹き寄せてくるようなことだった」と言っています。「天からの激しい風」とは、旧約聖書では、しばしば「神の霊」が「風」に喩えられます。あるいは「息」と言われる場合もあります。ヘブライ語で「霊」「息」「風」という言葉は、皆同じだからです。例えば、一番最初に出てくるのはどこでしょうか。創世記1章、天地創造の記事の中で、天地が形作られる前の混沌とした状態の中で、この言葉が出てきます。1章2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。まだ光が造られる前の、すべてが暗闇に覆われ混沌とした泥水のようでしかなかったところで、神の霊が吹き渡っていたと言われています。「神の霊が水の面を動いていた」と書いてあります。風と水という取り合わせですから、想像するならば、海で大しけに遭っているような場面をイメージすればよいのではないかと思います。風が波に吹き付けて、何とか一つの定まった形をもたらそうとするのです。けれども、波は水ですから、すぐにしぶきとなって砕け散って、形を止めることはできません。そのように混沌としたもの、すべてが、形があるようでいてすぐに崩れ去ってなくなってしまう、光もなにもない、そういう中に、何とかして神が秩序をもたらそうとしておられるのです。命を育むための時間を定め、また場所を定め、そして、命が生きることができるための秩序をこの世界にもたらそうとしておられるのです。
 そのようにして神の霊が、最初の混沌とした水と格闘している中で何があったか。そこに神の御言葉が語られたというのです。言葉が語られると、言葉の通りに形が定着していきます。けれども、言葉が語られるよりも前に、「激しく吹き付ける神の霊がすべての混沌に立ち向かっておられた」と、聖書は語っています。弟子たちが教会の始まりに経験したことは、そういうことでした。
 私たちは、「弟子たちが一つの場所に集まって熱心に祈りを捧げていた」と聞くと、既に、私たちの教会のように集会室があって、そこに集まって祈祷会を開いていたのだろうと思いますが、そういうことではないのです。弟子たちは、自分たちは確かに聖霊を受けるという約束を与えられましたから、「どうか、神様の力がこのわたしの上に働いて、わたしが新しい者に変えられるように。清らかな、主イエスを裏切らない弟子として強めてくださるように」と願いながら、しかし、そうなれるだろうかと思う自分の弱さを感じながら祈りを捧げているのです。
 ところが、そういう弟子たちに神の霊が天から吹き付けてきたのです。そして「教会」という形が生まれてきたのです。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。「自分たちはここで、ただの人間の行いとして祈りを合わせ、神を慕い求めていたけれど、それが突然、教会という特別な交わりに作り変えられてしまった」、その経験を弟子たちはここで「天からの激しい風」という言葉で言い表しているのです。

