聖書のみことば
2016年10月
10月2日 10月9日 10月16日 10月23日 10月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月23日主日礼拝音声

 賢い人と愚かな人
2016年10月第4主日礼拝 2016年10月23日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第7章24〜29節

7章<24節>「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。<25節>雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。<26節>わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。<27節>雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」<28節>イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。<29節>彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 ただ今、マタイによる福音書第7章24節から29節をご一緒にお聞きしました。24節に「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」とあります。マタイによる福音書の5章から7章には、主イエスが山の上に登った所で弟子たちに教えておられる、まとまった教えが語られているので、「山上の説教」と呼ばれます。
 山の上に登られるまでは、主イエスは、ガリラヤ湖のほとり、低い場所におられました。そのガリラヤ湖畔におられた時には、大勢の人が主イエスの元にひっきりなしに訪れていました。病気を癒していただきたい、主イエスのなさる不思議な業を見物したい、あるいは主イエスに難しい律法の論争を挑んで一泡ふかせたいという人もいました。主イエスが人々の訪れやすい低い場所におられた時には、主が弟子たちにじっくりと教えようとして話し始められると、すぐに横合いから別の用事が入り込むようなところがありました。そのように弟子たちに向き合って教える時間が取れないので、主イエスは山に登られ、群衆から少し距離を置いた場所で弟子たちに教えておられた、それが「山上の説教」なのです。
 振り返って考えますと、愛宕町教会ではこの「山上の説教」を、2月第一主日の礼拝から聞き始めました。まるまる9ヶ月をかけて、今日はその最後のところを聞いています。この教えは、「8つの幸いの教え」から始まりました。ところが終わりのところでは、3つの警告とも受け止められるような譬えの言葉で締めくくられていきます。一つ目は「狭い門から入りなさい。広い門から入ろうとする者が多いが、その道は滅びに通じる」という警告でした。二つ目は「偽りの預言者たちに気をつけるように。木がどのような実を結ぶのか見分けるようにしなさい」という警告でした。そして今日のところでは2つの家の譬えです。「本当に賢い人は家を建てっぱなしにしないで、主イエスの言葉を聞いたらそれを行う人なのだ」と教えられています。主イエスの言葉を聞いて行う人は、岩を土台として家を建てた人のように「この世の試練や艱難に遭遇して嵐に襲われるような時にも、しっかりと立つことができる」と教えられています。

 もう一度24節25節を聞きます。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」。実は、この24節に書かれていることは、十分に注意して聞かなければならない言葉だと思います。ついうっかり大雑把に聞いてしまいますと、取り返しのつかない誤解をしてしまうかもしれない、そういう言葉です。つまり「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は、賢い、良い人なのだ」と教えられていると大雑把に聞いてしまって、これを単純に「聞くだけではなく、行いなさい」という行いへの勧めであると受け取ってしまいますと、私たちは、土台の岩から離れてしまうということが起こるかもしれません。
 主イエスは今日のところで、単に「行いなさい」とおっしゃっているのではありません。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は」と言われます。主イエスの言葉や聖書の言葉に触発されて、何かのインスピレーションを受けたと感じて反射的に行動に移す人が時折いらっしゃいますが、そういう人は「聖書から示されたから、こう行動する」、それが正しいことだと思っていますから、自分と同じように考えたり行動しない人たちを、つい非難してしまいがちになるのです。「自分こそ、御言葉を聞いてすぐ行う者だ。目に見える行動を主イエスは喜んでおられるのだ」と考えたり、「自分は御言葉を聞いて行っているけれども、周りの人たちは同じように生きようとしない。そういう人たちは、御言葉を聞くだけで行わない人たちだ」と、つい教会の兄弟姉妹を裁いてしまいがちになるのです。しかし、まさにそのところにこそ注意が必要です。御言葉に聞いた時に、それに従って生活しようとする、その志し自体は大変立派で悪いことではありません。しかし、御言葉に従いたいという思いがあまりにも強くなってしまった結果、いつの間にか、自分が正しいと信じること、良いと信じることを行うというあり方ばかりに気を取られるようになってしまって、肝心の土台である主イエスの言葉に聞きながら、その御言葉に平らに従うということがどこかに忘れられて、置き去られてしまうということがあり得るのです。
 今日のこの譬えは、岩か砂かという土台の話です。キリストの土台の上に家を建てるのではなく、自分の敬虔な思いや自分自身の一生懸命な業を土台としてその上に家を建ててしまうという方向にズレてしまう場合があるのです。ですから、注意が必要です。

