ただ今、マタイによる福音書8章5節から13節までをご一緒にお聞きしました。終わりの13節に「そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」とあります。一人の若い僕が主イエスによって中風を癒されたことがここに語られています。しかもこの場合には、不思議な仕方での癒しということが殊更に強調されているようです。主イエスは、この若い僕をご覧になることも触れることもなさらずに、何キロも離れたところから癒しておられるのです。聖書の中でこういう記事に出会いますと、私たちは、その内容について考えるよりも前に、まずこういうことは本当にあったのだろうか、あるいは単なる言い伝えに過ぎないことなのだろうかと気になります。そして、そういうことが気になるのは当然のことです。
けれども、この記事に関して言いますと、そういう問いはあまり大したことではありません。というのは、古い時代には、これと似たような話は他にもたくさんありましたし、特に、キリスト教会と違ったところでも、こういう不思議な話は語り伝えられていました。ですからそう考えますと、これは実際に起きた出来事そのものを伝えようとしているというよりも、こういう話し方によってある大切なことを伝えようとしている、そこにこの記事の中心があると受け止める方が願わしいことなのです。
しかしそれならば、こういう語り方を通して、聖書は一体何を伝えようとしているのでしょうか。そのことを知るために、予め2つのことをはっきりさせておきたいと思うのです。その一つは、この話がもともと、どういう人たちに向かって語りかけられていたのかということです。そしてもう一つは、この話が当時、どういう目的のために語られたのだろうかということです。この2点をまず、了解しておきたいのです。
まず第一のことですが、この話はどういう人たちに向かって語られていたのでしょうか。その点については、今日、ほぼ最終的に解明され、結論が出ています。学者たちが概ね合意しているところによりますと、この記事は、当時すでに主イエスを信じてキリスト者となっている人たちに向かって語りかけられた、そういう言葉です。今日の箇所は、教会の外側にいた一般のユダヤ人やギリシャ人に向かって語られているのではありません。そういう意味では、伝道説教ではないのです。そうではなくて、既にキリスト者となって教会に所属するようになっている、そういう人たちに向かって語られた言葉です。
そして、この点をはっきりさせておくということは、今日の記事を理解する上で大切なことです。何故かと言いますと、この記事が既にキリスト者となって教会に所属するようになっている人たちに向かって語られているのであれば、いかにも有りそうにない不思議な癒しの出来事を聞かせて、びっくりさせて、その勢いでキリスト者でない人をキリスト者にしようとする、そういう狙いで書かれた話ではないということがはっきりするからです。大体、普通でない出来事に驚いただけで信じるというような信仰であれば、それはその人の中で長続きするようなものにはなりません。キリスト教信仰は、そもそも「これは不思議なことだから信じます」という類のものではないのです。
もう一つの点ですが、ではこの話はなぜ語られているかということです。今日の箇所で、主イエスが大変感心しておられること、また私たちが読んで印象深く思うことは、「百人隊長の真に率直な態度」だろうと思います。まさしく軍人らしい潔さだろうと思いますが、全てを主イエスに委ねています。主イエスの言葉を信頼して、主イエスの言葉に自分の願っている一切の結果を託しています。8節に「すると、百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます』」とあります。「ただ、ひと言おっしゃってください」と、まるで、軍隊の中で上官が部下に命令を下しさえすれば、その部下は必ずその通りに行動すると言わんばかりです。私たちのほうが、却って戸惑うくらいです。「ただ、ひと言おっしゃってください」だけでよいのだろうかと思いますが、この人はそうなのです。主イエスが一言おっしゃれば、それで全てけりがつくと思っているのです。
そして主イエスは、この人のそういうところをご覧になって、10節「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』」と言われました。確かに「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのは主イエスですが、この言葉は同時に、この福音書を書いたマタイの気持ちでもあると言ってよいだろうと思います。マタイもまさしくそう思ったからこそ、この主イエスの言葉を印象深く覚えていて、ここに書き込んでいるのです。
