ただ今、マタイによる福音書4章23節から5章3節までを、ご一緒にお聞きしました。23節に「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあります。ここには、主イエスがなさったことが述べられています。
主イエスがなさったこと、それは、「教え」であり、「御国の福音を宣べ伝えること」であり、また「ありとあらゆる病気や患いをいやされる」ことでした。そして、「教えること、宣べ伝えること、いやされること」、主イエスのこの3つのお働きは、大きな反響をもって人々に迎えられました。24節に「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった」とあります。カファルナウムを中心とした大変広い範囲、本来のイスラエルの領地さえ飛び越えて、主イエスの噂が人々に広まるようになりました。その様子は、25節を見ますと、よく分かります。「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」。
このように、多くの群衆が従うようになった、そのきっかけは何だったのでしょうか。さしあたっては、主イエスの教えや福音宣教ではなく、主イエスが「人々をいやされた」、その癒しの業にあったようです。24節に記されていることから、そのことが窺い知れます。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」。まるで、長い冬が終わって春が訪れたかのように、様々な病気や苦しみに悩んでいた人たちが、主イエスによって癒されていきました。多くの嘆きや痛みに沈んでいた中に、突然、希望の星が現れたかのようです。長い間病んでいた人たちは、耳をそば立てます。今度こそ、自分も癒してもらえるかもしれないと思うようになります。万難を排しても、主イエスのもとに駆けつけたいという思いが湧き上がるのです。これらの人たちが主イエスのもとにやって来て、初めて、この地方にはこんなにも大勢の病人がいたのだという事実が明らかになります。自分が癒される可能性があって初めて、病人たちは、我も我もと、駆けつけました。
広い世代や社会階層にまたがる人々が、主イエスのもとを訪れます。これらの人々は一般に、「群衆」と呼ばれますが、これらの人々は、いつの時代にあってもどのような社会にあっても、希望のすっかり埋もれたような生活を余儀なくされることが多いのです。
ところが、今、そういう生活の中から、新しい希望が生まれます。それは、今まで全く知らなかったような新しい希望です。癒し手となってくださる、ナザレの人イエスという一人の若いラビによって、その希望が人々のもとにもたらされるのです。福音書の記事を読んでいますと、病気に苦しむ多くの人々が、主イエスのもとを訪れたことが記されています。例えば、12年もの間、出血性の疾患に罹り苦しめられて、その治療のために蓄えをすべて使い果たした末に、主イエスの後ろから近づいて、その衣の房にでも触りたいと願った、そういう女性が出てきます。あるいはまた、中風の友人を戸板の上に寝かせたまま、屋根を破って、主イエスの前に吊り下ろせば何とかしてくれるだろうと期待して連れてきた4人の人もいます。そういう強い印象を与える場面というのは、主イエスの伝道の初期には、本当に数限りなく見られたに違いありません。聖書に書き留められているものだけではなく、書き留められるところまで行かなかったものまで含めて、主イエスは本当に大勢の人々を癒されました。
多くの人々が、癒しを与えられ健康な生活に立ち戻ることを願って、主イエスのもとを訪れました。そのように癒しを求める人々に、最初から、主イエス・キリストによってもたらされる救いへの理解とか、救われたいという意志があったのだろうかと考えますと、あるいはそうではなかったかも知れないと思います。至って素朴に、自分の病気や嘆きや、自分の問題を解決して欲しいと願う、そういう願いを持った多くの人々が主イエスのもとを訪れました。それはいかにも人間的な願いです。ですが、主イエスはそういう人々の願いを退けようとはなさいません。24節に述べられているように、主イエスは、連れてこられる病人たちの病を、癒してくださいます。そして、主イエスが次々に病人を癒してくださるので、主イエスの評判は、いやがうえにもうなぎ上りに上っていき、更に大勢の群衆が主イエスの後を追うようになることも不思議ではありません。
先週は、この直前の箇所を聞きました。そこでは、ガリラヤ湖で網を打っている、また網の手入れをしていた4人の漁師たちが、主イエスから呼びかけられて、即座に従い、弟子になっていきました。今日の箇所では、主イエスから呼びかけられたわけでもないのに、大勢の人たちが主イエスの噂を、殊に癒しの噂を聞いて、追いかけてきます。4人の漁師たちも、おそらくその大群衆に飲み込まれるようにして、その中にいたはずです。しかし、それならば、その4人の漁師たち(弟子たち)と、この群衆たちは同じなのでしょうか。同じだと思いたいと考える方もいらっしゃると思います。大勢の群衆が主イエスの周りに群がっている、それは即ち、主イエスに従っているのであって、弟子のようなものだと、そう考えたいと思う方もおられるでしょう。しかし、そこは注意が必要ではないでしょうか。
