聖書のみことば
2021年5月
  5月2日 5月9日 5月16日 5月23日 5月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

5月16日主日礼拝音声

 生ける糧
2021年5月第3主日礼拝 5月16日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第6章22〜71節

<22節>その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。<23節>ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。<24節>群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。<25節>そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。<26節>イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。<27節>朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」<28節>そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、<29節>イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」<30節>そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。<31節>わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」<32節>すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。<33節>神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」<34節>そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、<35節>イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。<36節>しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。<37節>父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。<38節>わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。<39節>わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。<40節>わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」<41節>ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、<42節>こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」<43節>イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。<44節>わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。<45節>預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。<46節>父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。<47節>はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。<48節>わたしは命のパンである。<49節>あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。<50節>しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。<51節>わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。      わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」<52節>それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。<53節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。<54節>わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。<55節>わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。<56節>わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。<57節>生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。<58節>これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」<59節>これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。<60節>ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」<61節>イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたたはこのことにつまずくのか。<62節>それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。<63節>命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。<64節>しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。<65節>そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」<66節>このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。<67節>そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。<68節>シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。<69節>あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 <70節>すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」<71節>イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 ただいま、ヨハネによる福音書6章22節から71節までをご一緒にお聞きしました。22節に「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた」とあります。
 「その翌日」と始まっていますので、もう日が昇り朝になっていたものと思われます。主イエスを後に残して舟に乗り込み、夜の暗闇に漕ぎ出した弟子たちは、湖の上で思わぬ嵐に遭遇しましたが、漕ぎ悩んでいる彼らのもとを主イエスが訪れてくださり、無事に湖の向こう岸の町カファルナウムに到着していました。今日の記事は、後に残された群衆の動きを伝えています。24節に「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た」とあり、大勢の人が群がるようになって主イエスの跡を追いかけて来ました。どうしてそんなことが起こっているのでしょうか。主イエスから御言葉を聞かせてもらって、神が自分のそば近くにいてくださることを感じ取りたいからでしょうか。どうもそうではないようです。
 追いかけてきた群衆に向かって、主イエスは言われました。26節「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ』」。「パンを食べて満腹したい」という思い、それが、人々が主イエスを追いかけ回す理由だと、主イエスは言われました。この言葉に対して群衆からは答えがありません。この場合、答えがないということは「そうです。その通りです」と返事をしているようなものです。というのは、主イエスのおっしゃったことは、大変挑発的な言葉だからです。もし群衆が、主イエスの御言葉を聞きたくて追いかけて来たのであれば、主イエスに「パンを食べて満腹したからだろう」と言われれば、「いえ、そうではありません。御言葉を聞きたくて来ているのです」と反論したはずです。けれども、そうなっていないということは、群衆は前の日に山の上で、主イエスが大勢の人たちをパンで養ってくださったことを見て、パンを与えてくださる指導者を求めて追いかけて来たのだと思います。

