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2013年4月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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深く憐れむ主イエス | 4月第4主日礼拝 2013年4月28日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第6章30~44節 | |
6章<30節>さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。<31節>イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。<32節>そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。<33節>ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。<34節>イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。<35節>そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。<36節>人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」<37節>これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。<38節>イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」<39節>そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。<40節>人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。<41節>イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。<42節>すべての人が食べて満腹した。<43節>そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。<44節>パンを食べた人は男が五千人であった。 |
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30節「さて」と言われております。ここで一息入れているのです。 ここで十二弟子を表す「使徒」という言葉に、「アポストロス」というギリシャ語が使われているのは、この箇所だけで、大変特徴ある言葉です。ここでの「使徒」は、役職を表したり、権能を持った奉仕の職とか固定化した専門職を表す言葉ではありません。弟子たちは主から権能を与えられ、遣わされ、使徒としての使命を果たしました。そして、遣わしてくださった方、主イエスに報告をして、そこで使徒としての使命を終わっているのです。これ以降、弟子たちはずっと使徒として働くのではなく、報告して、そこで使徒としての任務を解かれるのです。それが、マルコによる福音書がここでしか「使徒」という言葉を使わない理由です。弟子とは、「遣わされた者」として、使命を終え任を解かれた弟子たちであることを表しているのです。 主イエスが遣わされた者と共に働いてくださるとは、何と麗しいことでしょう。主が働いてくださる業、教えであるからこそ、そこで主の恵みを感じることができるのです。弟子たちのなす一つ一つの業が、主共なる業であることの麗しさをここに覚えたいと思います。 弟子たちは主に報告をして、業を終わりとしました。報告すること、それによってその任を一回一回降ろさせていただくのです。 奉仕とは、人の力が認められてする業ではありません。神に力をいただいて働く、それが奉仕です。そして、そういう奉仕であれば、力をくださった主に報告しないではいられないのです。「こんなに出来ました」、しかしそれも、自分が…と思えば、人は成果を求めるのです。そうではなくて「させて頂いたことがこうだった、ああだった」、それは喜びです。神がさせてくださった業だからこそ、それは喜びになるのです。 ここでもう一度、主に報告して業を終えていることに注目したいと思います。 私どもの人生、働きは自力で完成させるものなのでしょうか。自力では決して完成を見ないのです。有名な「モナリザ」という絵は、未完成の美と言われております。完成していないことの美しさ、人は未完成に自らを投影し、そこに美しさを見るしかなのです。 今、この礼拝は、私どもにとっての安息、休みのときです。ここで私どもは一週の歩みを完成するのです。神によって完結するゆえに、人生に恵みを見るのです。 「人里離れた所へ行って」とあります。「人里離れた所」とは、神との直接の交わりの場、神を崇めるとき、祈りのとき、それは即ち礼拝のときです。主イエスご自身がそうされたように、主は弟子たちに礼拝のときを与えてくださっているのです。 キリスト者は、「良し」として人生を終わることができます。 |
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