聖書のみことば
2015年9月
  9月6日 9月13日 9月20日 9月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月27日主日礼拝音声

 主にあって喜ぶ
9月第4主日礼拝 2015年9月27日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第3章1節〜11節

3章<1節>では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。<2節>あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。<3節>彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。<4節>とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。<5節>わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、<6節>熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。<7節>しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。<8節>そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、<9節>キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。<10節>わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、<11節>何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙3章1節から11節までを、ご一緒にお聞きしました。
 1節に「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」とあります。「同じことをもう一度書きます」と言っています。「このことは既に述べたことだけれども、しかし敢えてここでもう一度述べる」と、ここでパウロが繰り返し語ろうとしていることとは、一体何なのでしょうか。
 それは「主において喜ぶ」ということです。そして、そう語ることは、パウロにとって全く煩わしいことではないとも言っています。「煩わしいことではない」とパウロは言っていますが、実はこのことは、この手紙に限られたことではないようです。考えますと、この手紙が書かれたのが紀元50年頃ですから、今はそれから1950年以上過ぎています。ここでパウロが繰り返し語ろうとしていること、伝えようとしていること、つまり「主において喜びに与る」ということ、これは、この地上の教会が2000年の間、毎週毎週、繰り返し聞きつつ、求め続けていることではないでしょうか。
 「主において喜ぶ」ということを、もう少し丁寧に言うならば、「主イエス・キリストによってこの世にもたらされている喜び、その喜びを心の底から味わって喜ぶ」ということです。この喜びを繰り返し伝える、それはパウロにしてみれば、少しも煩わしいことではないのです。

 主イエス・キリストというお方によってもたらされた喜び、その喜びを繰り返し聞かされ、確かなものとされ、励まされ強められる。このことはフィリピの教会とパウロの間だけで起こっていることではなく、今日の私たちの間でも起こっていることです。考えてみますと、私たちはなぜ、毎週毎週教会に来るのでしょうか。それは、「主イエス・キリストによってもたらされた喜び」というものが、確かにあるからではないでしょうか。なぜ、私たちは礼拝するのか。それは、「御言葉を聞き、主によって私たちにもたらされている喜びをもう一度思い起こさせられる」からです。「喜びが確かにわたしを包み、わたしの生活を支えてくださっている」、そういう喜びを聞くためであれば、私たちは決して煩わしいとは思わないで、毎週礼拝に集うということが起こるのではないでしょうか。
 この手紙を書いているパウロも同じです。パウロはここまでの箇所で、主イエスによって与えられた喜びについて語ってきました。そして「その喜びに与るためであれば、もし自分の血が流されるとしてもかまわない、悔いはない」と言っています。どうしてそうまで言えるのでしょうか。それは、その喜びが本物の喜びだからです。私たちであっても、「本当の喜びを聞き、それに励まされて生きる」という人生を送るならば、そう言えるのだろうと思います。
 私たちは生き、いずれの日かこの地上の生活を終える日がやってきます。その時に自分の一生を振り返って、様々な成功や失敗があったけれども、その歩みの中で「本当に喜べることに出会わされている人生だった」と思えるならば、私たちは平安な思いでこの地上の歩みを終えることができるのではないでしょうか。パウロはそのことを思って、フィリピの教会に向かって、「たとえわたしの血が流されても悲しまないでほしい。わたしは、喜んで、今ここにいるのだ」と語っています。それが2章17節18節「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」という言葉です。

 今日の3章1節で、パウロが「主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが」と言った「喜び」とは、この喜びなのです。牢屋の中にあって、命の危険に直面している状況になっても「それでもこれで良いのだ」と思えるような「喜び」なのです。私たちが生きている間、あるいは死ななければならない時にも、それが唯一の慰めとなり支えとなってくれるような、そういう喜びです。そして、そういう喜びを教会に伝えるためであれば、何度同じことを語っても煩わしいことはないのだと、パウロは語っています。
 そして、パウロ一人ではなく、世界中の教会が日曜日の度ごとに同じことを語っています。パウロが伝えようとしている喜びを、教会は語り続けています。また、パウロが手渡そうとしたその喜びを受け取ろうとして、私たちは毎週毎週教会に集い、礼拝において「主イエス・キリストによってもたらされた喜びに与ろうとする」、そういう営みがあります。それは煩わしいことでしょうか。仕事に疲れた肉体を引きずって来るということもあるでしょうし、年老いて自分の体が重くなり教会への道のりを長く感じるようになることもあるでしょう。しかし、それでも私たちは、煩わしくありません。「本当の喜び」が、ここにあるからです。
 教会が世界中に建てられているということは、そこで毎週礼拝が捧げられているということです。礼拝は、常にすべて整えられた順境の中で守られるものかと言えば、そんなことはありません。場合によっては、思いがけない天災によって会堂が壊れてしまうこともあるでしょう。そういう時に、教会に集う人たちはどうするでしょうか。建物が建て直されるまで教会はお休みになるかと言えば、そんなことはありません。瓦礫同然になってしまった会堂であったとしても、それでも日曜日の朝にはそこに集まって礼拝し、「神よ、もう一度私たちがここから歩み出すことができる力をお与えください。そして、主イエス・キリストによって備えてくださった喜びに与って、私たちが終わりまで生きることができますように」と祈って歩むのではないでしょうか。また、どうしても会堂のあった場所に集まれない時には、場所を変えてでも、教会の群は礼拝を守ろうとします。それはどうしてでしょうか。それは、主イエス・キリストを通してもたらされている喜びに与るためなのです。
 ですから、今日パウロが「わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」と語っている「喜び」とは、キリスト者にとって数ある喜びの中の一つなどというものではないと思います。この喜びに与っているかどうかが、自分の人生の中で極めて決定的になってしまうような、そういう喜び、まさに喜びの中の喜び、そういう喜びをパウロは何とかして伝えようとしているのです。そして、この 朝、私たちもまた、この喜びに与りたいと思うのではないでしょうか。

