聖書のみことば
2015年12月
12月6日 12月13日 12月18日 12月20日 12月24日 12月27日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月18日金曜礼拝音声

 待降節に寄せて
12月の金曜礼拝 2015年12月18日 
 
宍戸俊介牧師 
聖書/ルカによる福音書 第1章26〜38節

1章<26節>六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。<27節>ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。<28節>天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」<29節>マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。<30節>すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。<31節>あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。<32節>その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。<33節>彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」<34節>マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」<35節>天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。<36節>あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。<37節>神にできないことは何一つない。」<38節>マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 ただ今、ルカによる福音書1章26節から38節までをご一緒にお聞きしました。26節27節に「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった」とあります。
 マリアはユダのおとめで、ひなびたガリラヤの町ナザレで生活しています。彼女にはヨセフという名の婚約者がいました。ですから、他の人々が普通そうであるように、マリアもまた、将来に愛と幸せを期待しながら日を過ごしていました。ところが、そんな若いおとめの生活の中に、神がまことに不思議な仕方で関わってこられます。神の介入は、天使ガブリエルがマリアを訪れる、という形で生じます。この天使がどういう姿で登場したのかは分かりませんが、おそらく他の人たちからはそれと気づかないほどの慎ましい姿だったのではないでしょうか。天使の訪れなどと言われてしまいますと、私たちはつい、背中に大きな翼を持った、誰が見ても分かる天使の姿を思い浮かべがちです。しかし、実際には、神の言葉が私たちに語りかけられることは、そんなに仰々しい仕方で起きるとは限りません。他の人たちからは、旅人がマリアの家の戸口で何か話をしているくらいに見えていた可能性も充分考えられるのです。

 天使が何らかの知らせを携えてくる時、それはいつも神からの知らせです。おとめマリアに一つの知らせがもたらされます。天使を通じてです。ですからこれは、マリアの心の中にひとりでに芽生えた思いというのではありません。それは、夢や幻の類でもありません。そもそもこれは人から出たものではありません。天使が語り伝える事柄は、私たちとはかけ離れた、私たち人間には決して手の届かない、そういう不思議な神の世界に源があります。そして、これまで私たち人間が耳にしたことのないような事柄として、外から、私たち人間の世界の中にもたらされます。この知らせが天使を通して伝えられていることが、ここではまず注目されなくてはなりません。
 天使を通しての知らせは、神からの知らせです。そして、神からの知らせであるため、この知らせというのは、もう絶対的で、超越的で、一方的なものです。こういう知らせを受け止める準備が私たちの側にあるかどうかというようなことは、一切お構いなしです。
 神は、ご自身が決定なさった時に、その御心を私たちに打ち明けられます。予め、それに先立って私たち人間の側の都合を聞いたり、あるいは政治家がよくやるように十分に根回しをした上で、おもむろにご自身の提案を持ち出すようなやり方を、神はなさいません。神からの知らせは、無条件に、何の前触れもなく、私たち人間に告げられます。30節以下に記されている通りなのです。「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない』」。これこそ、神からの知らせというものです。天使は決しマリアに同意を求めたり、彼女の意向を尋ねたりはしません。そうではなくて「あなたは…になる。そして彼は…になる」と告げ知らせます。天使は、宣言し、命令し、約束します。神がこのようにお告げになる時、私たち人間の側はどうすることもできません。この場合のマリアのように、ただ心を開いて知らせを受け取り、これを信じるか、あるいは心を閉ざして知らせをはねつけるか、そのどちらかの道しかありません。

 マリアはここで、取り立てて自分からは何もしていません。ただそこに居て、天使の言葉に耳をそばだてています。マリアは特別に清らかな人物というのではありません。特別に優れた賜物を持っているというのでもありません。マリアは素朴でつましい女性の一人であり、私たちの中の一人、というだけのことです。また、神がマリアになさったこと、マリアを通してなさったことは、ただ神の憐れみのゆえとしか言いようがありません。このところで最も大切なのは、神がマリアを深く慈しみ、憐れんで、恵みの下に置いてくださっているということです。
 今日は38節までを読んでいただきましたが、この後42節のところでは、マリアの訪問を受けたエリサベトがマリアに向かって「あなたは女の中で祝福された方です」と呼びかけています。マリアもそれに答えて48節のところで彼女自身のことを「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語っています。それはひとえに、神がマリアを恵みの器に選んでくださったが故のことです。マリアが女の中で祝福された者であるのは、神の恵みのせいです。マリアという一人の女性を通して、神が彼女の上に御業を行われ、私たち人類の全体をご自身に結びつけてくださいます。マリアという一人の女性を通して、神は、ご自身から離れ罪に陥り、永遠の死に定められていた私たち人間を、ご自身の愛と慈しみの中に受け容れてくださるのです。