 今日のところで、主イエスは「あなたの建てる家は砂の上ではなく、岩の上に建てるべきだ」と教えておられます。しかし、岩の上だけではなく、砂の上にも建てると言っておられます。「岩の上であれ砂の上であれ、あなたは家を建てるのだ」と言われているのです。しかもこれは、バラックやプレハブではなく「家」です。もし私たちが家を建てるとしたら、恐らく、1年や2年で済むことではないでしょう。まず「家を建てよう」という志しが与えられて、そこから準備が始まります。初期の資金も貯めなければならない、また自分の人生のシミュレーションをして自分の家には何が必要かを考えて、要望をまとめて建築士に伝え、建築士が作った設計図に従って建設会社が実際に家を建て上げる。大まかに建物が建ったら、次には設備がなされて、そして初めて家が完成するのです。最終的な代金の支払いということまで考えれば、一生かかって漸く家が建つ、建った家が自分の物になるということは普通にあることだと思います。
 主イエスがここで言っておられることは、部屋を借りるとかバラックを建てることではなくて「家を建てる」ということです。つまり主イエスは、「家を建てる」という言い方で、私たちの一生のことを言っておられるのです。「あなたの一生を何の上に建てていくのか」、「あなたの建てていく一生の家は、何を基礎とし、どんな土台の上に建っているのか」と問うておられるのです。岩の上であろうと砂の上であろうと、人が一生懸命精魂込めて建てた家ですから、見た目ではそれなりに立派に見えるのです。けれども、その家の違いは「嵐に襲われた時に現れてくるのだ」と主は言われます。岩の上であれば建っていられるが、砂の上だと流されてしまうのです。
 そして、「岩の上に建てる人は賢い人なのだ」と言われています。この「賢い人」と言われていることに注意したいと思います。「正しい人、立派な人」と言われているのではありません。けれども考えてみて、「主イエスを土台として岩の上に建てる人は正しい人だ、立派な人だ」と言ってもおかしくないと思われないでしょうか。しかし主イエスは、「賢い」と言われました。「賢い」とは、「物事を見抜く力があって正しく考えることができる」という言葉です。「物事を見抜く」とは、この場合で言えば「どの土台の上に立てるのか」ということです。自分自身の敬虔な思いとか、熱心さとか、一生懸命な行い、そういうものが時には確かなものと思われることがあります。自分が一生懸命になっている時、神の事柄に熱中している時には、それなりに確かにそう思えるのです。ところが、人生に嵐が襲ってくることがある。私たちが思いもかけない出来事に遭い、辛い経験をさせられる。深い嘆きの中に沈み込んでしまう。そういう時に、私たちは自分自身が翻弄されてしまいますから、あっという間に自分自身の確かさが崩れ去ってしまうのです。
 主イエスや神に対する信仰の出来事が、私たちの心の中の出来事であって、信仰とは心の事柄だと思っている方は意外に大勢おられます。教会の外の人たちは、おそらく殆ど、そう思っていることでしょう。あるいはキリスト者であっても、ふと、そう思ってしまうことがあるかも知れません。けれども、もし私たちの信仰の事柄が心の中の出来事に過ぎないのとすれば、私たちが実際に試練を受け艱難にぶつかると、あっという間に崩れてしまいます。人間の心や人間の熱心さに根を下ろしているような信仰は、本当に脆く儚いのです。主イエスの今日の譬えで言うならば、まさに砂地の上に建てられているに過ぎないのです。
