聖書のみことば
2021年5月
  5月2日 5月9日 5月16日 5月23日 5月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月9日主日礼拝音声

 水の上を歩く主
2021年5月第2主日礼拝 5月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第6章16〜21節

<16節>夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。<17節>そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。<18節>強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。<19節>二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。<20節>イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」<21節>そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

 ただいま、ヨハネによる福音書6章16節から21節までをご一緒にお聞きしました。16節17節に「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」とあります。
 弟子たちを乗せた一艘の小舟がガリラヤ湖へと漕ぎ出して行きます。弟子たちは夕方には山を下りて来ていたのですが、湖に漕ぎ出した時には既に暗くなっていたと言われています。主イエスが山から下って来られるのを待っていたからでしょうか。「既に暗くなっていた」と訳されている言葉は、原文で読みますと大変興味深い言葉が書かれています。原文のニュアンスを生かして訳しますと、「既に真っ暗闇になっていた」と書いてあります。「既に真っ暗闇になっていた。けれどもまだ主イエスは彼らのもとにはきておられなかった」ということです。
 「真っ暗闇」と「主イエス」が対比されるようにして語られているこの箇所を聞きますと、ヨハネによる福音書の始まりのところに述べられていた言葉を思い出されるかもしれません。1章5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあります。この言葉は大変印象的です。真っ暗闇の中に、ポツンと一つの光が輝いています。1章5節の言葉が実際にはどういう現実を言い表したものなのか、イメージとして「光は暗闇の中で輝いている」という言葉は、私たちの心に残る言葉だと思います。
 1章5節では、「真の言葉である方の中に輝いている命が、人間を照らす光である」と知らされていました。「真の言葉である方」、「神の言葉そのものである方」、つまり「主イエス・キリスト」のことですが、主イエス・キリストの中に輝いている命、主イエス・キリストが私たちにもたらしてくださる命が、私たちを明るく照らし出してくださいます。真っ暗闇の中に輝く光というのは、私たちを照らすために主イエス・キリストが来てくださって、私たちを照らしてくださっているという現実なのです。
 ですから、この1章5節が語っている事柄は、「神の真の御言葉である主イエスによって、私たちが照らされる者になっている。ところが、この世の暗闇は照らしてくださる光である方を理解しなかった。却って、私たち人間は光よりも暗闇の行いを好んで、なかなか光の方に来ようとしなかった」、そういう有様を照らし出しているということです。

 さて、今日の箇所ですが、「既に暗くなっていた、すっかり暗黒に覆われていた状態」で、弟子たちはガリラヤ湖の暗い湖面へと漕ぎ出しました。主イエスから弟子に招かれ従っていた人たちが、あろうことか主イエスを抜きにして自分たちだけで沖合いに舟を漕ぎ出していきます。「既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」、なんとはなしに、不安にさせられるような言葉です。この言葉からは様々なことを考えさせられます。どうして弟子たちは、主イエスを抜きにしたままで危険な湖の上に漕ぎ出したりしたのでしょうか。「主イエスを後に残して」、もう少し言えば「主イエスを置き去りにしたままで」弟子たちは漕ぎ出しました。どうして彼らは、主イエスを待とうとしなかったのでしょうか。その理由は聖書の中には定かに述べられていませんので、確実にこうだと説明するわけにはいきません。
 けれども彼らは、今から漕ぎ出す先の航海はそんなに長い距離ではないし、また漁師上がりの弟子たちもたくさんいて、よく様子の分かっているガリラヤ湖のことなので、自分たちだけでも目的地に着けるだろうと思ってしまったようです。つまりこの晩の弟子たちは、「主イエスが共にいてくださらないならば自分には何もできない」とは思っていなかったということです。
 確かに、弟子たちに出来ないことはたくさんあります。例えば、大勢の人々を僅かなパンと魚で養ってあげるとか、長年病気を患っている人に命令して、その人が横たわっている寝床を取り上げさせ歩けるようにしてあげるとか、そういうあきらかな奇跡を行うことは、弟子たちには無理です。そういう不思議なことは、主イエスが救い主の御業として行ってくださることであり、主イエスがどなたであるか、何者であるかであるかを現すしるしの出来事として起こることです。救い主である主イエスにはお出来になることでも、弟子たちには出来ないことがあります。弟子たちは救い主ではないからです。弟子たちにできることは何か。せいぜい主イエスが不思議な癒しやしるしの業をなさるときに、そのお手伝いとして割いたパンや魚を運んで届けたり、余ったパン屑を籠の中に集めたりする程度のことです。弟子たちにはとても、主イエスのような奇跡を起こす力はありません。
 けれども、弟子たちにでも出来ることはあるだろうと思います。今、船出して目指す先はカファルナウムだと言われています。カファルナウムはもともと弟子たちが出てきた根拠地の町です。そこにはペトロとアンデレの実家があり、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの家も近所にあったでしょう。そして、カファルナウムに暮らしていた頃には、そこから船出をして、夜通し漁をして、何度もまた帰って行った、そういう場所です。そうであれば、漁師であり船乗りであった弟子たちは、カファルナウムには簡単に行けるだろうと思って漕ぎ出したに違いありません。主イエスが共にいてくださらないとしても、普段の生活なら出来る、そう思って彼らは沖に漕ぎ出しました。目指すのはよく知っているカファルナウムです。そこでペトロの家で待っていれば、そのうちに主イエスが来てくださるに違いないと思って、弟子たちは湖へと漕ぎ出して行きました。

