聖書のみことば
2024年1月
  1月7日 1月14日 1月21日 1月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

1月28日主日礼拝音声

 祈り
2024年1月第4主日礼拝 1月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第3章21〜22節

<21節>民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、<22節>聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 ただ今、ルカによる福音書3章21節と22節をご一緒にお聞きしました。
 ここに語られているのは、主イエスが民衆に混じって洗礼をお受けになった時の記録です。主イエスが洗礼を受けられたことを伝える記事は、福音書の中では、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書の3つに出てきますが、長さで言うと、このルカ福音書の記事が最も短く、わずか2節しかありません。けれどもここには、他の福音書の記事には現れない、きわめて重大なことが語られています。それは、洗礼を受けられた時、主イエスが祈っておられたという姿です。洗礼をお受けになった時、主イエスが祈っておられた姿を伝えるのは、このルカによる福音書だけなのです。

 今日の記事だけではありません。ルカ福音書には、折に触れて祈りをささげる主イエスの姿が語られます。たとえば6章12節以下で、主イエスが弟子たちの中から12人をお選びになった時には、その前の晩、一人で山に上って夜通し祈りをささげ、そして12人をお選びになったことが記されています。また9章で、主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という重大な問いをお尋ねになり、それに答えてペトロが「神からのメシアです」と返事をした時にも、その直前のところで主イエスが神に祈っておられた姿が、さりげない仕方ですが記されています。さらに9章28節以下で、主イエスが山に上りエルサレムで遂げることになる最期のことを思って祈っておられるうちに、そのお姿が変わったという出来事も記されています。更に先へ進んで、主イエスが捕らえられ十字架におかかりになる直前の場面でも、主イエスはゲツセマネの園で祈っておられました。
 主イエスにとって神に祈ることは、神から与えられた御自身の務めを果たし生きてゆくためには、きわめて大切なことだったのです。神に絶えず祈りをささげて、何が神の御心であり、「神はわたしに何をお求めなのか」を真剣に尋ね、神の御言に聞き、励まされながら一歩一歩を歩んでゆかれる主イエス・キリストの姿が、この福音書からは聞こえてきます。

 そして主イエスのそのような姿は、弟子たちに感化を与えました。ルカによる福音書の第2巻となる使徒言行録には、主イエスの弟子たちもまた、祈って道を尋ね求め、そして祈りによって示された道を神に信頼して歩んだことが語られています。例えば使徒言行録2章には、聖霊が降って最初の教会の群が誕生したことが語られるのですが、その直前の1章14節には、イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちや主イエスの母マリア、また弟たちが心を合わせて祈っていた様子が語られています。2章42節にも、エルサレムに誕生した最初の教会が祈りに熱心であったことが語られています。
 このように、主イエスがもともと熱心に神に祈る方であり、その主に感化されて、主に連なる教会の群も熱心に祈るように導かれていたことが、ルカによる福音書と使徒言行録をとおして述べられています。今朝はまずこのことを聞き取り、受け止めたいと願います。祈りこそ、教会がこの世にあって神の民として歩んでゆく上で、きわめて大切なものであり、私たちがキリスト者とされて歩む上での力の源であることを憶えたいのです。

 今日の箇所には、民が皆洗礼を受け、主イエスもまた、その民に混じって洗礼をお受けになったと語られていました。このことは、主イエスが私たちのただ中にやってきて、何も変わらない一人の人間として人々の間に立ってくださったことを表しています。
 注意して聞きたいのですが、主イエスは洗礼を受けて祈っておられたと記されますが、同じように洗礼を受けていた民衆の方は、祈っていたと言われていません。もちろん、洗礼を受け、神の民の一人として生活できるようにされたことを感謝して、神から離れずに生きてゆけますようにと祈った人もいただろうと思います。ですが皆が皆、そんなだったということではなかったようです。洗礼を受けさえすれば、ひとりでに祈れるようになる訳ではないようなのです。
 しかしそれはさて置くとして、祈りをささげることは信仰生活において大切なことです。主イエスが祈っておられた時に姿が変わり、本来の御自身の栄光の姿を現してくださったことがこの先に語られていますが、お祈りをささげる生活の中で、私たちにも神が親しく臨んでくださり、御言を語ってくださるという経験をすることがあります。そういう中で、神がどのようなお方であるかが示され、またその神の前で私たち自身がどのように生きるのかが示される、その時に私たちは本当に、キリスト者らしい姿を与えられていきます。お祈りは、キリスト者がキリスト者らしく生きてゆくことができるようになるための力の源です。ですから主イエスも折々に神に祈りをささげながら、御自身の救い主としての歩みを歩んでゆかれたのでした。
 たとえ今、私たちがどのように祈るべきかを知らず、どう祈ったらよいか分からないとしても、そんな私たちのために、主イエスが祈ってくださっています。今日の箇所で、洗礼を受けた人が皆祈っていたのではないけれど、洗礼を受けた主イエスが祈っておられたのは、祈れない人たちのことを憶えて、とりなしの祈りをささげてくださっている主イエスの姿です。
 とりなしの祈りというのは、自分では祈れない人たちのために、他の人が代わりにその人のことを憶えてささげるお祈りです。私たちに、もしキリスト者でない家族がいる場合に、そういう祈れない、親しい者たちを憶えて私たちがささげる祈り、「どうか神さま、この人が生活の中で神から力をいただいて生きていくことができますように」と祈る、それがとりなしの祈りです。主イエスは、洗礼を受けて人々のただ中に共に立ってくださり、そして祈ることのできない人たちのために代わりに祈ってくださいました。主にとりなしの祈りをささげて頂いた人たちは、その人自身が祈れるようになった時には、他の祈れない人たちを覚えて祈るようになります。それは、自分自身が主イエスにとりなされ祈って頂いたためです。

