ただいま、マタイによる福音書6章9節から12節をご一緒にお聞きしました。12節「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とあります。
今の時代に思うことがあります。私たちが生きているこの時代は、滅びに向かっているのではないだろうかと。残忍な事件が起こり、無責任な出来事があまりに相次いで起こり、国は戦争をするような方向に向かい、近隣諸国とは緊張関係にあります。豊かな人は一握りで、政府も経済は上向いていると吹聴しますが、多くの人はそのことを生活の中で感じることができません。殆どの人は、全体のために生きるというよりも、自分の富や生活を守ることで精一杯であり、そういう社会の中で、障害者や高齢者、居留民や難民たちは片隅に追いやられ、暮らせないくらい貧しくて死へと追いやられる人の数も年ごとに増えています。若い世代も先行きが見通せないために、次の世代をなかなか産み出せず、とうとう出生率が1.4人を下回ったというニュースも流れます。私たちが目にする社会の至る所に、滅びへの兆候が見られるように思うのです。
もちろん、そんな暗い徴にばかり目を向けるのではなく、もっと明るく楽しいことに目を向け、今日に希望を持つべきだと考える人もいます。けれども、そういうことは結局、譬えれば豪華客船タイタニック号が沈没してゆくその船上で、その事実を見ないようにするために楽団が陽気な音楽を奏でながら沈んでいった、そのことに似ているのではないでしょうか。今の時代は大変深刻だと思わざるを得ません。このまま同じ方向に進んでいけば、いよいよ奈落深くまで沈んでいってしまうのではないでしょうか。この世界はもう一度、根本的に変えられなければならないと思うのです。
何とかしなければならないと思っている人は、恐らく大勢いると思います。しかし、そう思ったとしても、どこをどう変えるかという点で一致することはなかなかできません。確かに、変えなければならない点についてその人なりによく考え弁えている人は大勢いるのですが、しかいそういう意見を全部集めてみますと、大変幅があり過ぎて、結局対立が生じてしまうということがあるように思います。変革のための新しい提案そのものが、却って新しい混乱を招いたりもするのです。
けれども、そうなることには恐らく理由があると思います。その理由は、今の社会が抜本的に変わらなければならない時期を迎えているからだろうと思います。もちろん、社会の中の、問題のある部分だけを改善するということにも意味はあります。これまでは、そのような部分的な手直しで進んできていますが、そういうやり方が常に通用するわけではないでしょう。譬えて言うならば、靴下に継ぎ当てするようなものだと思います。親指や踵の継ぎ当てを繰り返して、何回かは履けるようになりますが、しかし、遂には布が古びて継を当てられなくなります。そうなれば、新しい物を買うよりありません。そういう事象は衣類にだけ当てはまるのではなくて、この社会の事柄や人間関係においても言えるのではないかと思うのです。
人間社会のほころびをどんなに繕ってみても、主イエスがおっしゃったように、新しい布で古い皮袋に継ぎを当てると、新しい布も皮袋も駄目になって、中に入っているぶどう酒が流れ出すということが起こってしまうと思います。そして、そういう時には何もかも新しくしなければならないのです。まさに、私たちの生きているこの社会もそうではないでしょうか。部分的に手直しをすれば皆が明るく元気に進んでいけるというわけではなく、頭からつま先まで、すっかり新しくならなければ進んでいけない、そういうところがあるように思います。
しかし、そういうことを考えているのは、私たち人間だけではありません。私たち以外に、今の時代の深刻さを見ているお一人の方がいらっしゃいます。このお方は私たちの世界をご覧になって、しかも、私たちが気づく前から私たちの有様に心を配り、この世が滅びに向かっていることをご存知です。父なる神こそ、そのお方です。神は、一体どこに問題が潜んでいるのかをはっきりとご存知で、そのことを私たちに指摘してくださいます。
どこに問題があるのか。それは、私たち人間が「神の前に負い目を持つ者になっている」ということです。そこを変えなければならないとおっしゃるのです。私たちが、神抜きで生活することに当たり前になっている、そこに人間の神に対する負い目があるのです。なぜでしょうか。私たち人間は、神によって命を与えられている存在だからです。
