聖書のみことば
2013年8月
  8月4日 8月11日 8月18日 8月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 あなたはメシア
8月第4主日礼拝 2013年8月25日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第8章27~30節

8章<27節>イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。<28節>弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」<29節>そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」<30節>するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 27節「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」と、まず述べられております。前のところで、ベトサイダで盲人を癒された主が、なぜ今度はフィリポ・カイサリア地方に行かれたのか、このことはよく問われるところです。
 「フィリポ・カイサリア」というのは、元はパニアスという名の町でしたが、ヘロデ大王の息子ヘロデ・フィリポが整備し、ローマ皇帝ティベリウスを讃えて名を変えました。ですから、そこはまさしく皇帝礼拝をした異教の信仰の町です。主イエスはガリラヤを中心に活動しておられましたから、そこは、主イエスの活動の場として馴染みのない、覚えられない場所です。そこは、ユダヤのものの考え方からすれば異教の地であって、聖なる地との境目、分岐点であると言われております。ここに示されていることは、主イエスが境界線を一歩踏み出されて異教の地へ行かれるのではなく、エルサレムへ向かわれる出発点であるということです。もちろん、この時点では、エルサレムへの道は十字架への道であることが、人々に明確に理解されているわけではありません。
 けれども、主がエルサレムに向かうに当たって、はっきりとさせておくべきことがある、それがこの箇所に記されていることであります。

 主イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われます。そして28節、その問いに対する弟子たちの答えによって、人々が主イエスを「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」あるいは「預言者の一人」だと思っていたことが分かります。
 「洗礼者ヨハネ」と思った人々がいたことは、ヨハネの首をはねたヘロデが、主イエスのことを「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言ったことから分かります。ヘロデは、神がヨハネを聖なる人として生き返らせたと思ったのです。洗礼者ヨハネは、人々を「悔い改め、神へ心を向けるように」と促しました。そこで言い表したことは「神の支配のもとに身を置くべきこと、神の支配に服すること」でした。そしてそれによって「救いとは何か」ということが示されました。「救い」とは、「神の国に入ること、神の支配のもとに生きること」です。
 主イエスもまた「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。このことは、洗礼者ヨハネの語ったことと通じております。ですから、ヨハネに期待していた人々は、主イエスにも期待したということです。
 しかし、主イエスはまさしく神の子なる神として、人々を神の国へと入れてくださるお方、メシアです。洗礼者ヨハネはその主を指し示しましたが、主イエスはご自分が救い主(メシア)そのものであることをご自身で示されました。このことはしかし、十字架と復活の出来事なくして、人々が理解することはできません。

 「エリヤ」と思ったとは、どういうことでしょうか。エリヤは、メシアの先駆けとして、メシア到来を伝える者として遣わされた預言者でした。人々は、主イエスを「メシアの先駆け」と感じたということです。もうすぐメシアが来て、イスラエルは救われると期待したのです。ですから、メシア待望という人々の期待に対して、メシアを指し示す者として、洗礼者ヨハネもエリヤも共通しております。
 しかし、主イエスは、まさしく人々の待ち望むメシアその方です。救いは、主の到来と共に既に来ているのです。

 「預言者の一人」と思ったということは、どういうこと言いますと、この時代、久しく預言が廃れていたと言われておりました。預言活動がなされなくなっていたのです。神の言葉を預かって語る者、それが預言者です。ですから、預言活動がなされないということは、神の言葉が人々に閉ざされている状態ということです。神の言葉が長く語られていない。そういう中で、それゆえに、主イエスの言葉を聞いて、人々は神の言葉に与る恵みを覚え、主を預言者だと思ったということです。
 主イエスは、神の言葉そのものなるお方です。ですから、主イエスは神の言葉の実現者であるということを覚えたいと思います。そういう意味では、主は預言者そのものでもあられるのです。

 そのように、人々が主イエスについて言っている内容は、主によって全て実現していることです。けれども、人々は、まだそのことを実感していないのです。

 ここで更に、主イエスは弟子たちに問われます。29節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いは、面白いと思います。「人々はいろいろ言っているが、では、あなたたちはどう思っているのか」、この問いによって、主イエスは弟子たちを「答え」へと導いておられるのです。
 「あなたは、メシアです」とは、信仰の告白です。主の問いを通しての、主の御力を通しての導きがあってこその、信仰の言葉です。主の導きがあって初めて、「主イエスはメシアである」ことを知るに至るのです。主の、神の導きなくして、主イエスをメシアとは思えないのです。弟子たちは、主からの問いによって導かれました。

 では、私どもはどのようにして、この導きを与えられるのでしょうか。それは、主の霊による導き、聖霊の導きです。父なる神と子なるキリストから発する「聖霊」によるのです。
 「主イエスこそメシア、救い主」という信仰告白は、「聖霊による告白」であることを覚えたいと思います。自分の力、自分の思いによるのではありません。私どもが洗礼を受けるとき、「信じるか」と問われて「信じます」と答える、それは聖霊の出来事としての告白なのです。

