2013年2月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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風や湖さえも従う | 2月第2主日礼拝 2013年2月10日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第4章35~41節 | |
4章<35節>その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。<36節>そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。<37節>激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。<38節>しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。<39節>イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。<40節>イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」<41節>弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。 | |
35節「その日の夕方」とあります。「その日」とは、4章の最初を受けております。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた(1節)」「その日」なのです。その日、主イエスは、舟で向こう岸に行かれるまで「教えて」おられます。「種まきのたとえ」で「神の国」について話してくださいました。「灯、成長する種、からし種」と、譬え話で人々の聞く力に応じて教えられました。 ここで「その日」と記すのは、その日の主の姿を思い起こさせるためです。その日の主の姿は「教えてくださっている主イエスの姿」です。しかしそれは、主イエスが、単に御言葉を教える教師に留まらないお方であることを強調するためなのです。41節「風や湖さえも従わせる、力ある方である」ことを示すためです。マルコによる福音書は、教える方としての主イエスの姿を強調しますが、それだけでは駄目で、「神の権威を示すお方」として、主イエスを受け止めなければなりません。 また「夕方」ということも大切です。夕方は一日の仕事を終える時であり、それは「休みの時」が来たということです。なぜ、主イエスは「向こう岸」に行かれるのでしょうか。群衆と一緒だと休めないからです。主イエスがいらっしゃる限り、人々は自ら去ることはありません。しかし、群衆には休みが必要です。人々を休ませ、そしてご自身も休まれるために、主は自ら向こう岸に行ってくださるのです。 前にも話しましたが、ユダヤでは夜から一日が始まるのです。「日の出と共に始まる一日」と「日の入りと共に始まる一日」では、それぞれにリズムが違います。日本人は、「おはようございます」の挨拶と共に、今日も一日頑張ろうと自分自身を鼓舞することから一日を始めますが、ユダヤ人は「休み、眠り」から一日を始める、それは「神に委ねる」ことによって一日を始めるというリズムです。このリズムによって、「神に委ねる」という「信仰の姿勢」を身に沁みて教えられているのです。人は、自分の実感でさまざま思うものですから、こういう事柄にも学ぶべきことがあるのです。 37節「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と記されております。ヨルダン川から死海に流れ込む地形から、ガリラヤ湖も谷間にあり、「突風が吹く」ことは考えられることです。「水浸しになる」ことは、漁師であれば経験もあり、また、それに対処する技も持っていたことでしょう。 神にすら委ねられない私どもです。このような状況で、私どもであれば、人に委ねることなど出来ません。 弟子たちの姿に、主イエスのことを心配する様子はありません。それどころか「関わってくれない」と、主の愛情の無さを非難しているのです。「助けを求める」という姿ではありません。「私たちを放っておくとは、何と冷たい」と非難しているのです。 主は、待っていてくださいます。 何かの事柄を「人に任せる」ということは、その人の持つ力に信頼するということではありません。神に対する全幅の信頼があってこそ、人の技に任せるということが可能なのです。例えば医術がそうでしょう。たとえ結果がどうであったとしても、そこに信頼する神の恵みを見出すことが出来る、だから任せられるのです。 39節「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた」と記されております。主イエスは、まず、弟子たちの眼前の問題である風と湖を治められます。主イエスの御言葉は、自然をも従わせる「権威ある言葉」です。「自然」とは神の創造の業であり、そこに示されることは「神にある秩序」です。主イエスは、その自然に対して「黙れ。静まれ」とお命じになる。ここに、主イエスが「神なる方」であることが示されているのです。 40節「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、主は言われます。「神への信頼」へと、弟子たちを招いてくださっているのです。けれども、「神の権威が示され、神へと招かれる恵みが与えられている」にも拘らず、弟子たちは、主イエスを「先生」だと思っているので、41節「いったい、この方はどなたなのだろう」と訝っております。何と不信仰なことでしょうか。 覚えたいと思います。主イエス・キリストが私どもと共にあってくださる恵みを覚えたいと思います。全てを任せられない、そういう私どもと共にあってくださるのです。 41節の言葉は、主に対する不信仰、分からないということのままで終わっております。けれども、主イエスはそこに、その弟子たちと共にいてくださっております。ここにこそ、私どもの希望があることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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