ただ今、マタイによる福音書7章7節から12節までをご一緒にお聞きしました。7節に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とあります。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉は、多分、私たちが今手にしている聖書よりも文語訳聖書に書かれていた言葉の方が有名だろうと思います。文語訳では「求めよ、さらば与えられん」と書いてあります。この言葉をどこかで耳にしたことがあるという方は多いのではないでしょうか。おそらく、キリスト者でない人たちも、教会には一度も行ったことがないという方も、「求めよ、さらば与えられん」という言葉だけであれば、どこかで聞いたことがあるとお感じになるのではないでしょうか。そのように聖書の言葉が広く知れ渡っているということ自体は大変結構なことなのですが、この言葉の意味がきちんと理解されて広まっているのかと考えますと、もしかすると、少し誤解されて受け取られているのではないかとも思います。
「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、一般的にどのように捉えられているのでしょうか。どういうことであれ、とにかく「求める」ことが大事だという意味だと思っている人は多いと思います。とにかく自分が求める、そこから「為せば成る」ということと殆ど同じで、「どんなことでも、やれば必ず実現できる。やればできる」という意味だと思っているかもしれません。
しかし、この言葉の書かれている文脈を読むと分かりますが、「求めなさい」という言葉は、「何でも強く自分で思い込んで、欲しがりなさい」ということではありません。そうではなく、「天の神、天の父に求めなさい」という言葉なのです。11節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とあります。「天の父が求める者に良い物をくださる。だから、求めなさい」と言われています。ですからこの言葉は、別の言い方をするならば、「天の父に、願い求めなさい。祈り求めなさい」ということです。「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、もともとの意味は、「神に、切にお祈りしなさい。祈り願いなさい」と勧めている言葉なのです。
今日はマタイによる福音書で読んでいますが、同じことがルカによる福音書にも教えられています。そして、ルカによる福音書では、この「求めなさい」という言葉が、より一層、祈りの言葉であることがよく分かる書き方になっています。ルカによる福音書11章9節に「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とあり、同じことが語られていますが、この箇所の文脈を見ますと、1節でまず、主イエスが弟子たちに、「祈るときには、こう言いなさい」と言って「主の祈り」教えてくださいました。そしてその後、5節からは「祈ることを諦めず、辛抱強く祈ることが大事なのだよ。祈りは、続けることが大事なのだよ」と教えてくださっている言葉が続いています。そして、そういう流れの中で、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい」という言葉が出てくるのです。ですから、ルカによる福音書を読みますと、これは明らかに「求めよ」は「祈りなさい」という言葉であることが分かります。「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、「あなたは諦めずに、自分の必要を神に願い求め続けなさい。祈り続けなさい」と主イエスが教えてくださっている言葉なのです。
主イエスはここで、「神に求めなさい」というつもりで教えておられますが、しかし、この「求める」ということは、私たちが自分の心に思い浮かんだことを、一度や二度「ちょっと神に祈り願ってみる」というようなことではありません。主イエスの使われた言葉で言うならば、「7を70倍」するまでということになると思いますが、「際限なく祈りなさい。同じことを何度でも祈りなさい」という教えなのです。主イエスは、「求めなさい」というだけではなく、その後に「探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われ、このように3通りに言葉が重ねられているところに、「あなたは繰り返し祈るべきなのだよ」と思っておられる主イエスの気持ちが表れています。
