聖書のみことば
2013年2月
2月3日 2月10日 2月17日 2月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら 音声でお聞きになりたい方は
こちらまでご連絡ください
 

 風や湖さえも従う
2月第2主日礼拝 2013年2月10日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第4章35~41節
4章<35節>その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。<36節>そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。<37節>激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。<38節>しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。<39節>イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。<40節>イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」<41節>弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 35節「その日の夕方」とあります。「その日」とは、4章の最初を受けております。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた(1節)」「その日」なのです。その日、主イエスは、舟で向こう岸に行かれるまで「教えて」おられます。「種まきのたとえ」で「神の国」について話してくださいました。「灯、成長する種、からし種」と、譬え話で人々の聞く力に応じて教えられました。

 ここで「その日」と記すのは、その日の主の姿を思い起こさせるためです。その日の主の姿は「教えてくださっている主イエスの姿」です。しかしそれは、主イエスが、単に御言葉を教える教師に留まらないお方であることを強調するためなのです。41節「風や湖さえも従わせる、力ある方である」ことを示すためです。マルコによる福音書は、教える方としての主イエスの姿を強調しますが、それだけでは駄目で、「神の権威を示すお方」として、主イエスを受け止めなければなりません。

 また「夕方」ということも大切です。夕方は一日の仕事を終える時であり、それは「休みの時」が来たということです。なぜ、主イエスは「向こう岸」に行かれるのでしょうか。群衆と一緒だと休めないからです。主イエスがいらっしゃる限り、人々は自ら去ることはありません。しかし、群衆には休みが必要です。人々を休ませ、そしてご自身も休まれるために、主は自ら向こう岸に行ってくださるのです。
 「休み」とは、「平安を得る」ことです。「平安」につながる「休み」でなければ、本当の休みとは言えません。しかし、私どもは身も心も一つですから、心配事でもあれば、肉体は休んでもなかなか平安な休みを得たことにはなりません。
ここで、主イエスは群衆に御言葉を教えてくださり、家に帰らせて休ませてくださいました。「主イエスが休みを与えてくださる」ということは、「御言葉のうちにある平安、神にある平安を与えてくださる」ということです。

 前にも話しましたが、ユダヤでは夜から一日が始まるのです。「日の出と共に始まる一日」と「日の入りと共に始まる一日」では、それぞれにリズムが違います。日本人は、「おはようございます」の挨拶と共に、今日も一日頑張ろうと自分自身を鼓舞することから一日を始めますが、ユダヤ人は「休み、眠り」から一日を始める、それは「神に委ねる」ことによって一日を始めるというリズムです。このリズムによって、「神に委ねる」という「信仰の姿勢」を身に沁みて教えられているのです。人は、自分の実感でさまざま思うものですから、こういう事柄にも学ぶべきことがあるのです。
 主イエスは、群衆に「帰りなさい」と強いたりはなさいません。主は「自ら退く」ことによって、人々を帰路へと、休みへと促してくださるのです。主が休みをくださる、それは人々に平安をくださることです。御言葉をくださった主イエスを感じつつ、帰路につく、そこに平安があります。
 そして、主イエスご自身が疲れを感じてくださる、休みを必要としてくださることの恵みを思います。主は神の子ゆえに、限界など無いお方です。けれども、主は人の子としてお生まれくださったゆえに、人の疲れをご自分のものとしてくださいました。疲れる者と一つものとなってくださるお方であることを覚えたいと思います。
36節、弟子たちは、主を乗せた舟を漕ぎ出します。「ほかの舟も一緒であった」のですから2艘の舟でしょう。弟子たちのうち、少なくとも4人はガリラヤ湖の漁師です。その弟子たちに、主は「ご自身を委ねてくださって」、向こう岸に行かれます。他福音書を読めば、主は水面を歩いて渡ることのお出来になる方なのですから、弟子たちにご自身を委ねる必要はないのです。

 37節「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と記されております。ヨルダン川から死海に流れ込む地形から、ガリラヤ湖も谷間にあり、「突風が吹く」ことは考えられることです。「水浸しになる」ことは、漁師であれば経験もあり、また、それに対処する技も持っていたことでしょう。
 ここで驚くべきことは、水浸しの状況で、38節「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」ということです。どのような嵐をも、主イエスは問題にされません。嵐の中で、なお、主はご自身を弟子たちに任せておられる、これは出来ることではありません。

