2014年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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らくだが針の穴を通る | 2014年3月第1主日礼拝 2014年3月2日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第10章23〜31節 | |
10章<23節>イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」<24節>弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。<25節>金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」<26節>弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。<27節>イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」<28節>ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。<29節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、<30節>今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。<31節>しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 |
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今朝は、先週からの続きです。 前のところで、主イエスは、教えを乞うたその人に「貧しい人々に施し、天に富を積み、それから、わたしに従いなさい」と勧めましたが、この人は「悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と言われております。それを受けて、主イエスが「金持ちが神の国に入ることは、なんと難しいことか」と言われました。 「従う」ことに理由はありません。けれども「従えない」ことには理由がたくさんあるのです。この人は、ただ主に従えば良かったのです。けれども、この人には従えない理由があった、それが「たくさんの財産を持っていた」ということです。 「地に宝を積む」ことと「天に宝を積む」ことは、大いに違うことと思っておりますが、しかし、どちらに宝を積んだとしても、そのことは「救い、永遠の命」とは関係はないということは、面白いことだと思います。天に宝を積むことを、確かに神は喜んでくださることでしょう。しかし、だからと言って救われるわけではありません。 この人に財産が有っても無くても、この世の価値観に執着せずに「主に従うこと」をこそ、主は求められました。財産に捕われなければ、全てを施せるのです。主イエスは「施せ」ということをもって、「執着するな」ということを示されました。この世に生きる者にとって、この世に執着することは当然のことですが、しかしそれは、自らを神から遠ざけることなのです。 主イエスが、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたことに、24節「弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた」と記されております。ここで「驚く」と言われている言葉は「狼狽する、うろたえる」という意味の言葉です。「驚く」という言葉は美しいものに対しても使いますので、勘違いするかもしれませんが、ここでは「それはどういうこと?」と動揺している、うろたえているということなのです。この弟子たちの驚きは、主イエスを正しく受け止めての驚きです。 そして、更に主イエスは言葉を続けられて「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われました。「子たちよ」とは、良い言葉です。主イエスは弟子たちに、親しく話してくださっております。「子たち」と言ってくださる、それは、主が保護する者、守る者であることを示すのです。主の弟子たちに対する在り方が示されております。私どもは、自分の子どもに対しても「わたしの子たちよ」と、愛情深く言えるかと言えば、なかなか言えないものです。ですから、この主の言葉は、とても慈しみに富んだ言葉なのです。 「神の国に入るのは難しい」、そして25節、追い打ちをかけて、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と、主は言われました。「金持ち」つまり「この世の何かに執着している者」は神の国に入れないことを、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という譬えで強調しているのです。針の穴にらくだが通れるわけがありません。ですから、それは「有り得ない」ということです。しかもここでは、単に「有り得ない」と言っているのではなく、「穴を通る方がまだ易しい」と言うのですから、万が一入ったとしても、その方が「神の国に入るよりは易しい」ということで、大変強い否定なのです。 ここで知るべきことは何でしょうか。主イエスは「人には救いがない」ということを徹底して言っておられるということです。単なる「困難なこと」ということではない。困難なことであれば、励めば何とかなるかもしれません。しかし主は、「有り得ない」と言われるのです。主イエスは、神の国に入るために精進して励めと言われない。「絶対に、有り得ない」と言っておられるのです。 人は皆、等しく神に造られた者です。にも拘らず、自分だけ一人抜きん出て、特別であると自他共に思うことは、おぞましいことなのです。それは、神の創造の業に反することです。 26節「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った」と記されております。弟子たちは、ますます狼狽したのです。「自分たちには、まったく救いはないのか」と言っております。「だれが救われるのだろうか」というのは、正しい疑問です。「それじゃあ、だれも救われないじゃないですか」と言っているのです。 このようにして、「人には救いがない」ことの認識に至った弟子たちに対して、主イエスは、今度は、27節「イエスは彼らを見つめて言われた」と記されております。狼狽し、混乱した弟子たちに、まさに目を注いでくださっているのです。愛情をもって、慈しみをもって見てくださるのです。そして、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。 「罪人の救い」、それは「有り得ないこと、あり得るはずのない出来事」であることを改めて覚えたいと思います。けれども、それを知る者を、神は救いたもうことを覚えたいと思います。 人は、行き詰まった淵で、初めて神に向かうことができます。自分が行き詰まって初めて、人は神へと向かうのです。そういう者を神が憐れんでくださるのです。その神の憐れみとは何か。それは「主イエスの十字架の出来事」です。罪人の救い、滅ぶしかない者の救いです。 |
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