何であれ、私たちが神に何かを願うスタートは、私たちが必要を願い求めるところから始まります。どんなことであれ、私たちはそれを天の神に願い求めてよいのです。私たちが祈りを通して神に求めるということを、神は喜んでくださいます。私たちの祈りに神は喜んで耳を傾けてくださるのです。
もちろん、だからと言って、私たちが祈ったらすぐに、祈り求めているものが思った通りに、思った時に自分の手にできるなどということはないかもしれません。神は、私たちが神に向かって祈る、願う、求めるということは例外なく喜んでくださいますが、しかし、その結果をどのように与えるかは神がお決めになることなのです。自分が何かを願い求め祈り続ける、しかし、肉眼では祈り求めた結果はなかなか実現せず、また側からは「あなたの祈りは全然聞かれていないじゃないか」と言われてしまうことも有り得るのです。
祈ってもなかなか現実とならない、しかし主イエスは、そういうところで、「あなたが祈りに疲れて諦めてしまわないように、なお『探しなさい』」とおっしゃいます。私たちが失くした物を探そうとする時のように、「あなたは、なお探し求めて祈ってよいのだ」と言われます。失くし物を探した経験はどなたにもあると思いますが、私の実感ですと、探し物はなかなか出てきません。そもそも、どこに置いたか分からなくなって探しているのですから、あるはずだと思っているところに無くて困ってしまうのです。答えはそこにあるはずだと思っているのに、少しも答えが見つからない。「さて自分は、一体あの荷物をどこに置いたのだろうか。自分があの荷物を最後に手にしたのは何時だったか。どんな時に使ったか。どこで見かけたか」と懸命に記憶を辿りながら、ありそうな所を探し回ってやっと見つかる、あるいは見つからない場合もあるのです。
祈ったからと言って、すぐに願った通りの結果が出ない場合があります。しかし、そこで「もう、叶わないのだから」と祈ることを諦めてしまったり、「あれは駄目だから、これに」と、手近なものに変えてしまったりするのではなく、「この祈りは、なぜ聞いてもらえないのだろうか」と考えたり、あるいは、今自分が祈っているのに聞かれないことについて、「このことで、神は何をわたしに教えようとしておられるのだろうか」と、自分が祈っている事柄について考える、探し回るということが大事です。「いろいろと考えながら、なお祈り続ける」ということは、実は願わしいことなのです。
しかし、そのようにあれこれと「神の御心はどこにあるのだろうか」と思い巡らしながら祈っていても思った通りの結果に至らないし、また、神の御心にも合点がいかないと思う場合もあります。そういう時に私たちは神に対して拗ねてしまったりしがちですが、しかし、そこでも主イエスは「門をたたき続けるように祈っても良いのだよ」と教えてくださっています。「どこまでも求め続けなさい。探し続けなさい。門をたたき続けなさい。あなたの祈りは、そのようであって良いし、またそう祈るべきなのだ」と、私たちが繰り返し熱心に神に祈るということを、主イエスは教えてくださるのです。
そして更に8節では、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言われます。これは7節の繰り返しのように聞こえますが、しかし単純な繰り返しではありません。実は、7節で言われてなかったことで8節にはっきりと告げられていることがあります。それは8節最初の「だれでも」という言葉です。「だれでも」ですから、どんな人であっても、「もしあなたが心から懸命に、辛抱強く祈り続けるのであれば、その祈りは必ず聞き届けられるのだよ」と、主イエスは言っておられます。神は、教会生活を長く続けている人の祈りは聞くけれど新しく来た人の祈りは聞かないなどという、了見の狭いお方ではありません。「神は、だれでも祈り続ける者の祈りを聞いてくださる。だから祈り続けなさい」と、主はおっしゃるのです。