この福音書が書かれたのは、1世紀の終わりに近い頃ですが、この頃のキリスト者は、様々な異教的な考え方やユダヤ教の考え方からの挑戦を受けていました。ユダヤ人たちは頑固な律法主義で物事を考えます。「あなたは聖書の言葉に忠実に生きなければいけない。聖書にはこう書いてあるのだから、こうすればよいのだ」と、ユダヤ人たちから見たキリスト者は自由すぎると言って非難されていました。ところがその一方で、当時は、ユダヤ人やキリスト者以外に、大変異教的なギリシャ人たちもいました。彼らはどう考えるかと言いますと、「人間は大変素晴らしい。人間の理性、情念、欲望、人間の持つエネルギーが人間を前進させていくのだ」と考えていましたから、彼らからは、「あなたはすべての制約を取り払って、心の思うままに暮らせばよい」と教えられる、そういう誘惑もありました。今もあまり変わらないのですが、1世紀のキリスト者は、「ねばならない」という人と、「もっと自由に」という人たちの間で自分たちの信仰を保っていかなければなりませんでした。
マタイは、そういう状況にあるキリスト者たちに向かって、「この百人隊長の信仰を見習って、私たちは、キリスト者としての信仰の姿勢を毅然と守っていこうではないか」という励ましを語りかけているのです。主イエスの言葉をただ何気なく書き取っているということではない。キリスト者たちが実際に社会の中で様々な誘惑にさらされる中で、どうやって信仰生活を生きていくのか。主イエスが語っておられた言葉、これがあなたへの励ましの言葉になるのだという気持ちで、書いているのです。
この記事の最後はどうなっているかと言いますと、主イエスは遠くから、顔も見ず手も触れずに、百人隊長の僕を癒しておられます。この結果は何を示しているでしょうか。今、主イエスが褒めておられる信仰の励ましを伝える結びになっているのです。「ご覧なさい。百人隊長は真に軍人らしい潔さで、主イエスの言葉に信頼して、その言葉に自らを委ねたではないか。そして、そのように主イエスの言葉に信頼して自分自身を委ねた結果は、確かに虚しくなっていない。百人隊長の僕は主イエスによって癒されている」と、結んでいるのです。「信仰があなたがたキリストの者の間にあって確かなものとなる。百人隊長のような揺るぎない信仰を持っている時には、信仰の生きた力、神からいただく生きた力がそこに湧き上がってくるのだ。そういうところでは、確かに信仰の奇跡が起こるのだ」と、この箇所は伝えています。そして、それが今日の箇所の趣旨なのです。
そして、そういう言葉としてこの箇所を読んでみますと、私たちにはふと思い当たることがあるのではないでしょうか。ここに語られていることは、2000年前に起こった不思議な出来事のように書かれていますが、実は、今日の私たちにも当てはまることが語られています。そして、私たちがそう感じることは偶然ではありません。1世紀のキリスト者が暮らしていた社会と、21世紀の私たちが生きている社会は、その装いは全く違い、また人々のライフスタイルは違っているようでありますが、しかし似通ったところもあるのです。そのことは、1世紀の教会を取り巻いていた世の中一般の物の考え方を調べますと、よく分かります。
1世紀の人たちは、キリスト者たちの生活態度や考え方を嘲りました。「キリスト者は、なんと単純な者か」と嘲ったのです。「キリスト者は神の愛の道と称するものを宣べ伝え、世の中の深淵な哲学とか、教養ある人々が勧める処世術などを軽んじる全くおかしな人たちだ」と思われていたので、キリスト者たちは、当時の社会から馬鹿にされていました。当時の落書きが残っています。十字架にロバが架かっている絵です。「十字架に架かったロバ」とインターネットで検索すれば、すぐに出てきます。ロバは、「愚か者」を表す譬えに使われた動物です。「十字架に架かったイエスという者が愚か者ならば、そのイエスを信じている者たちも愚か者だ」という嘲りの気持ちが、落書きになって残っているのです。
しかし、よく考えますと、それは1世紀に人たちが未開で愚かだったからかといえば、違うと思います。21世紀に生きている私たちであっても、周りの人たちはあまり口に出さないかもしれませんが、内心では、「キリスト教信仰に生きるって、そんなに良いことでしょうか?」と思っている人も大勢いると思います。
