聖書のみことば
2024年1月
  1月7日 1月14日 1月21日 1月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

1月21日主日礼拝音声

 洗礼
2024年1月第3主日礼拝 1月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第3章15〜20節

<15節>民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。<16節>そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。<17節>そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」<18節>ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。<19節>ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、<20節>ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 ただ今、ルカによる福音書3章15節から20節までをご一緒にお聞きしました。15節に「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」とあります。
 一世紀のユダヤの人たちの中に、洗礼者ヨハネに対する大きな期待のあったことが述べられています。けれども、この言葉は誤解して受け取られやすい言葉でもあります。「民衆がメシアを待ち望んでいた」とありますが、「メシア」という言葉を聞かされますと、私たちは、主イエスのような救い主を思い浮かべるのではないでしょうか。即ち、当時の民衆の中に、自分たちを苦しみの中から導き出してくれる古のモーセのような救い主を待ち望む思いが渦巻いていて、その思いと期待がヨハネに向けられていたと感じるかもしれません。当時のユダヤの状況を考えますと、そういう期待があってもおかしくありません。ユダヤがローマ帝国の支配を受けていたことや、そのローマ帝国の支配が皇帝の代替わりで揺らいでいたこと、また大祭司と呼ばれる人物がエルサレムに複数いてイスラエルが神の民として生活してゆく上での権威が失われていたことなどを考えますと、当時のユダヤ人の間に救い主の訪れを待望する思いが生じていたとしても不思議ではありません。

 けれども、これは調べてみると少し意外なことなのですが、当時の記録の中で、「メシア」という言葉を「救い主」という意味で用いている文書は、主イエスについての記録を別にすれば、他に一つもないことが知られています。「メシア」という言葉はしばしば使われています。けれども、ここで「ヨハネがメシアではないかと思われていた」と言われていることは、ヨハネを救い主と考えていたということではないようです。
 では、「ヨハネがメシアではないかと思われていた」とは、どういうことなのでしょうか。もともとメシアというのは、「油を注がれた者」という意味です。旧約聖書の中で、特別な神の務めに立てられる時、その人の頭に油を注いで務めに任命するということがありました。神の務めのために油を注がれて職務に就いた人たちが「メシア」と呼ばれたのです。特別に神の務めに取り分けられていることを表すしるしとして、油を注ぐことが行われたのでした。
 旧約聖書によれば、油を注がれて就く務めには3種類の務めがありました。まずはモーセの兄アロンを始めとする祭司たちです。出エジプト記30章30節に「アロンとその子に油を注いで、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなさい」という神の御命令の言葉が記されています。アロンを最初に、その跡を継ぐ祭司たちは、代々油を注がれて神にお仕えする祭司の務めに任じられました。
 祭司の次に油を注がれて務めに就くようになったのは、サウルを始めとする王たちです。サムエル記上10章に、サムエルが油をサウルの頭に注いでイスラエルの王としたことが記されています。後にサウル王が神の御命令に背いて神から捨てられてしまうと、ダビデ王が次の王に立てられましたが、ダビデもまた油を注がれて王として立てられました。そのように、イスラエルの王も油を注がれて立てられたのでした。
 そして、最後に油を注がれるようになったのが預言者です。列王記上19章18節に神の御命令が記されていて、そこにはシャファトの子エリシャの頭に油を注き、預言者として立てるようにとの指示が語られています。このように、旧約時代のメシアには3つの務めがありました。

 では、洗礼者ヨハネは、その中のどんな役目を担う人物と目されたのでしょうか。ヨハネは実際、預言者でした。
 もっとも、ヨハネ自身が自分で預言者だと名乗ったことはありません。今日の箇所でも、民衆の中にヨハネがメシアとして立てられているのではないかという期待があったということだけが記されていて、ヨハネ自身はそのことを肯定も否定もしていません。ルカによる福音書では、ヨハネが自分の務めをどのように理解していたかは、はっきりと記されていないのですが、聖書全体に視野を拡げてヨハネがどのように考えていたかを探ってみると、ヨハネによる福音書1章20節で、洗礼者ヨハネが「わたしはメシアではない」と公に言い表している箇所があります。その言葉通りに受け取るならば、ヨハネ自身は自分のことを、メシアつまり祭司や王や預言者だとは思っていなかったということになります。
 しかし預言者の務めというのは、人間が自分でなろうと思ってなるものではありません。神がその務めをお与えになります。そして神が務めをお与えになる場合には、その本人がたとえ務めを拒んでも、務めに就かされることもあるのです。例えば旧約聖書に出てくる預言者ヨナはその代表です。神から「ニネベに行って神の御言葉を伝えるように」という務めを与えられた時、ヨナはそれを拒否して、ニネベとは逆方向のタルシシュという所に向かう船に乗り込んで、預言者の務めを決して果たすまいと抵抗しました。けれども神は不思議な仕方でヨナをニネベにお連れになり、預言者としてお用いになったことが、ヨナ書に記されています。
 ヨハネもまた、彼自身は自分が預言者であるとは思っていなかったかもしれません。けれども、実際には預言者として立てられ用いられていたのでした。
 この福音書を少し先まで読み進めて行きますと、7章24節以下で、主イエスがヨハネについて語っておられる箇所が出てきます。その中で主イエスはヨハネのことを、「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である」と言われました。主イエスは、ヨハネは最大の預言者だったとおっしゃいます。ヨハネは、自身がどう思っていたか分かりませんけれども、実際には、主イエスを指し示す務めを与えられた預言者でした。

