聖書のみことば
2016年12月
12月4日 12月11日 12月18日 12月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月18日主日礼拝音声

 苦しむために生まれた僕
2016年12月第3主日礼拝 2016年12月18日 
 
ジョージ・ギッシュ宣教師/山梨英和学院理事長・学長(文責/聴者)
聖書/イザヤ書 第53章1〜6節、マルコによる福音書 第10章42〜45節

イザヤ書53章<1節>わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。<2節>乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。<3節>彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。<4節>彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。<5節>彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。<6節>わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

マルコによる福音書10章<42節>そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。<43節>しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、<44節>いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。<45節>人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 おはようございます。皆さんと元気よく讃美歌を歌いながら、クリスマスを前にして、この礼拝を共にすることを感謝します。

 新約聖書の一番初めに書かれた書物を調べると、イエスの誕生の記事は見つかりません。例えば、新約聖書の一番古い書物と言われているパウロの手紙にもクリスマスの出来事は記されていません。そして、福音書の中で一番最初に書かれたのはマルコによる福音書ですが、そこにもイエスの誕生の記事は含まれていません。どうしてでしょか。
 マルコによる福音書によれば、イエスは、30歳くらいで荒れ野から現れ、突然、福音を宣べ伝えました。そのイエスは3年くらいだけ活動して、突然、十字架に付けられて、彼に従ってきた弟子たちにとってどれほどのショックだったかは想像できません。誰も想像しなかったことです。そして、その3日後、イエスがまだ生きているという話が伝わってくると、「そんなはずはない」と、その出来事の不思議さのあまり皆は戸惑い、場合によっては自分も同じような目に遭うかもしれないと思って逃げ惑い、とにかく、イエスの突然の死と復活の出来事に接して、皆、言葉を失ったのです。少し落ち着くと、ではそのイエスの生き方、イエスが私たちの中に生きた意味、またその目的は何であったか、復活の不思議さはどういう意味を持っているのかを考えます。
 マルコによる福音書を開きますと、この福音書は面白い書き方で、急いで急いで、次の場面へと展開していきます。読んでいますと「すぐに」という言葉が何度も書かれています。マルコによる福音書を開きますと、まず「神の子イエス・キリストの福音の初め」という出だしです。そしてすぐに、イエスの道を準備するために、荒れ野にバプテスマのヨハネが現れます。ヨハネについては「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。悔い改める必要のある時代でした。今もそうですが、経済的、政治的に圧迫された時代でしたので、為政者たちはまず悔い改めなければなりませんでした。また、一般の人たちも罪を犯したことを悔い改めなければ、イエス・キリストの福音の準備ができないので、ヨハネが先に立ち、その道を備えました。そして、そのすぐ後、イエスはナザレのガリラヤから出て来て、ヨハネから洗礼を受け、そしてまたすぐ、荒れ野の中で40日間を過ごして、サタンから誘惑を受けられました。そして、またその場面からすぐ、ご自分の伝道を始め、弟子たちも増えていきます。
 マルコによる福音書では、サタンの誘惑について、どのような誘惑であったかには全く触れずに、次の場面に進んでいきます。ですから、ルカによる福音書やマタイによる福音書を開かなければ、どのような誘惑を受けられたのか分かりません。40日間ですから、空腹になるでしょう。夜には野獣もいたでしょう。一人の孤独の中で、様々な誘惑を想像することはできますが、ルカによる福音書を読みますと、4章5節に「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」とあります。私は、今回準備しながら、初めて気が付きました。「高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」というのです。宇宙船に乗って世界中を見せた、それは、今の時代、私たちには具体的にできることです。ともかく、サタンは世界中の国々を見せて言います。6節「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」。イエスが荒れ野で受けた誘惑、人間が世界を支配しようと思う気持ちというのは、もしかすると、誰でもどこかにあると思います。一切の権力と繁栄を自分のものにしようとすること、それはある意味、人間にとって一番恐い誘惑です。イエスも、そういう誘惑を受けられました。サタンは言います。7節「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。一切の権力と繁栄とを与えるけれども、そこには「サタンを拝む」という条件があります。しかし8節、「イエスはお答えになった。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。
 私は、クリスマスの意味、また、なぜイエスが苦しまなければならなかったか、なぜ十字架の死を受けねばならなかったか、またその後の復活とはどういう意味があるのか、このサタンの誘惑の中にヒントが与えられていると思います。

 マルコによる福音書に戻りますが、この荒れ野の誘惑の後、イエスはガリラヤから出て、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言しました。「時は満ち、神の国は近づいた」と言って、そしてすぐに、二人の兄弟シモンとアンデレと出会って、この二人の漁師は「二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。そしてヤコブとヨハネの兄弟をお呼びになって「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります。これがマルコ福音書に記された、イエスと最初に出会った人たちの記録です。
 そしてその後、イエスは何をしたでしょうか。「汚れた霊に取り憑かれた男を癒す」「多くの病人を癒す」のです。この話を私は、先日、英和大学でもしました。英和大学には、「臨床心理学」の大学院までのコースがあります。イエスがここで癒されたのは、心の病を負っている人でした。結局、人間が一番苦しむのは、心の苦しみ、痛みです。それは、他の人には見えません。しかし、イエスの一番初めの癒しは、「汚れた霊に取り憑かれた男の癒し」でした。そしてまた、多くの病人を癒されました。次から次へと、人間が一番苦しんでいるところに行って癒されました。また、十分に食べるものが無かった時代、空腹によって死ぬ人がいた時代に、5,000人の人に食べ物を与えました。そして、「神の国とはどういうものか」について徐々に教えられました。