 神にすら委ねられない私どもです。このような状況で、私どもであれば、人に委ねることなど出来ません。
 神に委ねられないこと、それが「人の罪」です。不平不満で平安がない。人の不平は、どこにあるのでしょうか。それは、神に委ねられないところにあるのです。
 この状況の中で、弟子たちは精一杯のことをしたでしょう。しかし、力が尽きて、「イエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」というのです。弟子たちはここで、主イエスを「先生」と呼んでおります。「先生、教える方」として、イエスを覚えているのです。イエスを「神なる方、主」と捉えていないことが、ここで分かります。ですから、4章の初めを受けての話であることが分かるのです。

 弟子たちの姿に、主イエスのことを心配する様子はありません。それどころか「関わってくれない」と、主の愛情の無さを非難しているのです。「助けを求める」という姿ではありません。「私たちを放っておくとは、何と冷たい」と非難しているのです。
 彼らは何と身勝手なことでしょう。彼らには、漁師として、その道の専門家としての自負があるはずです。ですから、それでやっていける間は、「主に頼もう」とは微塵も思いません。けれども、自力で行き詰まってしまうと、そこでは、神のせいにするのです。
 人が神を求めるのは、神が「信頼せよ、任せよ」と臨まれるからではありません。人は、自ら行き詰まったところで求める、そこで初めて「神が神であられる」ことを知るのです。人は、挫折しなければ、神を、主を呼ぶことができないのです。

 主は、待っていてくださいます。
 人の、社会の行き詰まり・破綻は、神に責任があるのではありません。けれども、その行き詰まり・破綻の果てで、例えそれが非難の言葉であったとしても、神は、主は「人が神を呼ぶ、主を呼ぶ」ことを良しとしてくださっているのです。
 自然の威力の前に、無力でしかない者であるにも拘らず、弟子たちは、主イエスに任せることはありませんでした。けれども、主イエスは、無力な者たちにご自身を任せてくださっているのです。この違いはどこにあるのでしょうか。
限界があり破綻する者でしかない、そのような者に、主イエスはご自身を委ねてくださる。それは、主イエスが「父なる神にご自身を委ねておられる」からです。「父なる神と一つなる方」として、神に全く信頼し、神の御心に従ってくださったのです。

 何かの事柄を「人に任せる」ということは、その人の持つ力に信頼するということではありません。神に対する全幅の信頼があってこそ、人の技に任せるということが可能なのです。例えば医術がそうでしょう。たとえ結果がどうであったとしても、そこに信頼する神の恵みを見出すことが出来る、だから任せられるのです。
 信じるべきは、頼むべきは、ただ「神のみ」であります。
 人は信じるべき存在ではありません。しかしその上で、人は「愛するべきものである」と、神は言われます。神への信頼があってこそ、たとえそれがどういう者であったとしても、人に任せるということが出来るのです。そこに神への信頼がないから、人への不平不満が起こるのです。神への信頼がなくなれば、信仰の交わりも破綻してしまいます。神への信頼がなければ、他者を非難する以外なくなるのです。
 主イエスに不満を言い、非難するしかない弟子たちに、主はご自身を任せてくださいました。それは父なる神への信頼によるのです。

 39節「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた」と記されております。主イエスは、まず、弟子たちの眼前の問題である風と湖を治められます。主イエスの御言葉は、自然をも従わせる「権威ある言葉」です。「自然」とは神の創造の業であり、そこに示されることは「神にある秩序」です。主イエスは、その自然に対して「黙れ。静まれ」とお命じになる。ここに、主イエスが「神なる方」であることが示されているのです。
 弟子たちから「先生」と呼ばれた方は、単なる教師ではありません。「神の子」として「神と一つなる方、神の権威を持つ方」なのです。

 40節「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、主は言われます。「神への信頼」へと、弟子たちを招いてくださっているのです。けれども、「神の権威が示され、神へと招かれる恵みが与えられている」にも拘らず、弟子たちは、主イエスを「先生」だと思っているので、41節「いったい、この方はどなたなのだろう」と訝っております。何と不信仰なことでしょうか。
 ここまで示されているにも拘らず、信じられない「人の不信仰」を、聖書は語っております。
 けれども、そのような不信仰な者と共に、主イエスはあってくださるのです。それでも「共にいてくださる」のです。
 「共にいて」くださった主イエスを見出せなかった弟子たちです。けれども、それにも拘らず、弟子を弟子として、ご自分の側においてくださる。それが主イエス・キリストです。

 覚えたいと思います。主イエス・キリストが私どもと共にあってくださる恵みを覚えたいと思います。全てを任せられない、そういう私どもと共にあってくださるのです。

 41節の言葉は、主に対する不信仰、分からないということのままで終わっております。けれども、主イエスはそこに、その弟子たちと共にいてくださっております。ここにこそ、私どもの希望があることを、感謝をもって覚えたいと思います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