ただ今、マタイによる福音書5章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。11節に「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」とあります。
主イエスは、8つの幸いな人間の有り様を、まず一般的な言い方で教えられました。しかしそれだけで終わるのではなく、続けて、方向を変えて、今、主イエスの御言葉に耳を傾けている弟子たちに向かってお語りになります。まるで聞いている一人一人の目をじっと見ながら語りかけるように語られます。
先週も迫害のことについて語りました。その時には、弟子たちに限定してではなく、より広い範囲の人たちのことを念頭に置きながら語っておられました。この世で迫害を受けるのは、キリスト者だけとは限らないからです。しかし、この時の主イエスご自身はどういう状況だったかと言いますと、まさにエルサレムの十字架へと進んで行かれる途中でした。そして、ご自身が十字架にお架かりになる方として、自分に従って来ようとする弟子たちが、いずれ苦しい目に遭うことになるに違いないと予想しておられました。「主イエス・キリストに従って生きていく」ということは、この世では、決して生易しいことではありません。その点を安易に考えてしまう人は、たとえ、一時は主の弟子になることはできたとしても、何らかの拍子につまずいて、弟子であることを止めてしまうでしょう。
主イエスは、ご自分に従ってくる弟子たちを一人ひとり気遣いながら、一般的な8つの幸いについて教えた後で、なお、もう一言を付け加えられるのです。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言われます。
しかし、こう付け加えられている言葉を聞く時に、私たちはふと考えさせられるのではないでしょうか。どうしてキリスト者たちがこの世では迫害され、不当に扱われなければならないのでしょうか。もしキリスト者たちが、本当に心の底から主イエスに従うのであれば、主イエスがそうであられるように、自分自身も誠実で、真実であろうとし、私事に動かされることのないようにしようとするでしょう。社会生活においては穏やかな市民になるでしょうし、他者に迷惑をかけるよりは和らいで生きようとするでしょうし、普通に考えれば有用な人間になりそうだと思います。そして、そういうあり方をする人であれば、社会では尊重され、敬われ、高く評価されるのが当然だろうと思います。しかし、そうならないのはどうしてでしょうか。
私たちキリスト者には、決して忘れてならないことがあります。それは、私たちが普通に暮らしているこの世というものが、神の御前にあっては、すっかり逆立ちしているかのようになっているからです。聖書に語られていることによれば、この世界を造られたのは神です。この世界の本当の主は神ご自身です。ところが、私たち人間の側は、そのことを知らないのが当たり前になっています。そして、神がこの世界の主人ではなく、地上を生きる人間一人ひとりがこの世の主人であると当たり前のように思って生活しているのです。私たち人間は、多くの場合、自分の人生の主人公は自分であり、そのために命があるのだと考えて生きてしまいます。自分中心に生きる、そう言ってしまえば大変エゴイスティックに聞こえますが、しかし大方の人は、ごく自然に当たり前にそう思っています。あまりにも当たり前過ぎて、もはや自分が自己中心に物事を考えているなどとは気づかないのです。
しかし、そうであるからこそ、私たちは生まれつき、神と隣人とを憎んだり恐れたりする傾きを持ってしまうのです。どうしてかと言いますと、神も隣人も自分の思い通りにはいかない相手だからです。この世の秩序とは、人が自己中心に生きることを前提にして、自己中心に生きている人同士が折り合いをつけて、少しずつ妥協しながら共に居られるようにしようとする、そういう秩序ですから、そういうこの世の秩序は、神の側から見れば、間に合わせのその場しのぎであり、決して永遠のものとは言えないのです。いつも妥協しているのですから、我を張ることも起きて、秩序はいつもどこかで綻びています。今日の交読詩編で読んだところによれば、私たちの生活は「互いに不法を量り売りしている」とありましたが、自分の思いを優先して隣人を正しく扱わないのです。何から何までそうなのですが、私たちはそれが当たり前として生活していますから、日常の感覚から言えば、「神」はよそよそしいものに思えるのです。
キリスト者は毎週神を礼拝しますが、キリスト者でなければ、なぜ神が必要なのか、神なしでも自分たちはやっていけると思っているのです。神はよそよそしい存在であるし、むしろ邪魔でさえある。自分たちで折り合いをつけていけば良いと考えているでしょう。
日本で初めて倫理学を提唱した和辻哲郎という人は、「人と人とがどう折り合うべきかが倫理である」と、日本には唯一の神を信じるという信仰は元々ありませんから、神が人に何を望んでおられるのかを考えるのではなく、人同士がどう思うか、互いにぶつからないように折り合いをつけることが倫理なのだと唱えました。そういう社会の中で、真面目に神を信じて従おうとする人がいれば、どうなるでしょうか。ちょうど、精巧な歯車の間に砂粒が挟まった時のように、異物がそこに入ってきたかのように受け取られてしまうのです。もし、ご家庭の中で、自分だけがキリスト者であるという環境で暮らしている方であれば、身に沁みてよくお分かりになると思います。例えば、日曜日に家族全体で、あるいは親戚で集まって出かけようと計画されるときに、「わたしはキリスト者なので、礼拝に行かなくてはならないから、その計画には参加しません」と言えば、多かれ少なかれ、そこで波風が立つということは起こらざるを得ません。あるいは、学生であれば、部活や課外活動においても、きっと同じことが起こるに違いありません。