 ところが、この晩は、漕ぎ出した先で思いがけないことが起こってしまいました。熟練した漁師であるはずの弟子たちは、何事もなく渡れると思って漕ぎ出したのですが、突然強い風が吹き始めて、湖上がすっかり荒れ模様になりました。「二十五ないし三十スタディオン」とありますが、これは4キロから5キロだそうです。岸辺から4、5キロ漕ぎ出したところで、舟は猛烈な時化に見舞われてしましました。舟は激しい波風によって翻弄され、熟練した漁師たちは、自分たちの観察が当たっていなかったことを内心恥じたに違いありません。けれども、既に渦中にありますから、悔やんでいる場合ではありません。風による横波を受けて舟が転覆しないように懸命に舵を操り、もはや目的地はカファルナウムだなどとは言っていられません。波をかわすため、乗り切るために、湖上で舟は何度も方向を変えなければならない、そのようにして厳しい困難な時をやり過ごそうとします。どれくらいの時間、そのような時が続いたのかは、記されていませんのでわかりません。
この晩弟子たちが経験したことは、18節に「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」と語られています。彼らは、すっかり暗く なっている、暗黒が支配している湖の上に漕ぎ出しました。いつも暗闇の中で漁をしてきたのですから、今度もきっと大丈夫だろうと考えて出港しました。ところが、湖の上で彼らは予想外の厳しい敵に向き合う羽目になってしまいます。もう少しで難破しそうです。今日の箇所には、そういう弟子たちの経験が語られています。

 けれども、これは果たして、この晩だけのこと、またこの弟子たちだけの話でしょうか。この記事を聞きながら、私たちは、自分自身の信仰生活を振り返って考えてみるということができるのではないでしょうか。
 今日の箇所で、弟子たちは、主イエスを乗せないまま、暗闇に包まれた湖の上へと漕ぎ出しました。けれども事によると私たちも、時に似たようなことをしている場合があるのではないかと思います。すなわち、主イエスを置き去りにしたまま、主イエスを抜きにして、私たちは自分の生活を歩んでしまっているというような時があるのではないでしょうか。
 私たちは毎週日曜日に礼拝に集まります。主の日の礼拝に招かれ、教会に来るたびに、私たちは過ぎた1週間の自分自身の歩みを思い返します。そしてその時に、恐らく多くの方が心に思うことは、過ぎた1週間の間のかなりの時間、私たちは主イエスを忘れて、神を抜きにして歩んでいたということではないでしょうか。ですが、一体どうしてそんなことが起こるのでしょうか。教会の礼拝が終わって家路に着く、その際、私たちは「もうこれで日曜の午後から土曜日までは主イエスとお別れして自分で自分の道を歩んでいこう」と決めているので、神抜きになってしまうのでしょうか。そういう方はいらっしゃらないでしょう。
 私たちは礼拝の中で、聖書の御言葉を通して、「神の慈しみが確かにわたしの上に恵みとして注がれている」と繰り返し聞かされます。そういう言葉を聞きながら、誰がわざわざ自分からそれに背を向けようとするでしょうか。聖書の言葉が分からないということはあるかもしれません。けれども、「神がわたしを慈しんでくださっている、愛してくださっている」と聞かされ、私たちを神が大事に持ち運ぼうとしてくださっていることが本当のことであるならば、「神の愛に包まれ、神の保護と導きのもとに1週間を歩みたい」と思って、私たちは教会を後にすると思います。実際に、私たちはそういう神の言葉を聞きたいと願って礼拝にやって来るのではないでしょうか。「神がその独り子をお与えになるほどに私たちを愛してくださっている。その慈しみはわたしの上に注がれている」ということを、何度でも聞きたい、そして信仰を励まされてここから歩み出したいと願って、私たちは礼拝に集まって来るのだろうと思います。神が主イエス・キリストというお方を送ってくださった、そして確かに主イエスを通して今ここにいるわたしを愛してくださっている、「あなたは自分の人生を歩んで良いのだ」と言ってくださっている、その福音を聞かされて、私たちは1週間の生活へと送り出されて行きます。
 ところが、1週間が過ぎ、礼拝に来るたびに、いつの間にか私たちは神を抜きにして生きていたことに気付かされるのです。