 では、この聖霊の出来事を具体的に、目に見える形では、どのようになされるのでしょうか。主イエスは十字架に死に、復活して、その後、弟子たちのもとに現れて、心を合わせて祈るようにと命じられました。そして、主の復活から50日後、主の聖霊が弟子たちに下りました。この聖霊の出来事によって、弟子たちは主イエスを証しする群となり、そこに教会ができました。それがペンテコステです。教会こそは、聖霊をいただいて、主イエスを宣べ伝え、主が弟子たちに託してくださった救いの業・権能(洗礼)をなすのです。ですから、教会によって聖霊の働きがなされている、聖霊の働きに教会は仕えているのです。私どもが何かをしているということではありません。教会は、聖書に基づいて神を礼拝し、祈り、共に御言葉に聴き、「主イエスこそ救い主である」ことを告白し、宣べ伝えているのです。
 ですから、聖霊の働きは、教会の働きとして具体的に、目に見える形でなされているのです。
 神より教会に託されている権能、救いの宣言の仕方は、教会の教派の違い、強調点の違いによって様々です。例えばメソジスト教会においては、牧師がその責任を負います。愛宕町教会は、改革長老派の流れを汲む教会ですが、そこでは役員会がその責任を負います。ですから役員は、真実に神の権威に服する者であることが求められることを忘れてはなりません。

 また、少し話は逸れますが、教会の規則ということを考えますときに、教会の規則が教会法かと言いますと、そういうことではありません。たとえ明文化されていないとしても、最も大いなる教会法として「神の主権が現されること」が第一にあって、そのもとに規則としての教会法があるのです。キリスト主権が第一であることを忘れはなりません。たとえ教会員が皆で決めたからと言っても、それが神の主権を現さないものであるならば何らの意味はなく、キリストの権能を現さない決定は無効なのです。
 教会とは何か。それは「イエスをメシア、キリストと言い表すところ」なのです。

 主イエスは、ここで、弟子たちに「あなたたちは」と言われます。弟子たちは「一つの共同体」として、主を誰だと思うのかと問われております。ですから、「ペトロが答えた」というのは、ペトロが共同体を代表して答えているのです。「あなたは、メシアです」と答えました。
 教会は、弟子たちの群です。弟子たちの群は、主に信仰を問われております。主は問い、そして答えを導いておられるのです。

 「メシア」とはアラム語で「油注がれた者」ということで、それは「キリスト」ということです。メシアは、旧約においては3つの職を担う者で、油注がれた者=聖別された者として神に用いられる者です。その3つの職は、「祭司、王、預言者」です。
 「祭司」は、神と人との仲介者として、献げ物によって人々の罪を贖いました。
  「王」は、イスラエルにとっての王は神のみであるはずですが、人々は軍隊を持ち王を欲しました。神が統治される国、それがイスラエルですから、イスラエルの王は、あくまでも神の統治、神の支配、神の御心に従って国を治める者です。
 「預言者」は、祭司と重なります。預言者の多くは祭司でした。神の言葉を預かって人々に伝える者です。

 このように3職を担う「メシア」ですが、主イエスは完全な形でこの3職をなされるお方です。主はご自身の血潮によって人々の罪を贖い、人々を神の御言葉、神の愛に生きる者としてくださいました。まさしくメシア、救い主なのです。
 この箇所の前まで、語られていたことは、主はエルサレムに向かいながら、しるし(奇跡)を行う方であるということでした。しかし、ここで語られていることは、メシアなる方としてエルサレムに行かれるということです。 けれども、このことを弟子たちは、まだ理解しておりません。

 この箇所の最後には、30節「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」と「戒められた」ことが記されております。なぜ戒められたのでしょうか。当時、メシアというと、ローマ帝国からの解放を望む人々は政治的な支配をするメシアだと思い違いをしてしまうのです。それは、罪からの解放者としての救い主とは、全く違います。人々の誤解は国の混乱をもたらす、ゆえに、主は戒められました。

 主イエスは、罪と死の支配から人々を贖い出してくださった真実の救い主です。

 ここで、戒めの大切さを覚えたいと思います。戒めとは、それによって高圧的に人々を支配するものではありません。戒めは、それによって人の独善的な思いを修正してくれるものです。戒めは、そこに問いを起こすものです。なぜ戒められているのか、考えさせてくれるからです。ですから、戒めるということは、その人の自立性を認めているということです。
 今の社会は、自立性を失っていると思います。自立するところに戒めがあり、そこに問いが起こるのです。あなたはどう考えるのかと問われること、それは、人の自立性を求めること、人に自立性を与えることです。わたしはどう考えるか、どう関わるか、そこで人は責任を負うことになり、それが自立性を養うことになるのです。なるべく責任を逃れようとする現代社会は、そう言う意味で自立性を失っているのです。

 主イエスは、単に「黙れ」と言っておられるのではありません。「あなたは、メシア」と告白したことを、弟子たちはしっかりと心に留めなければなりません。自らの言葉に責任を持つ、責任主体である者として弟子たちを扱っておられるがゆえの、主の戒めであることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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