ただ今、マタイによる福音書第6章25節から34節までをご一緒にお聞きしました。25節に「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」とあります。ここで主イエスは「思い悩むな」と言っておられます。主イエスは、私たち人間が思い悩む場合があるということをよくご存知です。
「思い悩んだ」という経験をお持ちの方は少なくないと思います。「思い悩む」ということは、決して特別に神経が細かったり、すり減ったからというような例外的な出来事ではありません。むしろ、誰であっても経験する、人としてごく普通の出来事です。しかしそうであっても、主イエスがここでおっしゃっていることは、今現に辛い苦しい思いをして思い悩んでいる最中にある方にとっては、なかなか素直に受け止められる言葉ではないかもしれません。悩みを抱える時、私たちは何もすき好んで、自分から悩んでいるわけではないからです。思い悩みというものは、私たちの生活感覚から言いますと、向こうから勝手にやってきます。向こうから勝手にやってきて、私たちの元に止まって、私たちを苦しめる、そういうところがあります。ですから、実際に思い悩んでいる最中に「悩むな」と言われても、率直に私たちは困るだけです。
周りで悩んでいる人に出会う時に、つい、親切心から「そんなにくよくよ悩まなくていいんじゃないの」と、私たちは言ってしまいがちですが、しかしそれは、悩んでいる本人にとっては困ることです。「わたしは好きで悩んでいるのではない。悩むなと言われても、どうやったら悩まなくて済むのか?」と言いたくなるでしょう。
主イエスは、どうしてここで「思い悩むな」と言われるのでしょうか。その理由を解く手がかりは、25節の初めのごく短い言葉にあります。主イエスは「思い悩むな」と言う前に、「だから、言っておく」と言っておられます。「だから」は、その前の言葉を受けています。主イエスが「思い悩むな」と言われる理由がそこに語られているのです。直前の24節には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。24節で主イエスは、「どんな人でも二人の主人に同時に仕えることはできない」と教えられました。「神様に仕えることと、この世の富や豊かさに仕えることと、その両方に同時に仕えることはできない」ということです。
先週も考えましたが、「この世の豊かさ」は、私たちを誘惑して私たちを虜にしてしまうようなところがあります。ですから、「あなたを豊かにするよ」というこの世の誘惑に従ってしまうと、神だけに従うことができなくなってしまうのです。そして、このことを踏まえて、今日のところで主イエスは言っておられます。富とか豊かさは人間を誘惑して、人間の主人になろうとします。実はそれと同じように、「思い悩み」も、人間をすっかり捕らえて人間の主人になってしまうようなところがあるのです。「だから、あなたがたは、思い悩みに捕らえられてしまってはならない」と教えておられるのです。「あなたがたの本当の主人は富や豊かさではない。だから言っておく。思い煩いや悩みは、あなたがたの本当の主人ではない。神こそが、本当のあなたがたの主人である。だからあなたがたは、自分の命や体のことで思い悩むな。あなたの命も体も、神が深い配慮をもって持ち運んでくださっているのだから、思い煩うには及ばない」と言っておられるのです。
そう言われてみれば、そうだと思います。私たちは当たり前のように生きています。この肉体をもって生活していますが、しかし、この体は私たちが自分で思うように操作しているのかといえば、そうではないでしょう。私たちが全く意識していない時にも、私たちの体内では心臓が動き、身体中に血液がポンプのように押し出されているのです。私たちが眠っている時にも、私たちの肺は動いていて、息をして、命を永らえさせています。私たちは、自分でこの肉体をもって生きていることは当たり前だと思っていますが、しかし、私たちの体は、私たちの思いを超えて働いています。神が私たちにそういう体を与えてくださっていて、私たちはその体に支えられて今日を生きています。「本当のあなたの主人は、この世の豊かさ、名誉や富、あなた自身でもない。あなたに命を与え支えてくださっている神様なのだよ。だから、思い悩みに捕らえられないように。思い悩みもまた、あなたの主人のような顔をして、あなたの上にどっかりと座り込むことがある。そうなってしまわないように気をつけなさい」と教えておられるのです。