以前、教会員の方から言われたことを思い出します。その方の言では、「今日の教会は内向きになっていて、社会に対するマーケティングの姿勢が足りない。教会はもっと世の中の人々の好みや動向に注意を払って、世の人々が何を求めているのかを知らなくてはならない。その上で、そのニーズに当てはまるようなプログラムを、教会はもっと提供するべきだ」とのことでした。「そうすれば伝道も上手く行くだろう。上手くプログラムを作れば、人々を教会に呼び込むことができるだろう。しかし、そういうことを怠っているから、教会はいつまでたっても大きくならないのだ」と言われました。確かに、今の時代、日本の教会は、日本社会の中で、人数の上ではなかなか成長できないという現実があります。そして、そういうことを憂いて親切に提案してくださるので、そういう指摘の中には、静聴に値する事柄もあるのだろうと思います。
しかし、よく考えますと、マーケティングを行い社会の動向を観測して、人の流れを呼び込もうというのは、教会の中でこそあまり言われませんが、この世の中では、当たり前のように言われていることなのではないでしょうか。教会は、果たして、この世と全く同質になってしまってよいのでしょうか。この世の潮流を読んで、その流れを教会の中に向かわせようとする取り組みというのは、今日の箇所に当てはめてみるとどういうことになるでしょうか。主イエスの噂をどんどん広めて、群衆を主イエスに向かわせようとする、そういうことに重なるのではないでしょうか。「ここには、あなたの願う幸せがある。あなたの願う幸福は、ここに来れば得られる。誠に頼り甲斐のある人物がここにいる。この人がきっと、あなたのことを幸せにしてくれるだろう」、そういう噂を聞きつけて、大勢の人たちが主イエスのもとに足を向けているのです。ナザレのイエスと呼ばれる方の中に、自分たちのありとあらゆる種類の不自由さや悩みを最終的に解決してくれる、そういう助け手としての姿を見出そうとしているのです。
今日の箇所、特に前半の4章23節から25節のところには、主イエスのところに大勢の群衆が群がってきたけれど、どうやらその人たちは、主イエスのことをクリスマスのサンタクロースでもあるかのように思っていたらしいことが、はっきりと見て取れます。自分の幸せ、自分の回復を求めて、自分の方に押し寄せてくる群衆を、一体誰が押し止めることができるでしょうか。少なくとも、主イエスはここで、集まって来る人々を無下には扱われません。むしろ、こういう群衆に、すっかり同情を寄せてくださいます。マタイによる福音書の先の方ですが、9章36節には「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と述べられています。主イエスは、押し寄せてきた群衆たちを深い憐れみを持って迎えてくださいます。
しかし、果たして主イエスは、こういう仕方で、ご自身への期待や信頼が高まっていくということを心から喜んでおられたのでしょうか。確かに、主イエスという方は、私たちに幸せを持ち運んでくださいます。本当の幸福を私たちに与えてくださる方だと、私たちが期待して、失望せずにいられるのは、この方だけです。確かに、この方のみが、私たちを幸いならしめてくださるのです。
しかし、主イエスご自身は、このように群衆が群がり集まってくる状況の中で、ある気がかりを感じていらっしゃいました。多くの人が主イエスに期待して集まってきているのですが、しかし、これらの人々は、主イエスの真の使命を、果たして本当に理解してくれるでしょうか。主イエスがその使命を果たすために、十字架に向かって従順に歩んでいかれる時に、今、主イエスに群がり集まっている人々は、それでもこぞって、主イエスの後を追いかけるのでしょうか。主イエスがこの世に持ち運んでくださっている幸福の正体は、最終的には「この世の人々の罪の贖いにある」のだ、そのことを知った時に、今集まっている群衆は、果たして、どう言うのでしょうか。
主イエスという方は、ただ単に、様々な良いものを提供してくれるサンタクロースのような方ではありません。もちろん、主イエスの周りにはたくさんの幸いがあり、幸せが溢れるのですけれど、しかし、主イエスはたくさんのものを持ってきたのではなく、実は「ただ一つのもの」をこの世にもたらしてくださいました。決して無くてはならない、すなわち「罪の赦しと永遠の命」、それをもたらすためにおいでになりました。しかし、そういう方なのだと、群衆が知った時に、群衆はどう行動するでしょうか。自分たちの期待が満たされない、そういう腹立ちから、「十字架につけろ」と叫び出すのではないでしょうか。
そうであるとすれば、それぞれに自分なりの幸せを願っている群衆に対して、その願いは分かるとしても、それとは違う、「主イエス・キリストがこの世に持ち運ぼうとしておられる幸福」とは、どのようなものなのかを、予め、群衆に伝えておくべきではないでしょうか。そこで、5章1節に述べられているようなことになってくるのです。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」。「山に登る」という行動は、荒れ野へ出て行くのと同じように、人里から離れるということを意味します。すなわち、「人々から離れる」という意味を持っているのです。主イエスがこのように人里離れたところに退かれる、それはこの時に限ったことではありません。5,000人の人たちにパンをお与えになった時にも、その後すぐに、主イエスは寂しい山に籠られました。それは明らかに、多くの人たちをご自分のそばに近づけないようにするためです。どんな場合にも、主イエスは、人々の関心を買おうとする行動をしたりはなさいません。むしろ、主イエスのもとにやって来るのに妨げを設け、人々とご自身との距離を保とうとなさいます。
