ただ今、フィリピの信徒への手紙2章1節から11節までを、ご一緒にお聞きしました。
1節に「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」とあります。この2章の書き出しは、礼拝を下書きにして語られているとよく言われます。新共同訳聖書では文章がなだらかに一つに繋げられていますが、原文で読みますと、4つの仮定の言葉が繋げられています。4つの仮定を意識して原文を読みますと、「そこでもしも何かキリストの内にいて励まされているなら、もしも何か愛の慰めを受けているなら、もしも何か聖霊による交わりの内に置かれているなら、そして、もしも何か慈しみや憐れみを感じるなら」となると思います。つまり、「キリストの内にいて励まされること、愛の慰めを受けていること、聖霊の親しい交わりの中に置かれていること」、そしてそこから派生するようにして最後に「慈しみや憐れみを感じることが出来るようになっているなら」という文章です。
ここでお気付きの方もいるかも知れませんが、4つの内の始めの3つを続けて、後の1つだけ分けて言いました。その理由は、3つの言葉が「祝祷・祝福」の言葉を下敷きにしているからです。愛宕町教会では礼拝の最後に「祝福授与」があり、旧約以来の「アロンの祝福」の後に、コリントの信徒への手紙の中でパウロが語った祝福の言葉を言います。「キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあなたがたと共にある」と言いますが、これはこの3つの言葉と同じことを言っているのです。「キリストの内にある励まし」は「キリストの恵み」です。「愛の慰め」は「神の愛」、そして「霊による交わり」はそのまま同じです。礼拝の中で祝福として「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」というものが与えられる、そこから、あなたたちの中に「慈しみや憐れみ」というものが幾分かでも芽生えてきているとするならば…と言っているのが1節の言葉なのです。
私たちは毎週、礼拝を献げ、祝福をいただいて教会を後にします。その時、私たちの中に幾分かでも育ってくるものがあるのだということを、パウロはフィリピの教会に伝えています。「礼拝に集っているあなた方、もっと言えば礼拝から送り出されているあなた方は、キリストの励ましと、神からの愛の慰めと聖霊の交わりをいただいている。そしてそこから慈しみや憐れみが生まれてくるようにされているのだよ」と語ります。
しかしそうは言われても、私たちが毎週そのように感じられるかというと、そうとは限りません。せっかく教会に出かけたけれど、今日は何も得るものがなかった、説教も讃美歌も祈りも自分にとってはよそよそしいものでしかなかった、そういう寂しい思いで教会を後にする方もいらっしゃるかも知れません。それは大変辛いことでしょう。毎週そのようであったなら、続けて礼拝に出席するのは困難かもしれません。私たちは、礼拝の度ごとに「今日の説教をよく理解できた」とは言えないかもしれません。
けれども、礼拝を献げて神から恵みをいただく生活の中には、確かに新しいものが芽生えてくるのだろうと思います。どこから芽生えるのか。それは、主イエスの恵みと神の愛と聖霊の交わりによって、私たちの日常の中に、私たちの中に生まれてくるものなのです。そしてそれは、牢屋の中にいるパウロが日々感じていることと同じことなのだと、パウロは伝えています。狭い独房の中で、パウロはなおそこに神の慈しみと憐れみが満ちていることを感じ取っています。「神の慈しみと憐れみに囲まれるように日々を過ごしている。その点でわたしはあなた方と同じである」と言っています。
パウロは大した人だと思いますが、しかし一方で、この言葉は私たちをつまずかせる言葉でもあるかもしれないと思います。1節の言葉は2節「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と続きます。パウロは「同じ思いになって共に喜び合おう」と言っていますが、どうでしょうか。果たして、私たちにそんなことができるでしょうか。
先週も触れましたが、1世紀の牢屋の状況は今日とは違っていて、命の保証のない場所です。長く居れば体調を崩し死に至ってしまう、そういう過酷な状況です。そういう暮らしを送っているパウロが、その状況下で「神の恵みを感じ取っている」と言っているとしても、しかし率直なところ、パウロのその感性に、私たちは付いていけないのではないでしょうか。もし自分がパウロと同じ状況下であれば、どう考えるでしょうか。パウロのように語ることができるでしょうか。しかもパウロは、信仰ゆえに投獄されているのです。パウロは立派な信仰者だからできるだろうけれど、わたしには到底できないと感じる方がいらっしゃっても無理もないかと思います。