 ところで、主イエスがそのように祈りをささげてくださった時、天が開かれたことが語られています。21節に「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け」とあります。一体全体、「天が開く」とは、どういうことなのでしょうか。天に門があって開いたり閉じたりするのでしょうか。この場面を映像のようにイメージするのは、少し難しいかも知れません。
 しかし旧約聖書の中には、天が開かれることを信じて懸命に祈りをささげた預言者が出てきます。イザヤ書6章の終わりに出てくる無名の人です。この人は、次のようなお祈りをささげました。イザヤ書63章19節に「あなたの統治を受けられなくなってから あなたの御名で呼ばれない者となってから わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」とあります。この預言者はバビロン捕囚から解放され故郷であるエルサレムに戻ったユダヤ人たちの中にいた一人です。長い間、バビロンで捕らわれの身となっていましたが、バビロニアがペルシアに滅ぼされ、そしてペルシアのキュロス王が捕虜となっていたユダヤ人たちに、故郷に帰って良いと勅令を出しました。故郷に戻りさえすれば、再び神殿で礼拝をささげ、昔のように神に信頼して安らかに生活することができると思って帰って来たのです。ところが、現実は思うようには運びません。ユダヤの外には外敵がいて神殿再建を阻もうとします。またユダヤの内側にも、外国の神々を心の中で拝む人たちが現れます。せっかくユダヤに帰って来たにも拘らず、神に従うことを拒むような力が多く働いて、なかなか思い描いたように神だけに信頼して生きる生活に入れないのです。そういう中で、この預言者は祈りました。「どうか神御自身が天を裂いて、私たちのもとに降ってくださるように。そして親しく私たちに臨んでくださり、どう生きるべきかを示してくださいますように」と祈りました。
 今日の箇所で、主イエスがとりなしを祈っておられると天が開かれたというのは、言ってみれば、このイザヤ書に登場する預言者が真剣に神にささげていた祈りが聞き上げられたようなことが生じているのです。イザヤ書の時代には、神が人間にとってよそよそしく感じられ、神に信頼するよりも手近な偶像に頼った方が良さそうだと思う人たちも大勢いました。しかしそういう中で、一人の預言者が、「目に見えない神が、どうかこのわたしのもとに天を裂いて降ってきてください。神さまが親しく臨んでくださいますように」と願った祈りが聞き上げられた、それが「天が開かれた」という出来事です。

 神は主イエスの祈りを聞いて、天を開いてくださいました。私たちが神のことをまだ本当にはよく分からず、どう祈って良いのかもはっきりせず、そのために自分の祈りがただの独り言のように感じられてしまう、虚しく思うような時にも、主イエスがそんな私たちの覚束ない祈りを憶えてとりなしを祈ってくださっているので、私たちの祈りは確かに神の御前に届くようにされています。ですから私たちがお祈りをささげる時には、最後のところで、「このお祈りを、主イエス・キリストのお名前をとおしてささげます」と祈りますが、それは、主イエスが神と私たち人間の仲立ちをしてくださっているからです。主イエスがとりなしてくださるので、私たちの祈りも確かに神の御前に憶えられているのです。

