聖書のみことば
2014年3月
  3月2日 3月9日 3月16日 3月23日 3月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 らくだが針の穴を通る
2014年3月第1主日礼拝 2014年3月2日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第10章23〜31節

10章<23節>イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」<24節>弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。<25節>金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」<26節>弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。<27節>イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」<28節>ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。<29節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、<30節>今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。<31節>しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 今朝は、先週からの続きです。
 ある人が「永遠の命」を得ることを望んで、主イエスに「何をしたらよいか」と尋ね、主イエスが「持っているものを売り払い、貧しい人々に施し、それから、わたしに従いなさい」と言われたことに対して、この人は主の言葉に従えませんでした。
 そのことを受けて、主イエスは、23節「弟子たちを見回して言われ」ました。単に弟子たちに「言われた」のではなく、弟子たちを「見回して」と記されております。なぜでしょうか。それは、聞く者が「主の眼差しを感じるため、感じるように」です。聞く者、それは、私どもも含まれておりますから、弟子たちだけにではなく、この御言葉を聞く者すべてに、主イエスの眼差しが向けられ、語られているのだということが示されております。

 前のところで、主イエスは、教えを乞うたその人に「貧しい人々に施し、天に富を積み、それから、わたしに従いなさい」と勧めましたが、この人は「悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と言われております。それを受けて、主イエスが「金持ちが神の国に入ることは、なんと難しいことか」と言われました。
 ここで知らなければならないことは、ただ単に「財産を持っているから、従えない」と一般化して言われていることとは違うということです。
 「施し」の目的は「天に宝を積むこと」です。主イエスは「施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる」と言われました。けれども、施しによって救われる、永遠の命を得るとは言っておられません。主はこの人を、「天に宝をつむように」と導いておられるのであって、その行いが救いとなるとは言われないのです。
 天に宝を積むことを神が評価してくださって救われるということではない。「救い」は、あくまでも「神が恵みとしてくださるものである」ことを、主は徹して言っておられるのです。「救い、永遠の命」、それは「主に従うこと」にかかっております。財産があるということは、主に従えないことの理由の一つに過ぎないことなのです。

 「従う」ことに理由はありません。けれども「従えない」ことには理由がたくさんあるのです。この人は、ただ主に従えば良かったのです。けれども、この人には従えない理由があった、それが「たくさんの財産を持っていた」ということです。
 主イエスは、「主に従う」ことに一切の理由を排除しておられます。これは大変微妙なことですが、しかし、私どもはどこかで、理由があれば従えなくても赦されると思っているのです。しかしそうではない。一切の理由は理由にならない、それが「主に従う」ということに示されていることです。

 「地に宝を積む」ことと「天に宝を積む」ことは、大いに違うことと思っておりますが、しかし、どちらに宝を積んだとしても、そのことは「救い、永遠の命」とは関係はないということは、面白いことだと思います。天に宝を積むことを、確かに神は喜んでくださることでしょう。しかし、だからと言って救われるわけではありません。
 主イエスに従うこと、主イエスを信じることに理由など要りません。それは理由無き出来事、神の一方的な恵みの出来事なのです。私どもの救いは、神の側に理由があることを覚えたいと思います。神が慈しみ深い方であるから、そうであるからこそ、救いには神の側の理由があるのです。それは、人の理由が優先することではありません。

 この人に財産が有っても無くても、この世の価値観に執着せずに「主に従うこと」をこそ、主は求められました。財産に捕われなければ、全てを施せるのです。主イエスは「施せ」ということをもって、「執着するな」ということを示されました。この世に生きる者にとって、この世に執着することは当然のことですが、しかしそれは、自らを神から遠ざけることなのです。

 主イエスが、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたことに、24節「弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた」と記されております。ここで「驚く」と言われている言葉は「狼狽する、うろたえる」という意味の言葉です。「驚く」という言葉は美しいものに対しても使いますので、勘違いするかもしれませんが、ここでは「それはどういうこと?」と動揺している、うろたえているということなのです。この弟子たちの驚きは、主イエスを正しく受け止めての驚きです。
 主の弟子たちの多くは、財産を持っていない人たちでした。ペトロを始めとする4人は漁師ですし、多くは貧しく、教養も無く、律法も十分に知らない人たちです。財産が無いのだから自分たちには関係ない話だと思って聞いていたことでしょう。けれども、「誰でも地上の何かに執着しているならば、神の国に入ることは難しい」と、主イエスが言われたことに、「そうだったのか」と驚いたのですし、それは、主の言葉を正しく受け止めたということです。

 そして、更に主イエスは言葉を続けられて「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われました。「子たちよ」とは、良い言葉です。主イエスは弟子たちに、親しく話してくださっております。「子たち」と言ってくださる、それは、主が保護する者、守る者であることを示すのです。主の弟子たちに対する在り方が示されております。私どもは、自分の子どもに対しても「わたしの子たちよ」と、愛情深く言えるかと言えば、なかなか言えないものです。ですから、この主の言葉は、とても慈しみに富んだ言葉なのです。

