ただ今、マタイによる福音書8章14節から17節までをご一緒にお聞きしました。14節に「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった」とあります。今日の聖書の箇所では、主イエスの行動だけに焦点が当てられています。いろいろなことが省略され、主イエスの動き、それだけにスポットが当たっているような、そういう書き方がされています。
実は、「イエスがペトロの姑を癒した」という、この日の出来事と同じことを語っていると思われる記事が、マルコによる福音書とルカによる福音書にも出てきます。マルコによる福音書1章29〜34節、ルカによる福音書4章38〜41節です。マルコやルカでこの日の出来事を読んでみますと、そこでは、主イエスが一人だけで行動しているのではなく、弟子たちも登場しています。あるいは、「この日は安息日であった」とか、「安息日の礼拝が終わってから、主イエスが弟子たちとペトロの家を訪れところ、姑が高熱を出して寝込んでいたので、弟子たちがそのことを主イエスに知らせ、癒してくださるように頼んだので、主イエスは癒しをなさった」とか、いろいろと書かれています。
ところが、マタイによる福音書だけ、非常にシンプルになっています。「主イエスが家の中に入って、寝ている姑を御覧になった」というだけです。この福音書を書いたマタイが細々したことを知らなかったので書かなかったということは、まず考えられません。どうしてかと言いますと、マタイは、主イエスの直弟子、12弟子の一人であり、主イエスがペトロの家に入られ、姑の熱を癒された時に、その場にいた一人だからです。ですから、マタイがもし書こうと思えば、もっと細々したことであっても書けたに違いありません。ところが、わざわざマタイは、色々なことを省略して、主イエスお一人が行動しているような書き方をするのです。これは、ある意図をもって、主イエスの行動だけを際立たせていると言わざるを得ません。マタイは一体何を際立たせようとして、主イエスの行動だけを描いているのでしょうか。そのことを考えながら、この記事を読みたいと思います。
まずここでは、主イエスが「ペトロの姑が苦しんでいる様子を御覧になった」ということだけが、癒しの理由になっています。ペトロが癒しを願ったのでもありませんし、他の弟子たちが同情して主イエスに癒しをお願いしたということでもありません。あるいは、病人自身が「癒してください」と頼んだわけでもないのです。誰からも頼まれていない、けれども主イエスはご自身から、敢えて、この姑に手を触れて、癒しをもたらされるのです。ですから、ここでの癒しの動機、きっかけは何かと言いますと、主イエスご自身が、「病に苦しむ人を御覧になった」ということです。命が蝕まれ弱っている、そのことに主イエスは激しく心揺さぶられて、何とかこれを回復しようとして自ら関わってくださったのだということを、この福音書は語っています。病や命が脅かされていることに対して、主イエスご自身が自ら関わってくださるのだということが、この福音書にははっきりと語られています。
しかも、主イエスがこの姑に関わってくださる関わり方というのは、大変印象的です。おそらく誰も真似のできないような仕方で関わっておられます。主イエスが、高熱を出している人に御手をもって触れてくださる。すると高い熱が、まるで塩が引いていくように病人から去っていったと言われています。15節に「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」とあります。主イエスが姑の手に触れられたというのは、例えば医者が患者の様子を知るために脈を測ったというようなこととは違います。健康状態を診断するためではなく、まさに主イエスが慈しみと憐れみとをもって病を癒そうとしておられる、そういう仕草です。家族が熱を出して苦しんでいるような時、私たちも、おでこに手を触れるという仕草をする場合があると思います。それは、熱があるかどうかと思ってするのですが、しかし、恐らくその時には、私たちの気持ちにはそれ以上のことが込められていると思います。熱で苦しんでいる親しい人に対して、おでこに手を触れることで、熱が下がるものなら下げてあげたいという思いがこもっているのです。
しかし、そういう思いは持ちますが、私たちがそうしたからといって熱が下がるということは起こりません。主イエスのように、手を触れるだけで熱を下げるなどということは、人間業ではできないことです。ですから、主イエスがここでなさっていることは、人の業なのではなく、神の御業なのです。
