聖書のみことば
2015年10月
  10月4日 10月11日 10月18日 10月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月18日主日礼拝音声

 項を固くしない
10月第3主日礼拝 2015年10月18日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第19章10〜15節、ローマの信徒への手紙 第10章17節

エレミヤ書19章
<10節>あなたは、共に行く人々の見ているところで、その壺を砕き、<11節>彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。<12節>わたしはこのようにこのところとその住民とに対して行う、と主は言われる。そしてこの都をトフェトのようにする。<13節>エルサレムの家々、ユダの王たちの家々は、トフェトのように汚れたものとなる。これらの家はすべて、屋上で人々が天の万象に香をたき、他の神々にぶどう酒の献げ物をささげた家だ。」<14節>エレミヤは、主が預言させるために遣わされたトフェトから帰って来て、主の神殿の庭に立ち、民のすべてに向かって言った。<15節>「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」

ローマの信徒への手紙10章
<17節>実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 エレミヤ書19章11節に、「彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く」とありました。その理由が15節に記されています。そこには次のように書かれています。「…彼らはうなじ(項)を固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ」と。つまり、この民ユダと神殿エルサレムは、粉々になる、それは神の言葉に聞かなかったからだというのがメッセージです。

 高校生のころ、教会の牧師が預言者のことをこんな風に言っておられました。聖書では、預言者は、将来起こるだろうことを予言することとは違う。聖書の預言は、神様から預かっている、神の言葉を語る者を預言者というと言われました。神の言葉を聞いて、それを王や民衆に向かって語る使命を与えられた者が預言者なのです。
 ですからエレミヤ書でも、「主は、こういわれる」とか「主の言葉に聞け」、または「万軍の主はこういわれる」と前置きして語っていることがみられます。
 今朝与えられた言葉も同じです。エレミヤ自身の言葉ではなく、あくまでも神様からお預かりした言葉を語っています。

 この箇所は非常に興味深いメッセージです。と申しますのは、ここに出ている「壺を砕く」ということで、エレミヤは神が、ユダ、イスラエルの滅びを伝えているのです。しかも、この場面は当時のゴミ捨て場(トフェト)でなされていることも注目すべきところです。私どもは、この数年、あの東日本大震災から多量のがれき(瓦礫)、ごみの山を散々見ているからです。つい1か月前にも、北関東で大雨によって堤防が倒壊し、堤防が切れて多量の水が市街地に流れ、多くの家で床上浸水が起こり、多量のゴミが出て、その映像をテレビで見ました。ゴミ問題はその他にも原発の多量のゴミ、しかも20万年もかからないと、この地球上からなくならない言われる厄介なものです。また、たくさんのロケットが打ち上げられて、宇宙にはごみ(デプリ、数十万個)がたくさんあるのだということが、つい最近の新聞に載っていました。甲府市内の教会、(教団ではありません)の週報を見る機会がありましたが、その中に「生ごみ~担当牧師」とありましたが、何のことが不明のままです。 

 エレミヤの時代は、今から2,500年ぐらい前のことですから、ごみはそれほど多くなかったのですが、それでもごみは出ます。特に、陶器の破片、生活による廃棄物は出るわけです。この場所も、糞(フン)の捨て場とも呼ばれる所でした。そのような所で、エレミヤは、神様から葡萄酒を入れる壺を砕くことを命じられたのです。これは、目に見える仕方で神の言葉(預言)を伝えているわけです。言葉よりも、さらにインパクトがある預言です。実際に、汚い、臭い場所に、貴重な葡萄酒が入った壺を砕いて見せたのです。
 「砕く(シャーバル)」という言葉は、エレミヤ書に特別多く見られます。51回(聖書全体では451回)出ているのですから、いかにエレミヤが「砕く」という言葉に強い思いを抱いていたかが分かります。
 それに、「悔いる(ダーカー)」も砕くという意味を持っていると言われていますので、さらに意味深い感じがします。 エレミヤは、さらに15節で、「彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ」と記しています。「うなじを固く(頑なで、意地っ張りなこと、人の言うことや情勢の変化などを無視すること、頑固で強情)」、これは何を言おうとしているか。結論的に言えば、神の言葉を聞かない、神の言葉を拒絶するということです。それは「うなじを固くする」ということだとエレミヤは言うのです。うなじ(首筋、襟首)というのは、あまり耳にしないかもしれません。急に古文が出てきたように感じます。新聞で、夏目漱石が、使っているのを最近見ました。

 神の言葉を聞かないという生き方は、 先ず第一に、自律的な姿勢です。自分の立てた規範、規律に従って行動することです。それは聞くこと、つまり神に顔を向けず、神に聞こうとしないことになってしまわないでしょうか。
 第二は、神を神としないこと、それは聞かないということの典型的な姿と言って良いでしょう。これは、エレミヤが指摘しているように、ヨシヤによる宗教改革で、排除された天体を崇拝する異教の神を礼拝すること、「屋上で人々が天の万象に香をたき、他の神々にぶどう酒の献げ物をささげた家だ」(13節)など、神との契約を破り、神の言葉を聞かない状態があったことを指摘しています。
 第三は、自分の判断が絶対だと、自分の思い通りにする、自己絶対化することです。これは神の言葉に聞こうとしない最たるものだといっていいでしょう。

 そのような「うなじを固くする」ことと真逆の言葉は、「うなだれる」(項垂れる)ということになります。首を垂れることです。聖書では「悔い改める」という言葉になるでしょうか。もっともこのことを適切に表しているのは、詩編51編19節ではないでしょうか。そこを読みますと、「しかし、神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません」。口語訳では、このように訳されています。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」
 ということは、頭に上らず、傲慢にならず、どのような時にも神に聞くことを怠らないということに他なりません。

 しかし、今世の中は、聞くよりも自分から発信することに重きが置かれる傾向が強くなっているように思います。これ自体悪いことではないのですが。「自分が自分が」「私はこれをやりたい、これを実現させたい」ということで、聞くことがおろそかにされていないでしょうか。エレミヤより先に活躍した預言者にアモスという人は、「わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス書8章11節)と言っております。参考「主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである」(口語訳)

 このような現代であればこそ、御言葉に聞くことに集中することが求められているのではないでしょうか。
 礼拝することは、神の言葉を読み、聞くことに他なりません。それ以下でも、それ以上でもないのです。

 最後に、新約聖書のローマの信徒への手紙1章17節に聞きましょう。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とパウロは言い放っています。

 礼拝に招かれている幸いを覚えたいと思います。

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