聖書のみことば
2017年2月
  2月5日 2月12日 2月19日 2月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月5日主日礼拝音声

 信仰によるいやし
2017年2月第1主日礼拝 2017年2月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第9章27節〜34節

<27節>イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。<28節>イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。<29節>そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、<30節>二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。<31節>しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。<32節>二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。<33節>悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。<34節>しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

 ただ今、マタイによる福音書9章27節から34節までをご一緒にお聞きしました。ここには、2つの癒しの出来事が並んでおります。前半の27節から31節までは目の不自由な人が癒された話であり、後半32節以降では、言葉の不自由な人が癒されたという話です。
 まず、目の不自由な人の癒しの出来事について考えたいと思います。27節に「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た」とあります。福音書の中には、しばしば、目の不自由な人たちが登場します。マタイによる福音書だけを見ても、今日の箇所の2人以外に、4箇所で主イエスが目の不自由な人たちのために働かれたことが記されています。
 例えば、12章22節以下には、「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った」とあります。読んでいて気づかれると思いますが、いくつかの言葉が今日の箇所と重なっています。今日の9章では、2人の目の不自由な人たちがまず癒され、その2人が出て行くと入れ替わりに、今度は、悪霊に取り憑かれて口のきけない人が主イエスのもとに連れて来られて癒されます。12章では「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」が癒されます。ですから、9章で2回起こった癒しが、12章では三重苦の人の癒しとして一度に起こっているのです。9章では3人、12章では1人と人数の違いこそありますが、主イエスが「目を開き、悪霊を追い出して口が利けるようにしてあげた」という点では同じことが起こっていると言うこともできます。
 そしてまた、多くの群衆がその出来事を見て驚いている一方で、主イエスに敵対的なファリサイ派の人たちは、この行いが悪霊の頭ベルゼブルの力によって起こったと言って、主イエスを腐していることも同じです。更に言いますと、言っている人は違いますが、9章にも12章にも同じ「ダビデの子」という言葉が出てきます。このように観察しますと、もしかするとこの2つの話はもともと同じ時の話ではないか、口伝えされて行くうちに、伝言ゲームのように2通りの言い伝えとして伝えられ、マタイはその両方を収録したのかもしれないと考えたくなるほど、よく似ています。
 ところが、実はこの2つだけではなく、20章30節から34節にも更によく似た話が出てきます。20章では、癒された人は2人です。悪霊の頭の話は出てきませんが、それ以外の点では、9章ととてもよく似ています。「そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか』と言われた。二人は、『主よ、目を開けていただきたいのです』と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った」とあります。マタイによる福音書だけでも、また他の福音書でも、主イエスが目の不自由な人たちに出会って癒してくださったという記事が何箇所も出てきます。そう考えますと、1つの話が何パターンにも違って語られているというよりも、主イエスが何度も癒しをなさったことが語られているのかもしれません。