私たちは教会で礼拝を献げ、祈り、御言葉を聞き、神を讃美して、何がしかのものを頂いて各々の場所へ帰って行きます。それは自分にとって有益だからだと思っていますが、しかしもし、この礼拝生活がそのまま牢獄へと続く道だと言われたら、果たして私たちはこの生活を送っていられるでしょうか。想像してみて、とても自分には耐えられないのではないかと思います。パウロの信仰はまったく立派という他ありません。けれども、そのパウロに「今わたしは、あなた方と同じ喜びを喜んでいる。あなた方の闘いとわたしの闘いは同じなのだ」と言われてしまうと、私たちはどこかで臆病になってしまうのではないでしょうか。パウロが「同じだ」と言ってくれたとしても、「それは、かいかぶりです。あなたのようには感じられません」と言ってしまうのではないでしょうか。私たちの信仰は本当に臆病でいくじのないものでもあります。
けれども考えてみたいのです。信仰のゆえに捕らえられることがあるかどうかは別として、また、信仰を持つ者であれ持たない者であれ、私たちの人生には、「明日をも知れない状況に陥ることは必ずある」のではないでしょうか。一生を生きれば、私たちは必ず最後にはこの地上を去らなければなりません。私たちが生きているということは、間違いなく、肉体の死の時を迎えるということです。その時には、それは私たちが逃げ出すことのできない現実として迫ってくるのではないでしょうか。そういう視点で考えてみますと、高齢になって死を目前にするということ以前にも、私たちは人生の様々な機会に、思うようにならない、目に見えない牢獄に捕らわれてしまっているような思いになってしまうことがあるのではないでしょうか。
例えば、自分の死ということではなく、愛する者を見送らなくてはならない、そういうこともあります。その時には、私たちは本当に無力であって手も足も出ないという思いを経験するに違いないのです。またあるいは、身近な者に自分の愛を伝えたいと思い、そのために声をかけてみるのですが、分かってもらえないということもあります。そういう時にも私たちは、自分の言葉の射程の短さ、つまり相手に届く前に言葉が墜落してしまうというような経験をするのではないでしょうか。人生とは決して、自分の思い描く通りの、望んだ通りの場所ではないということを、私たちはしみじみと人生の歩みの中で考えさせられます。そして、ため息をつかざるを得ないような経験をするのです。そしてそういう時には、私たちは牢屋に捕らえられているわけでも死に直面しているわけでもなくても、しかし、暗澹たる思いで日常を過ごしてしまう。自分は自由ではないということを思い知るのです。
しかし、そういう経験をする時に、もしパウロが牢屋の中で語っているように、「本当の慈しみ、本当の憐れみが、このわたしにもあるのだ」と私たち自身が経験し確信することができるとしたら、どんなにか私たちは救われた思いになるのではないでしょうか。まさに砂を噛むような虚しさを覚え、依り頼むものなど何もないと絶望しそうになるところで、それでもなお、そういう小さく弱いわたしに慈しみと憐れみが豊かに注がれていて、そして、今は何もできないと思っているかもしれないけれど、「そのままで生きていてよいのだよ」と言われるとすれば、それはどんなにか私たちを慰め、励ましてくれるのではないでしょうか。
そういう思いで、このパウロの言葉を聞くならば、パウロは決して立派な信仰者として上から目線で語っているのではないということに気付かされます。パウロは私たちと同じように、捕らえられて手も足も出ないような状況に置かれている無数の人間の中の一人です。この手紙を読み進めますと、パウロ自身が語っています。3章12節「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。牢屋の不自由な生活の中で、なおそこに神が慈しみと憐れみを備えてくださっている、パウロはそのことを「捕らえようと」しています。「わたしは既にそれを得て、もう安心しきっているわけではない。100%の信仰を得て満ち足りた気持ちでいるのではない。そうではなくて、わたしは今、それを何とかして捕らえようと努めている。なぜならば、わたしがキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言っています。