1世紀のキリスト者たちは、ローマ皇帝や権力者たちに取り入ろうとしませんでした。聖書の中には、あまり身分の高い人は出てきません。それは、教会の中にそういう人たちがあまりいなかったからです。主イエスが交わろうとしたのは、エルサレムの大祭司などではなく、遊女やあるいは罪人と呼ばれて世の中から蔑まれていた人たちです。主イエスはそういう人たちの友となって、そういう人たちと一緒にいようとしてくださいました。キリスト者たちもそうでした。ですから、教会の中には、奴隷だったり、様々な卑しい職業の人たちが大勢いました。「キリスト者は自ら進んで、社会の底辺である人たちと交わろうとするが、そんなことは愚かなことではないか」と見られていました。
しかし教会は、それから2000年経った今でも、あまり変わっていないのではないでしょうか。キリスト者は、この世の権力とか名誉とかにあまり憧れません。そういうものが自分たちの生き残りのために大変重大だとも、全く考えません。そんなことよりは、「私たち信仰を与えられている者が、真の愛の人となって、この社会の中でどういうふうに隣人たちと一緒に生きていくのか、そのことの方がよっぽど大切だ」と考えます。そういう点でも、キリスト者は、今の時代においても一般の人と少しズレているのだと思います。
「隣人と一緒に生きる」ことは、綺麗事としては、それは大事だと誰でも言いますが、しかし本気でそんなことを考えて生きている人が一体世の中にどれだけいるのかと考えますと、一緒に生きると言っても、一緒に生きる中で自分が得をすればいいという程度で周りの人と繋がっているようなところがあるだろうと思います。けれども、キリスト者は違うのです。なぜキリスト者が隣人と一緒に生きようとするか、それは、主イエスがそう生きられたからです。私たちは主イエスに促されて、「どんなに交わりを保つことが困難に思えても、なお、そこで共に生きようとする」、そういうところを持っているのです。
そして、そうであるためにキリスト者は、時々、世の中から軽んじられたり不当に扱われたり、嘲られたりするのです。しかし、そういうことがあってもキリスト者は、今を生かされているように生きるのです。
さて、私たちは、主イエス・キリストゆえに信仰に生きるのだということを考えてみますと、最も大切な点に行き当たることになります。主イエス・キリストを信じる信仰というけれども、ではそれは一体何なのかということです。「主イエス・キリストを信じて生きる信仰」とは、どういう形で表れるのでしょうか。「主イエス・キリストがわたしの主である」と信じる信仰とは、何なのでしょうか。「主イエス・キリストを信じるって、どういうことですか」と尋ねられたら、「そんなことは分かりきっている。主イエスを信じるということは、主イエスが神の独り子であり、私たちの救い主だと信じることだ」「神と一つなる方として、この地上を歩まれて、私たちのために十字架に架かってくださって、甦られた方だと信じることだ」と考える方は、恐らくいらっしゃることでしょう。しかし果たして、そう考えたとして、それが最終的に私たちの信仰の答えになるのだろうかということを考えなければなりません。
今日の百人隊長の姿を思い出したいのです。この人の態度は、主イエスを信じる信仰者のお手本のようだと主イエスは言っておられます。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われています。しかし、そう言われている百人隊長は、ここで主イエスについて、「あなたは神の独り子です。あなたは神と等しい方です」と言っているでしょうか。そういうことは一切口にしていません。この人は、ただただ主イエスに対して信頼を寄せ、主イエスに望みを置いて期待している、そういう様子でいるだけです。
時に私たちは、互いの間でも「信じる」という言葉を使う場合があります。誰かが誰かについて、「わたしはあの人を信じています」という場合があると思いますが、その時には、それは相手を信頼しているということを言っていると思います。相手に信頼を寄せて、自分自身をその相手に委ねてもよい、託してもよい、そういう相手だと思っているという時に、「わたしはあの人を信じています」という言い方をするのでしょう。この百人隊長もそうなのです。この百人隊長は、主イエスが自分の若い僕を癒すことができるかどうか、そのことを十分検討して、癒せると分かっているわけでもないし、あるいは、癒せるとしても、僕を癒そうという思いになってくださると分かっているわけでもないのです。何も分かっていないのに、この人は、主イエスに対して全幅の信頼を寄せています。言うなればこの百人隊長は、主イエスの言葉で僕が癒してもらえなかった時に「あなたは契約不履行です」などと言って詰め寄れるようなものは何も持っていません。ですから、この百人隊長の様子は、結果的には、「主イエスに信頼したけれど裏切られてしまって、何も起こらなかった」、そして世間からは「あいつは馬鹿だ。何も起こるはずはないのに、あんなイエスに信頼して」と、物笑いの種にされてしまうかもしれない、そういうあり方でした。
