聖書のみことば
2014年3月
  3月2日 3月9日 3月16日 3月23日 3月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら 音声でお聞きになりたい方は
こちらまでご連絡ください
 

 先頭に立つ主イエス
2014年3月第4主日礼拝 2014年3月23日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第10章32〜34節

10章<32節>一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 <33節>「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。<34節>異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 32節「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」と記されております。「一行」とは、言うまでもなく「主イエスの一行」です。多くの人々が同伴して、主イエスと共にエルサレムに向かっているのです。
 「エルサレムへ上って行く」と言う場合、エルサレムが丘の上にあるから上るということではなく、エルサレムは神殿のある神の都ですから、人々は巡礼のために「上っていく」のです。

 けれども、主イエスがエルサレムに行かれるのは、単なる巡礼ということではありません。エルサレムとは、主イエスにとっていかなる所なのでしょうか。そのことを顧みなければなりません。マルコによる福音書は、3章22節に「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」と記し、「エルサレムから下って来た律法学者たち」と、エルサレムについて言及しています。主イエスは多くの奇跡の業をなされ、弟子たちに悪霊を追い出す権能を与えられました。主イエスが「悪霊を追い出す権能を持つ方」であることが述べられていたのですが、そのことを聞いた律法学者やファリサイ派の人々は、エルサレムの権威筋の者として、宗教上の権威の担い手としての立場から、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と、主イエスを「悪霊に取りつかれた者」と言っているのです。
 彼らは、主イエスを好意的に見ておりません。主イエスの力を神からのものではなく、悪霊の力だと言って、主を批判しているのです。そのような言い方で、主イエスを敵視しているのです。大事なことはこのことです。主イエスは、ご自分の力を認めない「エルサレム」へと向かって行かれるのです。敵対する勢力へと向かっておられる。それが、主イエスが「エルサレムに上って」行かれることです。主イエスの権威、力を、神からのものと認めず敵対する者、民の指導者たちの所へと上っていかれるのです。

 神の都エルサレムで、主イエスは神を礼拝すること以上のこととして、敵意の中に向かっておられる、その主の決意、覚悟があることを知らなければなりません。そのような「上って行く途中」、道の途上にあることが示されております。
 しかも、主イエスは「先頭に立って進んで行かれた」と記されております。ご自分に敵対する者の所へと先立って進まれる、そこに主の覚悟が示されております。主は意識しておられるのです。敵対する者たちに対する自覚があってのことです。どうでしょうか。敵対する者と所へ、誰が先立って行くでしょうか。今日の社会は、特に打たれ弱い社会です。行きたくなければ、行くことを拒否することになるのです。昔であれば、理不尽な鍛え方で行かせるということもあったでしょう。けれども今は、嫌なことは避けて通る時代ですから、そのような私どもの思いからすれば、主のこの「先立って進まれる」ことは思いもよらないことです。
 エルサレムに巡礼に行くのであれば、巡礼者にとって礼拝は喜びですから、誰もが我先にと行くことでしょう。それは麗しいことです。けれども、ここではそういうことではありません。ここに、主イエスの、事柄に対する受け止め方があります。主はエルサレムへと、敢えて進んで行かれる。苦しみと死が待っている、それを受け入れ、覚悟して進んで行かれるのです。

 主イエスは全てをご存知の上でエルサレムへ進まれる、そこに主イエスの「全知全能」が示されております。
 主に同伴している者も、また敵対する者も、何も知りません。敵対する者も、エルサレムで主と対峙するに際して、どうしたらよいのか、まだ明確には分かっていないのです。誰もこの先のことを知らない。この先どうなるのか、主イエスだけが全てをご存知なのです。そして、ご存知の上で、主は「先頭に立って」進まれるのです。

 主が全てをご存知、その内容は、33節以下に記されております。そこには、主がエルサレムに上られる理由が記されているのです。33・34節「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」と述べられております。
  「人の子」とは、主イエスのことです。主イエスは祭司長や律法学者に引き渡され、ユダヤ法による石打刑ではなく、ローマ法によって十字架刑での死刑を宣告され、異邦人であるローマの手に渡されると言われます。そして更に、異邦人であるローマ人が、主を辱めた上で殺すことを、主は知っておられるのです。ご自身の苦難を覚悟で、辱めを受けることを覚悟で、主は進まれます。十字架刑という極刑を覚悟で行かれる。そして「人の子は三日の後に復活する」と言われました。
 ご自身の行かれる先に苦難と侮辱、辱めの死があることをご存知の上で、その全てを受け止め、神の子として、その一切を成し遂げてくださるために、主イエスは進まれるのです。