では、パウロはどのようにして、牢屋の不自由な生活の中でそれを捕らえようとしているのでしょうか。2章6節〜8節は「キリスト賛歌」と言われる箇所ですが、初代教会が礼拝で用いた讃美歌だと言われており、パウロはこの言葉を引用して書いています。パウロが牢屋から出した手紙に、教会で歌われる讃美歌を引用しているということは、別に言いますと、パウロは牢屋では一人ぼっちだっだはずですが、教会の礼拝の中に居るように、讃美歌を歌って神を賛美し、神の祝福の言葉を聞いて自らを支えていたということです。
パウロは牢屋の中で、讃美歌を歌って自分を励ましていました。私たちにも、それに近い経験があるのではないでしょうか。今日は讃美歌121番を讃美しましたが、礼拝前に、今日この曲を讃美することを喜んでいる方がおりました。「まぶねの中に…」というこの讃美に励まされる、あるいは辛い時には口ずさむという方もいらっしゃるかもしれません。312番「いつくしみ深き」などもそうでしょう。「世の友われらを捨て去るときも、祈りにこたえて労わりたまわん」という歌詞に慰められるという方も多いことでしょう。牢屋の中のパウロも同じなのです。牢屋の中で、パウロは讃美歌の歌詞をよく噛みしめながら歌い、「ここに神の慈しみと憐れみが満ちている」と感じています。もちろん、牢屋では何もかも不足しています。しかしそれでも、すべてが奪い取られているのではない。「主イエス・キリストは、決してわたしから奪い取ることのできないのだ」と確信して、慰められ励まされていたのです。
「キリスト賛歌」、それはどういう讃美歌だったのでしょうか。6節〜8節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」とは、大変有名な言葉ですが、原文を読みますと驚くことがあります。「キリストは」とは、書いてないのです。そうではなくて、「この方は」と書いてあります。原文を読んでから、これを読みますと、まるで手品の種明かしをされているように感じます。原文では「この方は、神の身分であった。けれども神と等しい者であることに固執しようとは思わなかった」と書いてあるのです。
「この方」とは、もちろん「キリスト」です。ですから新共同訳聖書では「キリストは」となっているのですが、しかし、「この方は」という表現と「キリストは」という表現では、私たちの受け取り方が変わってくるのではないかと思います。「キリストは神の身分であった」と言われれば、それは当然のことではないかと思うでしょう。そして、天の高みでキリストが神と肩を並べているというイメージを抱く方がいるかもしれません。しかし、パウロの歌った讃美歌は、そうではありませんでした。まさしく「この人を見よ」です。この方は神の身分でありながらそのことに固執せず「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と歌っています。この場合の「この方は」、決して天の高みにおられるようなお方ではありません。まさに「苦しんでいるわたしの傍にいてくださった。すぐ横にいてくださった。わたしはそのことに気づかなかったけれども、わたしと一緒に日々の生活を泣いたり笑ったりしてくださっていた『この方』こそが、実は、神と同じ身分の方だったのだ」、そういう讃美歌なのです。
神の身分であったお方が、牢屋に捕らえられたパウロのすぐ側にいてくださる。また、日々の生活に追いかけられ疲れている私たちの傍にもいてくださる。他者からなかなか認めてもらえず、重んじられない、そのために嘆いたり悩んだりせざるを得ない、そういう者の傍にも、この方はいてくださる。あるいは、親しい者が深刻な状況に陥っていて、はらはらしながら寄り添っている、そういう状況の人の傍にもいてくださる。もともと神と等しいお方なのですから、苦しんだり悲しんだりなどということとは無縁のはずです。にも拘らず、そのお方はわたしの傍にいてくださる。この方はそういうお方なのだ。それがこの讃美歌の内容なのです。
「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とありますが、「僕」とは「奴隷」のことです。「この方」は、奴隷にまでなってくださったというのです。しかも奴隷ですから、置かれた場所が嫌になったからと言ってそこから立ち去ることはできません。奴隷はずっと奴隷のまま、そこで生きていかなければなりません。8節には「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。その方は僕の姿となってくださり、それは死に至るまでそうであったというのです。その死もただの死ではなく、十字架の死であったのです。本当に驚くべきことですが、この方はそういう生活に自ら従順になってくださいました。