 このように、主イエスが随分と多くの目の不自由な人たちのために役に立たれたのだということが聖書に記されていることを最初に確認した上で、今日の箇所はしかし、単なる癒しの出来事を語っているのではありません。読んでいて気付かされますが、今日の箇所は、癒しの出来事自体を知らせるということよりも、むしろ「信仰」をめぐる話に重点が置かれていると言ってよいだろうと思います。
 まず9章27節で、主イエスが出かけて行くと、2人の目の不自由な人たちが主イエスに出会って「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という願いを口にします。28節では主イエスが、「わたしにできると信じるのか」と、信仰の有無を問題になさいます。2人は「はい、主よ」と答えて、主イエスへの深い信頼の思いを口にします。そうすると主イエスは「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃって、2人の目は開かれます。ですから、今日の記事では、主イエスが一貫して、この2人の人たちの信仰を問題にしているということが分かります。癒しの出来事を伝えるということよりも、「あなたたちは、本当に信仰があるのか」と信仰の有無を問う、信仰問答の記事だという人もいるくらい、信仰のことが強調されています。
 そういう点では、先週聞きました長い間出血が止まらなかった女性に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスがおっしゃったことと繋がっているようなところがあるのです。この女性の場合には、八方手を尽くして多くの名医と言われる医者にもかかったけれども、治らなかった。そしてもう、自分ではどうにも出来ないのだと思って、主イエスに癒していただきたいと願って主イエスのところにやって来た、それが「信仰」だと言っておられます。この女性が必死に主イエスに取りすがっていたことを頭に置きながら今日の記事を読みますと、今日の2人の目の不自由な人たちも一生懸命主イエスに取りすがっていることに気づかされると思います。
 2人が主イエスと出会ったのは、27節に「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た」とありますように、最初は往来です。主イエスが外に出かけられた、つまり建物の外での出会いです。主イエスは、その時すぐに2人の願いを聞いて癒されたのかというと、そうではありません。むしろ、2人を無視したかのように、敢えて何の反応もされないまま、さっさとご自身の家に引っ込んでしまわれます。それで、この2人は主イエスの後を追いかけ、主の家を訪ね当てて近寄って来ます。28節「イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った」。主イエスは、往来で頼まれた時には一切対応されませんでした。けれども、2人が家まで付いて来て、家の中に入った時に「わたしにできると信じるのか」と言われました。どうしてこのような対応をなさったのでしょうか。それは実は、この2人がこの時、極めて重大な言葉を口にしていたからです。2人は往来で「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と、主イエスに向かって「ダビデの子よ」と呼びかけています。

 「ダビデの子よ」という言葉がマタイによる福音書のどこに最初に出てくるかと言いますと、実は1章1節です。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。この福音書を書いたマタイ自身は、最初から「主イエスはダビデの子である」と紹介しています。ですから、マタイはそう思いながら書いています。ところが福音書を読み進めていきましても、話の筋の中には、主イエスに向かって「ダビデの子よ」と呼びかける人は、なかなか出て来ません。今日の箇所で初めて呼びかけられるのです。
 「ダビデの子」という呼び名は、当時のユダヤの国が置かれていた社会的状況においては、使い方に注意を要する言葉でした。「ダビデの子」は文字どおりに言えば「ダビデの息子」という意味です。「ダビデ」は紀元前10世紀にユダとイスラエルを治めていた、非常に優れた王でした。ダビデという歴史上の人物である「ダビデの子」ですから、直接に言えば、ダビデの王子たちを指すでしょう。あるいは後世の子孫を指して「ダビデの子」と言うこともできるでしょう。主イエスは確かに血筋の上ではダビデの子孫であるヨセフの子として生まれていますから、血筋の上からは問題ありませんが、ただ問題なのは、ヨセフの子ではないということです。マリアは処女受胎ですから、この世の親子としての関係はあっても血の繋がりはないので、純粋に血筋と言ってよいか分かりません。しかし少なくとも、家の繋がりからいくと「ダビデの子」の1人であるということはできます。
 ところが、ダビデというのは古代の大変理想的な王であって、「ダビデの子」はその子孫を表す名前ですから、ユダヤ人たちの間では次第に現実の世界に「ダビデのような王様がもう一度生まれてきて欲しい」という、待望を表す言葉として使われるようになってきたのです。特に、ダビデ王国は、後年、散々な目に遭います。ダビデの子供のソロモンが死んだ後に、北王国と南王国に分裂してしまう。そして、北王国は紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、南王国も紀元前600年代にバビロンに捕囚され滅びるのです。そして、その後のユダヤ人はバビロニア、ペルシャ、マケドニア、ローマと次々に外国支配に隷属していくような屈辱的な生活を強いられていきました。そういうユダヤ人たちにとっては、「ダビデのような王様が自分たちの間から生まれてきて欲しい。そして今現在のローマの支配を打ち破って、再び独立国として、1つの国民として、神に仕えて生きる者となりたい」と願っている。そういう中で、指導者になってくれそうな人を「ダビデの子」と呼ぶようになっていました。ですから、「ダビデの子」が現れたというのは、ダビデの子孫がいるという話ではありません。ユダヤをもう一度、1つにまとめ上げ、導いて、ローマに対抗させるような、そういう指導者が現れたということになるのです。

