4月から、夕礼拝のご奉仕の時間をいただきまして、テサロニケの信徒への手紙一を読み進めてきました。今朝は、朝の礼拝において、このパウロの手紙をご一緒に聞くことができまして大変嬉しく思います。
今、ご一緒に聞きましたテサロニケの信徒への手紙一5章は、この手紙の一番最後の章です。そして、今日の箇所である12節から15節までは、「教会生活」について、具体的に語られる箇所です。
教会生活をしている私たちは、「ぜひ、ご一緒にこの生活を」と呼びかけたり、「教会へ、ぜひおいでください」と声をかけるということがあります。また、表立って声かけしないとしても、教会生活を続けていくということを通して、この生活を大切にしているということを周りの人に伝えているようなところがあります。このように、私たちが「ご一緒に」と勧める教会生活とは、どういうものなのか。改めて、私たち自身がどのような生活をしているのかを、今日ご一緒に考えてみたいのです。
更にまた、教会生活をしている私たちの互いの間で、この生活に困難が生じるということもあります。いつも順風満帆というわけではありませんので、迷ったり、確信が持てなくなったり、道を外れそうになったり、弱っていて力が入らなくなるということもあります。そのとき、私たちはどのようにこの生活を続けていくのでしょうか。そして、もし教会の友が迷うということがありましたら、どのように励ますことができるでしょうか。今朝は、このパウロの言葉から、テサロニケ教会の姿から、神の言葉を聞いていきたいと思います。
12節13節に「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい」とあります。パウロはまず教会の人たちに「兄弟」と呼びかけています。テサロニケの信徒への手紙は、何度もパウロが「兄弟、兄弟」と呼びかけている手紙で、それがとても特徴的ですが、それは、血の繋がった家族というものを超えて、主イエス・キリストのおかげで神の子とされた、兄弟とされたという喜びが伝わってくるような親しい呼びかけです。パウロという伝道者が、時を超えて、私たちにも「兄弟たち、兄弟とされた皆さん、主イエスによって兄弟とされた私たちですよね。兄弟たちよ」と呼びかけてくれています。そして、教会生活について考えるときにまず大事なことは、こういうことではないかと思います。私たちが主によって兄弟とされていて、身寄りなく一人であるということがなく、家族であるということです。主にあって、兄弟として結び合わされている、そういう交わりの中に恵みによって入れていただいているということが、私たちの教会生活の土台です。そしてそれは、本当に嬉しいことだと思います。
この呼びかけをした後で、パウロがまず教会の中の、ある人たちを重んじるようにと願っています。「労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」とありますが、ここでは、原文では3つの言い方がされています。一つは「労苦し」という言葉で、教会の中で労苦している人のこと。二つ目は、主にあって教会を指導する人々として「導き」、そして三つ目は「戒めている」、訓戒したりしている人のことです。けれども、恐らくこの人たちは、別々に労苦していたり導いたり戒めたりしているのではなくて、同じ人たちのことを、つまり教会の中で労苦を引き受けている人たちのことを、全体としてまとめて、このように言っているのです。紀元1世紀のテサロニケの教会においても、教会のために自分を投げ出す用意のある人たちがいたということ、その人たちが「労苦」と言われるものを背負っていたことを聖書から示されています。
ある人は、その人たちのことを長老職に就いている人たちだと言います。私たちで言えば、「役員」に当たる人たちです。しかし、またある人は「そうではない。教会の中で奉仕するすべての人たちのことだ」と言います。何れにしても、私たちは、教会の奉仕というものを軽んじないようにと示されています。教会には、実に様々な奉仕の業があって、目に付きにくい働きもありますが、それらすべての業を大事に行い、奉仕する互いを重んじ認めるようにと、パウロは語っています。そして、13節ではそれを、「尊敬する」という言葉で表しています。「そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」。「心から」という言葉は、「この上なく」という意味があり、最大限の尊敬を表すようにという呼びかけがなされています。「愛をもって、この上なく尊敬するように」という、その働きがその人の人間的な優れた資質とかいうものではなく、ただその働きのゆえに、神から与えられている奉仕の、召されているその働きのゆえに、尊敬をと言われています。