 賢い人は、物事を見抜く力があり正しく考えることができるわけですが、賢い人というのは「自分の心というものが、大変脆く移り気なものだと弁えている」と考えるのです。そういう人は、自分自身の信仰心からくる熱情に流されて、闇雲に行動したりはしません。もちろん、自分が正しいと思うことを行って生きるのですが、その時にも、自分の思いや気持ち、心というものが、本当に移ろいやすく儚いものでしかないということを、よく承知した上で、しかし自分が今正しいと思えることを行っていると思いながら行動しているのです。「人間の心や思いは、決して強いものではない」と、物事を正しく見抜いて考えることのできる賢い人は、どう行動するのか。それは、主イエスの御言葉を聞いたら、さらにその御言葉の中に深く根を下ろして、主イエス・キリストご自身の中に深く根付いて生きていこうとするのです。
 今日のところで主イエスが言っておられる「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」というのは、まさに主イエスに根ざして、何であれ、主イエスの御言葉に自分が照らされる、そういう中で生きようとする人たちのことです。主イエスの御言葉に深く根を下ろして、そこから栄養を得て歩んで行こうとする人、それは、例えて言えば「生きている木」になるような、そんなところがあります。立木は生きている木と枯れた木の場合がありますが、見たところではどちらも同じように立っています。けれども、木が生きていて根から栄養分を受けて立っている場合というのは、大変しなやかで粘り強くなります。艱難や苦しみに遭って、嵐に見舞われても、そこで倒れずに、しっかり根っこまで地面を掴んで立ち続けることができるのです。ところが同じように立っていても、枯れ木である場合には、根から栄養を受けていないので、硬くて脆くて、ポキンと折れてしまいます。
 主イエスご自身の中に根を下ろして、そこから栄養を受けて生きて行く人、そういう人は、苦しみや困難の中にあっても、なお、その土台の上に立ち続けていくことができるのです。「御言葉を繰り返し聞いて、その中に深く根を下ろして、自分自身がいつも御言葉に照らされるようにして生きようとする」、そういう人が「賢い人」だというのであれば、その反対の「愚かな人」というのは、御言葉抜きで生きようとする人だということになるでしょう。その通りです。26節に、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言われています。
 主イエスの時代には実際にこういう人たちがいました。ファリサイ派の人たち、律法学者たち、祭司長たちやサドカイ派の人たちは、主イエスに対して、まさにこのような態度を取っていました。聖書には幾つもそのような場面が出てきます。律法学者やファリサイ派の人たち、祭司長たちは、始終、主イエスの敵役のように出てきますが、彼らは、当時のユダヤ社会の知的水準から言いますと、トップ水準にいた人たちだと言えます。確かに、人間的な知性のレベルでは高くあるとしても、主イエスが語る言葉を本気で受け止めようとしないあり方を、主は「愚かだ」と言っておられるのです。物事を見抜くことが出来ずに、正しく考えることができない愚かさです。