そのように、キリスト者がキリスト者として生活しようとすると、この世で摩擦が生じるということは、今に始まったことではありません。実は、教会ができた初めの頃からそうでした。使徒言行録17章に、パウロがテサロニケの町に伝道した時のことが語られています。その時に、パウロに反対する人たちがパウロを捕まえることができなくて、腹立ち紛れに、パウロの友人のヤソンという人を捕まえて町の当局者に突き出したという記事が出てきます。使徒言行録17章6節に「しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです』」とあります。キリスト者とは「世界中を騒がせている連中」だと言われています。しかしパウロは、そう言われることに驚いたりはしません。「神抜きで生きることが当たり前のこの世にあっては、神の秩序を表しながら生きるということは決して理解されないだろう。そして、まさにこの世の生活を脅かす不穏分子のように扱われることもあり得る」と、パウロはよく承知していました。
キリスト者がキリスト者として生活するとき、この世でキリスト者として足を踏み入れるところではいつでも、摩擦が生じ対立が生まれてきます。しかし、そうなってしまうことは避けがたいところがあるのです。遅かれ早かれ、キリスト者が不当に扱われたり、迫害されるということが起こり得るのです。そういうことを予測しておられたので、主イエスは弟子たちに向かって、いずれこの世との緊張関係が生まれるのだということを、ここで教えておられるのです。
今日の箇所だけではありません。このマタイによる福音書を読んでいますと、繰り返し繰り返し、噛んで含めるように、主イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしのために迫害されるのだ」と教えておられます。例えば10章17節18節に「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」。22節では「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われております。この世で主イエスに真剣に従おうとする人は、不当に扱われたり憎まれたり、悪口を言われたり手荒な扱いを受けたからといって驚くべきではありません。あるいは、そういう扱いを受けたからといって、不平をいうべきでもないのです。むしろそうなるのは当たり前のことであり、主イエスご自身が身をもって経験しておられることなのです。主イエスご自身が、キリスト者の模範として、この地上を歩んでおられるのです。主イエスご自身が迫害されたのだということを、私たちは忘れてはなりません。10章24、25節には「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」と言われています。私たちは主イエスのようになれば良いのです。
また、ヨハネによる福音書では15章18、19節に「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と言われ、続けて20節に「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう」と言われています。キリスト者がこの世で迫害されるのは、元々の理由を辿るならば、主イエスに選ばれ、主に従う者とされているという理由に行き着くのです。ですから、「迫害」というのは、主イエスが言われた有名な言葉、マタイによる福音書10章38節「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」に繋がります。主イエスに従う人は必ず、「十字架を背負う」と言われています。不当に扱われ迫害を受けるからこそ、主はここで弟子たちに語っておられるのです。
しかし、こんなにもはっきりと主イエスに申し渡されてしまいますと、私たちとしては主に従うことに怖気付くということが出てくるのではないでしょうか。信仰を持ち続けることがそんなに大変なことだと思えば、自信を失うのではないでしょうか。私たちは決して、超人でも英雄でもなく、弱い生身を持っているごく普通の、当たり前の人間にすぎません。主イエスはそのことをご存知ですので、弟子たちに迫害を告げられる中で、なお丁寧に言われます。11節「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」。
ここで主イエスは、「迫害を受ける」と言っておられるのですが、しかし「迫害」の前後に「ののしられ」「悪口を浴びせられ」という言葉を語っておられます。それは、キリスト者への迫害というのは、いきなり身柄を抑えるとか命を奪うという仕方でやってくるのではなく、それよりも前に、もっと穏やかな仕方で、悪口というような言葉上の攻撃のような迫害に遭うのだと教えておられるのです。「迫害を受ける」と聞いて、自分は死ななければならないのだと思う必要はありません。むしろ、私たちの日常生活の中での迫害というのは、遠いところから来るのです。「ののしられる」とか「悪口を言われる」とか、それは周囲から変人扱いされることであったり、また家族から「教会に行っているくせにキリスト者らしくないではないか」と言われたり、そういう仕方でキリスト者への迫害は始まってくるのです。