 恐らく、この晩の漁師たちは、わざと主イエスを抜きにして夜の闇の中に漕ぎ出そうとするつもりではなかったと思います。たとえ暗闇でも、目指す先は、自分たちにとってはよく分かっている場所で、目と鼻の先だという思いで、弟子たちは漕ぎ出しました。私たちがいつの間にか主イエスを忘れ、神抜きになってしまうというのも、大方、それに似たようなところがあるのではないかと思うのです。つまり、私たちにとって1週間の生活というのは、あまりに身近で、勝手知ったる日常のように思えてしまうのです。それでつい、主イエスを抜きにしても「わたしは今まで通りに暮らせるだろう」と思い、うっかり主イエスを忘れて歩んでしまうようなところがあるのではないでしょうか。
 ですから、私たちが主イエスを抜きにして生きてしまうのは、はっきりと主イエスに背を向け、神に背を向けて生きることを決心するということではないのです。ただ私たちの日常が本当に身近であり、当たり前の日常だと思うために、ついそこで主イエスを忘れて生きてしまうのです。

 湖の上で、思わぬ嵐に見舞われ、すっかり翻弄されてしまった弟子たちは、しかし不思議に思ったかもしれません。今までこんなことは一度だって無かったのに、どうして今晩に限ってこんな強風が吹き荒れ、大時化に悩まされることになるのだろうか。この晩の嵐について、ある牧師が説教の中で語っています。「この嵐は、まさしく弟子たちが、主イエスに招かれ主イエスと共に生きるようになったために経験させられた嵐なのだ」と。どういうことでしょうか。
 この世の暗闇は、真の光である主イエスを理解しません。主イエスと出会う前の弟子たちは、主イエスと関わりない生活をしていましたから、その時の弟子たちにとってこの世の暗闇は、ごく当たり前のものでした。逆に、この世の闇から見れば、弟子たちは自分たちと同類であるために、何も特別に攻撃する理由はありませんでした。
 ところが、そういう弟子たちが真の光である主イエスに出会い、主に従って生活するようになると、この世の闇の勢力にとっては、弟子たちは自分たちと異質なものとなっていきます。そういう弟子たちが、真の光である主イエスと共にいる時にはなかなか手出しができませんが、弟子たちが主イエスと別れ、主イエス抜きで歩んでいる時こそが、この世の闇にとってはチャンスになるのです。「この世の暗闇は、弟子たちから、主イエスを信じ主イエスに従って生きていこうとする信仰を奪ってしまう。信仰生活を難破させようとして、この嵐を引き起こしたのだ」と牧者は語ります。そう聞かされますと、そうかもしれないと思います。暗闇の勢力と死の勢力は、死んだ信仰ではなく、今生きている信仰、あるいは息づいている信仰をこそ、狙うようなところがあるからです。

 では、今日聞いているこの箇所は、私たちへの警告であり戒めなのでしょうか。すなわち「あなたは、生活の中でうっかり主イエスを手放すことがあるかもしれない。主イエスを置いて船出してしまうことがあるかもしれない。しかしそうであってはいけない。いつも主と共に歩みなさい」という警告が語られているのでしょうか。いえ、そうではないだろうと思います。これは残念なことかもしれませんが、私たちにとって日常生活は、あまりにも身近すぎるのです。私たちが日々の生活の中で、「常に目覚めて主イエスと共にあり続ける」などということは、恐らくできないだろうと思います。ゲツセマネの園で、主イエスが弟子たちに向かって「あなた方は、わたしと一緒に目覚めていなさい」と言われ、懸命に祈っておられた時でさえ、弟子たちは、主イエスを横目で見ながら眠ってしまいました。私たちには、どうもそういうところがあります。日曜日に、「この1週間は神さまの恵みのもとで生活できますように。主イエスを忘れず主イエスと共に歩めますように」と祈り、真剣にそう願って歩み出して、1週間経って、「今週は一時たりとも、主イエスと離れずに歩むことができました」と言って日曜日に教会に戻って来ることは、私たちには出来ないことです。