 主イエス」は神の子ですから、主が全てをご存知で受け止めておられることは当然と言えば当然のことですが、けれどもここに、私どもに対しての大切な主の恵みがあることを覚えたいと思います。それは、主イエスが、「主に従う者に先立ってくださる」ということです。それは、人が担う苦しみ、苦難の全てを「主イエスが先立って担ってくださる」ことを示しております。
 私どもは、自分の苦しみ、究極的には「死」を先立って知ることはできません。けれども、主イエスは私どもに先立って、知っていてくださいます。私どもがこれから経験する痛み、苦しみ、死について、先立って知ってくださっているのです。このことは大きいことです。主が全知全能であられるということは、主が私どもの苦しみや死を知り、先立って行き、受け止めてくださるということです。主ご自身が、私どものその苦しみ、死の淵へと行ってくださる。私どもが苦しむ時、誰も分かってくれないと思うかもしれない、その時に、しかしそうではなく、これから私どもが味わう苦しみ、痛み、悲しみを、既に全て知る方として、主イエスがいてくださるのです。
 この恵みを、私どもは覚えてよい。死の淵、苦しみの淵にあっても、なお、キリストが、神が共にいてくださることを覚えてよいのです。苦しみや痛みは、人を孤独にします。けれども、私どもは決して孤独ではない。私どもの味わうどのような淵にも、主がいてくださるのです。どのような死に様、どのような苦しみであろうと、主が先立って担ってくださる、このことは憐れみ深いことです。主イエスは、人のいかなる苦しみも悲しみも死も全てを、ご自分のものとするために、敢えて「先頭に立って」進んで行かれるのです。ですから、主が全知全能であられるということは、恵み深いことです。全てをご存知の上で、一切を成し遂げるために、主は敢えて進まれるのです。

 主イエスが先頭に立って進まれるのを見て、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と記されております。ここは解釈が分かれるところです。弟子たちと従う者との関係が分かりにくいと思いますが、「弟子たち」は12人で「従う者たち」はその他に従った人と読むのが普通でしょう。ですが、28節を振り返って見ますと、ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っております。弟子の思いは「主に従うこと」、この自覚なのです。であれば、「従う者たち」とは「ペトロを始めとする12人の弟子たち」であると思います。ここでの「弟子たち」は主に付いて来た人すべてを指し、「従う者たち」は「何もかも捨てて従う」と言った12弟子であると取った方が良いのです。
 そう考えて読みますと、「驚き」と「恐れ」の間に違いがあることが分かります。「恐れる」方が「驚く」ことより、事柄を深刻に受け止めているのです。驚く人は多いでしょう。けれども恐れる人は少ないのです。本来のギリシャ語では、弟子たちが驚いたのではなく「彼らは驚き、従う者たちは恐れた」となっています。ですから、主イエスに同伴した多くの者が驚いたと聞くのが自然でしょう。

 なぜ人々は、主の言葉に「驚きと恐れ」を感じたのでしょうか。弟子たちは、主イエスがエルサレムで起こることを説明してくださる前に、主の思いを感じ取って、驚き恐れました。主イエスの覚悟を感じたということでしょう。覚悟して先頭に立って進まれる主イエスの様子に、並々ならぬ何かを感じたと考えることは普通のことです。自分に敵する者のところへ行く覚悟であると思えば、戦おうという勇んだ気配を感じて驚いたということであれば分かり易いのです。
 けれども、主イエスは、敵する者と戦うために進まれるのではありません。戦うのではなく、ご自身が苦しみ、死を自覚し受容する覚悟をしておられる。そうすることによって、人々の救いを成し遂げようとしておられる。この主の覚悟は、主イエスならではの思いなのであって、人々の思いとは違う、神の御心を表そうとする聖なる思いなのです。
 人々が主イエスの覚悟を感じる。しかしそれは、戦おうとする気配ではありません。人の思いを超えた聖なる神の思いを、人々は六感として感じざるを得なかった、それゆえの驚きであり、恐れなのです。

 神の御心を感じることは、畏れ多いことです。「驚く者」と考えるならば、神から遠ければ遠いほど、驚くことはあっても恐れることはないでしょう。「恐れる者」とは、神に近い者ほど恐れるのではないでしょうか。12弟子が恐れを感じたのは、彼らが主の近くにいるがゆえに、神の御心を感じたということです。誰よりも主により近い者として、弟子たちは恐れを感じました。神の御旨を感じたのです。そのことがここに言われていることです。ですから、「従う者たち」とは「12弟子」と考える方が、より自然です。
 私どもは、主イエス・キリストを恐れているでしょうか。驚くだけで、「何だろう、これは」と言っているだけではないでしょうか。私どもは、畏れおののくことを思うほどに神に近く、また、神を近くに感じることの恵みを思います。

 弟子たちが神の御旨を畏れかしこむ思いを感じたがゆえに、主イエスは改めて、弟子たちに話してくださっております。「イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた」と記されております。畏れおののく者に、主は言葉をくださるのです。
 この弟子たちは、「教会」を意味しております。「再び十二人を呼び寄せて」と、主イエスは改めて12弟子を呼ばれました。それは主が「教会を立ててくださった」ということです。そして「ご自身の苦難と十字架の死によって、この世の人々の罪を贖い、復活によって、人の罪ゆえに失われていた『神と人との交わりを回復』してくださる」ことを、畏れおののく弟子たちに、教会にこそ、語ってくださったのです。

 このように、主イエスが語ってくださったこと、これが教会の信仰となりました。主が語り、そして成し遂げてくださったことが、私ども教会の信仰告白となったのです。「主は、…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり…」との信仰告白は、初代教会が礼拝の中で言い表した信仰告白の最も古いものの一つであると言われております。
 主が語ってくださったこと、それを、私どものこととして語ること、それが、私ども教会の信仰告白であることを覚えたいと思います。主イエスを抜きにして、教会が創作した信仰の告白なのではありません。

 主イエスは語り、そして成し遂げてくださいました。その主イエス・キリストの御言葉と御業を通して与えられた救いに与った者として、私ども教会は、信仰告白をなしているのだということを覚えたいと思います。
 そういう意味で、私どもは既に、主イエス・キリストの十字架の贖いに与り、主イエス・キリストの甦りの命のうちに置かれているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