さて、この箇所は、主イエスが祈りを弟子たちに教えておられるところだと話しましたが、こういう言い方は、普段から祈っているという方には意味が通じていると思います。けれども、もしかしますと、この場には「普段、祈ることとは無縁だ」という方がいらっしゃるかもしれません。そして、「天の父なる神に祈ったことは一度もない」という方には、今お話ししたことがあまりお分かりいただけないかもしれません。そもそも「天の父なる神に祈れ」と言われても、「どちらの方向を向いて祈ればよいのか、どこに天の父がおられるのか分からない」と思われるかもしれません。実は、キリスト者が祈るとき、神がどちらの方向におられるかということについては、キリスト者もよく分かっていないのです。祈り慣れた人でも、東西南北、どちらを向いて祈ったらよいのかなどとは考えていないでしょう。そして、聖書の言葉に照らして言えば、あまり場所にこだわっていないということは当然のことです。聖書の中で、私たちが祈っている「天の父なる神」とは、どのようなお方だと言われているでしょうか。旧約聖書の一番最初、創世記に出てきますが、神とは、この世界をお創りになった創造主だと記されています。字のごとく創世記は「この世を創った記録」ですが、1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。ですから、神がこの世界をお創りになったからには、創造主である神は、この世界のどこかにいらっしゃるはずはありません。この世界とは別の、よその所におられるお方なのです。この世界の外側のお方です。
一方、私たち人間は、当然ながら、創られ置かれている場所、この世界の中に生きています。そして、そうであるために、普段あまり意識しないことですが、私たちの物事の考え方、感じ方、捉え方というのは、どうしてもこの世界の中に捕らわれています。例えば「神」という言葉を聞いて、神を思い浮かべようとした時に、どのように思い浮かべるでしょうか。皆、違うと思います。もしかしますと、「大変明るくて見つめられないほどの光のようなお方」と想像するかもしれませんし、「輝く白い衣を着た、年齢も分からないようなお爺さん」と思うかもしれません。百人百通り、皆、自分なりのイメージを持っていることでしょう。しかし、私たちがどんなイメージで神を考えるにしても、そのイメージは、私たちがこの地上の世界で経験して知っていることから紡ぎ出しているのです。私たちがこれまで生きてきた経験の中から、この世界の中の言葉でしか考えられないのです。まばゆい光も、輝く白も、長い髭もそうです。あるいは、天地創造の神だとすれば、ビックバーンが起こるその前の砂つぶの向こうの世界におられるかもしれないと考えたりするのです。しかしそれらは皆、私たちの暮らすこの世界の中にあるイメージでしかありません。
真実の神は、私たちが神をどのようにイメージしたとしても、常に、その私たちのイメージを超えたお方です。ですから、私たちが祈るとき、神がどこにいらっしゃるか、方向はどちらかと考えても分からないことは仕方のないことです。本来、神は、私たちの感覚や理屈で捉えることのできないお方です。この世界の何かになぞらえることなど、到底できないお方なのです。神はこの世界の創造主であり、この世界の外側にいらっしゃるのです。そういう神に向かって、私たちは祈ります。自分の必要を、そういう神に向かって求めるのです。
「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」という言葉は祈りの言葉だと申しましたが、ある説教者はこの言葉について「祈りを通して、私たちが真の神に立ち返るように促す神自身の呼びかけである」と言っています。あまり意識しないことですが、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」とは、命令の言葉です。聖書の原文であるギリシャ語で読んでも、命令の言葉です。「求めることも探すこともたたくこともできますよ」という勧めの言い方なのではなく、主イエスははっきりと、しかも「いつも、そうありなさい」という反復した命令の言葉で言っておられます。ですから、主がそういう強い口調でおっしゃっていることを意識してこの言葉を読むならば、ここは「あなたは、どうしても求めなさい。求めて駄目でも、どうしても探しなさい。それでも見つからなければ、門をたたき続けなさい」と言っておられるのです。あなたの気が向かなければ求めなくてよいということではありません。「どうしても、〜しなさい」と強く言っておられます。