私たちは「従順」という言葉を聞きますと、少し柔らかく受け取るかもしれません。「従順」とは大人しいイメージの言葉ですから、主イエスが従順に歩まれたと聞きますと、僕の生活を苦もなく引き受けておられたかのように受け取るかも知れません。しかし、そうではありません。福音書の主イエスのお姿を見れば、よく分かると思います。主イエスは確かに、従順に十字架へと向かわれました。けれども、その十字架への道とはどのような道であったか。十字架に付けられる前、ゲッセマネの園で、主イエスは血の汗を滴らせるほどに祈られました。その祈りは、苦しくてもう嫌だという祈りなのではありません。そうではなく、父なる神の御心を成し遂げることができるように、苦しみつつも十字架へ進めますようにとの祈りです。そしてさらに、主は十字架上で7つの祈りをなさり、なお、自分を嘲る者の救いのために懸命に執り成してくださいました。主イエス・キリストの従順というのは、決して大人しい、静かなものではありません。安楽なものではないのです。むしろ自分の一生のすべてを神の御心に従っていくことのために、自分を鍛えて従わせているような激しさがあります。まさに、血みどろになって、人間の罪と格闘しながらご自身の側に引き受けて、そして乗り越えていこうとなさる主イエスがおられるのです。
たとえ十字架に掛けられて死に赴くことがあっても、いえ、陰府に下ってまでも、神を知らずに死んでしまった人たちを神の元に引き上げようとしてくださる、そういう主イエスの従順、主イエスが僕として神の御心に従順であったとは、そういう従順です。
使徒信条信仰告白の中で、私たちは、「(主イエスは)十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちより甦り、天にのぼり…」と一続きに読んでしまいますが、しかし、主イエスが天に昇っていかれるときには、ご自分一人で昇っていかれるのではありません。陰府にまで下ってくださり、陰府にあって神と無縁になってしまっている魂に神の救いを伝え、その魂の手を引くようにして昇られるのです。もちろんこれは、地上の領域の出来事ではありませんから、私たちが目で見ることではありませんが、しかし、主イエスが陰府にまで下ってくだったということは、主イエスが、神を知ることなく召された魂をもなお覚えていてくださる、そのような魂も神の元で生きるようにしてくださっているのだということを信じてよいのです。
そういう主イエス・キリストがおられる。そうであればこそ、牢獄に捕らわれて明日をも知れない命を生きているパウロにも喜びが満ちている。「この生活になお、神の憐れみがある。神の慈しみがこのわたしに注がれている」と、パウロがそう思うのは、この讃美歌に歌われた主イエスに励まされているからです。「主イエス・キリストは神の身分でありながら、わたしの傍にまで降りてきてくださった。わたしと共にこの生活を苦しみ、悩み、嘆きつつ、しかしわたしを神の元へと導いてくださる。わたしが生きているこの牢獄の中にも、十字架と復活の主イエス・キリストが来ておられる。わたしはそのことで喜んでいる。あなたがたが礼拝を終えて帰るときに手渡されている神の恵みとは、そういうものなのだ」と、パウロは語っています。
そして、そのようなキリストの活力に満ちた御業に支えられて、教会の中のキリスト者同士の交わりも形作られていくことになるのです。パウロはキリスト者同士の交わりについて、2節〜4節「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言っています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え…」とは、私たちにとって耳の痛い言葉だと思います。聞きようによっては、上辺だけの見せかけの謙虚さを助長しかねない言葉かもしれません。
何が何でも自分の判断が正しいと、私たちは思っています。隣人が自分よりも優れているなどとは、なかなか考えないのではないでしょうか。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と言われても、周りの人は皆、わたしと考えが違うのだから、そんなことは無理だと思う方もいらっしゃるでしょう。私たちがいつも交わりにおいて感じること、それは「皆さん、素晴らしいなあ」と思うかというと、そうではありません。「わたしだったら、そんなことはしないのに」と思いながら暮らしていると思います。それは、自分の判断が最も正しいと心の中で思っているからです。