そして、このようにわざわざ主イエスが弟子たちにおっしゃるのは、「思い悩みが人間を捕らえ虜にする。そして辛い思いの中に押し込めてしまう」ということが、本当によくあることだからだろうと思います。地上では、この世の富に、あるいは思い悩みにすっかり捕らえられてしまって、神への信頼も希望も失ってしまって生きる人間の姿が、しばしば見られるのです。思い悩みというものが、実に油断のならない敵であるからこそ、主イエスはここで特に、思い悩みに捕らえられないことを注意しておられるのです。
ところで先ほども申しましたが、思い悩みというのは、私たちの実感からしますと、向こうから勝手にやってきます。譬えが適切かどうか分かりませんが、思い悩みとは、押し売りが来たり、押し込み強盗に襲われるようなものだろうと思います。私たちの方から「来てください」と手招きしているわけではありません。しかし、突然向こうからやって来て私たちを捕らえてしまいます。
そう考えますと、「思い悩まないように注意しなさい」と言われましても、ではどうしたらよいのか、何に注意したらよいのかと思います。思い悩みに捕らえられそうになった時、一体どのようにしてそれに抵抗すれがよいのでしょうか。主イエスは、思い悩みが近づいてくる時には、その煩いばかりに心を向けるのではなく、「空の鳥や野の花といった、神がお創りになったこの世界の中にあるものに目を向け、それらを注意深く観察するように」と勧めておられます。
困難の中に置かれたり試練を経験して、思い悩みにすっかり押さえ込まれそうになる時、その虜にならない秘訣は、私たちが自分の今置かれている辛い境遇や不安な状態にばかりに心を向けないことです。そうではなく、神がどんなに深い配慮をもってこの世界の一つ一つを導いておられるか、向き合っておられるか、「注意して、この世に対する神のなさりように目を向けなさい」と主イエスは言っておられます。そこでこそ、私たちは、神の深い慈しみに目を開かれて、神に信頼して生きることができるようになるのです。
26節に「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」とあります。この「空の鳥」の譬えを、私たちは誤解して受け取るかもしれません。うっかりすると、「怠け者になりなさい」と勧められていると思ってしまいます。確かに鳥は、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」のです。しかし、そうだとしても、鳥には鳥なりにしなければならないことがあります。鳥は鳥なりの生活を懸命に生きているのです。ここに言われていることは、鳥が怠けた生活をしているということではなく、鳥は鳥になりに生きていて、神がその鳥たちの一羽も地面に叩きつけられるようなことなく大事に養ってくださっているということです。「空の鳥は、神に命を支えられて空を飛びながら生活している。そのように、神は、あなたのことも大事に覚えて、この地上で持ち運んでくださっている。鳥が空を飛んでいる姿を見ながら、あなたは、神があなたのことも大事に持ち運んでくださっていることにこそ心を向けなさい」と、主イエスは教えてくださいます。
そして更に、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われました。つい聞き流してしまいそうな言葉ですが、注意して聞きますと、これは何とも不思議な言葉です。私たちは普段、空を飛んでいる鳥と自分と、どちらに価値があるかなど考えないでしょう。ですから、主イエスから改めてこのようなことを言われますと、少し虚を突かれる気持ちになります。
「あなたがたは、鳥よりも価値ある」ということ、しかしこれをまともに受け止めて、改めて考えてみたいのです。「価値あるものではないか」とありますが、これは疑問形ではなく、「価値あるものである」ということです。
では一体、私たちのどこに鳥よりも勝った価値があるのでしょうか。神がご覧になった時に、人間は鳥よりも価値があると、どうして言えるのか。もしかすると、聖書のこういう言い方について、「人間のエゴがこう言わせている。人間本位の勝手な発言だ」と捉える方もいらっしゃるかもしれません。「聖書を書いたのは人間だから、人間の方に価値があると言っているのだ」と思われるかもしれません。けれども、もし鳥が話せたとして、鳥から見た人間はどうでしょうか。「人間なんて、ただ地べたを歩いているだけではないか。私たち鳥は空を飛べるし、美しく囀ることもできるのだから、人間よりもはるかに価値が高い」と言うのではないかと思う方もいらっしゃるでしょう。鳥が空から人間社会を見て、「人間には裏表があり、嘘をつき、腹黒い。でも、我々、鳥にはそんなところはない。鳥の方がずっと清らかで気高い」と言うかも知れません。