 群衆が反論しなかったので、続けて主イエスは言われました。27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」。ここの翻訳は込み入っていますが、平たく言うならば「わたしはあなたがたに、昨日食べさせたものよりも、もっと優れた別の食べ物を与えようと思う。それは、無くならない食べ物である」。そうすると、群衆はこの言葉に興味を示し、主イエスに尋ねました。「どうやったら、その食べ物を手に入れることができるでしょうか」。すると主イエスは「あなたがたはそれを自分で手に入れるのではない。天の父がその食べ物、永遠の食べ物をくださるのだ。あなたがたはただ受け取りさえすれば良い。神さまが贈り物としてくださるものを、信頼して受ければ良い。信じて受け取ることが大事だ」と言われました。すると群衆はとても戸惑い「そんなことを言われても、見てもいないものを、どうやって信じることができますか。私たちは、与えられるものがどんな食べ物なのか、まず見てみたい。自分の目で確かめてみたい。私たちの先祖がそうであったように、私たちは信じることを願っていません」と、30節31節で返事をしています。「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです』」。そこで主イエスは「天からのパンを、わたしはあなたがたに与えようとしているのだ」と言われました。すると群衆は、半ば疑わしげに半ば好奇心に駆られて言いました。34節「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と」言いました。
 ここまで話が進んできますと、群衆が追いかけて来た理由、群衆が何を主イエスに求めていたのかが、はっきりしてきます。やはり群衆は、「無くならないパンであれば、それをいつも食ベて生活したい」と、パンを求めて主イエスを追いかけて来たのでした。
 すると主イエスは、とうとうはっきりとしたことをお語りになりました。35節「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』」。そしてさらに続ける中で「わたしが与える命のパンは、先祖たちがいただいたようなものとは違う。先祖たちは実に多くのパンをいただいて食べたけれども、その行末は結局、肉体の死にすぎなかった。しかし、わたしは命のパンである。これに養われる人は、いつまでも生きるようになる」と言われました。48節から51節にかけて語られていることが、そのことです。

 主イエスを追いかけてきた大勢の群衆は、主イエスが僅かのパンで自分たちを養ってくださることを、前日に経験しました。そして、こういう人物であれば自分たちの王にしてもよいと考えました。5,000人もの男性と更にその他の人たちを僅かなパンと魚で養った、その奇跡を見て、群衆は、イエスという人物こそが自分たちのパンの問題を解決してくれそうだと期待して、王に押し立てようとしました。
 ところが主イエスは、当の群衆の思いに答えようとはなさいません。主イエスは、パンの問題を解決するこの世の王の一人のように扱われることを拒否されます。「わたしは、この世の王たちが与えることのできないものを、あなたがたに取り継ごうとしている。あなたがたのために、わたしは敢えて王とはならない。もしここで、わたしがあなたがたの言いなりになってしまったら、結局、あなたがたは真実の希望を失うことになる。あなたがたは、一杯のスープに惑わされて相続の権利を失ってしまったエサウのようになってはならない。あなたがたは、与えられようとしている永遠の富を失ってはならない」という趣旨のことを、主イエスはここでおっしゃっておられます。
 また、主イエスご自身はもともと、群衆によって王に祭り上げてもらう必要など全くない方です。十字架に架けられる前、ピラトから尋問を受けた時、主イエスは「王である」とはっきり言われましたが、まさに主イエスは、初めから王であるお方なのです。神によって立てられた王です。人間が認証して立てる王ではなく、神が認証してくださっている王です。そういう王である方として言われました。37節から39節です。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」。
 主イエスは神によって立てられた王であり、上からの恵みによって人々を治めていく、そういう王なのです。人間の側が認めたからではなく、もともと王であるお方として、神からこの地上に送られたお方です。ヨハネによる福音書1章11節で「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と言われていました。主イエスは、人々から受け入れられませんでした。けれども、そうであっても、主イエスはやはり王なのです。そして、その身をもって、神の御心をこの世に現してくださるのです。この王を信じる人は、王である主イエスのもとに来て、神の子らとされていきます。

 神から立てられた王だけを信じるということがどういうことか、理解できずにいる人たちに、主イエスは53節以下のところで、更にはっきりと「神のもとから送られた王は、神の御心によって死ぬことになる。その死は、この王を信じる人にとっては永遠の命に至る食べ物、また飲み物となる。王であるわたしの肉が裂かれ、血が流される、そのことによって、清らかな神の御前で、あなたたちは生きる者とされるようになる。あなたがたは信仰によってわたしの肉を食べ、信仰によってわたしの血を飲むようになる。それがあなたがたの命になっていくのだ」と言われました。