 「神の国に入るのは難しい」、そして25節、追い打ちをかけて、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と、主は言われました。「金持ち」つまり「この世の何かに執着している者」は神の国に入れないことを、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という譬えで強調しているのです。針の穴にらくだが通れるわけがありません。ですから、それは「有り得ない」ということです。しかもここでは、単に「有り得ない」と言っているのではなく、「穴を通る方がまだ易しい」と言うのですから、万が一入ったとしても、その方が「神の国に入るよりは易しい」ということで、大変強い否定なのです。
 「この世に執着する者、罪人が、神の国に入ることは不可能なこと、絶対に考えられないことである」と、主は言っておられるのです。

 ここで知るべきことは何でしょうか。主イエスは「人には救いがない」ということを徹底して言っておられるということです。単なる「困難なこと」ということではない。困難なことであれば、励めば何とかなるかもしれません。しかし主は、「有り得ない」と言われるのです。主イエスは、神の国に入るために精進して励めと言われない。「絶対に、有り得ない」と言っておられるのです。
 この譬えについて、多くの注解書が語ることは、単に「有り得ない」ということではなく、それは「グロテスクなことである」ということです。例えば、精進して励んで、救いの境地に至るということがあるかも知れません。けれども、もしそのようにして至ったとすれば、それは「グロテスクなこと」だと、主は言っておられるのです。救いに至りたいと思って、そのために頑張って悟りを開いたとしても、それは救いではないことが示されているのです。そこにあることは、自分だけが特別な者になってしまうということです。特別な者となること、それがグロテスクなことなのです。あの人は特別な人である、そういう在り方は、「グロテスク、おぞましい」と言っておられるのです。

 人は皆、等しく神に造られた者です。にも拘らず、自分だけ一人抜きん出て、特別であると自他共に思うことは、おぞましいことなのです。それは、神の創造の業に反することです。
 私どもであっても、時には、自分は特別だと思うこともあるでしょう。しかしそれは、おぞましいことなのです。
 もし、私どもが困難を克服できたとするならば、それは「神の憐れみによるのだ」と考える、それがキリスト者の在り方です。人は、何かを評価して特別視したい思いを持つものであるということを覚えたいと思います。
 主イエスは、「不可能」と言われました。人は自ら神の国に入ることはできない、自らの力で永遠の命を得ることはできないのです。

 26節「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った」と記されております。弟子たちは、ますます狼狽したのです。「自分たちには、まったく救いはないのか」と言っております。「だれが救われるのだろうか」というのは、正しい疑問です。「それじゃあ、だれも救われないじゃないですか」と言っているのです。
 主イエスは弟子たちに知らせておられる。「人には救いがない」ということを、弟子たちに認識させているのです。「救いがない」とは、主の言葉は厳しいと言わざるを得ません。

 このようにして、「人には救いがない」ことの認識に至った弟子たちに対して、主イエスは、今度は、27節「イエスは彼らを見つめて言われた」と記されております。狼狽し、混乱した弟子たちに、まさに目を注いでくださっているのです。愛情をもって、慈しみをもって見てくださるのです。そして、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。
 大事なことは、自らの救いのなさを実感した者に対して、主イエスの慈しみの眼差しが注がれているということです。行き詰まったところで、希望を失った淵で、神の憐れみが語られているということです。
 この世の何かに執着している人は、神の慈しみを感じることはできません。その人には、「主がすべて」ではないからです。ですから、そのような人に対して、慈しみを向ける必要はないのです。ただ、自分の無力さを実感した者に、主の眼差しは注がれております。そして、御言葉をいただくのです。
 主イエスははっきりと「救いは、人の力で到達しうるものではない」ことを言ってくださっております。ただ「神にはできる」と、神のみ救いの希望であることを示してくださるのです。「神は何でもできる」と、人には救いがないことを実感させた上で、「神のみできる」ことを示しておられるのです。

 「罪人の救い」、それは「有り得ないこと、あり得るはずのない出来事」であることを改めて覚えたいと思います。けれども、それを知る者を、神は救いたもうことを覚えたいと思います。
 不可能を可能とする方、それはすなわち「全知全能」ということです。全知全能の神、それは何でもして欲しいと思うことをしてもらえるということとは違います。「全知全能」とは、「神が不可能を可能としてくださる」ということです。それは「罪人の救いを成し遂げてくださる」という意味です。神が何でもしてくださると思うことは、人の都合のよい思い込みであることを覚えなければなりません。
 「有り得ない者の救い」とは、「自らの救いの無さを知り、狼狽し、怖じ惑う者を、神が救ってくださる」ということです。それは、まったくの神の憐れみによる出来事であることを覚えたいと思います。

 人は、行き詰まった淵で、初めて神に向かうことができます。自分が行き詰まって初めて、人は神へと向かうのです。そういう者を神が憐れんでくださるのです。その神の憐れみとは何か。それは「主イエスの十字架の出来事」です。罪人の救い、滅ぶしかない者の救いです。
 十字架の出来事は、人の思いによって成っているのではありません。ただ神の憐れみによってある、そこでこそ救われるのです。

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