 「神の風、息」がもう一つ、命に関係して旧約聖書で印象的に語られている場面があります。エゼキエル書の37章です。枯れた骨がいっぱいに満ちている谷の真ん中に、エゼキエルが下されます。そして、死んで枯れている骨に向かって、神の御言葉を告げるようにと命じられます。37章9節「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』」とあります。エゼキエルが神に言われた通りに預言しますと、骨が集まって筋と肉を生じ皮が覆って、さらに神からの新しい霊が入って、枯れていた、死んでいた骨が人間の大集団になったということが語られています。弟子たちが経験したことは、そういう天からの風を経験したということだったと言っているのです。
 自分たちは主イエスの弟子だと思っていましたが、しかし実際には、主イエスが逮捕された時には、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった弟子たちです。主イエスが十字架に架かってお亡くなりになり、復活した後に一人一人弟子たちを訪ねてくださって、弟子たちはもう一度、弟子たちの群れに戻されたように見えます。しかしそれは形ばかりのことであって、実際には、まだ全然修復されたとは言えない状態です。弟子たちは皆それぞれに「自分は主イエスを裏切ってしまったし、今も裏切るかもしれない」、そういう心細さを覚えながら集っているのです。そういう意味では、弟子たちの群れは、主イエスの逮捕・十字架によって破壊され、弟子たちの群れは殺されてしまっていたと言ってよいと思います。ところが、そういう自分たちに天からの風が吹き付けてきた。四方から風が吹き寄せて、「この骨が生きるものとなるようにせよ」とエゼキエルが預言するとそのようになったと語られていることが、弟子たちにも起こっているのです。今日の使徒言行録では、ただ風が吹いてきた音がしたと言っているだけではなく「弟子たちのいる部屋いっぱいに満ちた」と書かれています。家中に響いたのです。四方から霊が吹いてきて、「死んでいた者が一つの生きた民としてもう一度回復されていった」という、そういう弟子たちの経験を言い表しているのです。
 「教会が生まれる」ことは、主イエスを好きな人たちが集まって、応援のサークルを作るようなものとは違います。もちろん、主イエスに連なっていたいという人間的な思いがないわけではないのですが、そういう人間の思いで教会がなっていくのではないのです。神が私たちの上に神の霊、神の命の息を吹き渡らせてくださる。そして私たちはそこで、新しい者に変えられて、教会の枝の一人一人にされていく。今日、私たちはそういう教会生活が当たり前になっていますから何とも思わずに過ごしていますが、実は、これは普通では起こり得ないこと、考えられないことが起こっているのです。ですから弟子たちは、このことを「天から吹いてきた非常に大きな風の音がした」と言い表したのです。

 またもう一つ、弟子たちの言い表していることは「光」に関する言葉です。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と、これも聖霊が与えられた出来事だったと言っています。一体何を言っているのでしょうか。これは、かつて主イエスの道備えとして主イエスを指し示していた「洗礼者ヨハネ」の言葉に関連しています。ルカによる福音書の3章16節にヨハネの言葉があります。「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』」。ヨハネは神に向かって悔い改める、その印として洗礼を受けるようにと人々に呼びかけた預言者です。けれども、ヨハネが授けることのできたのは水の洗礼だけだと言っています。「わたしの後から来る方は、火と聖霊によって洗礼を授けてくださる」と、ヨハネは主イエスについて言っていたのです。そしてまさに、ヨハネが言っていたとおりのことがペンテコステに起こったのだということが「炎のような舌」という表現の中に言い表されているのです。
 まさにペンテコステの日に弟子たちの上に炎が臨み、その炎が舌のような形をしていたと言われていて、これは大変面白いのですが、「聖霊が注がれたことで教会の群れに新しい言葉が与えられた」ということを表しています。言葉が与えられたので、使徒言行録に戻りますが4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言われています。聖霊が自分たちの上に注がれ、そして「教会」がやってきた、その時に弟子たちは、そこで新しい言葉を語り出すのです。今まで決して弟子たちの口にのぼって来なかったような、そういう言葉を語り出したのです。それは「“霊”が語らせるままに」語ったと言われています。
 霊が語らせたのですから、弟子たちが本を読んで新しい知識を得て、それを受け売りして話したということではありません。聖霊が語らせるままに、神が語らせるままに語ったということは、つまり「神の言葉を語った」ということなのです。それは本来、人間には語ることのできないことのはずです。人間は人間らしく考え、人間の言葉を語るのであって、誰であっても自分は神の言葉を語っているなどとは、普通は言えないはずです。ところが、その不可能なことが起こりました。「聖霊が語らせるままに語る」ということが起こったのです。そしてこのことは、最初のペンテコステの日以来、教会の中では今日に至るまで、ずっと続いて起こっていることなのです。

