聖書のみことば
2015年10月
  10月4日 10月11日 10月18日 10月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月11日主日礼拝音声

 パウロの希い
10月第2主日礼拝 2015年10月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第3章17〜21節

3章<17節>兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。<18節>何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。<19節>彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。<20節>しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。<21節>キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙3章17節から21節までを、ご一緒にお聞きしました。
 17節に「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」とあります。ここでパウロは、切なる希い(ねがい)を語っています。フィリピ教会の人たちが皆一緒になって、パウロを手本としパウロに倣う者となってほしいと言うのです。これは、随分思い切った言葉ではないでしょうか。使徒パウロは、言ってみれば、主イエス・キリストに従うキリスト者の典型として自分自身を指し示すのです。そしてまた、パウロを模範として歩んでいる兄弟姉妹たちにも目を向け、その人たちからも学んで欲しいと言っています。
 しかし、こういうパウロの言葉には、率直に言って反発を覚える方もおられるのではないでしょうか。今ここにいる私たちの誰一人として、自分のことをキリスト者の鑑、手本だとは考えていないだろうと思います。むしろ、私たちの主である主イエス・キリストの御業を聖書から聞かされる時、自分はとても主に従う弟子などとは言えない、そういう思いを抱くことが多いのではないでしょうか。そう感じるのは、恐らく正しいことだと思います。

 主イエスはかつて、自分のことを正しい信仰者だと思って自惚れていたファリサイ派の人たちに向かって、「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病んでいる人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」と言われました。こう言われた時、主イエスは、自分は立派に神に従えていると思っていて、兄弟姉妹の信仰生活を嘆かわしいと言って見下している人たちに向かって、「神の御前では、自分から正しく生活できている人など一人もいないのだ」と教えられました。一人の例外もなく、医者である主イエスによって病むところを癒していただくのでなければ、私たちは神の前に立ち得ないことを教えてくださったのです。
 この「病」とは、一度洗礼を受けてキリスト者になりさえすれば、すっかり完治して、完全に健康になれるというようなものなのでしょうか。主イエスがおっしゃった「病人」というのは、私たちが「どうしようもないほど自分中心に生きている」ということを指し示しています。神の御言葉を聞くよりも、自分の思いの方を先立たせてしまう。自分がどのように生活することが神に喜ばれることかを考えるより先に、何でも自分の思い通りになることを望んでしまう。そうして結局、神と関わりのない者となってしまう。いつの間にか神との間柄が途絶えて、しかもそのことに気づかず、それを何とも思わず、神から遠くに隔たってしまう。主は、人間はそういう病に冒されがちなのだということをご存知で、「医者が必要なのは病人だ」とおっしゃったのです。
 この病は、生きている人間なら誰もが罹り得る病です。特別に忘れっぽいとか自我が強いとか、自己中心的な人だけが罹るというのではありません。私たちはいつでも、気がつくと、神抜きで自分の思いだけで生活しているということに思い当たるのではないでしょうか。キリスト者とされている人であっても、ふとした弾みで神を忘れ、自分一人の歩みに彷徨い出してしまう、そういうことがあるのではないでしょうか。

 しかし、主イエスは違います。主イエスは、地上の御生涯の中で、大事な場面や試練の時だけではなくて、絶えず父なる神に祈りを捧げ、神の御心を尋ね求めて歩んでおられました。主は、「祈りによって神の御心を尋ね求め、神の御心に服従する生活」を指して、こういう生活こそがわたしの食べ物なのだとおっしゃったことがあります。ヨハネに福音書4章32節に「イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた」とあります。自分たちの知らない食べ物があると聞いて不思議がる弟子たちに対して、主イエスは、34節「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。
 神の御心を絶えず尋ね求め、神の御心に従う生活を一歩一歩歩み、その喜びを味わい、その喜びを力として更に人生の歩みを先に進めていく、そういう主イエスの姿があります。ですから、主イエスは、ヨハネによる福音書8章29節で「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」と言われました。