 さて、ここにはそのように主イエスがとりなしを祈ってくださり、天が開かれたとき、聖霊が鳩のように見える姿で主の上に降って来たと語られています。これはあたかも手品師がシルクハットの中から鳩を出すような魔術か幻のようなことが起こったと言っているのではありません。魔術や魔法は、主イエスの御業からは最も遠いものです。
 聖霊が見える姿で降ってきたというのは、これを裏返しにして逆の側のことを考えるとよく分かります。即ち、主イエスが世の人々のために祈って下さったこの時代には、聖霊の働きが人々の目から隠されてしまっていて、神の霊の働きや神の力が弱々しく、既に消え去っていたかのように思われていたのです。今日から見れば、2000年前の時代はまだ未熟な時代であったように思われるかも知れません。しかしおそらく、今から2000年後に生きる人たちが今の私たちの時代を見る時にも似たような感想を持つかも知れません。2000年前の昔の人たちも、その時代にあっては時代の最先端を生きていました。そしてそのように最先端を生きていた人たちは、肉眼に見えない神に信頼して平安に生きるよりも、自分たちの処世術や自分たちの力、手近な偶像に依り頼んで生きようとしていたのです。神に信頼して生きようとするよりも、自分自身の知恵や力に任せて生きようとする人たちの目には、神の恵みに満ちた御業も霊の働きも映らなくなるものなのです。
 人間が誰一人本当には神に信頼せず、心の底からの期待を寄せなくなっていたときに、しかし主イエスは、神に信頼して御業が行われることを待ち望まれました。そしてそういう主イエスには、神の霊の働きが鮮やかに目に見えたのです。それがここに語られていることです。

 神の霊の働きに目を上げようとせず、人間の知恵や力にばかり心が向かうところでは、御言は沈黙するようになります。それは神がお語りになる言葉をお持ちでないからではありません。聖霊が働いてくださることへ思いを向けようとせず、期待もしないところでは、神の言葉が語られてもそれに耳を傾けようとしなくなり、そういう人にとっては、御言は沈黙していってしまうのです。
 神の言葉が聞こえなくなるということは、神を抜きにして生活する者たちに対する一つの裁きの姿です。神の裁きというとおどろおどろしいことを想像するかもしれませんが、神の裁きというものは、天変地異が起こったり、戦争に巻き込まれたりすることで生じるのではありません。天変地異も戦争も、この世界の中では起こらざるを得ないものだと、主イエスが教えてくださったことがあります。この地球は、内側に炊熱のマグマを抱えている以上、内部は対流して地震が起こりますし、また私たち人間が罪人であって隣人のことよりも自分自身のことを先に考えてしまうような心の傾きを持っている以上、私たちの生活の中で妬みや争い事は起こってしまうものです。それは必ず起こり、また時に破壊的に感じられる場合もありますが、それ自体が神の裁きというのではありません。裁きは御言が聞こえなくなるところに起こります。
 旧約聖書の中で預言者アモスが、一つの飢饉を予言しました。「その日には大地に飢えがもたらされる。それはパンに飢えたり飲み水に渇く飢饉ではなく、主の言葉を聞くことができなくなる飢饉である。人々が海から海へ、北から東へとよろめき歩いて捜し求めても、それを見出すことができない飢饉がやってくる」と警告していたとおりに、イスラエルの人々は長い間、聖霊の働きを見ることができなくなり、また御言も聞かれない中を歩んでいました。
 けれどもそうした一時の裁きに、この時、終止符が打たれました。神が真のメシア、救い主を地上に送って下さり、その方が洗礼をお受けになり、私たちと同列の人間として生きる者となってくださり、とりなしを祈ってくださった、その時に天が開かれ、聖霊の働きが見られるようになり、そして御言が聞かれるようになったのでした。神と私たちの仲立ちとして救い主イエス・キリストが私たちのただ中に来てくださり、私たちのための救いの御業が始められた、それが今日の箇所なのです。

 そしてこのことは、今も教会のただ中で起こっていることだと思います。私たちは、礼拝をおささげするこのところで、聖書をとおし神の御言を聞き、神の力が私たちの上に及んでいることを聞かされ、自分自身の人生を思い返しながら、「本当にそうだ」と気付かされます。それは主イエスが共に歩んでくださっていて、私たちのためにとりなしを祈ってくださっているからこそ、起こることです。私たちの教会生活は、主イエス・キリストと共にあることを忘れてはならないと思います。主が共に歩んでくださる生活の中で、私たちは信仰を与えられて生きていくのです。
 よく、信仰が人間の心の内の事柄だと思い違いをなさる方がいらっしゃいます。確かに、私たちが主イエスを信じるのは心の内に信じるのですから、心の信仰は大切なのですけれども、しかし私たちは、自分の心の思いによって神に結びつき、つながるのではないのです。もしも心の事柄でしかないとすれば、いつも申し上げていますが、私たちの心は始終移り気で一定していませんから、神との結びつきは常にあやふやになってしまいます。今この礼拝堂にいる時は信仰があっても、教会を後にして帰宅してしまえばその瞬間にすっかり忘れてしまうようなことだってあり得るのです。
 私たちの心は定まりがありませんが、主イエス・キリストがそういう私たちのただ中に立ち、弱い私たちのために祈ってくださり、神と結びついて私たちが生きるようになる拠り所となっていてくださいます。教会とはそういう群れであり、私たちはそういう中に置かれてそれぞれに命を生きているのです。