 では、どうすればこの喜びに与れるのでしょうか。別の言い方をするならば、この喜びとは、どういう類・性質の喜びなのでしょうか。今日のところでパウロは、この喜びについて語ることは少しも煩わしいことではないと語ると同時に、この喜びを聞くことは、「あなたがたにとって安全なことなのです」とも言っています。喜びを聞くことが「安全」とは、少し不思議な言い方ですが、原文を読みますと、「安全」と訳されている言葉は「固定される、確かにされる」と訳することができます。「ぐらつかないようにしっかり固定されること」、それが「安全」だというのです。
 少しイメージしてみますと、例えば、男子の体操競技に鉄棒というものがあります。競技者自身は何度も練習を繰り返し、動作を体に覚えこませているはずです。体をどのように捻ったらどこに着地できるか分かっているので、素人からすればとても危なくてできないような離れ業を平気でやってのけるのです。それで、自分では大丈夫だという確信をもって試合に臨むわけですが、しかしその際に、手首を故障していてしっかりと鉄棒を握れなければ、落下するということがあります。しっかりと鉄棒を握り固定されている、それが鉄棒という種目の安全に繋がっているのです。
 ここで、パウロが言っている「安全」とは、「主イエスによってもたらされている喜びにしっかりと繋がる、結び付けられている」ということです。「安全=ぐらつかないように固定される、確かにされる」、このことは、他の聖書箇所からも読み取れることです。例えば、ルカによる福音書1章4節に「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」とあります。「確実」という言葉です。「あなたがたが聞いてきた主イエスの教えは確実である」という場合の「確実」と「安全」は同じ言葉なのです。
 また、使徒言行録22章30節に「翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した」とあります。「確かなこと」という言葉がそうです。この場面は、使徒パウロがエルサレム神殿の境内でユダヤ人たちに石で打たれて殺されそうになった時、神殿を守るローマの千人隊長が神殿境内での騒ぎからパウロを保護したものの、「なぜこのようなことが起こっているのか、事実を知りたいと思った」ことが語られている場面です。「確かなこと」、つまり「事実」、そこにこの「安全」という言葉が使われています。
 「主イエス・キリストによって、私たちにもたらされている喜びに与る安全」とは、主イエスによって何がなされたのか、その主の御業について繰り返し聞いて確かめることによって、私たちに与えられてくるものなのです。「私たちが既に聞かされてきたことは、確かなことなのだ」と確認することで、私たちはそれぞれに、主イエス・キリストにしっかりと結ばれて、与えられた命をしっかり生きようとする、そういう思いが新たにされるのです。パウロが「この喜びを語ることは煩わしいことではないし、聞く者にとっては安全である」と言っているのは、言い換えれば「主イエス・キリストの出来事、御業について繰り返し繰り返し聞かされることによって、そのことが私たちのうちに確かめられていく」という内容であることが分かります。
 