 主イエスのこういうあり方に照らして、私たちの信仰生活を考えますと、たとえ私たちが繰り返し御言葉を求め、神を思いながら生活することがあるとしても、とても主イエスの姿に並び立つことができるとは言えないと思います。天が地を超えて遥かに高いように、主イエスの歩みは、生身を引きずりながら地上を生きる私たちの信仰生活とは比べものにならないほど気高く尊いと認めざるを得ないと思います。私たちは、このようなことをいつもはっきりとは考えていないとしても、漠然と「主イエスの光に照らされている」ことを感じているのではないでしょうか。そして、主イエスの光に照らされていると感じますから、自分自身の信仰を振り返る時には、とてもまだまだだと思う、それは止むを得ないことです。そうであるだけに、誰かが自分を指差しながら「私こそ信仰者のお手本である。皆さん、わたしに倣う者になってほしい」、そんな言葉を聞きますと、胡散臭さを感じて反発を感じるでしょう。
 ところが今日の箇所では、他ならない使徒パウロが、「皆一緒に、わたしに倣う者になってほしい」と語っているのです。これは一体どうしたことでしょうか。パウロとは、よっぽど尊大な人物だったのでしょうか。いえ、そうではないのです。
 パウロが自分をどういうキリスト者だと考えていたか。これは、例えばパウロが書いた他の手紙からも分かります。コリントの信徒への手紙一15章9節に「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」とあります。また同じようなことを、エフェソの信徒への手紙3章8節では「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」という言い方さえしています。パウロは自分自身のことを「キリスト者全体の中で最も小さい者だ」、そう思っていたのです。
 しかしそうであればどうして、「わたしに倣う者となりなさい」という思い切ったことを語ったのでしょうか。パウロはここで、自分の信仰が立派だから「わたしを見習いなさい」と言っているのではないのです。新共同訳聖書ですと「わたしに倣う者となりなさい」と書いてありますから、つい私たちは、パウロこそが見習うべきお手本なのだと思ってしまいます。しかし、ギリシャ語の聖書で読みますと、確かに「見習う、模倣する」という言葉ですが、その前に一言、「共に、一緒に」と訳せる言葉が書き添えられています。ですから、聖書の原文に忠実に訳すなら、ここは、ただ「倣う」ということではなく、「一緒に、共に、倣う者になってほしい」となります。
 パウロは「わたしのようになりなさい」と言っているのではありません。パウロ自身が主イエス・キリストに倣う者となりたいと希って努力している、それで「兄弟たち、あなたたちも、わたしと共に、主に倣う者になりなさい」、そう勧めているのです。「わたしは本当に小さい者に過ぎません。あなたたちを傷つけ死に至らしめたような者です。しかし、そんな者であっても主イエス・キリストが訪れてくださり、招いてくださっている。だからわたしは、主に倣おうとしているのだ。あなたたちもどうか、そんなわたしと同じように、主イエス・キリストに倣う者になってほしい。あなたたちも主に招かれたのだから」と、パウロは心を込めて語っているのです。「パウロに倣う者になる」ということは、考え方や行動がパウロと一緒になるということではなく、パウロが捕らえられて懸命に今従おうとしているお方、「主イエス・キリスト」に倣う者になるということです。

 このように「わたしに倣う」という言葉を丁寧に考えてみますと、ひとまずは理解し納得できるのですが、またここで「主イエス・キリストに倣う」と言われてしまいますと、また新しい疑問が生まれてきます。「主に従う、倣う」というのは、言葉として分かりますが、実際にはどうすることを言っているのでしょうか。パウロが主イエスを・キリストを思う時に、そこではどうしても、主イエスがなさってくださった「十字架の執り成しの御業」を思い出さざるを得ません。
 私たち人間は、始終、神を忘れて一人で彷徨ってしまいがちです。しかし、主イエスは違います。主は常に神の御心を尋ね求め、神の御心を自分の人生に映し出していくことが喜びであり力であると言われました。そして、そういう主イエスの姿が最も際立って現れているのが「十字架」の時なのです。主イエスは十字架にかかられる前の晩、陰謀によって裏切られ捕らえられてしまいます。その時には、それまで主に従ってきた弟子たちも皆、主を見捨てて逃げ去ります。ところが主イエスは、弟子たちが逃げ去ってしまうことを予めご存知で、承知していらっしゃいました。そして、お一人になって、神から与えられている重大な重い務めを果たすべく、自ら十字架へと歩んで行かれました。
 十字架におかかりになることで主イエスがはっきり示してくださったことは何でしょうか。それは「神から離れてしまった人間の最後は、本当に惨めな死を迎える」ということです。私たちは普段は元気で、いろいろなことをできている時には、自分の思いを実現することが人生の意味だと思うかもしれないし、それで幸せだと思うかも知れません。しかし私たちは、最後には、何を成し遂げたにしろ、あるいはどんなに尊敬されたとしても、墓には何も持っていくことはできません。私たちは神抜きで生きてしまったら、最後には、神を失った者として終わる他なくなってしまいます。