旧約聖書にはしばしば、「神が御手を伸ばして人間に触れてくださって救ってくださる、癒してくださる」という言葉が出てきます。例えば、ヨブ記5章18節ではテマン人エリファズがヨブに向かって、「神が御手をもって癒してくださることを思い出すように」と語っている言葉があります。18節「彼は傷つけても、包み 打っても、その御手で癒してくださる」。「彼」とは「神」のことです。「神は時に私たちを病によって打たれることがあるけれども、御手をもって癒してくださる」と言われています。あるいは、詩編16編の詩人は、命の力で満たしてくださる神に感謝をして歌を歌っています。詩編16編11節に「命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」とあります。「神が憐れみと慈しみの御手をもって私たちに触れてくださる、その右の御手から命の喜びをいただきます」と歌っています。神が御手を触れてくださる時には、私たちは癒されて、命の力に満たされて強められると、聖書には所々にそう語られています。
そして、今日のところでは、まさしく、主イエスの手が神の力強い御手となってペトロの姑に触れているということが起こっています。主イエスは神の力を持っておられる方として、姑に出会い、触れてくださっているのです。
今日のこの箇所が説教される時には、「主イエスがなさったことは、姑の熱を下げたことだけではありません。この姑を命の力で満たしてくださったのです」と説明されます。もし熱が下がっただけであれば、私たちも経験のあるところですが、熱が下がったからと言って急に元気になるわけではありません。高熱との戦いで体は痛んでいますから、しばらくはフラフラしているのです。ところがこの姑は、主イエスに触れていただいて熱が下がったら、「起き上がってイエスをもてなした」と記されています。一家の主婦だからその責任感で無理して頑張っているのではありません。そうではなくて、「主イエスがこの姑に対して神の命の力を満たしてくださったので、ただ熱が下がっただけではなくて、起き上がって主イエスに感謝するためにもてなすことができたのだ」と説明されるのです。ここで主イエスは、「病に向き合い、病を取り去る方」として、「神の力を持つ方」として、姑の前に現れて事をなしておられる、そういう姿がはっきりと記されております。
さて、主イエスが姑を癒してくださったという噂は、瞬く間に広まったと言われています。16節「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」。主イエスは、今度は手を触れるのではなく、御言葉によって人々を癒していかれます。私たちの聖書ですと、「人々が悪霊に取りつかれた者を連れて来た」と、「人々」が登場していますが、原文ですと「人々」という言葉は出てきません。「連れて来られた」と記されているだけです。ですからここでも、マタイは非常に意図的に、「主イエスと病んでいる人たち」を差し向かいにして語っています。当然、病んでいる人たちは連れて来てもらっているのですから、理屈から言えば、その場に「連れて来た人々」が大勢いたに違いありませんが、その人たちが現れないような書き方がされています。「主イエスが、病む人と向き合ってくださった。そして、御言葉によって癒してくださった。主イエスによって語られている御言葉というのは、神の御手と同じような働きをする。そして、病む人の病を取り去り、あるいは人間を支配している汚れた霊を除き去ることがおできになる」と語られています。
「主イエスが御手をもって、あるいは御言葉をもって、自ら病んでいる人に向き合い癒してくださる」ということが今日のところで語られていることですが、マタイは、そういう主イエスの姿を際立たせた後で、他の福音書には語られていない一言を付け加えています。17節に「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」とあります。ここに記された主イエスの癒しの業は「イザヤの預言の成就だ」と、マタイは語ります。恐らくこのことをはっきりさせたくて、マタイは、主イエスの姿だけを際立たせて語っているのです。