 この記事を聞いていて、マリアと天使ガブリエルがお互いに随分違った様子で向かい合っていることに気付けるのではないでしょうか。一方のマリアは、普段、私たちがごく普通に考え行動するような、実に素朴で単純な考えの持ち主としてひざまずいています。それに対して、もう一方には、神から全権を託された天使ガブリエルが、私たちの思いを遥かに超えた仕方で、また、私たちが他では決して耳にしたことのないような知らせを携えて、すっくと立っています。
 私たちの思いを超える天使の言葉は、次のような挨拶から始まります。28節「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる』」。今たった一人でいるマリアに「主があなたと共におられる」という言葉が語りかけられます。神がマリアに対して、溢れるばかりの恵みを持って臨んで下さると告げられます。全世界の主が、一人の人間に対して、このように告げてくださるのです。マリアは喜ぶよりも、却って、畏れを憶えます。29節「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。このマリアの反応は、いかにも人間らしい反応です。これはマリアが特別というのではなくて、私たちであっても、もしもこのマリアのような挨拶をいきなり聞かされてしまったなら、びっくり仰天して考え込んでしまうのではないでしょうか。マリアは本当に素朴に、いかにも人間らしい反応を見せているのです。思わず、心の中でつぶやいています。「いったいこの挨拶は何のことか」。すると、時を移さず、すぐに天使の声が響きます。「マリア、恐れることはない」。
 私たち人間と神ご自身の間に「恐れ」がある限り、まだその間柄は充分ではありません。恐れや不安のあるところでは、まだ疑いや不信感が残っています。「恐れることはない」というのは、今から告げ知らされる訪れの言葉によって、そういう不安や恐れが取り除かれるのだということを言っています。「あなたは神から恵みをいただいた」のだと、まず伝えられます。
 そして更に続けられます。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。このような知らせを聞かされて、マリアは息もつけない程になります。ガリラヤの一人のおとめに過ぎないマリアにとって、とても担いきれそうにない大いなる知らせが次々と告げられるからです。今やマリアは恐れるどころではなく、呆然となってしまいます。マリアはただ呻くように、また天使の言葉をさえぎるように、34節の言葉を語るのが精一杯です。「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』」。これはまさしく自然のままの人間のつぶやきであり、問いかけです。この時以来、無数の人々が、天使の語る約束の言葉に対して同じような問いを投げかけてきました。今日でもそうです。インターネットで世界中の情報が繋がって、瞬時に様々な疑問に対する答えが提供されるような時代にあっても、マリアが呟いた「どうしてそのようなことが」という問いへの答えは出てきません。この答えは、この世の中にはないからです。天使の伝える神の約束に対して、その世の知恵は、そのようなことは信じられない、そんなことはあり得ようはずがないと言うだけです。ですが、そのようなことであれば、何も現代人だけがそう言っているということではないのです。すでに2000年昔、最初に神の約束が告げ知らされた時に、その場に居あわせたマリアの口から「どうしてそのようなことが」という言葉が出ていたのです。
 神の恵みによって新しいことが行われ、成り立ってゆくのだということが悟られるところでは、いつも人間の側に戸惑いが走ります。まず、アブラハムの妻サラがそうでした。子供が与えられ、星の数ほどにもなると聞かされた時、サラはそれを笑い飛ばしたのです。あるいは、エリサベトの夫ザカリアがそうでした。妻エリサベトの内にヨハネが身ごもっていると聞かされた時、そのようなことはあるはずがないと言って信じなかったため、実際にヨハネが生まれてきて、ヨハネと名付けられるまでの間、彼の口は閉ざされてしまったのでした。そして、マリアもそうなのです。「どうしてそのようなことが」、この問いは、おおよそ人間であれば誰もが口にする問いです。私たち人間の理性的判断からするなら、こう問わずにはいられないのです。