では、そういう私たちがどうすれば、隣人が自分より優れていると思えるのでしょうか。それは、お互いの中に主イエス・キリストが住んでいてくださればこそ、可能になることです。主イエス・キリストが私たちの中に住んでいてくださる。そして、私たちの交わりの端々に主イエスが顔を覗かせてくださる。そうであるからこそ、私たちは主イエス・キリストを宿している者として、互いを尊敬することができるようになるのだろうと思います。
何が何でも自分が一番と思っている利己心を離れ、虚栄心を離れることです。結局最後には死ぬしかない私たちですから、どの一人も例外なく虚しい者でしかないにも拘らず、私たちは、どこかで自分はひとかどの者と思っています。そして、自分が死ぬなんて、なかなか考えられないのです。必ず死ぬ虚しい者でしかないのに、そのことが分からずに生きてしまう、それが虚しいものを誇ること、それが虚栄ということです。私たち人間は、利己的であり虚栄に生きる、元々そういう者でしかないのですが、そういう私たち一人ひとりのもとに主イエスが来てくださり、住んでくださる。そして私たちは、その主イエスに自分を明け渡すという闘いを日々に繰り返しながら、この地上の生活を歩んでいくのです。
キリスト者同士の交わりというのは、互いの奉仕の姿を見て「あの人は優れている、有能だ」と言って讃え合うことではありません。たとえ貧しく愚かでも、欠け多く、癖のある人でも、しかしその人の中に主イエス・キリストが居てくださることを知る。そういう時に、私たちも、こんなに貧しく小さなわたしだけれど、このわたしの中に主イエスは住んでくださり、確かに捕らえてくださる、そのことを信じて主に自分を明け渡し、主が共に生きてくださるわたしとして生きられるようにと祈りながら生きる。それが、キリスト者の生活なのです。
そして、教会の交わりとは、そのようなところに生まれてくるのです。私たちが互いに人間を見るのではなく、互いの中におられる主イエスを見て共に喜んで、励まされたり勇気づけられたりしながら、共に歩んでいくのです。
教会員の交わりとは、私たちがついよそ見をしているときに、「ほら、あそこに主イエスがいらっしゃるよ」と互いに指差しあいながら、「ああ、そうだった」と気付かされながら歩んでいく、そういうものです。そうだからこそ「兄弟姉妹は、あなたより優れた者だと思いなさい」と教えられているのです。
自分だけがキリストを独り占めしているのではありません。主イエス・キリストが私たちすべての中に来てくださる。この交わりの中にいて、主が共に歩んでくださる。ですから、誰が一番主イエスを宿しているかなどということではないのです。
パウロは牢屋の中にいますから、直接教会の兄弟姉妹に会いに行くことはできません。けれども、肉体は離れていても、パウロは教会の交わりの中に置かれているのです。牢屋の中にありながら、パウロは、フィリピの教会の人たちに覚えられ、祈られている。そして、その祈りの中心には、主イエス・キリストがいてくださるのです。教会のだれそれが覚えているということではありません。フィリピの教会の兄弟姉妹が皆、主イエス・キリストによって生かされている。その交わりの中心であるキリストが、わたしのために祈ってくださっている。そう思ってパウロが勇気づけられ慰められて、「ここにも神の慈しみと憐れみが注がれている。それはあなたがたの間にもあるものです。だからわたしと一緒に喜んでください」と言っているのです。
こういう日常とは、パウロだけのものではありません。ここにいる私たちも同じです。従順に十字架に向かって行かれた主イエスに導かれて、私たちも神への信頼を与えられて、そこから勇気も慰めも気力も与えられて、それぞれの生活を生きるようにされていくのだと思います。
私たちが、主イエス・キリストによって執り成され、赦された者として神に覚えられている、神が私たちをご自分の民として持ち運んでくださることを信じてよいのです。この目に見えている交わりだけではなく、先に神の身元に召された信仰の先輩たちも含めて、大きな教会の交わりの中に、私たちは置かれています。そしてその教会は皆、お一人の主イエス・キリストによって生かされていることを信じたいのです。
私たちはそういう信仰を与えられて、ここから新しい歩みに向かっていく者とされたいと願います。 |