 このように「喜びに与るために主イエスの御業を繰り返し聞くことが大事である」と言われますと、私たちは、一方では当たり前のことだと思いますが、また一方では「ただ聞くということだけで、本当に喜べるのだろうか」と思うのではないでしょうか。主イエスが神のもとからこの地上に下り、人間の間を歩んでくださって、十字架にかかってくださった。この出来事によって何がなされたのか。私たちは繰り返し聞かされています。あの主イエスの十字架上では私たち人間の罪が清算されたのだと聞かされます。私たちは主イエスの十字架によって罪を赦されて、清らかな者とされている。だからこそ、そこから新たに「神のもの」として歩んで良いのだ。それが「福音」であると聞かされています。礼拝において、繰り返し聞かされていることです。
 確かに、主が私たちのために十字架にかかってくださり、更に復活して永遠の命の約束をくださっている、それが良い知らせか悪い知らせか、まあ良さそうな知らせではあるけれども、しかし、この世の中には、良い知らせと分からない人も多くいることでしょう。神を気にぜずに、神なしでも、大層立派とはいかなくても、「それなりに生きて抜いて来られたし、これからもそうやって生きていけばよい」、そう思っている人はいくらでも居るでしょう。むしろ、大多数の日本人は、「なんでキリスト者は、休まずに日曜日に教会に行くのか。なんであそこまで神にこだわるのか。神など置いておいて、もっと自分の楽しみを追いかければいいじゃないか」と思っているでしょう。自分がキリスト者だと知らない人たちの間で、もしもうっかり神のことを口に出してしまったらどうなるか。場合によっては、周りの人は、「あなた、この頃、体の調子が思わしくないのでは? 何か深刻な悩みがあって気が弱くなっているのでは? 神頼みだなんて、大丈夫?」と、真剣に心配してくれるかもしれません。
 日常の私たちは、唯一の救い主なる神がいらっしゃるということを殆ど意識しない社会、意識しない人たちの間で、この地上の生活をしています。ですから、教会で語られていることは、私たちは何度も繰り返し聞かされていますけれど、教会の外では滅多に聞けない話だと言えると思います。希少価値があると思います。教会の外で「神の独り子が私たちのために執り成しの業をしてくださった」などということは、聞くことができない話です。「ただお一人の神が私たちのことを大事に思ってくださって、そのために独り子をくださった」、このことが良い知らせか悪い知らせか、普通に聞けば、まあ良い知らせなのだろうと思うでしょう。

 けれども、そういう知らせを毎週毎週、教会に来て聞かされて、そのことだけで本当に喜べるだろうかと考えますと、話を聞いているだけでどうして喜べるのだろうかと思うかも知れません。もしかすると、この喜びをもっと実感するためには、ただ話を聞いているだけではなくて、もっと別のことも必要なのではないかと考えてしまうかも知れません。
 そう考えてしまうのは何故かと思いますと、実は私たちは、話を聞いて、それを信じて受け取るということが本当に苦手だということの裏返しだと思うのです。今日のところでパウロは、まず、繰り返し聞いて喜びに与ることを勧めていますが、それと並んで、キリスト者が警戒すべきことについても語っています。2節「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と言っています。
 こういう言い方で語られている事柄とは、当時のフィリピ教会に入り込もうとしていたパウロの敵対者のことだと説明されます。もちろん、その通りなのですが、しかし問題は、なぜパウロがこの人たちに警戒しなさいと言ったかということです。それは、パウロが「よこしまな働き手」と呼んでいる人々が、主イエスの御業を繰り返し聞いて喜びに与るのではなく、別の仕方で喜びに与れるのだと吹聴しようとしていたからです。
 実はこの人たちは、自分自身に誇りを持っている人たちです。「私こそ、確かなイスラエル人である。その証拠に、自分は生まれてすぐに正しい手続きによって割礼を受けている」と、この人たちは、神の民として、律法に基づいた生活をきちんとしていると自負しているのです。そして、そういう自分の有り様を喜んでいます。
 もし、そういう喜びが個人的な事柄に止まっていたのなら、パウロは彼らのために心痛めたのだろうと思いますが、これほどの強い口調で「警戒しなさい」とは言わなかったと思います。「警戒しなさい」とまで言っているということは、他ならないフィリピ教会の人たちが「よこしまな働き手」、つまり偽の教師たちに影響されてしまう恐れがあったからです。
 「よこしまな働き手」と呼ばれる人たちは、「神が御子イエス・キリストによって決定的な喜びを与えてくださった」そのことを喜ぶのではなく、そこから更に進めてしまって、それほど神がわたしを愛してくださるなら、どうして見える徴がないのだろうかと考えてしまうのです。聞かされたことを信じて喜びに与るのではなくて、何かもう少しはっきりした手がかりのようなものを自分の生活の中に、自分自身に持ちたいと思うのです。そして、そういうことに、フィリピ教会の人たちも心惹かれてしまうということがあったのです。そしてそれはまた、私たちにも言えることです。