 けれども、神の側からご覧になる時、私たち人間の理性的判断と称するものは、どれ程のものなのでしょうか。人間の理性の枠の中でしか物事を考えない、そういう態度を私たちは反省すべきではないでしょうか。
 人間の理性について、聖書はどのように教えているのでしょうか。コリントの信徒への手紙一2章14節には「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです」とあります。この手紙を書いたのは、主イエス・キリストを宣べ伝えるために世界中を旅したパウロですが、そのパウロが伝道者として神の御言(みことば)やその御業について語って聞かせた時に、これを聞いた人たちの中に、パウロの話を愚かなこと、あり得ないこととして片付ける人々が大勢いたことを、この言葉は表しています。しかしそれは、主イエスの名を初めて聞いた人たちだけに限ったことではありません。主イエスが十字架に架けられ処刑された時に、弟子たちは不安と絶望のあまり、エルサレムにあった一軒の家の中に閉じこもりました。そこに、婦人の弟子たちによって主イエスが復活されたという知らせがもたらされた時、弟子たちがその知らせをどのように聞いたかということが、ルカによる福音書24章11節に出てきます。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。ここで「たわ言」と訳されている言葉は、聖書の中でここにしか出てこない珍しい言葉なのですが、聖書以外の文書でこの言葉がどのように使われているかを調べてみると、病人のうわ言とか荒唐無稽な作り話と訳されます。人間の理性でしか物事を受け取ろうとしない人は、決して聖霊の働きを認めようとしません。従って、神のなさりようがわかりません。
 先ほどコリントの信徒への手紙一2章14節の言葉を聞きましたが、その直前の2章11節には、こうも教えられています。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」。そして、これに続けて12節では「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」。聖書の中に、このように教えられていることを、私たちはよくよく考えたいのです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」、「自然の人」、つまり人間の理性にあまりに捕らわれていて、その尺度でしか物事を受け付けないような人には、神のなさる御業がどうしても分からない、そう聖書は語っているのです。まさしくその通りです。
 私たちも自然のままの人としては、男性を知らないマリアから主イエス・キリストがお生まれになったということは、どうしても理解に苦しむのです。そのために、このことは一旦棚上げにしてしまって考えないようにしようとしがちになります。しかしもちろん、聖書の伝えようとしている事柄からすると、この事実を避けて通る訳にはいきません。避けて通れないのですが、それにも拘らず、おとめマリアからの誕生につまずきを覚える人は少なくありません。こういう場合に、私たちはどうしたらよいのでしょうか。考えてもわからないことは仕方がないと言って、切り捨ててしまってはなりません。

 このように、おとめマリアの身ごもりについて、私たちの理解が行き止まりに突き当たってしまう時には、まず先に、このマリアから生まれてくる方がどのような方であると言われているのか、そのことを聖書から聞かされることが大切です。この方について、ルカによる福音書1章32節以下には、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と述べられています。このところでは、非常に厳かな宣言がされているのですが、特に32節の後半から33節にかけて述べられている言葉に注意を向けて聞いてみたいのです。「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。ここの箇所は、旧約聖書のイザヤ書9章に語られている預言の言が下敷きになって語られています。マリアの胎に宿る男の子は、あのイザヤの預言の成就として生まれてくるのです。イザヤ書9章5節6節には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と述べられています。
 ここに述べられているのは、新しい世界が現れるということです。世界が万軍の主の熱意によって新しくされるのです。「ひとりのみどりご」の誕生によってです。この男の子によって、世界が新しくされます。この子を通して、イスラエルのすべての人の上に、神の恵みが臨みます。部下の妻であった女性に邪な恋心を抱き、その部下を最前線に送って死なせ、その妻を奪ったダビデ王の上にも、この嬰児(みどりご)を通して神の憐れみが臨みます。そして、その憐れみと慈しみの支配は、万代に及んでいくのです。
 イザヤ書9章は、そういう預言です。そして今、そういう預言を成就するために、実際にひとりのみどりごが誕生しようとしています。飼い葉桶の中の嬰児イエス・キリストという方を通して、神は、罪ある者の罪をきよめ、赦して、新しい生活の中に迎え入れてくださいます。この嬰児を通して、これまでの完全に堕落し腐りきって滅びに向かっていたこの世界とそこに生きる人々の生活が神の御前に取り上げられ、回復されていくのです。

 そういう大きな奇跡を、神はここに誕生する男の子を通して引き起こされます。そういう大きな奇跡をもたらす方がおいでになることを告げ知らせる小さな奇跡が、おとめマリアからの誕生なのです。
 ですから、これはささやかな兆しでしかありません。あらゆる奇跡の中の奇跡、最も大いなる奇跡がクリスマスの誕生の出来事を境に、実際にこの地上に始められます。それは、飼い葉桶の中に始まり、十字架上に成し遂げられ、そして復活を通して世の人々の前に明らかにされ、代々の教会の民によって信じられ広がっていくのです。

 そのクリスマスの時に向かって、私たちは思いを潜めてこの時を過ごし、各々に与えられている日々の働きを通して、この嬰児に仕えて生きる姿勢をもう一度、確かなものされていきたいのです。

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