考えてみてください。私たちは誰も、自分で生まれようと思って生まれてくるのではありません。気が付いたら生まれ出て生きているのです。いや、そうではない。両親がわたしを生んでくれたのだと思う人もいるかもしれませんが、しかしその両親とて、今あるわたしがこのような姿形で生きると決めて生んだ筈はありません。今あるわたし自身は、人が決めてそうなるということではない。神が命を与え、この世に送り出してくださったわたし自身なのです。そうであれば、私たちの全生涯はすべて、神の恵みのもとに置かれているはずです。私たちは生きている限り、そのことを覚え感謝して生きる、それが筋なのです。
ところが、神への感謝を忘れ、神はどこにもおられないかのように、自分で生きようとする、あるいは自分で生きているように思ってしまう、そこに人間の神に対する負い目があるのです。ここに自分が生きているのは当たり前のように思っている。真の造り主から離れてしまってまっている。そこに負い目がある。そして、それゆえに私たちは、決して平安ではいられないのです。
今日のこのわたしの生活を神が与えてくださっている、神がこのわたしのことをご存知でいてくださる、このことを常に覚えることができているとすれば、私たちは、与えられている人生の中で安らかでいることができるはずです。確かに、自分の思うような人生ではないかもしれません。しかし、神がこのわたしのことをご存知でいてくださり、持ち運んでいてくださる。ここにわたしを生かしてくださっている。このことを覚えて感謝して生きていられるならば、私たちは、人生を本当に平安に生きることができると思います。
ところがそう思わないで、自分の人生を自己実現のためのステージのように思ってしまう。しかしそこで大変不安になってしまう。なぜか。人は神ではないからです。自分の思いや願いを実現しようと思っても、私たちにはその力はありません。何でも思い通りにできるのであれば、私たちは神のように生きてしまうでしょうけれど、そうはできないのですから、私たちは不安になり、恐れを抱いたり苛立ったりするのです。私たちは、造り主である神から離れてしまう、そういう負い目を負うがゆえに、破れが生じるのです。
神は、この世の悪をご覧になっています。そして、そのような負い目を私たちに指摘するだけではなく、どのようにしてその悪が清算されるのかを教えてくださっています。神への負い目がきちんと清算され赦される。赦された上で新しい生活が始まることにこそ、ほころびの解決があるとおっしゃる。この世のさまざまなほころびや破れ、私たちの社会の問題は、「神によって負い目が赦される、そこでこそ解決に向かう」と教えられています。神の赦しさえあれば、この世の問題は何もかも一切が片付くと言わんばかりです。けれども、よく考えてみますと、聖書はそういうことを語っていると思います。
聖書が私たちになぜあれほどまでに救い主イエス・キリストを伝え、神に立ち帰るべきことを教えているのか。それは、それによって全てが解決されていくからです。「キリストがあなたのために十字架におかかりになり、あなたの罪は、あの十字架上で既に清算されている。そのことを信じて、十字架を見上げて生きていきなさい」と、新約聖書のどこを開いても、結局はこのことを語っています。それ以外に、私たちが生きる上でのヒントが書かれているのではありません。「主イエスが十字架上で、私たちの罪、すべての人の罪を清算してくださっているのだから、あなたはそのことを信じて生きて良いのだ」という招きが、新約聖書の全てのページに語られています。
ところが、それに対して私たち人間は、大いに反発してしまいます。冗談じゃない、この世の問題はそんなに単純なことではない。負い目が赦されたからといって、この世の問題が一挙に片付くなどということがあるはずはないと思って、他の解決策を探そうとしたりするのです。
しかし、主イエス・キリストの十字架の赦しこそが唯一の解決策なのだという、そういう聖書の言い方は、果たしてそれほど単純なことなのでしょうか。主の十字架によってすべての罪が赦され問題が解決される、私たちキリスト者にとっては当たり前のことだと思うかもしれませんが、しかし実は「赦しこそがすべての問題の解決の始まりだ」という考え方は、人類の歴史の中では、16世紀になって見出された非常に大きな発見でした。教会の歴史において、赦しこそが一番大きなことであると、初めから理解されていたわけではありません。
16世紀はいろいろな発見や発明のあった時代でした。アメリカ大陸の発見、火薬の発明、地球は丸いというガリレオの発見、印刷術の発展とそれに伴ってコミュニケーションの取り方が変化したのもこの時代です。そのように、16世紀は世の中が様変わりした時代ですが、その時代に、ごく少数の聖書の御言葉に真剣に耳を傾ける人たちによって静かな発見があったのです。人間の問題は、科学技術の発展のように目に見える華々しい出来事によって解決されるのではない。そうではなく、「人間の背負う負い目が正しく赦されることによって初めて解決される」、宗教改革者と呼ばれる人たちによるこの静かな発見によって、聖書から聞き取られた新しい認識が世の中に広まっていきました。