では、主イエスは一体、どういうところを捉えて、人間が鳥よりも価値があると言っておられるのでしょうか。
神の目から見て、この地上で人間が特に価値があると言われている理由はどこにあるのか。この地上で、人間が他の生き物と違っているところは、一体どこにあるのでしょうか。確かに鳥たちは空高く舞い上がり優雅に飛び回り、美しい声で囀ります。そして、そういう仕方で、神の創造の御業を誉め讃えるのです。けれども、鳥がそのようにして神を誉め讃えるのは、鳥がそのように創られているからに他なりません。鳥にしてみれば、飛び回り囀るのは、本能によることです。それ以上の自由を、鳥は持っていません。鳥が「今日はちょっと、囀るのは止めておこう」と言って止めることはありませんし、「今日は疲れているから飛ばないでおこう」と言って飛ぶのを止めることもないのです。本能によって、体が動く限り、鳥たちは飛び回り囀り、鳥の生活を過ごしています。
ところが人間は、そういう点では明らかに鳥とは違います。人間が神の創造の御業を讃えて賛美するとします。先ほど私たちは「ここも神の御国なれば」と讃美歌を歌いましたが、このように讃美歌を歌ったり、祈ったりするとすれば、それは、人間としての本能から起こっていることかといえば、違うと思います。現に、私たちは今ここで礼拝していますが、この礼拝堂の外には、私たちよりもずっと多くの人たちが、神を礼拝することなどとは思いもよらずに自分の生活を過ごしています。ですから、人間は本能によって礼拝するのではないということです。人間は、本能に従うだけであれば、礼拝せずに生きることも有り得るのです。私たちは、鳥がそうであるように、本能的に神を讃えるというふうに作られているわけではありません。鳥はある意味、鳥として生まれた以上、神を賛美する道具とされているのですが、人間が神を賛美し祈る、神を讃えて生きる、それは、自分の意思によって自発的になされるものなのです。
もしかすると、今日初めて礼拝に来たという方もいらっしゃるかもしれません。理由はそれぞれあると思うのですが、しかし、ここに来たということは、自分の意思です。まさに私たちには、自分の自発性、自分の行いを決める意思があるのです。これは聖書の中でどう言われているでしょうか。それは、「私たち人間が神に似せて創られているからだ」ということです。「神の似姿に、人間は作られている」、そうであるから、私たちは自分で何でも判断し決めていくのです。旧約聖書、創世記1章27節に、人間がどのように創られたかが語られています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります。ですから、人間は本能によって神を賛美するのではありません。そうではなく、神のように自分の意思を持って、自分の意思に従って神を讃えるのです。
神はこの世界をお創りになった時に、様々な植物や動物をお創りになりました。しかし、自分から自発的に神を礼拝できるように創られているのは人間だけです。
「猿学」という学問がありまして、猿と人間がどれだけ近いかを研究しているのですが、その研究によりますと、猿は文字を教えれば覚え、自分の意思を表情や身振りで伝えることができるそうです。そういう点から言えば、猿は人間と同じようなものだと考える動物学の研究者がいます。確かにそうでしょう。けれども、だからと言って、動物園に日曜日の朝に出かけて行ったら、猿山で猿たちが神を礼拝しているかと言えば、そんなことはありません。猿は確かに非常に人間に近い生き物ですが、しかし、自分から神の存在を覚え、神を礼拝することができるように作られているのは、人間だけです。人間は神の似姿に創られていますが、猿はそうではないのです。非常に似た存在には見えますが、人間は特別な役割を与えられた特別な存在として創られています。ですから、神から見て人間は「価値が高い」と、主イエスはおっしゃっているのです。
地上の他の生き物たちは、自分が何に従って生きるのかを選ぶ自由はありません。置かれている命をそのまま生きるだけです。ところが、人間だけは、自発的に神を賛美して生きることができます。しかしまた、別の生き方もできます。神抜きで自分本位に、自分が神のようになって生きることもできるし、あるいは、自分ではなくこの世の権力やこの世の富が自分の上に君臨する神のようなものだと思って従うこともできるのです。あるいはまた、様々な憂鬱な気持ちにすっかり囚われてしまって、自分が本当につまらない惨めな存在だと思う、そういう人生を生きることもできるのです。