 今日の箇所でも、ヨハネは「洗礼」ということを巡って、ヨハネの宣べ伝えていた洗礼と、自分の後から来られる方、主イエスと一つに合わされる洗礼には違いがあることを語っています。そういう仕方でヨハネは、主イエスこそが人間を本当に神の前に生きる者としてくださる救い主であることを指し示したのでした。16節に「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』」とあります。
 ヨハネは、自分が宣べ伝えた洗礼は水の洗礼であると語ります。世の中に不正や不当なことが横行して、それに流されて過ちを重ね、神の前に罪を犯して歩みがちな自分自身を悔い改め、今からは、神の者としてふさわしく生活するという悔い改めを言い表した人たちに、ヨハネが罪を洗い流したしるしとしての洗礼を施していました。この洗礼は、悔い改めが求められましたから、洗礼の儀式や行いに意味があるのではありません。「本人が悔い改めて、生き方や心の向きを変えることこそが本当の清めだ」とヨハネは教えました。そしてこういうヨハネの教えは、当時の人々の共感を呼びました。
 旧約聖書を読みますと、ヨハネが洗礼を宣べ伝える前にも、洗礼に類する「洗い」ということは多く出てきます。例えば、死の出来事に触れたり、様々な失敗や汚れに触れた時に、それを洗い清めるために、自分で自分を清めるという行いがありました。しかしヨハネは、そういう清めではなく、「本当に神さまの者として生きようとする思いを持たなくてはならない。洗礼とはそういうものである」と言って、ヨハネのもとで悔い改めを言い表した人には、ヨハネが洗礼を授けていました。そして、多くの人がその噂を聞いてヨハネを訪れ、洗礼を授けてもらっていました。
 しかしヨハネ自身は、自分が施す洗礼の限界を知るようになりました。人間がどんなに心の底から悔い改め、過去の自分の罪と決別しようと決心しても、人間の決心だけでは、本当に清らかな生活を続けてゆくことはとても難しいことを、ヨハネはよく分かっていたのです。悔い改めた当座は良いのですが、その思いは長続きしません。水による洗いだけでは、人間の罪を洗い流すことができないことを、ヨハネはつくづくと思っていました。

 従ってヨハネは、彼の施していた洗礼が、洗礼を受けた人のその後を決定づけるものではなくて、更に、ヨハネの後からやって来られる優れた方が必要であることを予感していました。ヨハネの洗礼、水による洗いだけでは、人間が本当に神の者としての正しくふさわしい生活ができないとすれば、本当に神の民として生活できるようにしてくださる、来たるべき方が現れた時、その方の施す洗礼とヨハネの洗礼とは天と地ほども違うことになります。そのことを言い表すためにヨハネは、とても印象的な言葉を語りました。16節に「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」とあります。これは当時の人々にとっては、とても心に残るよく分かる言い方だったのでした。
 当時、主人の履物のひもを解く仕事は、奴隷の仕事だったと説明されます。実際その通りだったのですが、それは不充分な説明です。履物のひもを解く仕事を与えられる奴隷はユダヤ人ではなく、異邦人の奴隷でした。同じ奴隷の中に更に格差があったのです。当時の履物はサンダルのようなもので、外を歩いて来れば、足には土ぼこりが沢山ついています。履物を脱かせるためには、その汚いほこりにまみれたひもを解かなくてはならなかったのですが、借金のため、たとえ奴隷に身分を落としていても、同じユダヤ人にはその仕事はとてもさせられませんでした。神の民の内に数えられない異邦人の奴隷にだけ、ひもを解く仕事が課されました。ところがヨハネは、本当に神の民とされる洗礼を授ける方の前では、自分はその異邦人奴隷以下の者でしかないと言ったのです。これは即ち、ヨハネが伝えていた水の洗礼と、来たるべき方がもたらしてくださる「神の者とされて生きる洗礼」とは、まるで違うことを言い表しているのです。