ところが、この百人隊長は、そんなことを全然気にしていません。どうしてでしょうか。この人にとって大事なのは、自分の僕が癒されるということだったからです。自分が物笑いの種にならないことが大事なのではなくて、今、本当に気にかけている僕が癒されること、そして主イエスに頼めば何とかなるのではないか、そういう期待を寄せてやって来ているのです。
「主イエスを救い主として信じる」ということは、こういうことではないでしょうか。「主イエスをキリストと信じる」、それが「主イエス・キリスト」という一番短い言葉ですが、その信仰というのは、ただ言葉だけで「キリスト」と口にするのではなくて、この百人隊長のように「真に望みに満ちた信頼を主イエスの上に置く」ということに他なりません。この百人隊長のように、「主イエスなら何とかしてくださる。望んでいること、願っていること、抱えている問題について、主イエスなら何とかしてくださる。どういうふうになるのかは分からないけれど、しかしきっとここに道を備えてくださる」と信じて、全幅の信頼を置くことが、「主イエスを信じる」ということなのです。
もし私たちが、そのように信頼し期待することがないとすれば、例え口先で何百回、「主イエスは救い主です」と言ってみても、それは何にもならないのだろうと思います。上辺で「主イエスは救い主である」と言っているだけです。しかし、口で言うことは即、信じるということではないのです。主イエスを信じるということは、この百人隊長のように、率直に、主イエスに全てをお任せするということです。
けれども、こう言いますと、「それほどまでに主イエスに信頼できるならば、それは素敵なことに違いないだろうけれど、しかし、そこまで主イエスに信頼するには一体どうしたらよいのだろうか」と思われる方も、恐らくはいらっしゃることと思います。「どうしてそんなことが可能なのだろうか。そんなことができるのだろうか」、そう思ったとしても当然のことです。私たちは普段、何かに信頼したり、何かに希望を抱いて期待することに大変臆病なところがあります。私たちは「期待を持って生きよう」「誰かに信頼を置いて生きよう」と、あまりしたがりません。それはどうしてかと言いますと、「裏切られることが恐い」からです。
では、私たちはどうやって主イエスを信じることができるのでしょうか。百人隊長の主イエスへの信頼は、どこから生まれてきているのか。このところを読みながら、幾つか考えてみたいのです。
まず、とても大きな手がかりは、この人が百人隊長だということです。聖書の中の登場人物ですから、私たちは簡単に主イエスの仲間の一人だと思ってしまいがちですが、しかし考えてみますと、百人隊長はユダヤ人ではありません。当時のユダヤは、ローマ帝国の属国になっていますから、ユダヤの国が自前の軍隊を持っているわけではありません。百人隊長というのは、軍隊の職名ですから、百人隊長はイタリア人かローマ人かギリシャ人か、何れにしてもユダヤ人を征服して支配するために送られてきた外国人です。外国人である百人隊長が、主イエスに期待を寄せて近づいてきているのです。明らかにこの人は、主イエスが他のユダヤ人たちとは違うと感じていて、主イエスになら期待してよいし、信頼できると思っているのです。
どうしてそんなことが起こっているのか。それは、主イエスの日頃の言動に理由があります。主イエスは日頃、遊女とか徴税人とか、あるいは家畜の世話のために安息日を守れない羊飼いとか、そういう罪人と言われる人たちと親しく交わっておられました。蔑まれ、決して一人前の神の民イスラエルとしての生活を送っていない、そういう人たちと主イエスは共に生きてくださって、一方、自分こそは律法を守ることができている我こそはユダヤ人であると思っている人たちに対しては、非常に厳しい批判の言葉をぶつけられました。
百人隊長は、普段の主イエスのそういう姿を知っています。そして、そういう方であれば、あるいは自分の願いを聞き、自分の願いを神に取り次いでくださるのではないかという期待を持って来ているのです。
