2016年12月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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降誕 | 2016年クリスマス礼拝 2016年12月25日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第2章8節〜20節 | |
2章<8節>その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。<9節>すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。<10節>天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。<11節>今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。<12節>あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」<13節>すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。<14節>「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」<15節>天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。<16節>そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。<17節>その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。<18節>聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。<19節>しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。<20節>羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 |
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ただ今、ルカによる福音書2章8節から20節までをご一緒にお聞きしました。20節に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。 さて、それに引き変え羊飼いたちは、後に残りました。羊飼いたちは、主イエスのお誕生の時に最初の立会人として選ばれたのでした。しかし、どうして彼らが選ばれたのでしょうか。この地方には他にも大勢の羊の群れがいて、見守る羊飼いたちも大勢いたに違いありません。その中でどうして彼らが選りによって天使の語り掛けを聞くことになったのでしょうか。その理由は、私たちにはわかりません。神が誰をお選びになるのか、それは神の自由な決断によることと言う他はありません。 さて、天使たちが去った後、羊飼いたちは残されました。そして辺り一帯には再び夜の闇が戻ってきます。天使たちの輝きが大層明るかっただけに、その後に残された夜の暗闇はどんなにか深く暗く感じられたことだろうと思います。その闇の中に残された羊飼いたちの思いとは、一体どのようなものだったでしょうか。つい先ほどまで繰り広げられていた輝かしい喜びの出来事は一体何だったのでしょうか。それは、夜の野原に生じる不思議な幻覚のようなものだったのでしょうか。あるいは、羊飼いたちが超自然的な現象を目撃したということなのでしょうか。あるいは、何かの自然現象を錯覚したということでしょうか。このクリスマスの夜の出来事を、私たちは、あまり簡単に片付けない方がよいように思います。この晩、羊飼いたちは、天使から「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)と告げられました。羊飼いたちは、この言葉を聞かされた時に、これを一種の命令のように受け取りました。そして、その言葉に従順に従って行動しました。すなわち、ベツレヘムまで出かけて行って、まさしく飼い葉桶の中の乳飲み子を探し当てます。 では、今日のこの羊飼いたちはどうでしょうか。16章の譬え話と照らし合わせながら思います。天使の告げた言葉を本当のことだと信じて、わざわざベツレヘムまで出向いて行って、乳飲み子を探すという行動を起こしました。どうしてでしょうか。羊飼いたちは天使の語ってくれた神の言葉を単純率直に信じたからです。もしかしたらこの羊飼いたちは、天使が語ってくれたのでなくても、神の御言葉を告げ知らされたのであれば、それに従ったのかもしれないとすら思えます。何れにしても、この羊飼いたちは彼らに与えられていた信仰の力を十分に働かせて、天使の語るところに従いました。ここには、あまり目立ちませんが、羊飼いたちが互いに「話し合った」と言われています。15節「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」とあります。私たちは鉤括弧の中の言葉を印象的に聞きます。羊飼いたちがこの言葉を掛け声のようにして勢いをつけてすぐにベツレヘムに飛んで行ったかのように、私たちは思っていますが、実は、この言葉は羊飼いたちが話し合った時の話し合いの言葉であったと言われています。 この羊飼いたちは、神が約束してくださったからには、きっとその約束は実現するのだと信じて、信じ切って行動しました。そして彼らは、まさに告げられた通りのものを見出します。16節に「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。羊飼いたちが見出したもの、それは「一人の乳飲み子」であったと言われています。当然ですが、生まれたばかりの赤ん坊を見て、この子が他の赤ん坊と違っていると分かる人はどこにもいません。他の何百人、何千人と知れない新生児と何も変わらない赤ん坊です。そして、その傍らに、出産のために少しやつれたように見える一人の若い母親とその夫の姿もありました。さらに、この家族のいた場所は、到底、人が宿るような場所ではない見すぼらしい家畜小屋でした。羊飼いたちが見たのは、そういう光景です。 ところで、御言葉を信じ、御言葉に従って行動して救い主を見出した羊飼いたちは、この後どうしたでしょうか。17節「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とあります。羊飼いたちは、彼らの行った先々で出会う人たちに向かって、自分たちが世の救い主にお会いしてきたのだと語り伝えて止みません。この驚くべき話を、彼らは、確信を持って伝えました。 実は、このクリスマスの知らせを羊飼いたちが告げ知らせた時、それは「語られたことを信じる」ということ以外には、誰も同意できないような形で語り聞かされています。ということは、どういうことでしょうか。主イエス・キリストがお生まれになったという知らせが語られた時、すでにそこに、主イエスに対する疑いの気持ちが人々の間にすでにあったということです。羊飼いたちは「救い主がお生まれになった」と喜んで確信を持って語っている。しかし、聞く側は、「そんなことはあるはずがない。そんな場所に救い主がいるわけはない」と、疑いながら聞き流していきます。この疑いの気持ちというものは、だんだんとエスカレートしていきます。時が経つにつれて、いよいよ人々の中に主イエスを信じないという気持ちが高まっていって、最後には、主イエスを裁いた大祭司が衣を引き裂いて「彼は神の御名を汚した」と叫ぶようにまでなります。そして、その先には、主イエスと一緒に磔にされた盗賊たちが、頭を横に振って主イエスを罵るという光景へと続きます。羊飼いたちが語ってくれたことを聞いた人たちは、皆、それを不思議に思いました。 しかし、そうであれば、羊飼いたちは無駄に働いたのでしょうか。羊飼いたちの語った言葉は誰からも受け止められることなくそのまま消えていったのでしょうか。そうではありません。彼らの語った言葉は、この乳飲み子の母親であるマリアにとって意味深いものとなりました。マリアはこの羊飼いたちの訪問を受けて、先に自分に語られていた天使からの御言葉を改めて確認することができたのです。19節に「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とあります。この晩の出来事、羊飼いたちが訪ねてきて、「ここに飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子がいる。この方こそ、本当に救い主だ。大きな喜びの源だ」と口々に語ってくれた言葉が、マリアの心深くに納められたのです。それはまるで、冬の日に撒かれた花の種のようなものです。長い冬が続いている間、種はじっと時を待っています。しかし、確かにその種は蒔かれています。やがて定められた時に、種は芽吹いて花を咲かせ、さらに豊かな実りをもたらすことになります。マリアは羊飼いたちの言葉を一つ一つ心に納めて思い巡らせていきます。そして、それがやがて芽生えて、マリアを内側から支える、そういう実をもたらすようになります。 ところで、当の羊飼いたちはどうなったでしょうか。彼らはその後、もう二度と野原にいる羊の元には戻らないで、伝道者の生活に入っていったのでしょうか。そうではありませんでした。20節「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。羊飼いは羊飼いの生活に帰って行きました。彼らは「飼い葉桶の乳飲み子」に出会うことができました。そしてそれによって、大いに信仰を励まされて、神を崇め、賛美しました。 羊飼いたちは「救い主がこの世に生まれてくださっている。自分たちのためにこの乳飲み子がやってきてくださった」と信じて、喜びに包まれ神を賛美して生きるようになりました。私たちも、今日、このところで、御言葉に導かれて「世界の救い主がお生まれになっているのだ」ということを聞かされています。そのことを聞かされているからには、たとえ周りの事情がどのようであったとしても、ともかくも、ここに救い主が飼い葉桶の中に宿っておられるのだという事実を確認させられた者として、ここから生活を歩む者とされたいのです。 |
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