主イエスが山の上に退かれた、その結果、主イエスを追いかける人たちの間に一つの動きが生じることになります。そこでいわば、一種の振るい分けが起こることになります。山の上に退かれましたから、もう簡単には、人々が主イエスを見出すことはできなくなりました。主イエスに出会うためには、山に登って、険しい長い道を辿っていかなければなりません。その道の長さ、険しさのゆえに、群衆の多くは、後を追うことを諦めて、聞き手の数は少なくなります。5章1節に語られていることは、そういう状況です。「弟子たちが近くに寄って来た」とあります。この弟子たちは、12人だけだったわけではないと思います。もう少し多くの弟子たちがいたでしょう。ルカによる福音書の10章では、主イエスが語り終えた時、72人の弟子たちを、そこから伝道の務めに遣わされています。
山に登った人たちの中には、弟子だけでなく、群衆もいました。今日のこの5章から始まる長い説教が、7章28節まで続きますが、28節では、主イエスの教えに群衆たちが驚いたと語られています。そして、実はこの5章のところから、明らかにはっきりと強調されているのですが、山の上では、主イエスは、弟子たちを中心にして「教える」ことに専念しておられるのです。この山の上では、主イエスはもはや、人々を癒すことはなさいません。主イエスは、弟子たちや山を登ってきた群衆に向かって、ご自身の御国が今ここに始まっているのだということを教えられます。この山の上での主イエスの説教は、「神の国」についての説教です。
主イエスが御国について教えられた最初の言葉が、とりわけ印象的でした。力強く、まるで詩のような言葉が語られています。出だしに語られている言葉は何か。よくここは「8つの幸いの教え」と呼ばれます。しかし、8つの幸いという言葉では、いかにも言い古された平板な言葉になってしまいます。8つの幸いとは、ただ単に、精神的な幸福とか、心の平安と考えられるならば、それは、ここに語られていることの全部を語っているとは、とても言えません。
主イエスは確かに、人々に、真の幸福をもたらそうとなさいます。しかしそれは、ただ単に、私たちの心や気持ちが楽になるというだけのことではないのです。真の幸福は、それを受け入れ、信じた人たちが、神としっかり結びつけられて自分の命を生きて行く、そういう生活の根になっていくことだからです。そしてそれは、私たちの罪を贖う方としておいでになった、主イエス・キリストにしか与えることのお出来にならない幸福なのです。主イエスは、今、信じて与えられる8つの幸福を8つの側面からお語りになります。この8つの幸福については、再来週から一つずつ聞いていく予定です。
しかし、今日はそれに先立って、このところの、言葉の用い方についてだけ、少し考えてみたいのです。8つの幸いの言葉というのは、それぞれが上の句と下の句から成っています。上の句については、主イエスが、幸いな人たちについて「〜の人々は幸いだ」と、幸いな人たちを示しておられます。それを受ける形で下の句では、その人たちはこういう約束のもとにあるのだと、幸いな事柄の約束について教えられます。8つの事柄が教えられるのですが、そのうちの6つは、原文を読みますと分かりますが、将来における約束として語られています。日本語訳ですとはっきりしませんが、8つのうちの真ん中の3つは、「その人たちは、〜するであろう」という未来形の書き方になっています。主イエス・キリストがもたらしてくださる本当の幸福、御国の事柄というのは、将来と深い関わりを持っているということが示されています。
しかし、「神の御国の支配のもとに生きる」ということは、将来にだけ関わるのではありません。主イエスが私たちのところにおいでになって、私たちに御言葉を語ってくださることによって、将来の出来事は、既にここで始まっているのです。8つの幸いの教えの、最初と最後の教え、その約束は、現在のものとして語られている言葉です。3節と10節で、2度繰り返して同じ言葉が語られています。3節は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」、10節は「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」。繰り返して、「天の国はその人たちのものである」、それはもう、今、ここに起こっていると教えられます。
従って、主イエスが持ち運んできてくださった幸福というのは、天上の神の領域と、地上を生きている私たちの日々の生活を覆い、更に現在と将来をすべて覆っている、そういう幸福です。それは、「すべてを覆っている」そういう幸福なのです。私たちが主イエスと交わりを持ち、主の御言葉を聞いて生きる生活の上に、その幸福が与えられます。
再来週から、この主イエスによってもたらされる幸いの一つ一つについて考えていきたいと思います。
私たちは、今、主イエスが共にいてくださり、ご自分の御言葉を説き明かしてくださる、その幸いの中に招かれていることを覚えて、ここから歩み出したいと願います。 |