ではどうして、主イエスはこのように強くおっしゃるのでしょうか。主イエスは、命令の言葉はあまり使われません。翻訳で命令の言葉として聞いていても、原文では「あなたはそのうちこうなるよ」という内容を強く言っている言葉が日本語で命令形になっている場合はあります。ところがここで、主イエスが強い命令形で語っておられるのは、「神に立ち返りなさい」という改心への呼びかけだからです。私たちにとって、この世界を超えた神との交わりを持って生きること、この世界を超えている神に向かって祈ること、神に繋がって生きるなどということ、これは普通に起こることではありません。キリスト者とは不思議なもので、当たり前のように神に向かって祈っていますが、祈るということは実は当たり前のことではありません。当たり前のことではないので、キリスト者以外の人には理解してもらえないのです。端から見れば、キリスト者の祈りは独り言のように聞こえてしまいます。目に見えない神に向かってもごもごと独り言を言っているようだと、旧約聖書の中でも、ハンナという女性は祈っている姿を酔っ払いだと言われておりますし、また、主イエスの弟子たちもペンテコステの出来事の際には、酒に酔っていると嘲笑われました。「祈る」ということは、その相手がいることが分からない人にとっては、世迷いごとのように思われるのです。
主イエスは、「この世を超えた存在であられる神が、あなたとの交わりを持とうとしてくださっているのだよ。あなたの祈りの言葉に耳を傾けようとしてくださっているのだよ。だから、あなたはどうあっても求めなさい。どうあっても探しなさい。どうあっても門をたたき続けなさい」と言われるのです。「神は私たち人間が神に立ち返り、そしてもう一度、神との交わり中に生きるようになることを切に願ってくださっているのだよ」と、主イエスは、そういう神の御心を弟子たちに知らせ、私たちに知らせようとして、大変強い言い方で「求めなさい」とおっしゃるのです。
私たちは普段、神のことを忘れて生活している時がほとんどです。神抜きで、この世界の中だけで私たちの生活が成り立っているかのように思い込んで、この地上の生活をあくせくと、どのように生きようかと考えながら生きています。ところが、創り主である神は、この世界の外側にお立ちになりながら、世界の中に生きている私たちのことを心配してくださっています。「この人は、与えられている命を、ふてくされたりせず、喜んで一日一日を歩んでいけるだろうか」と、私たちを神の御心にかけてくださるのです。そして、私たちが何であれ神に祈り願う時に、何とかして「神の前に正しいあり方で満たされて生きられるように」との配慮をもって、私たちに手を差し伸べてくださるのです。ただし、その神のなさりようは、私たちの願い求めるあり方とは必ずしも同じではありません。けれども、神は何とかして、私たち一人一人の人生を支えようとしてくださる、だからこそ、神は、何であれ私たちが願い求めることを喜んでくださるのです。
主イエスは、そういう「父なる神」のことを弟子たちに教えるために、一つの譬え話をなさいました。9節以下に「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と語られます。今でもドイツパンには硬いものがありますが、当時のユダヤのパンは大変硬く、また何より丸い形でしたので、形だけを見ますと石ころに似ているのだそうです。形がよく似ているからといって、地上の親たちは子どもたちに「パンだよ」と言って石を与えるだろうかと、主イエスは言われます。主食はパンですが、パンの次に食べられていた副食は魚でした。魚を食べたがる子どもに、同じように鱗があるからといって、蛇や蝮を与えるだろうか、そんなことはしないでしょうと言われます。そして「あなたがたの天の父も、そうなのだよ。あなたが願い求める時に、本当に必要なもの、良いものを与えてくださるのだよ」と教えてくださっています。人間の親でさえそうであれば、まして神は、人間のように欠けや破れのある方ではなく、この世の創造主であって、あらゆる人間の父親たちに、「父」という名を与える源となっているお方ですなのですから、「真実な父である方は、あなたがたとの結びつきと、良いものを与えてくださるに違いないのだ」と、主イエスは教えられます。ご自身との交わりの中に私たちを置いてくださる、そして、言うなれば「神ご自身が私たちの人生の支え手となってくださる」のです。そして「神がそうしようとしてくださっているのだから、あなたはどうであっても祈り続けるべきなのだ」と、主イエスは言っておられるのです。「あなたは求め続け、探し続け、門をたたき続けなければならない。神があなたの人生の裏打ちとなり、支えとなり、あなたを何とか生かそうとしてくださるからだ」と教えてくださっているのです。