主イエスが、世の中で蔑まれている人たちと共に生活しておられたのは、なぜか。それは、「人間は、今あるままに決まってしまっているのではなくて、より一層良い者に変わることができるのだ」と判断しておられるからです。主イエスが罪人と交わりを持ったのは、罪人の暮らしが良いからではありません。蔑まれ嘲られている人たちは、ともすると社会からのけ者にされ軽んじられるがゆえに、自分自身でも自分のことを軽く、低く見てしまうという恐れが十分にあるのです。自分自身の存在や、あるいは自分の将来について、希望も確信も持てなくなって、自暴自棄になって、ただ毎日あるがまま流れるままに過ごしてしまうことがあり得るのです。そういう人々を気遣って、主イエスがそこに加わって、共にあって、そこに慰めや励ましをもたらそうとしてくださるのです。
ですから、そういう主イエスが、「このわたしと共に歩んでくださる主」だと信じるところでは、私たちは、主イエスの人間についての判断を尊重しなければなりません。主イエスが共にいてくださる限り、私たちは、「今ある自分の状態からさらに良いものに変えられていく」、そういう可能性があるのです。主イエスが私たちに伴って、私たちの本当に深いところで抱えている嘆きや痛み、苦しみや悲しみ、それらを慰め励まして、望ましい方向に導いてくださるだろうということを、私たちは切に期待するようにと、この箇所から教えられているのです。
さらにもう一つ、私たち一人一人が、とりわけ主イエスの御言葉によって再度新しくされていくのだということを信じて、またそうなることを心から待ち望んで生きて行くということも、私たちに求められていることです。自分はこんなに歳を取ってしまったから、これ以上変わりようがないと、言ってしまってはならないのです。長く求道生活を続けてこられた方ならば、主イエスを今こそ信じて、信仰を口で言い表して、幸いな生活を始めることがおできになるのです。主イエスが共にいて変えてくださるのです。あるいは、洗礼を受けてずいぶん長く歩んでこられた方も、御言葉に教えられて主に従って生きる生活がどんなに幸いであるかということを、日々新たに知らされながら、なお、歩んでいくことができるのです。
私たちは歳をとると、外見は衰えていくように見えます。しかし、外見はそうであっても、内なる人は主イエスに慰められ励まされて、いよいよ新しく確信を与えられ、与えられているこの地上の日々を終わりまで生きて、遂には永遠の命へと移されていく、そこまで歩んでいくことができるのです。
そしてまた最後に確認したいのは、そういう私たちの生活の好ましさを測る物差しは、普通にこの世の人たちが考えるような、どれだけ長生きしたかとか、どれだけ富や名声を積んだかということで測るのではないということです。そうではなく、私たちキリスト者が自分の人生を測る尺度は、あくまでも主イエスご自身なのです。
百人隊長は自分の僕が病気で寝込んでいる時に、治るのかどうかということも含めて一切を主イエスにお委ねしています。一切を主イエスの愛に委ねて、主イエスに「何とかしてください」とお願いをして、あとは、主イエスが何とかしてくださると信じて待っているのです。
私たちが「主イエスを信じる」ということは、どういうことなのでしょうか。「主イエスがこのわたしを愛してくださっている。このわたしを好ましい者に変えてくださる、例えこの世の尺度ではつましい生活を送らなくてはならないかもしれないけれど、そういう者であっても、主イエスの愛の尺度に照らして見るならば、実は私たちはなお、そこで、成長させられている。主イエスの愛に励まされ慰められながら、神に喜ばれる者に変えられている。そういう生活を送らせていただけるのだ」ということを、主イエスに信頼しても良いのだと思います。
私たちは、そういう生活態度、信仰というものを固く保つようでありたいと思います。もし私たちのそういう姿を通して、私たちの周りでため息をついているような人たちが例え一人でもその気持ちを和らげられ、憂に覆われているようだけれども、そこで希望を抱くようなことが起こるのだとすれば、そこではまさに、信仰ゆえの奇跡が起こっているのです。
私たちは、そういう信仰を与えられて、それぞれのいのちを生きる者とされたいのです。そしてまた、私たちがそういう奇跡を神に起こしていただく道具として用いられたいと、そのことも切に願うのです。
百人隊長の僕は、主イエスによって新しく生きる力を与えられました。しかしそれは、この百人隊長がいてくれればこそです。百人隊長が主イエスに全幅の信頼を寄せて、「ただ一言おっしゃってください。そうすれば、あなたの御言葉通りになりますから」と願ったので、主イエスは「帰りなさい。あなたが信じたようになるように」と答えてくださったのです。
私たちもこの百人隊長に教えられ励まされながら、同じ信仰を持つ者とされたいと切に願います。主イエスに期待し、希望を与えられて、この世の旅路を歩み続けたいと願います。 |