 今日の箇所で語られていることは、「主イエスを置き去りにしてはならない」という戒めではありません。そうではなく、本当に始終主イエスから目を離し、神を忘れ、そのためにこの世の闇にすっかり包まれてしまい難破しそうになってしまう、「本当に自分の信仰は心許なく薄く脆い信仰でしかない」としみじみ思わされた弟子たちが、それでも主イエスによって見守られ、伴われていたという、驚きの経験が、ここには語られているのです。
 舟は湖の上で嵐に遭い転覆しそうになっている。その激しい波風の立つ水の上を、主イエスが歩いて、弟子たちのもとに近づいて来てくださいます。
 主イエスが来てくださるのは、もちろん、ご自身の弟子たちを死の危険から救い出すためなのです。けれども弟子たちは、すっかり暗闇に包まれて何も見えなくなっているので、近づいて来られる方が主イエスだということも分からなくなっています。ですから、主イエスが舟に近づいて来ると恐れました。私たちが懸命に自分で自分を守らなければならないと思っている時には、周りからの援助も攻撃のように感じてしまう時があるものです。自分の中の不安が全てに対して恐れを抱かせる。そのために、助けようとして来てくださる主イエスさえも、恐ろしいものと感じてしまうということが有り得るのです。

 けれども主イエスは、そういう弟子たちのもとに来て、御言葉をかけてくださいます。20節「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない』」。「わたしだ」という言葉は、主イエスが弟子たちにご自身を現す時に、いつも決まっておっしゃる言葉遣いです。「わたしだ」「わたしである」、英語で言うと「I am」です。この言葉はこの後も、ヨハネによる福音書には繰り返し出てきます。
 実は、「わたしだ」というこの言葉は、神が人間にご自身を現してくださる時にもお使いになる言葉です。最も有名なのは、神がモーセに対しておっしゃった出来事です。旧約聖書の出エジプト記3章13節、14節にその場面が出てきます。「モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言えば、彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」。「わたしはある」と神がモーセにおっしゃってくださった、この名前が「I am」です。

 主イエスは、暗闇と嵐の中ですっかり恐れに取り憑かれてしまって、何者も受け付けなくなり不安になり、信仰が転覆しそうになりそうな弟子たちに向かって、「わたしだ」と言って出会ってくださり、弟子たちの信仰を励ましてくださいました。
 そして実は、それは、今日ここに集まっている私たちも同じだろうと思います。私たちも毎週、教会の礼拝の中で、主イエス・キリストが語りかけてくださる「わたしだ。わたしがあなたと共にいる」とおっしゃってくださる御言葉に慰められ、勇気づけられ、そして信仰を励まされて、それぞれの歩みへと送り出され遣わされていくのです。

 主イエスが来てくださり、御言葉をかけ、舟に乗り込んでくださると、あれほどの嵐が収まって、舟は目指す地に着くことができました。そして主イエスは、到着したカファルナウムで、礼拝の場である会堂へとお入りになります。
主イエスは、高い山の上から、真っ暗な闇に包まれ行き悩んでいる弟子たちをご覧になり、真っ直ぐに弟子たちのもとに来てくださいました。
 私たちがここから歩み始める一巡りの歩みの上にも、主イエスが目を凝らし、私たちを何とか生かそう、支えようとなさってくださっていることを覚えたいと思います。主イエスがご自身の御言葉の光で私たちを照らそうとしてくださっているのです。暗闇の中で、私たちが色々なものが見えなくなり不安や恐れに包まれてしまう時にも、主イエスがそこに来てくださり「わたしである。わたしは今ここにいて、あなたと共にいる。だから恐れなくて良い」と言ってくださるのです。
 私たちの人生が、いかに漕ぎ悩み、行き悩むことがあっても、主イエス・キリストがきっと私たちを訪れてくださり、私たちを目的地へと持ち運んでくださいます。弟子たちが経験し語った言葉を、私たちも自らのものとして、ここから歩み出す者とされたいと願います。

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