さて、神がそのように私たちの人生の裏打ちとなり常に支えとなってくださるというところから、それを信じて生きる人には、生き方に変化が出てくるのです。「これまでは神を知らずに自分一人で生きてきた」そういう時には、私たちにとって、何が人生における一番の関心事かと言いますと、自分の身の安全なのです。「どうやったら生き延び、生き残れるだろうか」「自分の肉体はどのように支えられるだろうか」、そのことが人生の一番の関心事です。そして、その次の関心事は、「体を養って生きていくこの人生が、自分の思い通りに願った通りに生きられるだろうか」ということであり、それは一番目と同じくらい重大な関心事です。およそ普通であればそうだと思います。世の中で、誰に対しても人生のプランナーのような人が提案する場合には「あなたは、どうなさりたいのですか。あなたが思い描いたような人生になるように私たちがお手伝いしましょう」などと言って、助言したり取り入ろうとする場合があります。
けれどもは私たちは、自分の日々過ごしている生活の中で、いろいろな思いがけないことに出合ったり、予想もしない事態に陥ることがあります。しかしそのところで、「それでもあなたはわたしのものなのだ」と、神がしっかりと手を添えてくださっていて、「あなたは、こちらの方に生きていったら良いのだよ」と御言葉をかけてくださって、そして、私たちが「もう生きられない」と思っているところで、「大丈夫、あなたには、ここに道が拓けているではないか」と道を指し示してくださるのであれば、私たちはもはや、自分自身で自分を守るということが第一ではなくなるのではないでしょうか。
もちろん、自分の命は大事です。ただそれは、私たちが自分の力だけですることではありません。私たちに命を与えてくださった神が私たちを深く顧みてくださって、与えられているこの地上の命を、神が与えてくださっている時間の間ずっと生きていけるように配慮してくださっているのです。そして、そのことを知るときに、実は、神の恵み深い御手を知っている人は、自分のためだけに思いや全てのエネルギーを集中しているところから解き放たれます。「自分に与えられている力、自分に与えられている様々なもの、それらを、自分が存在することのためだけに振り向けるのではなく、一緒に生きている他の人たちと分かち合っていこう」というあり方が生まれてくるのです。「神がわたしを深く愛してくださって、支えてくださっている」ことを知るときに、その人は、「神が愛してくださっている自分以外の人たちにも、愛を届けていきたい。隣にいる人たちが生き悩んでいるのであれば、何とかその人が生きられるように、自分にできることでお仕えしていきたい」という思いが生まれてくるのです。
「これまでは、自分の力で自分の人生を守らなければならないと思い込んでいたけれど、今や神がこのわたしを支えてくださっていることが分かった」という時には、私たちは、私たち自身に与えられている力、能力、時間、富、知恵、そういったものを自分だけのためではなく、隣人のために用いることができるようにされるのです。
そして、そういうことが起こることこそが、神を知り、神の御手に支えられて持ち運ばれ生きるようになっている人に起こる「信仰の奇跡」です。神は私たち一人一人を真実に支えようとしてくださいます。私たちの祈りに耳を傾けて、そして、神のお答えを私たち一人一人の人生の中に備えていてくださいます。そしてそれは、そこで私たちが「良かった」と満足して終わるだけのものではありません。「神の御手がわたしの人生に添えられている。神ご自身が、わたしの人生の裏打ちとなってくださっている。だから、わたしはどんなに大変な道を歩むとしても、神に信頼して生きる限り、決して損なわれることはない」と思う、そういう人が、次には、自分の隣の人たちに支えを与えようとする、隣人のために生きようとする、そういう生き方をすることを通して、神はさらに、神の真実な慈しみをこの世界の上に及ぼしていかれるのです。
そして、私たちにそのような「仕えて生きるあり方」を取るようにとお求めになります。私たちがそういうあり方を取るためにも、実は「祈りなさい」と求められているのです。
ここにいる私たちが、「今、自分に与えられたこの命をどのように使って生きていくのか、自分に残されているこの時をどう歩んでいくのか」、そのことを、もう一度、今から落ち着いて考え直し、ここから歩み出すスタートを神が備えてくださっているのです。
祈って神に立ち返り、そして「隣人との間に和らぎと平和をもたらす一人一人として、生きる新しい者とされたい」と切に願うのです。 |