 聖霊降臨のこの記事の翻訳で、少し難しいと思うのですが、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と書いてあります。これを読みますと、私たちはどうしても外国の言葉を語ったのだろうと思ってしまいます。また後ろの方に「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く」と書いてありますので、これもそれぞれの国の言葉を語ったのだろうと思ってしまいますが、実は「ほかの国々の言葉」と訳されている言葉は原文では「別の言葉を語った」と書いてあるのです。ですから、今まで弟子たちが語っていたのとは違う別の言葉、つまり考えもしなかったようなことを語っているということです。あるいは「故郷の言葉」というのは、「母の言葉」が原文です。母の言葉なので、母国語、故郷の言葉と翻訳されましたが、実際には土地に関わる言葉として語られているのではありません。
 つまり、ここで起こっていることは何なのか。「聖霊に満たされた弟子たちが、今まで自分が語って来なかったような別の言葉、新しい言葉を語り出した」ということです。すると、それを聞いた人たちは、一人一人がめいめい生い立ちは違うけれども、しかし、「自分に心当たりのある言葉を語りかけられた、そう聞いた」ということ、それがペンテコステの日に起こったことだと言われているのです。
 話したのが外国語ではないということが、7節を見ると分かります。「人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」とあります。「話をしているのがガリラヤの人」だと、なぜ分かったのでしょうか。それは話している人にガリラヤ訛りがあったからです。訛りがあるのでガリラヤの人だなと察しがつくのです。当時、多くの民族がいて、様々な言葉を語る人たちがいましたが、皆が意思疎通するために「コイネー」という言葉が使われていました。恐らくペトロたちは、このコイネーという言葉で主イエスのことを語ったのです。ただ、ガリラヤ人なので、ガリラヤ訛りで語っているのです。そのように、何とか相手に伝わるように、ガリラヤ訛りで不十分であるかもしれないけれども、ペトロたちは、十字架に架かり復活された主イエスのことを語り始めたのです。すると、それを聞いた人たちが大変驚くのです。「この言葉は、わたしが生まれてからずっと聞かされてきた言葉だ。わたしの母の言葉だ」と。

 弟子たちはこの時まで、主イエスの復活の出来事を誰にも伝えていません。主イエスの復活の知らせは、復活の主イエスが弟子たちのところに来てくださって、「わたしは復活した」と聞かせてくださいましたから、弟子たちの間では「主イエスは復活したらしい」と話していたでしょう。けれども、外に対しては一切伝えていません。むしろ、外の人たちは自分たちと経験が違うのだから、こんなことを話しても分かってもらえるはずがないと思っていました。ユダヤ人たちを恐れて鍵をかけて家に閉じこもっているくらいの弟子たちの姿です。
 ところが、ペンテコステの日に聖霊が注がれて、神の圧倒的な力が弟子たちに臨んで、弟子たちは聖霊に励まされて新しい言葉を口にしたのです。つまり、「主イエスは復活しておられる。私たちの世界にいる誰にとっても、これは意味のあることです」と語り始めたのです。その時に、それを聞いた人たちが「本当にそうだ」と心とらわれ、驚いたということが、ここに語られていることです。
 これは、私たちの教会の中でも毎週起こっていることです。私たちはここに集まってきて、何を聞くのでしょうか。もちろん、聖書の箇所からいろいろな話を聞きますが、しかしそこで必ず語られていることは、「あなたのために救い主が来ておられる。その方が十字架に架かり甦っておられる。そして、あなた方と共におられる」ということです。理屈で考えてみて、そういう言葉というのは、人に伝わる言葉なのでしょうか。理屈から言えば、伝わらないと思ったとしても不思議ではないと思います。一人一人が皆違う経験をして、違う人生を歩んできて、それなりの人生観や考え方を持っている。そういう人たちに、どういうわけか同じ言葉が語り聞かされるのです。「あなたのために救い主が来てくださった。あなたのために十字架に架かってくださった。そして甦っておられる」。大変不思議ですが、私たちはその言葉を聞きながら「それは本当だ。わたしはそれを聞かされてきたし、自分の人生を振り返ってみても、確かに神がわたしを愛して、救い主を送ってくださったことは頷ける」と信じて受け入れる、そういうことが起こっているからこそ、こうして教会に集まってくるということが起こっているのです。