そして、13節の最後には、教会が健やかな群れであることを教えて、「互いに平和に過ごしなさい」と言われています。教会の中の様々な、その一つ一つの働きを「尊敬をもって認める」というところに、平和が生まれます。そして、私たちが日常経験することですが、自分の働きが認められていないと思う人は、自分自身のこととしても思いますが、意欲を失ったり、他の人を責めるような気持ちになったりしていきます。お互いを配慮しあって、健やかな群れを建て上げるようにと、パウロは招いてくれています。
けれども、この12節13節を読みまして、違和感を覚えるという方もいらっしゃるかもしれないと思います。パウロは、またテサロニケの教会は、そういう美しい交わりを形作ることができたかもしれないし、このように示されても困らないかもしれないけれども、主イエスの時代から2000年を超えて時代も違いますし、社会情勢も異なる現代の私たちも同じようにできるだろうか、また少し意地悪な見方をすれば、パウロの言葉はどこか表面だけを取り繕った姿に見えやしないだろうかということです。そして、そう思うとき、私たちは、パウロの示す教会の姿と自らの姿を比較して、そこに距離を感じるということがあってのそういう思いではないかと想像します。私たちの中に教会の奉仕者を重んじたり、愛をもってのこの上ない尊敬を示すこと、互いに平和に過ごすことへの、不安や戸惑いが生じることがあるということです。そしてそれは、私たちの罪の意識、罪ある自分であるというところに原因があると思います。
パウロという人は、本当に優れた伝道者であり牧会者であると言われますが、このような私たちの心を知っているかのように、この後、言葉を続けます。14節に「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」とあります。ここでは3種類の人たちが取り上げられていますが、教会の中にこうした人たちがいるということを、パウロはよく承知しています。「怠けている者たち、気落ちしている者たち、弱い者たち」です。
まず「怠けている人たち」と言われている人たちのことですが、これは、私たちが仕事している中で、「あの人は怠けている」と指摘するようなこととは違っています。私たちの考える「怠けている」ことと似ているかもしれませんが、テサロニケ教会が直面していた問題があって、その中から出てきた「怠けている人たち」、「自分で働くことを止めてしまった人たち」の存在でした。その人たちの様子が、テサロニケの信徒たちへの手紙二の3章11節に描かれています。「ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです」とあります。テサロニケ教会は、主イエス・キリストが今すぐ来られるという非常に切迫した「再臨」信仰を生きていました。そういう中で、再臨はすぐ来るのだから、地上であくせく働いても仕方ないではないか、また教会の人は愛の中で援助してくれるのだからと、教会の人の援助を当てにして、「あくせくして働くのは止めた」という人たちが出てきたのです。その人たちのことが、ここでは「怠けている人たち」と言われており、このことがテサロニケ教会の大きな問題として言われているのです。
そのような人たちは、当然のことながら、規範を失った生活をしたり、節度を失った生活をするようになり、その人たちを戒めるように、諭すようにとパウロは言っています。「働くのに疲れてしまったから、少し休みたい」と言って怠けているというよりは、自分の生活をこれからかも続けていこうという希望を失っていて諦めてしまった、そういう仲間が教会の中にいて、その仲間に対して、「あなたは諦めることなく、粘り強く立ち続けるように」と、パウロは語っています。
私たちが誰かを戒めるとか、諭すということには、戸惑いを感じるということがあると思います。私自身はそういうことが出来ないと日々感じているのですが、こちらが諦めてしまいそうになる時に、「主イエス・キリストの十字架のお姿が私たちを励ましてくれる」ということを思います。十字架の主が忍耐をもって罪ある者を執り成していてくださるので、私たちも諦めることなく、落ち着いて諭し続けることができる、と励まされています。
二番目には、「気落ちしている者たちを励ます」と言われています。これは「臆病な人、小心な人」という意味ですが、テサロニケ教会の中に、どういう事情があったのかまでは分かりませんが、小心な人とパウロが知る人たちがいて、そういう人を勇気づけるように、受け入れるようにと勧めています。臆病になっている時に、「気が小さいね」と言われるような状況に陥っている時に、主にある励ましがどんなに力になるかは、私たちも経験している通りです。「十字架にかかってまで、私たちを執り成してくださるお方が一緒にいてくださるのだから、互いに励まし合うように」と勧められています。