 主イエスご自身は、そういう政治的なリーダーを目指しておられたのかと言いますと、全くそうではありませんでした。政治的にローマからの独立を勝ち取るためのリーダー、この世の王などには、全く興味がありません。ですから、主イエスからしてみますと、往来で「ダビデの子よ」と呼びかけられることは、とても迷惑なことでした。周りの人たちから、「あのイエスが、ダビデの子と呼びかけられていた」などという噂が民衆に広まって期待を寄せられても困りますし、ローマの官憲にそのことが聞こえて、ローマに対する謀反人たちのリーダーだと伝わっても面倒なことです。ですから、往来でそう呼びかけられても、主イエスは対応なさいませんでした。
 今日のところで、2人の目の不自由な人は、主イエスに癒していただいて目が見えるようになるのですが、主イエスは「このことは、だれにも知らせてはいけない」と、この癒しの出来事を人々に言い広めないようにと釘を刺しておられます。これも同様の理由です。癒しという力ある業をする人であれば「もしかしたら、私たちをまとめるリーダーなのかもしれない」と言って評判が広まると困るので、主イエスは黙っているようにと言われるのです。ところが、2人は主イエスの言葉を無視して、どんどん言い広めてしまいました。
 主イエスご自身は、政治的なメシア、リーダーに祭り上げられることを断固として拒否されました。ですから、2人に「ダビデの子よ」と呼びかけられた時、さっさと家の中に入られました。けれども、2人が主イエスの家まで訪ねてきて、他の人に立ち聞きされることのなくなったところで初めて、主イエスは2人に「わたしにできると信じるのか」と言われました。それに対して「はい、主よ」と2人は返事をしました。主イエスは「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われました。