「イザヤの預言の成就」とはどういうことを表しているのでしょうか。これは「主イエスの十字架」を表しています。ここで引用されているイザヤの言葉は、イザヤ書53章に出てくる言葉です。ここは「苦難の僕の歌」と言われる箇所です。イザヤ書53章1節から5節に「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。少し長く引用しましたが、マタイで引用されているのは、4節の言葉「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」です。旧約と新約では少し言葉が違っています。旧約、新約、それぞれを翻訳した学者が違いますので、必ずしも同じ言葉にならないのです。
このイザヤ書53章に述べられていることは何かと言いますと、「私たちのために執り成しをしてくれた一人の僕がいた」ということを語っています。その僕が身をもって苦しみ、神に打たれながら執り成してくれているけれど、「しかし私たちはそのことに気づかなかった」、「この僕の苦しみは、この人自身の人生の歩みが間違っているためだろうと思っていたけれど、実はそうではなかった」ということが、5節に語られています。「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった」。私たちの身代わりになって、この僕は神に打たれて苦しんでくれていた、そして、「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と語っています。
初代教会の人たちは、この預言者イザヤの語る「苦難の僕」とは「主イエス・キリスト」のことだったのだと理解して信じました。「主イエスの十字架が、主ご自身の所為ではなく私たちの身代わりであり、私たちの執り成しのためだった」と信じました。主イエスが十字架にかかり、「私たちが神抜きで生きてしまう罪、神に背く罪を執り成して下さったおかげで、私たちには赦しが与えられ、平安が与えられ、癒しも与えられる」と信じました。今日のマタイによる福音書は、このことを言い表しているのです。主イエスがペトロの姑を御手によって癒し、また御言葉によって多くの人を癒して下さったけれども、それは実は「十字架の光の元に、人々は置かれた」ということなのだと語っています。
そして、17節の言葉は、14節からの事柄の締めくくりとして語られているだけではなく、8章1節から16節までの全体の締めくくりのような言葉になっています。今日のペトロの姑の癒しの前には、主イエスの2つの癒しの出来事が語られていました。「中風で苦しむ百人隊長の僕を遠くから癒して下さった」こと、「重い皮膚病の人が癒しを願って癒された」ことです。
重い皮膚病の人の癒しの場合には、この人は「主よ、御心ならば、清くすることがおできになります」と言いました。この人は、主イエスが神の力をもって癒すことのできるお方だということを全く疑っていませんでしたが、ただ、主イエスがこういう私に御心を向けてくださるかどうか、癒そうと思ってくださるかどうかと、危ぶんでいるところがあったのです。面白いことですが、神を信じていても、一般論としてはそうだとしても「果たして自分を神が愛してくださるかどうか」という点に疑いがあるのです。これは信仰者の疑いであると申しましたように、私たちもそういう思いを持つことがあるかもしれないと思います。私たちは神が全能の方であると信じていますが、しかし「私が苦しんでいる時、困った時に、この私のために働いてくださることが神の御心だろうか」と疑ってしまうのです。重い皮膚病の人は、この最も大事なところで、神の慈しみが自分に注がれるかどうかに疑いを持ちましたが、しかし、主イエスはそれに対して、断固とした態度をお取りになりました。あなたの信仰は駄目だとはおっしゃらない。「清くなれ」、「わたしはあなたが清くなることを強く願う」と言って、この人を癒されました。
次の百人隊長の僕の場合には、主イエスは百人隊長の信仰に大変感心されました。「家に行って癒してあげよう」と言われた主イエスに対して、「いえ、そんな必要はありません。御言葉だけをいただけば、僕は癒されます」と百人隊長は答えました。重い皮膚病の人は神に信頼を置ききれない人でしたが、百人隊長は逆に大変はっきりと信頼を置いている人でした。そして、「あなたの願い通りになるように」と主イエスが言われて、百人隊長の僕は癒されました。神が私たちを癒そうとなさる、私たちに命の力を満たそうとしてくださる、そういう時に私たちは、神の前にあって、疑う場合も信じる場合もあるということが、前の2回の癒しの出来事を通して語られていました。