16世紀当時、人々は世の中が豊かになったと思っていました。しかし、すべてが手中にあり、これから先に広がっていくものはないと思うところで無気力になっていきました。そこで、宗教改革者たちによって教会に知らされた新しい認識は、それを信じた人たちに慰めと力を与え、そしてそこから、次の時代が拓かれていきました。「赦しこそがすべての解決の始まりである」という新しい認識に照らされて、再び希望が与えられ、新しい生活感情が芽生えていったのです。
主の祈りの中のこの言葉、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」、これは一番当たり前のことのようであって、読み飛ばされがちな言葉だと言われています。確かに私たちは、この赦しの祈りを、さっと流して唱えてしまうところがあります。しかし、この言葉こそが、世界の歴史に新しい時代を切り拓いた言葉でした。「わたしたちの負い目を赦してください」、「負い目を赦された者として生きる者としてください」というこの祈りが、その後の世界の人々に希望を与える言葉になっています。ですから、この言葉について注意深く聞きたいのです。
実は、私たちの唱える主の祈りの中でも、また新共同訳聖書でも、ある小さな言葉が省略されています。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という言葉は、その前の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という言葉と、ギリシャ語では「カイ」、英語では「アンド」で繋がっています。この二つの祈りは「そして」という言葉で繋がってセットになっているのです。これはどういうことを意味しているのか、さまざまな解釈が可能ですが、この二つの祈りが固く結びつけられていることで、私たちの肉体には肉の糧が必要であるけれども、それだけではなく、「本当に人が生きた者となるためには赦しが必要なのだ」と言うことができると思います。
私たちは、食べ物が無ければ生きられない、そんなことは当たり前のことだと思っています。肉体のことはよく分かるのです。けれども、魂の方はどうでしょうか。実は、魂にも赦しが無ければ、私たちは死んでしまうのです。空腹になればお腹が鳴って教えてくれますが、魂は枯渇しても音を出しません。しかし、魂が呻くということはあるのではないでしょうか。私たちは、その魂の呻きを聞き逃してはならないのだと思います。
もしかすると、私たちは今の時代に、食べ物だけ当てがっておけばそれでよいと思う中で生活しているのかもしれません。魂の呻きなどということは誰もが経験することだし我慢すればよいと、どこかで思っているかもしれません。しかし、人が本当に生きるためには、魂の呻きを聞き逃してはなりません。主イエスは、「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのだ」と教えてくださっています。そして、神の口から出る御言葉の最も根源的な、大切な言葉こそが「赦し」なのです。「あなたの罪は、わたしが、イエス・キリストによって十字架の上で清算し、赦す」と、神は言われるのです。
ところで、このように食べ物を求める祈りと負い目を赦される祈りがセットであることを知らされますと、改めて思うことがあります。これは順序が逆ではないだろうか。肉体を養うことも大事ですが、負い目を赦されることは神との関係ですから、神に向かう祈りということを考えれば、順序が逆ではないかと考えても不思議ではありません。確かに歴史上にも、そう考える人がいたようです。
けれども、神にはお考えがあって、この順序になっています。神は大変太っ腹でいらっしゃいます。「まず、わたしとの関係を求めよ。そうすれば食べ物を与える」、そんなことはおっしゃいません。主イエスが言っておられるように、天の父は悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるお方です。私たちは神との関係が回復し、赦されてから、食べ物にありつくというのではないのです。神は私たちの肉体にパンが必要であることをご存知で、与えてくださるのです。