 この言葉の元々の意味を訳しますと、「信じている度合いに応じて癒されよ」という言葉です。「信仰に比例して」と訳す人もいます。これは、少し気になる言い方です。「あなたの信仰に比例して、信仰の度合いに応じて癒されなさい」、同じように「主イエスを信じている」と言っても、心の底から強く主に信頼している人もいれば、あるいは様々な迷いや疑いがあるために薄くしか主イエスのことを信じられない人もいる。主イエスを通しての神の恵み自体は、たとえ小さな信仰しか持ち合わせていないとしても、その人に上から一方的に与えられます。信仰が強いか弱いかということが何かを有効にしたり無効にしたりするものではありません。
 けれども「信仰」というのは、ここでは、言ってみれば主イエスを通して神が与えてくださる恵みを受け取る器のような、そんなイメージだろうと思います。主イエスの恵みの泉から、後から後から命の水が湧き溢れてくる。その水を受けるのに、大きなバケツを用意する人もいれば、小さなおちょこで汲もうとする人もいるのです。これは、大きなバケツを用意しさいすれば一人でに豊かなものが手に入るということではありません。主イエスが水道の蛇口を開いて、そこから恵みを届けてくださるということがないのであれば、私たちの方でどんなに大きな器を用意していても何も起こりません。
 しかし、もし主イエスが私たちのために蛇口を開いて命の水を与えるということになれば、今度は、私たちの持っている器の大きさには影響が出てきます。大きなバケツで受け取ればたくさん入るでしょうし、小さなおちょこでしか受け取ろうとしなければ、その分しか受け取ることができない。ですから、信仰者は、自分がどれほど本気になって主イエスにお仕えするかという献身の度合いによって、受け取る恵みの分量もまた変わってくるようなところがあるのです。私たちは「主イエスに従って献身する」、その献身する生活において、実はさらに豊かな恵みを受けるようになるのです。
 旧約聖書の列王記下の4章に、預言者エリシャが仲間の預言者の妻から助けを求められる話が出てきます。1節に「預言者の仲間の妻の一人がエリシャに助けを求めて叫んだ。『あなたの僕であるわたしの夫が死んでしまいました。ご存じのようにあなたの僕は主を畏れ敬う人でした。ところが債権者が来てわたしの子供二人を連れ去り、奴隷にしようとしています』」とあります。夫が死んでしまったために、この女性は生活が困窮しているという状況です。そして、何とかして助けて欲しいと、エリシャに助けを求めます。その時にエリシャは何をしたでしょうか。「家の中には油の瓶しか残っていません」と訴える女性に、「では、ありったけの器を集めなさい。家の中にあるものだけではなく、借りられるものがあれば借りてきて、集められるだけ集めなさい。あなたの持っている瓶から、器にどんどん油を注ぎなさい」と命じました。そうすると大変不思議ですが、普通ならば瓶は空になるはずですが、減らないのです。どれだけ注いでも油は出続けるのです。結局、そのようにして器に入った油を売ることで女性は負債を返し、生活ができるようになりました。この油が出なくなったのは何時だったかというと、「器はもうない」と言った時でした。6節に「器がどれもいっぱいになると、彼女は、『もっと器を持っておいで』と子供に言ったが、『器はもうない』と子供が答えた。油は止まった」とあります。つまり、器がある間、油は出続けましたが、「器はもうない」と言った途端に止まりました。
 またエリシャが死ぬ時の話も知られています。死の床についているエリシャのところに、イスラエル王ヨアシュがお見舞いに来ます。ヨアシュ王が大変心細そうなので、エリシャは励まそうとして「東の窓を開け、そこから弓矢を射てごらんなさい。これは敵のアラムに勝つ印の弓矢だ」と言います。エリシャが地面に向かって射るように言うと、王は3回で止めてしまいました。そこでエリシャは「なぜ3回で止めたのか。あなたは5回、6回と続けて射るべきだった。そうすれば敵を全て打ち滅ぼして助かることができたのに、今となっては、3回しか敵を退くことはできない」と言って怒ったという出来事が記されています。
 こういう旧約のお話は、一体何を言っているのでしょうか。私たちが神に信頼し期待して、「求め続けること」を教えているお話です。目の不自由だった2人は、主イエスに本当に深く期待して、「どうか憐れんでください」と言って家まで付いてきました。その結果、大きな信仰の秤に応じて目が開かれるということが起こりました。ですからこの2人は、肉眼では確かに「見えない」という状況に封じられていましたが、「主イエスに対する期待を持つ。信頼を寄せる」という点で非常に高いところを見上げていたと言うべきだと思います。「主イエスは真のダビデの子。救い主として、主イエスの御言葉通りになっていく。その主イエスに結ばれて、私たちは確かなものとされるのである」と堅く信じていました。自分自身は貧しい者に過ぎないけれど、この貧しく惨めな者を主イエスが何とかしてきっと立ち上がらせてくださるという信仰が、2人の肉の目を開いた、それが今日の前半の記事です。