 しかし、イエスが考えられたことと人々の思いとは食い違っていきます。というのも、あの時代は多くの人々が苦しめられた時代で、どんどん先が見えなくなって希望を持てない人々が大勢いた中に、ユダヤ人の救い主についての記述が旧約聖書にあって、「その時が来たのではないか。私たちをローマの支配から解放してくれる力あるリーダーがメシアである。イエスの出来事を見れば、イエスはきっとその人に違いない」と感じ、これからイエスと共に自分たちが世界を支配しようという幻を持っていた人がいたかもしれません。
 今日の箇所の直前、マルコによる福音書10章35節に、イエスの最初の4人の弟子の中の兄弟ヤコブとヨハネの話があります。彼らは、他の弟子がいないところでイエスに近づいて、「あなたはこの世界の権力者になるでしょう。その時に、私たち兄弟の一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と、地位を受けたいと願いました。もう一つの記事には、その母親が来て自分の息子を右と左に座らせてくださいと願っています。ともかく、他の弟子たちは、41節に「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。ある人に特別の地位が与えられるとか、イエスに可愛がられることを、他の人は怒ります。
 42節から「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた」。42節は、イエスが誘惑に遭われた時の「一切の権力をあなたに与えよう」というサタンの言葉と関連があります。42節「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい』」。そしてご自分のことを指して「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とイエスは言われました。ここで、「イエスがなぜ来られたか」の答えが分かります。なぜイエスがあれほどの苦しみを受ける必要があったのか。イエスがクリスマスに赤ちゃんとしてお生れになった目的は、「自分の命を(他者のために)献げるために」「皆の罪のために、自分の犠牲によって皆が救われるために」来られたのです。

 この話はマルコによる福音書に出てきますが、この時代には、「イエスが赤ちゃんとしてお生れになった」ということを考える余裕は無かったのです。けれども、数十年後になって、「イエスは、いつ、どこで生まれただろうか」と考えるようになって、そういえばこういうことだったと、ルカによる福音書とマタイによる福音書には、クリスマスの物語として語られています。
 皆さんは、ルカによる福音書の「羊飼いの話」と、マタイによる福音書の「占星術の博士の話」と、どちらが好きですか? もちろん、どちらも良いのですが、山梨英和中高の掲げている「Glory to God. Peace on earth」という言葉は、ルカによる福音書の引用です。その日、羊飼いたちにはよく分かりませんでしたが、光や讃美の声が聞こえました。その言葉は「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」です。この言葉は、「世界の平和」というものが何に基づき、何を基準にしているかを示しています。「神の御心に適わなければ、私たちが望む平和は訪れないのだ」という深い意味があると、私は思います。イエスがお生れになった目的の一つは、この世界に平和を実現するためです。その平和は、剣や軍事力という暴力によって来るものではありません。「神の御心に適う」こと、神の愛の支配がなければ、人間が望んでいる平和は実現できません。「主の祈り」の中で、「神の御心が、天にあるごとく地にも実現しますように」と、私たちは祈ります。「御国が来ますように。天にある神の御心が私たちのところにも行われますように」という祈りは、イエス・キリストが私たちに与えられた中心的な祈りです。
 そして、マタイによる福音書には、占星術の学者たちの話があります。占星術の学者たちが道を変えて帰った後に、ヘロデ王は、自分の王としての地位を脅かす2歳以下の男の子を皆殺しにしました。あまりにも恐ろしいこの場所から、イエスの両親ヨセフとマリアが赤ちゃんイエスを連れてエジプトまで逃げて難民になっています。ですから、イエスは生まれた後、すぐに苦しみが始まったのです。

 今現在、私たちが想像できないような状況が中近東で起こっています。難民は溢れ、逃げることもできず、どこから爆撃されて死ぬか分からないような、ある意味ではイエスの時代よりも酷い時代です。イエスの家族の苦しみは、イエスが生まれたすぐ後に始まります。そして、ヘロデ王のような権力があったからこそ、イエスは逮捕され、十字架につけられたのです。
 しかし、イエスの福音は、イエスの死によって滅ぼされることはありませんでした。イエスが復活し、イエスが私たちに伝えた神の愛の福音が生き残ったのです。イエスの苦しみ、その神の御心はどこにあったのかというと、病んでいる私たち人類が、その痛み、争い、戦争の苦しみからすべて解放されるためでした。私たちが癒されるために、イエスが苦しまなければならなかったということです。

 この「苦しむ僕」というヴィジョンが、イザヤ書に書かれています。イエスが死んだ後、弟子たちは、旧約聖書の中で「この箇所は、イエスのことを預言している」と深く信じました。イザヤ書53章を開きますと、その前の52章13節から「主の僕の苦難と死」という見出しがあります。そして、どういう苦しみかが、53章に書かれています。飛び飛びに読みます。「主の僕」として生まれた人は、まず3節「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている」、4節「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに…彼は苦しんでいるのだ」、5節「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって」、ここ大大切ですが「わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。ここに、イエスの苦しみの意味があります。
 イエスは苦しむために生まれた僕である。苦しむ僕イエスは、クリスマスの時、私たちに神から与えられた贈り物です。この神の愛の贈り物は、私たちにだけでなく、全世界に、この壊され滅びつつある私たちの世界に与えられた、この世界を癒すために与えられた贈り物です。
 イエスは私たちの苦しみを癒す、そのために、ご自分も苦しむために生まれた僕でした。
 英語で言うと「the best gift we can give in return to god gift of Jesus is to give, our lives in service to others who suffer by follow in the matter of Jesus life.」この尊い神から贈られた贈り物に対して、私たちができる一番大切な恩返しは、イエスの模範に習って、従って、この世で苦しんでいる人々に、私たちの命を献げることであります。

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