三つ目は「弱い者たちを助けなさい」ですが、病弱な人というような意味ではなく、信仰において弱さを抱えている人たちのことを指しています。ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙で、肉を食べるか食べないかという議論があることを、パウロが書いています。教会の中に、肉を食べるということに全く戸惑いを感じないで食べることができる人と、肉食はできないと考える人がいて、パウロは、肉を食べることのできる人を信仰の強い人、食べることのできない人を信仰の弱い人と呼んでおり、何を食べても自由だと考える強い人は、肉を食べることに戸惑いを感じる人たちを批判してはいけない、と言っています。
テサロニケ教会において、肉食についての議論があったかどうかは分かりませんが、恐らく、「弱い」と言われている人たちが、ある種の信仰の弱さを抱えていて、その人たちを置き去りにしてはいけないとパウロが語っていると考えることができます。
そして、14節の結びのところには、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」とあります。ここは、原文では「すべての人を辛抱しなさい」となっています。パウロの手紙の中で「愛の賛歌」として知られている、コリントの信徒への手紙をご一緒に読んでみたいのです。コリントの信徒への手紙一13章4節5節に「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」とありますが、ここでパウロが、「愛は」と始まる最初の言葉で、愛の特質、性質について、一番最初に挙げていることは、「忍耐強い、辛抱強い」という言葉です。
つまりパウロは、教会の交わりを形作る上では、「愛が必要である。それは忍耐強いことなのだ」と、テサロニケ教会の人たちにも語りかけています。結局、私たちは、その「愛」と言われているものが、私たちの中から出てくるような性質だというよりは、主イエス・キリストによる愛を土台として、私たちにも与えられている愛なのだということを知らされています。私たちの救い主である主イエスが、自らを献げて十字架の死を遂げてくださった犠牲の愛が、私たちの土台です。その愛をもって、その愛の特質である忍耐強さをもって教会を形作るようにということが、パウロの教えです。
私たちが十字架の主イエス・キリストへの信仰に生きるときに、忍耐強い交わりを作る愛を与えられるのだと約束されています。
今日の箇所の最後、15節ですが「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」とあります。「悪をもって悪に報いることのないように」という言葉から、「目には目を、歯には歯を」という教えを想像します。私たちの身近にも、特に、小さい子たちに対しても「やられたのなら、やり返しなさい」というような倫理観、風潮が少なからずあるような気がします。そうした中で、パウロは、「誰も悪をもって悪に報いることのないように」という教えを語ります。
そして更には、悪を返さないばかりか、もっと積極的に、「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」と言っています。原文では「善いものを追いかけるように」となっています。私たちが善いものを追いかけるようにと勧められています。そして究極の善いものを追いかけると、私たちは主イエス・キリストそのお方にたどり着きます。キリストをこそ、私たちは追い求め、見つめ続ける、それは聖なるお方です。「このお方を行うように」ということは、「このお方をいつも信頼申し上げるように」ということです。
12節から15節までを通しまして、教会生活についてパウロが語っていることを聞いてきました。教会生活とはどういうものなのか。なぜその生活を歩むのか、パウロが教える言葉を聞きました。教会生活につまずきを覚える時には、何よりもまず、聖書に立ち返ることを求められています。御言葉を通して、私たちの道が示されていきます。御言葉を通して、主イエス・キリストのお姿を示されて、主の弟子として歩みたいと思います。
私たち一人ひとりは小さな器に過ぎませんけれども、今日もキリストにお仕えする思いをもって、与えていただいた一つ一つの務めを、忍耐をもって果たしたいと願います。 |