 主イエスの十字架の死とは、神から離れてしまった人間がどんなに惨めで辛い死を迎えなければならないかということを示しています。しかしそれだけではありません。神抜きで生きて惨めに死んでしまう、そういう私たち人間の死を「主イエス・キリストが死んでくださった」、そうであるからには、私たちのその惨めな終わりの時にも、主イエスが居てくださるのです。十字架上で、主は教えてくださっています。主イエスの十字架の死が私たちのために起こったことなのだと信じるならば、その人はもはや、自分の死の時に一人ぼっちではありません。十字架の主イエス・キリストが共に居てくださることを知ることができます。また、たとえ私たちが一人で死ななければならないとしても、それでも、十字架の主イエスが執り成してくださっていることも知らされています。主は十字架上で「父よ、かれらをお赦しください。何をしているのか知らずにいるのです」と言われました。私たちが最後まで、神抜きで、また神を知らずに生きてしまうとしても、そういう私たちのことも、主イエスはなお憐れみ、執り成してくださるのです。
 主イエスがそのような十字架の死を遂げられることで、断絶し広く隔たっていた神と私たち人間の間柄が、もう一度結び合わされるのです。主の十字架の出来事とは、言うなれば、神と私たちとの間に主イエスが橋をかけてくださったようなことです。パウロが「主イエスに倣う」と言うときには、この主の御業を忘れるわけにはいきません。主イエスを抜きにして、主が背負われたような十字架を自分で背負ってみよう、そういうことをパウロは言っているのではありません。主イエス・キリストに倣うということは、主イエスの十字架をわたしも背負いますということではない。そんなことは、誰にもできないことです。パウロが「主イエスに倣う」と言うときには、十字架によって神との間柄を執り成していただいたのですから、もう一度、「神と結ばれた者として相応しく生きようとする」ということです。それが主イエスに倣うことです。
 譬えて言うならば、両親に反発し悪態をついて家出をして何年も音信不通だった息子が、ある時、どんなに両親が真実に自分のことを愛してくれていたのかを悟って、もう一度両親と共に生活してみようという志を与えられるということと似ていると思います。両親と共に生きようとする息子は、一挙手一投足に至るまで両親と同じになろうとするのではないと思います。一緒に生きようとすれば、最初はぎこちないかもしれません。しかしそうではあっても、両親と親しく交際できる距離に自分を置き、言葉に耳を傾け、そしてどれほど両親が自分を愛してくれているのか、また過去の自分がどんなに両親を傷つけ悲しませていたのか、そして今、両親が何を自分の望んでいるのかを聞き取って、自分の理解の範囲において、精一杯自分のなすべき生活を歩んでいく。それが両親と和解する息子の姿だろうと思います。そしていつしか、息子は両親に似た者となっていくのです。

 パウロも同じです。繰り返し、繰り返し、「十字架の主イエス・キリストの御業」を聞かされながら、その御業がどんなに大きな和解と和らぎとを私たちに与えてくださっているかを味わいながら、そしてそれを、周りの人たちにも伝えながら生きて行くのです。既に主イエス・キリストが十字架にかかってくださっているのに、まるでそんなことは無かったかのように、今から自分も同じ十字架を背負おうとする、それがキリストに倣うことでは決してありません。それは、主の十字架の御業を無視して、十字架に背を向けて生きている人間の姿です。
 主イエス・キリストは、十字架によって、神抜きで生きている私たち人間の罪を清算してくださっている。神と人間との架け橋になってくださっている。私たちは、罪を赦されて、もう一度新しく生きて良いと言われているのです。そういう者として、「もう二度と神との間柄を見失わないように努める」、それが「主イエス・キリストに従い、主に倣う者」としての生活なのです。

 パウロはそういう生活を、とても印象的な言葉でフィリピ教会の人たちに伝えました。20節「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と言っています。
 実は、「わたしたちの本国は天にあります」という言い方は、フィリピ教会の人たちにはよく理解できた言葉でした。それは、フィリピの町が地理的にどんな場所にあるか考えますと分かるのです。パウロが小アジアのトロアスから船出してヨーロッパに渡り、最初に伝道した町がフィリピでした。
 フィリピはヨーロッパの玄関口にある町です。このことをローマ帝国全体で考えますと、辺境の地、例えばメソポタミヤやアフリカからローマに対して対抗する勢力が力をつけ、ローマ帝国の都ローマまで攻め込んで来ようとした場合、ローマの一番最初の防衛線はどこになるかと言えば、玄関口であるフィリピなのです。フィリピは、外敵からローマを守る最初の砦になる町です。そもそもフィリピという町の名は、フィリポス2世という英雄が、外国が攻めて来たときにマケドニアに入れさせず撃退した、その戦勝を記念して名付けられました。フィリピはローマの軍事都市です。ローマ帝国の一都市なのですが、フィリピの人たちは、他の町とは全然違う意識を持っていました。フィリピの人たちは、ひとたび平和を乱そうとする者が襲って来たら、町ぐるみで砦になり戦わなければならないので、常に訓練し兵営もあり、軍地都市としての負担を担って生活していたのです。しかしそれは負担でもありながら、フィリピの人たちにとっての誇りにも繋がっていました。自分たちは平和を守るためにこの町を築いている。平和を守るために自分たちはここに生きていると思っていたのです。