人間は、自由を与えられて生きています。しかし、その自由のために、何に従って生きるのかというところで無数の違いが生まれてくるのです。そして、そうだからこそ、私たちは思い悩みに捕らわれてしまう危険をはらんでいるのです。
私たちが不安や恐れに直面して、思い悩みに捕らえられてしまいそうになる時には、この地上の他の被造物たち、動物でも植物でも良いのですが、そういうものたちがどんなに神に配慮されていて、またその存在をもって神を讃える命を生きているかということから学ぶことによって、私たちは「自分の命の主人がどなたであるのかということに気づいて、我に返ることができる」のだと、主イエスは言っておられます。この世界を注意して見ること、そうすることが、本当の神以外のもの、私たちを虜にしようとするものの虜になってしまわないための秘訣なのです。
ですから主イエスは、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われた後、33節で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われました。「これらのもの」とは、私たちが日常を生きる上で必要としているすべてのものです。神は私たちを配慮して、生きるために必要な一切のものを備えてくださり、そして、どんな人にも、どんな境遇に置かれている人にも、今を生きて行く命と、道と、その全てを備えてくださるのです。
聖書には、そういう神の深い配慮から切り離されてしまったために、神以外のものに捕らえられて、神との交わりを回復できなくなったために深刻な状況に立ち至ってしまった人生が有り得ることも語られています。思い悩みにすっかり捕らえられてしまって、もはや生きていけないと思い詰めてしまう人生が有り得ると語っているのです。
例えば、詩編88編の詩人は、15節に以下で「主よ、なぜわたしの魂を突き放し なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。あなたの憤りがわたしを圧倒し あなたを恐れてわたしは滅びます。それは大水のように 絶え間なくわたしの周りに渦巻き いっせいに襲いかかります。愛する者も友も あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」と語ります。
私たち人間は、神の似姿として創られています。そして、そうであるがために、神以外のものに自分から進んで仕えるということも有り得るのです。神以外のものを神の位置に置いたり、あるいは、自分自身を神のように考えてしまって、自分の一生は自分の思いを実現するためだけのステージなのだと思い込んでしまうこともあるのです。
しかし、私たちが何を自分の中で一番大事な神と考えて生きるにしても、私たちは創られた存在だという事実から逃れることはできません。神が私たちに命を与え、命の時間を備えてくださっている中で、私たちは生きています。
自分の人生の主人公は自分であり、何でも自分の思い通りにやっていく、それが素敵な人生なのだと考えて生きている人が大勢いますが、しかし、そういう人たちが自分の命を思い通りにして一分一秒も伸ばせるかというと、そういうことはできません。私たちは自分の人生を悲観するあまりに、神が私たちに与えてくださっている命を早めてしまうということはありますけれども、自分の思い通りに命を伸ばすことはできないのです。
神に信頼して生きる、その時にこそ、私たちは、本当に平安な安らかさの中に生きることができます。
「思い悩むな」との主イエスの呼びかけは、「思い煩いをあなたの主人とするのではなく、あなたに命を与え、あなたの命を体とを支えてくださっている、その方の元で安らかに生きていきなさい」という招きの言葉です。「あなたの命は、目に見えないけれども、神によって確かに支えられている。だから、その信頼の中を生きていきなさい。たとえどんなに困難がたくさんあるように思えるとしても、あるいは自分の行き先がどこに向かっているのか、今は分からないとしても、それでも神が、そういうあなたを、今日、持ち運んで、そして必ず明日を与えてくださっている。神が生かしてくださっている命を生かされている。そのことに信頼をして、思い悩みに捕らわれないで生きていきなさい」
と、主イエスは招いてくださっています。
礼拝に参加して、聖書の御言葉を繰り返し聞かされて、神の真実な慈しみに満ちた御手の元に立ち返ることができる、そのことこそが、私たちにとっての幸いであり、感謝なことです。
私たちは、礼拝を捧げる生活を続ける中で、繰り返し、思い煩いから自由にされ、命と体を支えてくださる真実な神にのみ従う者として、ここから、それぞれ自由に歩む者とされたいと願います。 |