そして三番目に、主イエスがペトロの姑をご覧になって、そして手に触れて癒し、命の力で満たしてくださるという出来事が起こっています。ですから、この3つの癒しの出来事は、全部合わせて何を言っているのかといえば、「神は私たちを癒そうとなさる。私たちが命の力で満たされて生きることを望んでいてくださる」ということなのです。
では、私たちが「命の力で満たされる」とは、一体どういうことなのでしょうか。癒しの出来事だけを見れば、神の不思議な大いなる力が働いて私たちの病が良くなるとしか感じませんが、しかしマタイは、それは「私たちが主イエスの十字架の光の元に置かれること」なのだと、イザヤの預言の言葉を加えることで語っています。私たちが癒される、私たちが慰められ勇気づけられ、力づけられて、与えられているこの命を、再び元気を取り戻して生きて行くということはどういうことか。それは「私たちが、あの主イエスの十字架の光に照らされた者として生きるようになること」なのだと、今日の箇所は語っています。イザヤの言葉で言えば、「苦難の僕が私たちのために執り成しをしてくれた。この人には見るべき姿もなく、顔を隠し、侮られるような姿で歩んでいたけれど、また、神から打たれて苦しめられていたけれど、実はあの僕こそが私たちのために執り成しをしていてくれていた。この人の受けた傷によって、私たちには平和が与えられ、癒され、命が与えられている」ということです。このことをマタイはどうしても、ここで起こっている奇跡の出来事の意味として語らなければならないと思っているのです。
私たちはそれぞれ、自分が今病んでいると感じている方、あるいは健康だと思っている方がいると思いますが、私たちが見かけ上健康であろうと、あるいは病んでいようと、私たちの人生がどんなに病んでいるか問題があるかということを、主イエスの十字架の姿は明らかに照らし出すのです。私たちは、自分が健康で元気ならそれで幸せだと、多くの場合には感じます。けれども、健康で元気な私たちは、一体どうやってこの地上の生活を生きているでしょうか。私たちは肉体的に健康かもしれませんし、精神的に病んでいないかもしれませんが、しかし、生き方の点から言いますと、私たちは健やかで正しく生きていけているのかと言えば、分からないところがあります。自分の健康な体をもって自分中心に生きて周りの人たちのことを少しも考えないかもしれませんし、あるいは周りの人を傷つけても気づかずに、平気でいるのかもしれません。
私たちは、本当は、皆で一緒に与えられている命を喜びながら生きることを通して、神が造ってくださったこの世界がどんなに素晴らしい場所なのかということを表すために、命を与えられているのです。ですから、私たち一人一人の命の目的は何かと言うと、「神がどんなに私たちを愛してくださっているか、そして、どんなに神が素晴らしいお方として私たちと共にいてくださるのか」ということを知ることなのです。
私たちは、神の慈しみを知らされ、その慈しみを表す者として生きる時に、神の栄光を地上で照り返すようになりますし、私たちはそういう者として、本来、造られたのだと聖書には語られています。天地創造の6日目に人間が造られた時に、神は人間を見て「良しとされた」と語られています。「良しとされた」ということは、「あなたはそれで良い」とか「あなたは立派だよ」と言われているのではなくて、「あなたは本来、神の前に良いものとして造られているのだよ」と教えられているのです。私たちはそういう者として生きなければならないはずなのに、しかし実際には神のことを忘れ、神抜きで、自分の思いだけで生きてしまうのです。
ですから、本来の私たちのあるべき姿からしますと、私たちは病んでいます。けれども、主イエスがそういう私たちの元に来てくださり、私たちのためにその病をご自身の側に引き受けて、十字架にかかって清算してくださって、「あなたはもう一度、神のものとしてここから生きていってよいのだよ」と言ってくださる。ですから、私たちは神の御前にあって、新しくされた者として生きることができるのです。
「主イエスが十字架にお架かりになって、私たちのために執り成しをしてくださった、彼の受けた傷によって私たちに癒しが与えられた」と、聖書が語っていることを覚えたいのです。私たちの病を主イエスはご自身の側に引き受けてくださって、そして、そこから私たちに新しい生活が始まります。
私たちは、今与えられているこの肉体をもって、あるいはそれぞれの生活の中にあって、本当に新しくされた者として、ここから歩んでいきたいと願うのです。 |