 このように、主イエスの御言葉抜きで平気だと思っている人たちは、では何により頼んでいるのでしょうか。祭司長やサドカイ派の人たちであれば、自分たちがきちんと神殿で礼拝を行っているから大丈夫だと思っていますし、律法学者やファリサイ派の人たちは、自分たちは聖書の言葉を熱心に読み、研究していて、それを実践して生きようとしているから、既に神との関係は確立されており、今さら主イエスの言葉など聞く必要はないと言っておりました。しかし、そういう仕方で神との関係ができていると思っているのは、過信に過ぎません。自分自身のことを全く分かっていない、自信過剰な姿だったのです。彼らの敬虔さがいかに薄っぺらな上辺だけのものであったかということは、この先を読み進み、やがて主イエスがエルサレム神殿に上られて、神殿の境内で実際に彼らと対決をなさる、その時に非常にはっきりと表れてきます。
 主イエスはエルサレムに入城されて神殿礼拝に行かれました。その時に、主イエスが「異邦人の庭と呼ばれる中庭」で目にした光景はどのようなものだったでしょうか。そこは本来、異邦人たちが聖所を眺めて静かに祈る場所でした。けれどもそこには、犠牲として献げる生きた動物を売る店や両替所が立ち並んでおり、動物の鳴き声や両替の喧騒の場となっていました。主イエスは、「ここは礼拝の場である」と言って、動物を追い出し両替所の台を覆して、その場を本来の礼拝の場にしようとなさいました。「宮清め」と言われる出来事です。ところが、そういう動物犠牲の売り買いや両替の利益の一部は、大祭司や神殿守衛長と呼ばれる人たちの収入に直接繋がっていました。ですから、主イエスが「宮清め」をなさった次の日に、祭司長たちやファリサイ派の人たちが主イエスの所に押しかけてきて、「何の権威であのようなことをしたのか」と主を追及し始めました。その際に、主イエスは彼らに対して臆することなく、逆に尋ねます。マタイによる福音書21章24節25節に「イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。』彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう」とあります。このように主イエスから尋ねられて、祭司長たちもファリサイ派の人たちも虚を突かれて慌てたのだという話が、この後に続きます。彼らは、主イエスの話を本気で聞こうとしませんでしたが、主イエスの先触れとして現れた洗礼者ヨハネの「悔い改めなさい」という言葉にも真剣に聞こうとしませんでした。それはどうしてかと言いますと、ヨハネが呼びかける悔い改めに参加しなくても、自分たちには既に神との関係があるから良いという思いがあったからです。このようにヨハネの呼びかけを軽く考えたということは、洗礼者ヨハネの呼びかけは天からのものではなく、あくまでも人間であるヨハネが勝手に言っていることに過ぎないと思っていたということです。ですから、主イエスの「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか」という問いかけに率直に答えるならば、「私たちは、『人からのものだ』と思っていました。だから耳を貸さなかったのです」と言うべきでした。
 ところが、祭司長たちもファリサイ派の人たちも、そう答えることを躊躇いました。26節に「『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」とあるように、人を恐れていたのです。彼らは、主イエスやヨハネを抜きにしても、自分の敬虔さや律法への熱心さによって神に繋がっていると上辺では言い張っているのですが、しかし本心では神に信頼できていません。「もし民衆と違うことを自分たちが言ってしまったら、民衆が暴動を起こすかもしれない。そうなったら終わりだ」と思っているのです。そこでは「神が守ってくださるから大丈夫だ」という、神への信頼など無いのです。自分の熱心さ敬虔さによって神に信頼していると言いながら、実際には信頼しきれていない、そういう自分自身が見えていないからこそ、「愚かだ」と、主は言われるのです。
 そして、今日のところで主イエスは、本当には神への信頼がないために恐れや不安を持っているけれども、それを包み隠したまま、上辺ではいかにも「神は自分と共におられるのだ」という顔をして生きていく人は、27節に「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」と言われました。神に信頼して生きることができていない人は、上辺では立派な建物を建てるけれども、嵐が来た時には、木がポッキリ折れるどころではなく、建物全体が崩れ去るような終わり方をするのだと言われております。「だから、あなたがたは、砂地のような頼りない所に土台を置くのではなく、わたしの言葉を聞いたならば、わたしの中に拠り所となる基礎を置きなさい。わたし自身の上に、あなたの家を建てていきなさい」と、主は勧めてくださるのです。「何れにしても、あなたは、自分の人生を生きて行かなければならない。何を土台にするにしても、あなたの人生はあなたのものなのだから、精魂込めて建て上げていくことになる。その時に、わたしがその土台になってあげよう。あなたはわたしの上に土台を置いて歩んでいくのだよ」と主イエスは言われます。「岩の上に」とありますが、これは主イエス・キリストご自身のことです。主イエスが私たちの生活の土台となり、御言葉をもっていつも私たちを支えてくださるのです。