しかし、だからと言って、私たちは誤解してはなりません。食べ物が与えられることが第一なのではない。負い目が赦されるのは二の次だと思ってはなりません。考えてみてください。私たちは、食べ物だけが与えられれば本当に幸せになるのでしょうか。先週聞きましたように、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、いわゆる食物だけを求める祈りなのではなく、生きて行く上で必要なものすべてが、そこに含まれています。物質的に豊かに与えられたとして、私たちはそれさえあれば、本当に幸せでしょうか。そう思うとすれば、怠け者の楽園ということになるでしょう。
私たちは豊かに物が与えられていても、働きの場が無ければ寂しいことだろうと思います。せっかく、肉体と精神と言葉が与えられ、いろいろな事をする力が与えられているのに、もう十分に備えられているから何もする必要がないと言われてしまえば、私たちは何のために生きているのか分からなくなってしまいます。
自分の負い目を赦していただき、赦された者として生きようとすることをしないで、食べ物や必要を満たされてだけ生きようとする、それは所詮、幻想だと思います。私たちが本当に生きるためには、ただ必要とする物を与えられて生きるということではなくて、自分の魂、在り方を健康に保ち、そして私たちが「自分から生きていく」という姿勢が必要なのだと思います。
ですからここで、主イエスは「わたしたちの負い目を赦してください」、そして続けて「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と教えておられます。このわたしが真実に、負い目を赦された者として生きていけますように、このわたしが隣人に赦しを持ち運ぶ器となれますように、「どうか、このわたしをあなたの赦しのもとに置いてください。隣人に赦しを持ち運ぶ器としてください」と祈るのだと教えてくださっているのです。ただ「負い目を赦してください」、そういうことではありません。
最後にもう一つだけ、考えて終わりたいと思います。私たちにとって負い目を赦されるということが、ただ受け身の事柄ではないのだということです。私たち自身もまた、隣人の負債を赦す、そういう生活を生きるのです。そのことをよくよく考えますと、これは大変幸いなことです。私たち自身が守られる、そういうところがあると思います。
どうしてでしょうか。私たちは、隣人を赦そうとする、その時にこそ、実は自分が赦されていることの値の高さを知ることができるからです。神のなさった赦しの業に与っている、主の十字架の業を知らされている、しかしそのことにだけ止まっているならば、そこでは、赦しに伴う痛みとか難しさということを、私たちは何も知らないで終わってしまいます。ただ「赦されたことになっている」という、言葉だけのことになってしまうのです。そして、そうすると私たちは、ただ赦されているということが当たり前のことのようになってしまって、「主イエス・キリストの十字架による神の赦し」というところから離れていってしまいます。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。「このわたしも隣人の負い目を赦します」という祈りは、実は、このことを通して「私たちがどんなに大きな赦しのもとに置かれているのかということを知らされていく」ことです。
もちろん私たちは、主イエス・キリストのようになれるわけではありません。私たちが隣人に持ち運べる赦しは完全なものとは言えませんが、それでもしかし、生活の中で「隣人を赦す」ということに真剣に取り組むときに、「赦し」とはどんなに大変なことなのか、難しいことなのかを思わされます。そして、そのことを思えばこそ、自分が本当に主イエス・キリストの十字架の贖いによって赦されているということの大きさが分かるようになるのです。どんなに大きな慈しみをもって、神が私たちを顧みてくださっているのか。そして、そのことを知ることこそが、私たちが本当に負い目を赦された者としてこの世界で生きていくことの始まりになるのです。
確かに、負い目が赦されるということによって、この社会に目に見えて何かが解決するのかと言えば、すべての人が天使になるわけではなく、問題は残るでしょう。しかしその中で、私たちが赦された者としての生活を始める、そこにこそ新しい始まりがあることを覚えたいのです。
私たちは、今日、それぞれに与えられている生活の中で、この世界を新しくしていく糸口に立っています。私たちが、この世界を本当に清らかに、もう一度生き生きとしたものに建て直していく、そういう糸口に立っていて、そして、私たちが負い目を赦された者として生きていくことを通して、少しずつでもこの世界が新しくされていく、そのことを信じたいと思います。
そういう幸いな生活を歩めるように、負い目を赦されて生きる者となることができますように、日毎に祈りを捧げながら歩む者とされたいと願います。 |