 ところで、主イエスの上に神の霊が降り、主イエスが神の霊に励まされ、力を頂きながら御業に用いられることを確信されたその時に、主イエスは同時に、神の御声をお聞きになりました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声です。
 この言葉は主イエスに語りかけられていますが、主イエスは教会の頭ですから、これは、主イエス・キリストに体としてつながっている私たちにも語りかけられている言葉です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の御言は、私たちに無関係なのではありません。神が主イエスをとおして教会の群れ全体に語りかけておられ、教会の民として生きる私たち一人ひとりにも語りかけてくださっている言葉なのです。
 その際、私たちが「神に愛されている。愛のもとに置かれている」ということは分かるような気がするのですが、その次の「わたしの心に適う者」というのは、一体どういう意味なのでしょうか。「神の御心に適う人」というのは、そもそも主イエス以外にいるのでしょうか。この言葉を注意して聞きたいのですが、もともとのこの言葉を直訳するなら「あなたの内にあって、わたしは確かに喜んでいる」となります。キリストの内に神がおられ、また喜んでおられるというのです。ですから、その主イエス・キリストを私たちが自分の主と信じて自分自身の中にお迎えする時には、神の喜びもまた、私たちの内に宿るのではないでしょうか。
 主イエス・キリストは、その生涯を神の御心に従って歩まれ、十字架の苦しみと死を私たちのために耐え忍んで下さいました。しかし神は、そういう主イエスを喜んで下さり、死の先に復活の朝を備え、永遠の命によみがえらせて、生きる方としてくださっています。主イエスが生きておられるので、私たちもその主イエスに招かれ、教会に集っているのです。
 主イエスが今も生きておられ、教会の頭として私たちにつながっていてくださり、私たちの主でいてくださるのだとすれば、私たちは主イエスを自分の中にお迎えして、私たちもまた次第に、主イエスと似た者にされていくのではないでしょうか。すなわち、神の喜びがこのわたしの中にも与えられていることを知らされて、愛され喜ばれている者として生きるという新しい思いを与えられるのではないでしょうか。

 私たちの地上の生活にはさまざまな苦難や悲しみがあります。私たちはそれを表には出さないとしても、一人ひとりいろいろな思いを抱えながら生きています。しかし主イエスが共にいてくださるのであれば、私たちは全てを主に助けられ、支えられ、耐え忍んで生きることができるようにされているのです。たとえ状況が困難だとしても、私たちは決して、自分一人だけが捨てられ、孤独の中にいるのではありません。神が今日も一人ひとりを憶えていてくださり、「あなたはわたしに愛されている者として、喜ばれている者として生きるのだ」と、私たちのうちにおられる主イエス・キリストをとおして語りかけてくださるのです。

 もっとも私たちにはそれぞれ弱さがあり、そのために誠実には生きられないようなところがあります。少し辛いことや苦しいことに出会うと、すぐに意気地がなくなり、死を望んでしまうような弱さがあるのです。そのために私たちは、「こんなに弱い自分、情けない自分が神の御心に適うはずがない」と、つい考えてしまいがちです。
 しかしそうではありません。教会の頭として私たちのただ中に来てくださり、共に生きてくださる主イエスは、死の苦しみを越えてなおも生きておられる方であり、私たちの弱さや情けなさにはるかに勝って力強いお方です。聖書はそう語っています。私たちは、そう信じて生きるべきなのです。

 テモテへの第二の手紙2章11節から13節に「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」とあります。
 主イエス・キリストが、御自身の真実をもって私たち一人ひとりを祈りの内に憶え、とりなしてくださっています。それは、その場限りの消えていく虚しい祈りではありません。私たちと共に生きてくださる、そういう祈りです。

 主イエスのとりなしの中に置かれていることを感謝し、私たちに与えられている神の喜びを知り、主に従う者として、新しい一巡りの歩みへと遣わされたいのです。お祈りを捧げましょう。
このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