 ペンテコステの日に弟子たちが語った言葉を聞いた人たちは、どんな反応を示したのでしょうか。11節「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と言って驚いています。皆、様々な国から来ている。様々な経験があり、一人一人考え方も流儀も違う。けれども彼らは、「私たちに分かる言葉で、神の偉大な業を話すのを聞いた」と言っています。「神の偉大な業を聞いた」とは、どういうことでしょうか。それは、この日聞いた人たちが、ここで聞かされたことが弟子たちの作り話、人間の作文を聞いたとは思わなかったということです。今まさに、神が弟子たちを「教会」としてくださり、その教会を用いて人間の歴史に働きかけておられるのです。そして、神に信頼を寄せて救われる人間を次々と起こしてくださっている。彼らは「自分もそこに招かれているらしい」ということを感じ取ったということです。「神の偉大な業が今ここで起こっている。わたしはそれを聞いてしまった」と言って驚いているのです。
 そして、こういう形で地上に誕生した教会は、この時から今日に至るまでずっと、「神の偉大な業がここに起こっている」ことを証ししながら、この地上に立ち続けているのです。今日私たちは、ここで、同じ福音を聞かされ、そして神の言葉を聞かされ、礼拝を献げているのです。
 「自分と違う経験をしてきた人は、人生観も違う。だから自分の信じた福音は伝わらないだろう」と思って、弟子たちは黙っていました。しかし、聖霊の大きな圧倒的な力に突き動かされるようにして語った時に、聞いた人たちが、「主イエスの十字架と復活を信じるようになった。福音を受け止めた」ということが起こりました。もちろんこれは、聞いた人も驚いたことでしょうが語った弟子たちも驚いたと思います。
 教会が聞かされている福音というのは、福音自体の中に人間を救って新たにする力が備わっているのです。どうしてそうなのかというと、それが作り話ではなく、甦りの主イエスがその場に臨んでくださっている言葉だからです。主イエスは天におられるけれども、聖霊の力という形で弟子たちのところに来てくださって、弟子たちを突き動かしてくださった。教会はそのようにしてこの地上に誕生したのです。
 私たちは、2000年の時を経て、その同じ教会に連ならされています。教会の中で、「主イエスの御業が確かに行われたこと。十字架があり復活があり、その上に教会が形作られ、まさに甦りの主イエスが力をもって弟子たちと共に歩んでくださっている」、そういうことがあるのだということを聞かされながら、それを2000年前の昔の話として聞いているのではなく、今私たちの上にも起こっている出来事として語りかけられ、そうだと信じて生きているのです。
 それは決して、牧師の巧みな作り話に踊らされているということではありません。甦りの主イエスが私たちの群れに、ここに伴っていてくださって、私たち一人一人に「あなたは本当に生きて良いのだ」と言ってくださっている。「新しい者として、ここから生きていくように」と招いてくださっている。その事実の中で、私たちは真実な主イエスの御言葉に毎週出会わされ、慰められ、勇気付けられながら生きていくのです。

 私たちが、そういう新しい力ある言葉によって動かされ、励まされ、強められて生きていく、そうであるのならば、私たちもまた、自分に理解できている範囲に応じて、私たち自身に与えられている御言葉をもって、次の方々に慰めや力づけを受け渡していくべきではないでしょうか。それぞれに、神の大きな業に与る者として、私たちは今日ここに生かされている。そうであるならば、私たちは今日生かされているこの命を、自分のためだけではなく、共に生きる人たちのためにもお裾分けをするようにして生きていきたいと願うのです。

 ペンテコステに教会を誕生させた聖霊が私たちの上にも臨み、私たちにも新しい言葉を与え、新しい力に満たされて生きる者としてくださっている。私たちはこのことを覚えながら、ここから、甦りの主の証し人としての歩みを再び歩み出す者とされたいと願うのです。

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