 

 主イエスがこのように話された時に、そこにいた人たちはとても驚いたことが、28節に記されています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」とあります。聞いた人たちがなぜ驚いたのか、それは、主イエスが教えてくださった教えが立派だったからということではありません。とても高尚な倫理的な道を説く教え、あるいは、人間への洞察に富んだ豊かな倫理ということであれば、「それは尤もだ」と賛成はするでしょうけれど、「ここでこんな話を聞くとは…」と驚くことはないだろうと思います。
 なぜそれほどに驚いたのでしょうか。29節に「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。聖書に語られている言葉、それがどんなに普遍的で奥が深く優れているとしても、もしもそれが人間の思想を伝えているのだとしたら、そういう聖書の教えに対して、自分と同じ人間が語っていることだと思って、賛成したり反対したりしながら聞けば良いだけです。場合によっては、聞き流しても構わないでしょう。
 けれども、主イエスはここで「権威ある者としてお教えになった」とあります。もしも人間の言葉を通して神が私たちに語りかけられているのだとしたら、事情は全く違ってきます。人間から「あなた、わたしに従ってくるのがいいですよ」と言われたなら、私たちは「それもいいかな。でも止めておこう」と思うかもしれません。けれども、神が私たちに「わたしに従ってきなさい。わたしを土台として、わたしの上にあなたの土台を建てるのだよ」と言われたならば、私たちは実は、そこで態度をはっきりさせなければならなくなるのです。
 「わたしの言葉を聞いて、わたしを土台として生きる人、それは賢い人だ」と、主イエスは言われました。これは、評論家が世の人を分類して「これは賢い人、こちらは愚かな人」と分けているということではありません。そうではなくて、「話を聞いているあなたが、このわたしを土台として、あなたの一生を生きていくのか。あなたの家を、わたしという土台の上に建てていくのか」と、問われているのです。「わたしの上に建てなさい」と招いておられるのです。「あなたは賢い人になりなさい」とおっしゃっているのです。

 2月から今日まで、9か月かけて、主イエスの「山上の説教」を聞いてきました。神が私たちに、この教会の礼拝に集うことを許してくださって、ここで御言葉を聞くことを許してくださって、そして、その度ごとに、毎回毎回同じことをおっしゃっておられます。「あなたは、あなたの家を、あなたの人生を、主イエスという土台の上に建てていきなさい」という招きの言葉を、毎回毎回語っておられたのです。今までそのことに気が付かなかったかどうかということは、もはや問題ではありません。そうではなくて、「今からあなたは、この土台の上にあなたの人生を建てて行きなさい」という招きが、この「山上の説教」の一番最後に、はっきりと語りかけられているのだということを、今日、この御言葉から聞き取って、深く覚える者とされたいと願うのです。

 今日、このところから「主イエスを土台として歩み出すように」と、神が私たちを招いてくださっています。主イエスを土台とし、主の御言葉に照らされる時に、私たちは「主イエスの十字架の下に立たされる」という経験をします。十字架の上にかかっておられる主イエスを見上げながら、「なぜ、このようなことが起こっているのだろうか」と思う。それは、人間が無責任だったり情けなかったり腹黒かったりするからですが、私たちもまた、そういうところを持っていますから、ですから「このわたしは本当に惨めな、愚かな弱い者に過ぎないのだ」ということを、十字架の光に照らされる中で、私たちはしみじみと教えられるのです。そして、愚かであるから、私たちは人生の中で様々に失敗をしてしまいます。
 けれども、神は、まさにそういう私たちの罪の過ちを全て、あの十字架の上で清算してくださって、「あなたは今からは、あの十字架の光に照らされて、主イエスの土台の上に、もう一度ここから生きて良いのだ」と招いてくださっていることを覚えたいのです。
 主イエスの招きを聞き取って、その土台の上に私たちの人生を築く「賢い者となって歩んでいけるように」聖霊のお導きを、聖霊の訪れを切に願い求めたいのです。

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