 けれども、こういう王というのは、何とも奇妙な王だと言わざるを得ないと思います。王である主イエスは、ご自身が「死ぬ」ということで他の人たちに命を与えるのだと言われます。これは、私たちが普通に考えるこの世の王の姿とは、全くあべこべです。この世の王たちは、家来に肉を裂き血を流すことを要求します。ところが、主イエスという王は、ご自分の民のために、王自らが自分の肉を裂き、血を流し、ご自身を献げられるのです。「わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われている通りです。そして、信仰によって主イエスを食べる人々は、主と共に生きるようになるのです。
 主イエスが追いかけて来た群衆に向かって、「わたしこそが命のパンである。わたしを食べる者、すなわち信仰によって主イエスを受け入れ、パンに与る者は生きる」とはっきりおっしゃった時に、これを聞いた群衆の中には、呟きが起こり、つまずく人たちが現れたと言われています。先には主イエスからパンの養いを受けて、この人物を自分たちの王に押し立てようとした、そういう人たちが、今度は主イエスを十字架に架けて殺そうというところに向かって行くようになるのです。これは群衆だけのことではありません。弟子たちの間にも呟きを漏らす声が出始めました。60節に「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」、そして66節に「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあります。残念な結果のようにも思いますが、しかし、私たちは考えさせられるのではないかと思います。こんな結果になるのは、当たり前ではないでしょうか。「主イエスが自ら死なれることによって私たちに命をお与えになる」、それは私たちにとっては、どうしても理解できない大きな躓きではないでしょうか。主イエスの死と私たちの死は別のことだと思うのではないでしょうか。「わたしが生きるためには、肉体が養われ、気持ちが慰められ、嬉しいこと楽しいことが与えられなければならない。人生とは、願うものが与えられてこそ豊かに生きることができるのであって、主イエスの死は関わりのないことだ」と大方の人は考えるでしょう。本当に考えさせられる箇所です。

 ここには群衆がおり、群衆は主イエスのなさる業を見て、「この方こそ私たちを養ってくださるのではないか」と期待しました。けれども、主イエスご自身は群衆が考えるような仕方で人々を助けるのではなく、あくまでも主イエスご自身のなさりようで助けるのだと言われました。すると群衆は、主イエスについて行けず離れて行きました。ほとんどの人が離れていき、最後には12弟子だけしか残りませんでした。それは、主イエスの考えておられる助けというものが、群衆や弟子たちが考えているものと違うためです。私たち人間が、自分の思うようなやり方で主イエスから助けられるというのではなく、あくまでも、主イエスのなさりようで私たちを助けるのだということを知らされるときに、聴く側の私たちに、一つの決断、決心が求められるということになります。
 それは、「あくまでも自分が願うような、思うような助けられ方、考えるような救いということに拘るのか。自分が思うような助けでないならばそれは助けではないと、拒絶してしまうのか」、それとも「すぐには合点はいかないけれども、それでも主イエスがなさろうとしていることを、『ここに救いがある』と信じて、受け入れるか」、一体どちらの道を選ぶのかという決断です。
 私たちが主イエスを信じることができるかできないか、これは、主イエスの言葉や聖書に書かれていることが理解できるかできないかということに問題があるのではなく、「私たちが主イエスのなさりようを信じるのかどうか」、そこに問題があるのです。主イエスがおっしゃっていることをそのまま聞いて、それが私たちの救いと合致するかというと、合致しません。私たちはどうしても、日々の生活が大事だと考えますから、毎日のパンがあること、収入があり、やり繰りして何とか暮らせること、それを考えることは当たり前のことです。けれども主イエスは、そうではないとおっしゃるのです。「あなたが本当に生きるのは、わたしが与える糧によって生きるのだ。あなたはそれを信じるか」と問われるのです。私たちは、「自分の思い、考えによって救われる」のか、あるいは「自分がこれで良いと思える人生を生きたいと思うので主イエスに少し協力してもらうということではなく、まるっきり主イエスがおっしゃるような救いが本当の救いなのだと信じて生きるのか」を問われています。
 ですから、主イエスのなさりようを信じて受け入れるか、自分の思いを押し通すのか、そこにはどっちつかずの中庸の道というものはないのです。主イエスはご自身のことを、「わたしが命のパンである」と言われました。主イエスがそうおっしゃる以上、「それを信じて従う」のか、それとも「それはひどい話だと言って離れて行く」のか、どちらかなのです。私たちは一体、どちらの道を取るのでしょうか。