しかし、そういうささやかな仕方での迫害というのは、実は神の憐れみです。神は、私たちが本当に信仰を問われる本番の競技場に引き出される前に、まず練習グラウンドのような場所で「迫害に出会う」ということを経験させてくださるのです。私たちには今、そういう訓練の時が与えられています。それは、本当に大変な迫害に遭う時に、私たちがそこで驚かないためです。神は思いやりを持って、私たちの弱さを助けようとしてくださるのです。
主イエスは、「迫害はあるのだから、それに備えるように」と教えられる中で、私たちにとってはとても思いがけないことを言われます。12節に「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われます。「迫害され、不当に扱われる」、なのに、なぜ迫害されることが喜びに繋がるのでしょうか。なぜ主イエスはこう言われるのでしょうか。普段あまり考えないことですが、しかし、幾つかの理由があると思います。
一つは、「迫害」は確かに辛く苦しいものですが、しかし、迫害されることは
、私たちが今、「主イエスに従おうとする道に立っている」ということの印だと言えるからではないでしょうか。迫害されるということは、人々からもてはやされたり歓迎されるよりも、主イエスに忠実に仕えているということの方が多いのです。誰彼となく有り難がられたり重宝がられる状況に立っているとすると、もしかして私たちは、本当に主イエスに従う生活を送っていないのではないかと自分のことを改めて問わなければなりません。主イエスに従う人たちだけで生きているのではないのですから、私たちはかなり狡猾にこの世と折り合いをつけて生活しなければなりませんから、時には、日曜日に礼拝を休んでこの世のことに付き合うということもないわけではありません。けれどもそこで、この世に受け入れられているからそれで良いのだと思ってしまったとすると、私たちは、どこかでこの世と迎合することの方が主人となってしまって、主イエスに従うことの方が息も絶え絶えになってしまう、そういうことに注意しなければなりません。時には、この世と対峙してはっきりと物申すことこそが、「主イエスに忠実に仕えている証しである」ことがあり得るのです。もちろん、その時には、反発を受けて攻撃されたり迫害されることになります。しかし、そうであるからこそ、迫害されることが喜びの印になるのです。
今の時代だけではなく、聖書の時代も同じでした。使徒言行録5章には迫害されて喜んでいる初代教会の人たちの姿が描かれています。40節〜42節に「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」とあります。迫害されて鞭打たれた人たちが、「この苦しみは、主イエスに従っている結果の苦しみなのだ」と喜んで耐え忍んでいる姿です。
「迫害を喜びなさい」と教えられる理由は他にもあります。それは、迫害に遭うことによって、私たちが新しい交わりの一員とされるということがあるからです。新しい交わりとは、主イエス・キリストとの交わり、また、神の前に忠実に生きるように語り続けた預言者たちとの交わりです。12節に「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」とあります。「迫害されることによって、あなたたちは預言者たちの交わりに入れられるのだよ」と、主イエスは言われます。主イエスを心で信じ、口で告白し、行動する人、そういう人たちは、そうすることで、主を信じて生きようとする兄弟姉妹の交わりを本当に身近に親しく経験するようになるのです。
もちろん私たちは、主イエスを信じることで友人を失うということがあります。キリスト者になったら、親しいと思っていた人たちが段々と遠ざかってしまった、それまでの付き合いが敬遠されるようになってしまったという辛い経験をする場合があります。しかし、考えてみますと、そういう付き合いというのは元々、そういう脆いものだったのです。相手にとって都合の良い自分、相手に合わせることができる自分だから付き合ってくれていたのであって、相手が本当にこの自分を受け入れて、どこまでも付き合っていこうとしてくれたわけではないのです。
そういうことがあったとしても、しかし、キリスト者は孤独にはなりません。キリストによる兄弟姉妹の交わりが与えられるからです。確かであると思っていた人間同士の結びつきが崩れて辛く悲しい思いをすることがあっても、しかし、それよりも確かに一人一人を尊重し、互いを受け入れる交わりというものがあるのです。信仰の交わりは、信仰のために失われる交わりより遥かに優っていると、私は思います。ですから、主イエスは「喜びなさい」とおっしゃるのです。「どんなにあなたが大変な目に遭ったとしても、どんなに曲がった時代にあっても、あなたを決して見捨てることのない交わりがあなたにはもたらされるのだから、あなたは喜んで良いのだ」と教えてくださっているのです。