 パウロは、この町の状況をよく知った上で語りかけます。「あなたたちは、平和を守るためのポリス(都市国家)に暮らしているけれども、しかし、あなたたちの本当の国、本国はローマ帝国ではない。あなたがたの本国は天にある」と教えています。「あなたがたが守るのはローマの平和ではなく、神の平和をこそ守るのだ。ローマの皇帝ではなく、真の救い主である主イエス・キリストこそが、あなたがたを訪れてくださるのだ」と教えています。それがこの「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」という言葉なのです。「十字架の主イエス・キリストによって神との間柄を執り成されて、もう一度神のものとして生きるようにされたあなたたちは、主が再び訪れて、あなたたちの信仰生活を完成してくださる時まで、フィリピの町にあって、神の平和を行き渡らせ守っていくのだよ」という思いを込めて語っているのです。
 こういう思いを、パウロはこの手紙の一番最初から持っていました。1章1節の呼びかけの言葉は、「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」となっています。意識しなければ気づかないことですが、「フィリピにいて」という言葉には、フィリピという町に対する思いがあるのです。「フィリピは平和を守る町であるという思いで人々が暮らしている町だが、そういう中にあって、『キリスト・イエスに結ばれて、聖なる者として生きているあなたたち』は、真実に神の平和を行き渡らせる者として生活している。そのあなたたちに向かって、この手紙を書いているのだ」と呼びかけているのです。

 フィリピの町の中で、教会の外で生活している人たちの中には、今は平和を守る町の住民だという誇りを持っているけれども、しかしもし戦争になってしまえば、明日の命は分からない。だからせめて今のうちに、美味しいものを食べ楽しめるだけ楽しんでしまおうという、享楽的な、刹那的な空気もあったに違いありません。そういうとても人間的な有り様を、パウロは19節で「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と、とても悲しむ様子で書いています。そういうことはあるのだと思います。もし自分の命に明日の保証はないと思えば、今のうちに楽しもうと考える人がいても不思議ではありません。「しかしあなたたちは、十字架の主イエス・キリストによって神に結ばれ、本当の救いを知らされ、神の平和を守る民として立てられている。フィリピの町の中にあって、肉眼では見えないけれども、見えないポリス(都市国家)を築いているのだ」と言っています。
 こういう言葉を聞くと、今日ここに集められている私たちも同じではないかと思います。甲府はもともと軍事都市でした。明治政府の政策で城を分断する鉄道を敷いてしまいましたので城はありませんし、もちろん今ここは軍事都市ではありませんが、しかし私たちは、この甲府の町にあって、神が与えてくださる平和を守る務めを与えられて、この教会の群れに招かれています。私たちは、兄弟姉妹を見下したり傷つけたり軽んじるために共に集まっているのではありません。この甲府の町にあって「キリストに結ばれ、本当の平和を知らされている者たちとして、そしてその平和を実現する者たちとして、共にここに集められている」ことを知る者でありたいと願います。

 パウロは、「あなたがたは自分の腹や恥ずべきものに仕えるべき者ではないのだ。共に主イエス・キリストに倣う者になろうではないか」と呼びかけています。家庭の中にも隣人との間にも、凍えるような冷たさやいさかいや憎しみや悲しみが起こるかもしれません。しかし、そういうことがたとえあったとしても、主イエス・キリストの命がけの執り成しと和解を知らされている私たちは、もう一度ここから「神の平和を作り出す者として歩む」、そういう志を与えられたいと願うのです。「あなたの本国は、恥ずべきものや刹那的なものが支配しているこの世では決してない。あなたの本国は天にある」と教えられています。ですから、主イエス・キリストが終わりの日に私たちを訪れて、私たちを完成してくださるその時まで、私たちはこの所で、主の教会の民として生きていくのです。
 やがての日、主イエス・キリストが私たちを訪れてくださる時にはどうなるのでしょうか。私たちの今引きずっているこの卑しい体は「主イエスの栄光ある御体と同じ形に変えられていく」のだと、パウロは語っています。私たちには本当に大きな約束が語りかけられていることを覚えたいと思います。
 今のこの問題を抱えて悲しみ多い体を引きずって、これで全てが終わっていくのではないのです。そういう体を持っているのは事実ですが、しかし、神がそういうところから私たちを召してくださって、天に繋いでくださって、「あなたたちは天に結ばれている民の一員だ」と語りかけてくださるのです。

 私たちは、そういう語りかけを聞き取る者として、ここからもう一度歩み出す者とされたいのです。そして、本当に、神が与えてくださる平和を味わいながら、一歩一歩歩んでいく幸いな民とされたいと、心から願うのです。

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