 教会に来ている以上、「主イエスを信じる道を取らなければならない」というわけではありません。実際に今日の箇所で、主イエスがはっきりしたことをおっしゃったときに、大勢の群衆はもちろん、弟子たちも含めて主イエスに従わなくなったのだと語られています。残ったのは本当に僅かな、12人の弟子だけでした。この後、この12人がどんなに長く主イエスに従い続けるのかということを私たちは知っています。確かに12弟子は主イエスに忠実に仕えました。けれども、この弟子たちの忠実さも万能ではありませんでした。やがてこの12人ですら、主イエスについて行くことができなくなるのです。12弟子もまた、主イエスのもとを立ち去った5,000人の男の群衆と同じ立場に立つ日が来ます。
 6章の始めでは、5,000人の群衆は、主イエスを探し求めていました。それが6章の終わりでは、5,000人は12人になりました。最後の71節の言葉は「イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」でした。終わりには、残ったのは僅か12人で、その中にはイスカリオテのユダもいたのだと語られています。主イエスは、いずれユダが裏切ることをご存知でしたが、67節で弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」とお尋ねになりました。主イエスはユダが裏切るだけではなく、いずれ他の弟子たちも裏切ることをご存知でした。「あなたがたも離れて行きたいか」とは、ここにいる私たちも問われている言葉です。シモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と答えましたが、しかし、最後にはペトロも離れてしまいます。

 主イエスを追い求めていた者は、皆離れて行きます。けれども、全員が主イエスのもとを立ち去ったとしても、それでも主イエスは「王」でいらっしゃるのです。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」、ヨハネによる福音書はそう語っています。神の御心を現すお方として、私たちに神の言葉を語ってくださる、言葉なる方として主イエスは来てくださいました。けれども、民はその御言葉を受け入れませんでした。民が、群衆が、弟子たちが離れ、全ての人が離れても、しかし、「言葉は、言葉である方として、この世に光り続ける」のです。神のなさりようを理解しない、この世の闇が、どんなにこの世界の全てを覆っているようであっても、その中にあって、主イエスは輝き続けておられます。

 主イエスというお方は、私たち人間の意思によって立てられる王なのではなく、神から王として遣わされた方として、この世界の只中においでになり、私たちの間に、今日も立っていてくださいます。真の王である方として、主イエスは本当に自由です。たとえどんなに多くの人が主イエスを捕らえて、自分たちの王としようとしたとしても、その企てから自由です。そして、主イエスは誰からも支持されないとしても、真に自由です。真の王として、ご自身の御業を行って行かれます。人々から支持されなければ、その政策を行えないようなこの世の政治家とは全然違います。主イエスは神から遣わされ、御業をこの地上においてなさってくださる。その御業を信じて主イエスのもとに来る者を、ご自身の民として迎えてくださいます。そしてそれは、今日でもそうです。

 主イエスを信じて生きる人は、主イエスが自分と共にいてくださる限り、そういう主イエスの自由に与らせていただくのです。この自由は、自分たちが何でも思い通りにできるという自由ではありません。人間の思い通りに何でもできる時には、私たちは皆暴君になってしまうに違いありません。「神さまがわたしを生かしてくださっている。今日の生活へと、神さまがわたしを送り出してくださっている。ここであなたは愛を行なって生きるのだ」と語ってくださる、その業に遣わされている限り、私たちは、思うようにならないことや困難なことに出会うときにも、本当に自由に生活することができます。
 私たちは、真の王である方だけに従う者とされたいと願います。王である主の御言葉に従い、主に従って歩むときに、私たちは本当に自由なのだということを覚えて、ここからの一巡りの時へと送り出されたいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