2013年8月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主イエスの力 | 8月第2主日礼拝 2013年8月11日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第8章22~26節 | |
8章<22節>一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。<23節>イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。<24節>すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」<25節>そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。<26節>イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。 |
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22節に「一行はベトサイダに着いた」と言われております。この「一行」は、言うまでもなく、主イエスと弟子たちの一行です。 けれども、主イエスの旅路は、単なる巡礼の旅ではなく、「苦しみを受け十字架に至る旅、殉教の旅」であります。主イエスの旅路は、「人の罪の贖いとなるための旅、父なる神の救いの御業を成し遂げるための旅」です。 続けて「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」と記されております。マルコによる福音書で「盲人の癒し」が出てくるのは、ここが最初です。主イエスが行かれる所には、いつも人々が病む者を連れて来ます。人々の期待は、主イエスの「癒し」です。しかし、主イエスが望んでおられるのは癒しではなく、人々の救いです。 ここで覚えなければならないことは、主イエスの憐れみは、上から目線の同情によるものではないということです。そうではなくて、応答です。人々の「求めに応えて」くださっている出来事なのです。 ですから、主の憐れみは応答です。応答とは、人間性を表すものです。応答はコミュニケーションであり、それは相手の人格を尊重することだからです。「呼びかけに応える」ということは、「他者を人格ある者とする」ということです。一方的な同情は、相手の人格を無視したものとなります。けれども、応答は、相手に人格を与えるものなのです。 「触れていただきたいと願った」とあります。「触れる」ということは7章にも出てきましたが、「主イエスに触れる」ことは、「主イエスの力が伝わる」と考えてのことです。「主の力」は「神の力」ですから、癒されると思っているのです。「神の力」が臨まなければ、癒されない。ここでは、そのような「癒しの業」が求められております。人々が主イエスに触れること、それは主の力をいただくことです。主イエスに触れ、そこで主イエスの温もりを感じ、力を受けるのです。 23節に「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった」と記されております。ここで問題になることがあります。「村の外に連れ出し」とある「村」は「ベトサイダ」ということですが、調べますと、ベトサイダは人々の行き交う大きな町であって、村という感じではありません。それで様々な解釈があり、ガリラヤ湖の西に同名の村があったという説もありますが、概ね、別の村であった出来事を、マルコがベトサイダでの出来事としたのだろうとされております。その理由は分かりません。 しかし、ここで考えたいことは、なぜそのようなことが思想的に可能になったのか、ということです。 村社会の喪失、匿名化が、現代日本社会の問題だと言わざるを得ません。今の日本は共同体性を失っているのです。それはどういうことでしょうか。「信仰を失っている」ということが、「共同体性を失う」ということです。 今こそ、この日本社会に対して、共同体性の必要を提起するべきと思います。匿名化された社会は、孤独に耐えられない社会です。教会は、信仰者は、この社会が今、呻き求めていることを知らなければなりません。何に苦しんでいるのかすら分からない社会であることを知り、ただ「交わりに生きることの中に個としての尊厳がある」ことを、語っていかなければなりません。 さて、なぜ主イエスは、盲人を村の外に連れ出されたのでしょうか。それは、村の内側だと、人々が癒しの様子を見るからです。主イエスがどのようにして癒したか、見るのです。見なければ、何が起こったのかを他の人に説明できません。主イエスは、癒しの業が言い広められることを目的とされていないということです。 23節「その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった」とありますが、ここは7章に出て来る癒しと、やり方と違っております。7章では「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、「開け」という意味である」とあり、「エッファタ」と命じられておりますが、ここでは「何か見えるか」と問われております。7章ではこの「エッファタ」という一度の命令によって癒されますが、ここでは、1度目はぼんやりと見えるようになり、25節「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」とありますように、癒しは2段階なのです。 肉体の癒しということがいかに困難なことかが、ここに示されております。そして、それ以上に、人の魂の救いはなお困難であるということが、ここに示されていることです。 26節「イエスは、『この村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された。」と記されております。「言ってはいけない」と命じておられるのではありません。「村に入るな」と言っておられる、それは、誰にも癒されたことが知れないようにということです。 主イエスの使命は、肉体の癒しではありません。「神の救い」こそが、主のなしてくださることであります。 「主イエス・キリストこそ、神の子救い主である」、そのことが、この盲人の癒しの出来事を通して示されていることです。 |
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