 確かに、私たちの上に神の御業がなされている。主イエス・キリストの十字架と復活によって、神は新しい生活を私たちに約束してくださっている。今のこのわたしは、神から切り離され滅んでいくのではなく、本当の終わりまで歩み神と共に永遠の命に与る、清らかな生活が与えられていることを信じて生きる。しかし、そういう清さが自分のうちに成り立っているかどうか、目に見える徴を求めてしまいたがる、そういうことが、私たちにもあるのではないでしょうか。もしわたしが救われているというのなら、どこかにその徴はないのかと、つい思ってしまうのではないでしょうか。もしそういうものがあったとすると、それを大変誇りにして、自分では感謝しているつもりで、そしてその誇りによって、隣人や兄弟姉妹を裁くということが起こり得るのです。
 「キリスト者であればキリスト者らしい生活ができるはずだ」と、例えば極端に言えば、「キリスト者であれば、お酒やタバコも必要なく生きられるはずで、そうならなければキリスト教など意味がない」と言ってしまうということがあるのです。

 パウロがフィリピ教会に対して「警戒しなさい」と呼びかけている、そこにはパウロ自身の訳があります。それは、パウロ自身がかつて、そういう人だったからです。目に見える徴で神の恵みを確認して喜びたいと思っていたのであり、そういう生き方をしていたのです。4節から6節で、パウロはそういう自分自身の昔の姿を思い起こしています。「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。自分は規定通り生まれて8日目に割礼を受けた由緒正しいユダヤ人で、考え方においても行いにおいても敬虔なユダヤ人として他に引けを取らない、そういう者だったと振り返っています。そういう一つの思い出を持っているのです。そのようにして神に愛されている神の民なのだということを自分の手に強く握りしめて、それが以前のパウロの誇りであり、喜びの源だったのです。
 ところが、そうであったパウロが、過去の自分自身について大変思い切ったことを言っています。7節8節「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と言っています。「塵あくた」は口語訳では「糞土」でした。印象に残る言葉です。
 自分にはかつて、確実で尊いと思ってきたことがあった。それは「自分は恵みの中に生まれて、あれこれの経験があり記憶があり、その一つ一つによって形作られている」というものでした。しかし、そのようにして実感してきたことは、主イエス・キリストの前では、決して美しいものではない。「糞土のようなもの」と言っています。「かつて自分はこれを握りしめていたけれども、その握りしめていたものは、キリストを知った時にすべて失ってしまった。けれども構わない」、そう言っています。

 どうしてこんなに強い言葉で語るのでしょうか。それは、私たちに与えられている信仰の徴、神の恵みの徴というものが私たちの人生の中にある限り、私たちの身の上にある限り、どうしても人間臭い弱さがそこに必ずつきまとうものだからです。私たちは、出来ることなら過去の弱かった自分とお別れしたいと思っているかもしれません。主イエス・キリストの恵みに与ることを知らされたからには、その恵みに相応しい清らかな者になりたいと願い、そのために努力するかもしれません。あるいは、自分の弱さや惨めさを見るときには、悔やんで涙を流すかもしれません。けれども、そのような私たちの完成というものは、実は、この地上を超えたところにあるのです。
 私たちは生身を引きずって生きるものです。この地上で、主イエスに伴われ励まされ勇気づけられながら、確かに私たち自身は惨めな者、惨めな生活を送っているけれども、しかし神は、そんな私も命の中に数えてくださっているのだということを信じて、地上の生活を懸命に生きる、そのようにされています。
 「主イエス・キリストが、このわたしの惨めさや弱さを憐れんでくださって、それらを清算するために十字架にかかってくださった。あの主イエス・キリストの清らかな苦しみ、清らかな死の事実によって、わたしの罪は十字架上で完全に清算されているのだ」、そういう主の御業のもとで、信じて生きるようにと、神は私たちを招いてくださっているのです。
 私たちが「主イエス・キリストこそ、わたしの主です」と信じて洗礼を受けることで、私たちは、今、主イエスの御業の中にある者として、主のうちにある者として生きることが赦されています。だからこそ「真の喜び」とは「主イエス・キリストの御業を聞かされて、それを信じる」ところにあるのです。

 私たちは、今日の礼拝の中で高齢者の祝福、逝去者記念を、そして礼拝後には墓前で礼拝を行いますが、その中で私たちは一体何を覚えるのでしょうか。一人の人間が立派に歩んだということを覚えるのではありません。そういうことではない。本当に清らかな、何にも勝る喜びが、私たちの群れに起こっていることを覚えるのです。「主イエスが私たちを捕らえ、私たちがどんなに弱っている時にも、あるいは惨めな状況にあり、惨めさの中で死ななければならないとしても、それでも、間違いなくあの十字架の上で私たちの罪は清算されているのだ」、その真実をこそ、見上げる者とされたいのです。

 「主イエス・キリストが私たち一人ひとりの元に訪れてくださる、甦りの主が私たちと共にいてくださっている」、そのことを今日改めて確認し、この主によって清らかにされている者として歩めるようにと祈りながら、もう一度ここから歩み出したいと願うのです。

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