 ヨハネの教えた水の洗礼が人間自身の回心と決意に基づくものであるとするなら、来たるべき方の授ける洗礼は、それとどう違うのでしょうか。
 ヨハネは、来るべき方のお授けになる洗礼は「聖霊と火による洗礼」と考えました。「聖霊と火による洗礼」とは、どういう洗礼なのでしょうか。それは、迫害され苦労することも多いけれど、聖霊が常に働いてくださり、その人の信仰を精錬して輝かせるような、そういう洗礼を言い表していると思います。
 「聖霊と火による洗礼」と言われている火は、貴金属を精錬するために用いられる浄めの火です。それは全てを焼き尽くして滅ぼす裁きの火とは違います。このことを説明するために、ヨハネは更に17節に「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語りました。この17節の言葉は、16節に言われている聖霊と火による洗礼を説明する言葉で、聖霊と火による洗礼の様子を語っています。
 手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにするとは、どういう様子でしょうか。箕というのは、私たちが日本で目にするものは、竹などで編んだ取っ手のないチリトリのような形をしています。その中に穀物を入れてあおり、実ではない殻やゴミを取り除く際に用いられます。しかしパレスチナ地方の箕は少し違うのです。それは取っ手のある木で造られたシャベルの形をしていて、収穫した麦を平たいテーブルのような石がある脱穀場に置いたら、平たい木の棒で麦を上から叩いて、殻と実をより分けました。あるいはかなり大きな岩がある場合には、重い丸太に縦方向に沢山の刻み目を彫り込み、その丸太の両端をヒモで結んで牛に引かせることもあったようです。すると丸太は、無数の刻み目がついたテニスコートを制備するローラーのように麦の上を転がり、何往復かさせると、麦の殻から実から外れて脱穀ができたのでした。つまり、後で倉庫に入れられる麦の種は、脱穀の時に棒で叩かれたり丸太のローラーで圧迫されたりして、殻から外されて実だけになるという行程があったのです。
 そしてそれが、来たるべき方の洗礼を受けて神の民としての生活を始めた人たちが、この世にあって圧迫されたり、厳しい迫害に遭う様子を表しています。そういう厳しい経験をとおして、信仰が純度を増して、最後には神だけに信頼するように精錬されてゆく様子が、脱穀場の麦の姿を通して語られているのです。
 つまりヨハネは、彼が宣べ伝えた水の洗礼は、神の方に向きを変え、神の者にふさわしいと決心して生きる人たちを産み出すけれども、それだけでは、本当に神の者となって生き続けることはできないと考えました。けれども、ヨハネの後からおいでになる方は、ヨハネとはまったく別の洗礼をお授けになると語りました。その洗礼を受けた人たちは、脱穀場で麦の実がしたたかに打ちすえられたり重い圧迫を受けたりしながら殻と実が分離されて有用な実だけが残るように、厳しい火の中を通るような経験をするのですが、しかしそれはただ単に火で焼かれるということではなく、聖霊が絶えず伴ってその人の信仰を励まし、純度の高い金や銀のような輝きをもたらすのであって、来るべき方の洗礼はそういう洗礼なのだと、ヨハネは言い表しました。

 この時にヨハネが、主イエスの十字架の苦しみを通しての御業を予想できていたのかは、よく分かりません。今日の箇所の終わりで、ヨハネは領主ヘロデによって牢に閉じ込められますけれども、牢の中から弟子を主イエスのもとに遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか」と問い合わせたことが、この福音書の先の方に記されています。そのようなことを考えますと、ヨハネが主イエスの十字架までを予め予想できていたかどうかは、よく分からないのです。
 しかし、たとえ主の御業を隅々まで分かっていなかったとしても、ヨハネは、ただ人間の思いで神につながることができるのではなくて、神と人間がつながるには、ある実際の生活経験が必要なのだということに気がついていたのでした。キリスト者としての経験をとおして、その人の信仰が聖霊によって励まされ、純度を増し、神に結ばれた者としてふさわしくされていくのです。そしてそういう生活をもたらして下さる方こそが、まことの救の主であり、自分の後からおいでになる方なのだと教えました。そういう仕方で、本当の救い主である主イエス・キリストを指し示す預言者としての務めを、ヨハネは果たしました。

 キリスト教の信仰を、心の中の事柄だと思う人は少なくありません。けれどもヨハネは、人間が自分の心の思いによって神につながることが大変難しいことを教えてくれています。信仰は心の中の事柄ではなくて、実際に主イエスに従って生きていく生活の事柄です。その生活をとおして、私たちは神との交わりを生き、神こそが私たちの支えであり、拠り所となっていて下さることをしみじみと知らされてゆきます。
 キリスト教の洗礼はその入口であり、そして、聖霊に励まされて生きる生活が、この洗礼を受けることから始まります。私たちの生活がたとえ難儀なもので苦労が多くあっても、そのすべてを神は御存知であり、主イエス・キリストをとおして私たちを神に固く結んでくださり、どんな時にも御言葉によって支え、勇気を与え、その生活を生きるようにしてくださいます。
 そのような救いの御業に励まされ、一日一日を心をこめて生きる、幸いな僕としての生活を送りたいと願います。お祈りを捧げましょう。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