 最初に申し上げましたように、バケツであれ、おちょこであれ、器がありさえすれば何でも解決するというものではありません。信仰とは、私たちが持っている信仰の思いの強さとか熱心さで決まるのではありません。そうではなくて、信仰の中心にあるのは、源である主イエスです。主イエスに向かって信頼を寄せているか、そして主イエスが本当に私たちとの交わりの中に立ってくださるか、ということが問題です。
 今日聞いている後半の癒しの話では、そのことが物語られます。32節に「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った」とあります。
 「連れられて来た」人は、癒されます。ここでは「悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」という言い方がされています。この言葉からしますと、どうも癒された人は、口が利けるようになったことで「ものを言い始めた」とはありますが、神に感謝するとか、主イエスにお礼を言うというようなことはなかったようです。むしろ周囲で見ていた人たちが大変驚いて、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と神を讃えるようなことを言っています。もしここで、この人が感謝の言葉や神への賛美の言葉を口に登らせていたとすれば、マタイはここにきっと書いていたに違いありません。マタイは「信仰」ということを大切にしていますから、信仰的な言葉をこの人が言ったとすれば、ただ「ものを言い始めた」ではなく、「口を開いて神を賛美し始めた」と書いたことでしょう。
 そう考えますと、この人自身に信仰があったかどうかについては、かなり疑問です。もしかしたら、信仰はなかったかもしれません。ではなぜ、ここで癒しが起こったのでしょうか。これはまた不思議なことです。主イエスは信仰が全くないところでは、癒しをなさらないからです。
 では、なぜでしょうか。これは実は、主イエスはやはりここに信仰をご覧になったからです。ただし、口の利けなかった人の中に見出されたのではありません。主イエスのもとにこの人を連れて来た人たちの中に、信仰をご覧になっています。この人は、自分から進んで来たのではありませんでした。「連れられて来た」のです。この人自身ではなく、「この人を何とかしよう」として、主イエスのところに連れて来た友人がいるのです。その人たちの信仰をご覧になって、主イエスは癒しをなさいました。ですから主イエスは、「この人には信仰がない」と、その不信仰に目を留められたのではありません。「この人に信仰はないかもしれない。けれども友人たちは信仰を持っている」、だからこの人を癒そうとして癒してくださったのです。そういう出来事です。
 私たちが「主イエスへの信仰が与えられている」ということは、自分のことだけに用いるためではないことを教えられていると思います。私たちが誰かのことを覚えて祈り、執りなそうとする場合に、祈られている本人が全く神や主イエスへの興味がなくても、主イエスがその人を守り導いてくださるという不思議なことが起こるのだということを、今日の箇所は語っています。

 連れて来た人たちは「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言って大変喜んでいますが、一方で、この出来事を見て、そういう受け止め方と違う受け止め方をした人たちがいたことが34節に語られています。34節に「しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った」とあります。「主イエスが、真のダビデの子・救い主として神の御業を行って悪霊を追い出してくださった」と言って喜んでいる人たちがいる一方で、「これは悪霊の頭の仕業だ」と言って腐している人もいます。
 教会の礼拝の中で起こっていることが、このことに近いのではないかと、ここを読んでいて思います。礼拝を捧げるとき、私たちは、御言葉が読まれ説き明かされ、目には見えないけれども聖霊の働きがあって、慰められ励まされ、勇気付けられ、ここからそれぞれに力を受けて自分の生活に戻っていくということが起こります。私たちは、そういう経験を与えられていますから、毎週毎週礼拝に集ってくるのだというところがあるのです。
 ところが、そのように主イエスの御言葉によって励まされて嬉しいと神に感謝するということが起こる一方で、必ずしも、誰もがそのように受け止めるわけではないことが語られています。つまり、信仰を持って受け取るのであれば、その信仰の度合いによって、器がたとえば小さければ小さく、大きなバケツであれば大きく励まされたということが起こるでしょう。けれども、そういう器を何も持たない人の場合には、この礼拝で起こっていることが全く理解できないために、自分勝手にいろいろな理屈をつけて説明できるつもりになろうとするでしょう。「キリスト教は、様々な人生の悩みを追い出すことができるのだから、礼拝にはきっと何かからくりがあるに違いない」と説明して、分かったような気になるということも有り得るのです。

 しかし、実はそういう声が私たちの間で大きくならないためにも、もし私たちが信仰によって力を与えられ、御言葉によって慰めを受け励まされて生きるということが起こるのであれば、私たちはそのことを、「自分自身に確かに起こっている」ということを、言い表して生きるべきなのだろうと思います。何も自分が言い表さなくてもよいだろうと考えない方がよいでしょう。そういう時には、これは、この世的な力のからくりがあって礼拝が行われているのだという声が、もしかすると私たちの間に蔓延してしまうということも無いとは言えません。そのことが、ファリサイ派の人たちの様子を通して、ここに語られています。

 私たちは、本当に礼拝において力を与えられているのであれば、心から感謝し、素直に仕えて喜んで生きるべきなのだろうと思います。そして私たちは、力を与えられて、ますます、祈りと献身に励む者とされたいと願うのです。
 私たちの教会が聖霊のお働きと御言葉の力に満たされて、「主の御業が今日も私たちの間で続けて起こっている」ことを大事に考えて、そして、私たち自身が身をもって証しする、そういう僕とされていきたいと願います。

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