そして、更に3番目の理由もあります。これも主イエスが弟子たちにおっしゃっていることですが、「天には大きな報いがある」ということです。私たちがこの地上で迫害を経験する時に、実はそれに耐えることは、人間業では不可能なのです。実際に、信仰のゆえに苦しめられたという経験を持つ方は、恐らく、異口同音におっしゃいます。「自分が辛い目に遭いながらも、それでも信仰を捨てずにいられたのは、自分の信仰が強かったからではない。自分は本当に不安と恐れでいっぱいだったけれども、しかし、神がその闘いの最中にいつでも共にいて、わたしを支え掴んでいてくださった。だからわたしは、信仰を捨てずに来られたのです」と。
私たちが迫害の中に置かれる時、信仰生活を否定されて、そのために辛い目に遭わなければならない場合に、そこで私たちが経験することは何なのか。そこで経験することは、人間とは何と残酷なものかということと、神の支えは何と確かなものかということです。天に蓄えられている神の賜物とは何と大きなものなのかということです。迫害の最中にあって、キリスト者は、神が常に御言葉をもって支えてくださり、また信仰者の交わりが祈りと温かな言葉をもって支えてくれる、そのような経験をするのです。だからこそ、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と教えられているのです。
私たちが主イエスを信じるために失うものは、神の永遠の庇護のもとでは、悔いるほどのものではありません。人間の目に失われた損失と思われるものは、実は、天においては却って益となります。迫害に遭い、苦しみを経験する時、そういう生活の中で私たちは知らされます。「わたしは、虚しく過ぎ去っていつの間にか滅んでしまう、そういうものによって支えられているのではない。そうではなく、営々と神がこのわたしを覚えてくださり、主イエスが常に支えてくださって、慰め、励ましてくださって、生かしてくださる。そういう、生きた主イエス・キリストの御体なる交わりが確かに存在するのだ。わたしはこの交わりに抱かれ、支えられ、持ち運ばれて生きるのだ。だからこそ、天に宝を積むようになるのだ」と。
「天に宝を積む」ということは、世間一般に揶揄されるような虚しいことでは決してありません。ここで言われる「天」は「天国」ですが、「天国こそが、わたしたちの報いなのだ」と教えられています。「天の国」は、私たちが頭の中で思い描く仮想空間なのではありません。まさしく神が支配しておられる国であり、私たちのためにご用意くださっている場所なのです。そしてそこから、神が聖霊を送ってくださって、地上で迫害され追い詰められている私たちに、天国の前味を、この地上において味わわせてくださっているのです。
「迫害に耐えながらも、それが喜びの源になる」ということは、普通の理屈で言えば起こり得ないことです。辛い目に遭えば、辛いと思うのが当たり前です。ところが、キリスト者の生活では、まさしく、辛い目に遭うことは、ただ辛いだけではないのです。別のことが実際に起こります。「神がこのわたしを、ここでなお持ち運んでくださっている。神にある平安のうちに匿ってくださっている。地上の闘いは本当に厳しく辛いけれども、しかし、それでもわたしは神の真実な平安に守られている」、このような、普通に考えれば起こりそうのないことが実際に起こるのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。
ペトロの手紙一の4章に、その秘密が解き明かされています。12節〜14節に「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」とあります。迫害の中に喜びが生まれる理由は、「聖霊が、天から私たちの上に訪れてくださる」からだと言われています。聖霊が私たちを訪れてくださるとき、私たちは、迫害の中にあって、普通であれば悲しみや苦しみに覆われてしまいそうなところで、喜びを経験するようになるのです。
そして、そういうキリスト者の姿は、聖書の至る所に出てきます。例えば、フィリピの町に伝道したパウロとシラスが、誤解されて捕らえられ、鞭打たれてしまい、そして、傷の手当てもされないまま牢屋に入れられるということがありました。その晩、パウロとシラスはどうしていたでしょうか。自分たちが伝えようとした福音が伝わらずに、がっかりして、しょげて、傷の痛みに泣いていたでしょうか。そんなことはないのです。それどころか「神を賛美していた。神に祈っていた」と語られています。驚くべきことですが、まさにそれは、教会生活をしている私たちの姿なのだろうと思います。
私たちも、この地上の生活の中で、自分が与えられている信仰を愛する人たちや隣人に伝えようとして、なかなか伝えられないもどかしさを覚える時があるかもしれません。この信仰を手渡したい、受け取ってもらいたいと願っているのに上手くいかず、がっかりすることがあるかもしれません。しかし、私たちはその時に、もう駄目だと悲しみ絶望してしまっているでしょうか。多分そうではないでしょう。わたしの力は乏しいものに過ぎないけれども、「神よ、どうか、この人にも主イエス・キリストを信じる信仰をお与えください」と祈るのではないでしょうか。そして、また新たに希望を抱いて、その人と生きていこうとするのではないでしょうか。
私たちキリスト者の姿は、聖書に語られるキリスト者の姿と同じなのです。迫害を受け理解されず、苦しみの中に置かれても、まさにそのところで感謝し、神を賛美し、祈って生活していくことができます。それは、聖霊が私たち一人ひとりを訪れてくださるからです。そして、あなたの信仰を励ましてくださるからです。 |